学位論文要旨



No 119975
著者(漢字) 穂坂,綱一
著者(英字)
著者(カナ) ホサカ,コウイチ
標題(和) 同時計測運動量画像分光法による分子の内殻光電離ダイナミクスの研究
標題(洋) Molecular inner-shell photoionization dynamics studied by momentum imaging spectroscopy
報告番号 119975
報告番号 甲19975
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4704号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳下,明
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 近藤,寛
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
内容要旨 要旨を表示する

[序]

 光と分子の相互作用により引き起こされる基礎過程の解明は、分子科学における重要な課題である。その現象の1つに、光電離過程があり、様々な分光に利用されている。光電離過程を研究するのに最も有力である光電子分光法は、物質の電子的構造を調べるための欠かせない手段になっている。それにもかかわらず、分子の光電離過程で放出される電子に注目し、その動的挙動についての研究は多くない。光電離過程研究の1つのブレークスルーは放射光光源の出現であった。そのVUV・SX領域における広い波長可変性と、高い直線偏光度、強い光強度により、光電子の角度分布が精度よく測定されるようになった。光電子の角度分布は状態の変化に敏感であり、電気双極子近似の破れなどが原子に対して盛んに研究され始めた。このように光電子の角度分布は、光と電子の相互作用をよく反映するが、その一方で、分子ポテンシャルにも強く影響される。光電子のハミルトニアンは、原子核や他の電子との相互作用を、ポテンシャルとして含むからである。この特性を生かし分子の電子状態の対称性などが研究されるようになった。更に近年では、放射光光源の高輝度化と同時計測技術の進展によって、分子座標系光電子角度分布(MF-PAD)の測定が実現した。光電子の角度分布は分子の座標で決まり、ランダムな方向の分子からの光電子では、分子ポテンシャルについての情報の多くが失われる。MF-PADの測定によって、光電離の遷移行列要素を実験で決定できるようになり、内殻光電離ダイナミクスが解明されはじめている。本研究では、光電子と束縛電子の交換相互作用、分子の動的な対称性の低下、の2つが光電子の運動に与える影響を明らかにした。以上の研究を行うために、高効率なMF-PAD測定装置として運動量画像同時計測分光装置(CO-VIS)を製作した。また、測定したMF-PADから光電離の遷移行列要素を決定する上で基礎となる電気双極子近似が、研究対象のエネルギー領域で成立することを高精度の角度分布測定で検証した。

[光電子・解離イオン同時計測運動量画像分光実験装置]

 従来の立体角制限型同時計測法では測定効率が低く、その研究対象は光電離断面積が大きく、解離経路の単純な系に限定されてきた。この欠点を克服するため、光電離で生成する全荷電粒子の運動量ベクトル情報を全立体角で検出する装置を開発した。図1に同時計測画像分光実験装置の概念図を示す。内殻光電離過程で生成した全荷電粒子(光電子、解離イオン)は均一静電場Eで引き出され、その後の静電光学系により各検出器上に運動量収束される。この電場設計によって、光電子、解離イオンの両者に対して同時にVelocity-map imaging条件が達成され、飛行時間分解能(△t)と位置分解能(△x,△y)が最適化される。位置敏感検出器(PSD)で検出された検出時刻(t)、検出位置(x,y)の3次元の情報から各荷電粒子の3次元運動量ベクトル情報(px,py,pz)を決定する。分子の内殻光電離では解離イオンは複数生成するため、解離イオン検出器にはマルチヒット対応の六角型のPSDを採用した。全検出情報はデジタル情報に変換された後、PCにリスト形式で記録される。記録したリストデータから、解離イオン対の運動量情報を用いて特定の分子配向をもった光電離イベントのみを抽出し、MF-PADを再構成する。

[光電子の角度分布測定による電気双極子近似の検証]

光と原子・分子の相互作用において、電気双極子近似の破れが研究され始めた。電気双極子近似の破れの程度は波動関数の広がりと光のエネルギーで決定され、私達が研究対象としている軽元素の1sイオン化閾値付近では電気双極子近似が良く成り立つとされてきた。電気双極子近似が成り立つ場合には、MF-PADから連立方程式を解くことで電気双極子遷移の遷移行列要素を決定できる。しかし近年、分子の光電離では、原子の光電離よりも電気双極子近似の破れが大きくなるという報告がなされた。もし、この報告が事実であれば、私達は解析方法を変更しなければならない。そこで電気双極子近似からのズレが、原子の内殻光電離とは違って分子の内殻光電離で本当に強く現れるか否かを検証するためにN2分子のN1s光電子(図2)とCO分子のC1s光電子の角度分布測定を行い、このエネルギー領域で電気双極子近似が良く成立する事を明確にした。

[NO分子の内殻光電離におけるスピン交換相互作用の効果]

特定の角運動量を持つ光電子は遠心力バリアによって、分子領域に一時的にトラップされる。この現象は形状共鳴と呼ばれる。形状共鳴において光電子は、分子領域に滞在する時間が長いため、分子の中の束縛電子との相互作用が大きくなる。(1σ)2(2σ)2(3σ)2(4σ)2(1π)4(5σ)2(2π)2Πの基底状態を持つNO分子の(2σ)軌道をイオン化すると、(2σ)、(2π)、および光電子の3つの不対電子が生成し、3通りの交換相互作用がある。形状共鳴の波動関数はこの3つの交換相互作用の相対的な大きさによって成分が変化する。形状共鳴では光電子を含む交換相互作用がどこまで強くなるかを知るために、NO分子N1s電子が3Π、1Π状態に光電離する部分断面積を測定した。光電離部分断面積に現れる形状共鳴のピークエネルギーから、NO分子N1s形状共鳴では光電子を含む交換相互作用が(2σ)と(2π)の交換相互作用と同程度である事を明らかにした。この形状共鳴においてスピン状態を分離したMF-PADを測定し(図3)、遷移行列要素を決定した。遷移行列要素の比較から、強い交換相互作用によって、光電子の角運動量のミキシングが起きている事を明らかにした。

[配向CO2分子からのO1s光電子の角度分布:対称性低下の直接観測]

複数の等価な原子から構成されている対称性の高い分子の等価な原子の内殻を励起すると、対称性の低下が観測される。この現象は、ほとんど縮退した電子状態が全対称ではない振動モードとカップルする振電相互作用により縮退を解く、擬Jahn-Teller効果として理解されている。この対称性の低下に伴い、内殻ホールは局在化するため、この現象は"ホールの動的局在化"といわれている。この擬Jahn-Teller効果には、ほぼ縮退した二状態が必要となるため、そのエネルギー差〓Eが大きくなるほど、"ホールの動的な局在化"は起きにくい。2状態のエネルギー差が1.5meVのCO2分子O1s光電離は"ホールの動的な局在化"が起こりやすい代表的なサンプルであり、2状態のエネルギー差が105meVのC2H2分子C1s光電離は"ホールの動的な局在化"が起こりにくい代表的なサンプルである。CO2分子のO1s光電離で"ホールの動的な局在化"が起きていることは、共鳴発光分光における禁制状態への発光と、光電子スペクトルに現れる反対称伸縮振動ν3の励起によって確認されている。CO2分子O1s光電離では"ホールの動的な局在化"によって、2つの酸素原子が等価ではなくなり、CO結合の長さが変化する。通常の分光的な手法ではアンサンブルを対象とし個々のイベントは区別しないが、結合の長さが変化しているのであれば、2つのCO結合の切断確率が変化し、解離イオンから、1つ1つのイベントでどちらの酸素がイオン化されたかが識別可能になる。イオン化した酸素を区別しない光電子の角度分布は必ず反転対称性を持つが、イオン化した酸素を区別すれば、光電子の角度分布は反転対称性が失われる。(i)解離イオン測定からイオン化した酸素が特定できるか?(ii)光電子の角度分布は分子構造の対称性の低下を反映するか?という問いに答えるため、配向したCO2分子からの光電子の角度分布を測定した。図4に配向したCO2分子からのO1s光電子(上段)とC1s光電子(下段)の角度分布(MF-PAD)を示す。左から、分子軸と偏光ベクトルが平行な場合、分子軸と偏光ベクトルが45°の場合、分子軸と偏光ベクトルが垂直な場合のMF-PADである。下段のC1s光電子のMF-PADはすべて反転対称性を示しているのに対し、上段のO1s光電子のMF-PADは反転対称性を持たない。この両者の違いはO1s光電子のイオン化では"ホールの動的な局在化"がおこるのに対し、C1s光電子のイオン化では"ホールの動的な局在化"が起きないことを示している。この結果から、CO2分子のO1s光電子のイオン化では、(i)解離イオン測定からイオン化した酸素がどちらなのかを知る事ができ、(ii)光電子の角度分布は分子構造の対称性の低下を反映する事を明らかにした。

[解離チャンネルを選別した配向C2H2分子からのC1s光電子の角度分布]

"ホールの動的な局在化"が起こりにくいC2H2分子のC1s光電子の角度分布を、解離チャンネルを分離して測定した。図5の上段に(C2H+,H+)解離イオンと、下段に(CH+,C+)解離イオンと同時計測した光電子のMF-PADを示す。左から、分子軸と偏光ベクトルが平行な場合、分子軸と偏光ベクトルが45°の場合、分子軸と偏光ベクトルが垂直な場合のMF-PADである。"ホールの動的な局在化"が起こりにくいC2H2分子のC1s光電離においても、MF-PADは反転対称性を失い、ホールの局在化は解離イオンに反映されている。

図1.同時計測画像分光実験装置の概念図。反応領域には静電場がかけられ、内殻光電離によって生成した光電子は左側に、解離イオンは右側に引き出される。それぞれの粒子は静電レンズによって運度量収束され、各PSDで検出される。検出された時刻(t)、位置(x、y)の情報はリスト状に記録され、各粒子の運動量相関からMF-PADが再構成される。

図2.non-dipolarパラメータγ+3δのエネルギー依存性。●は私達の実験値。点線はHartree-Fock近似による計算。一点鎖線はN原子の計算。○はHemmersらの実験。実線はダイナミカル効果を入れた計算。双極子近似からのずれは、誤差の範囲で0であり、双極子近似が成り立つ。

図3.スピン状態を分離したMF-PAD

図4 配向CO2分子からのO1s及びC1s光電子の角度分布(光電子の運動エネルギー6eV)。分子軸は光の進行方向と偏光ベクトルを含む平面内にあり、分子軸と偏光ベクトルの関係は模型に示した。●は実験値で、線は10次までのLegendre関数(分子軸と偏光ベクトルが45°の場合はLegendre関数とLegendre陪関数)によるフィットカーブ。分子軸と光電子は共に、光の進行方向と偏光ベクトルを含む平面内にある。

図5 解離チャンネルを分離した配向C2H2分子からのC1s光電子の角度分布。●は実験値で、線は10次までのLegendre関数(分子軸と偏光ベクトルが45°の場合はLegendre関数とLegendre陪関数)によるフィットカーブ。分子軸と光電子は共に、光の進行方向と偏光ベクトルを含む平面内にある。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は9章からなる。第1章は序論であり、分子の光電離ダイナミクスの研究の背景および本研究の目的が述べられている。第2章は光電子放出の理論の簡潔なレビューにあてられている。第3章は光電子・解離イオン同時計測運動量画像分光実験装置の設計・製作およびデータ解析の詳細が記述されている。第4章は光電子の角度分布における電気双極子近似の妥当性について述べられている。内殻電離閾値から100eV以下の領域において、N2分子およびCO分子の1s光電子の角度分布が電気双極子近似から大きなズレを示すことが発見され物議を起こしていた。本研究では、その実験結果の真偽を検証するために高精度で光電子の角度分布測定をおこなった。そして、以前の実験結果を完全に否定し、電離閾値から100eV以下の領域においては、電気双極子近似が良い近似で適用できることを初めて明らかにした。第5章はN1s光電離部分断面積測定による、NO分子の形状共鳴におけるスピン交換相互作用の効果について述べられている。スピン多重度を分離して、3IIおよび1IIイオン化状態の部分断面積を測定し、両者の形状共鳴プロファイルを初めて明らかにした。そして、それぞれの形状共鳴のピーク位置と相対強度について理論解析をおこない、形状共鳴においては光電子と分子内電子との交換相互作用が重要な役割をしていることを明らかにした。第6章は配向NO分子からのN1s光電子の角度分布測定による、形状共鳴ダイナミクスにおけるスピン交換相互作用の効果について述べられている。実験データの解析から、遷移行列要素を決定し形状共鳴ダイナミックスを明らかにした。すなわち、形状共鳴領域において、光電子と分子内電子との交換相互作用と光電子の軌道角運動量の混成との関係を初めて解明した。第7章はO1s光電子・解離イオン(O+およびCO+)の三重同時計測による、配向CO2分子からのO1s光電子の角度分布について述べられている。CO2分子は対称性の高い分子であるにもかかわらず、三重同時計測による配向CO2分子からのO1s光電子の角度分布のパターンは、反転対称性を示さないことを発見した。O1s光電離では、振電相互作用により分子イオンの反対称伸縮振動が誘起され、伸長した結合側のO原子に内殻ホールが局在していることは、軟X線発光分光や光電子分光で明らかにされていた。しかしながら、これらのシングルの分光では、内殻ホールが右のO原子に生成されたのか左のO原子に生成されたのか区別をすることはできなかった。本研究では、内殻ホールのオージェ崩壊後の解離イオン対(O+およびCO+)を捉えることによって、内殻ホール位置を特定したO1s光電子の角度分布測定を可能にした。すなわち、O1s光電子の角度分布の反転対称性の破れたパターンから、伸びた結合のO原子の内殻ホールがオージェ崩壊し、伸びた結合がO+-CO+に解離する確率は、反対側の縮んだ結合がO+-CO+に解離する確率に比べて支配的であるとの結論を導いている。本研究成果は、多重同時計測画像分光法により、内殻光電離で誘起された分子構造の変化をオージェ崩壊の時間スケール(〜10fs)で初めて観測したものであり、極めて高く評価できる。新たな研究分野を開拓したと言っても過言ではない。第8章はC1s光電子・解離イオン・解離イオンの三重同時計測による、解離チャンネルを特定した配向C2H2分子からのC1s光電子の角度分布について述べられている。三重同時計測による配向C2H2分子からのC1s光電子の角度分布のパターンは、解離イオン対が対称でない場合は反転対称性を示さないことを発見した。C1s光電離では、振電相互作用が弱く反対称伸縮振動は誘起されない。しかし、内殻ホールの移動が起る前にオージェ崩壊(〜10fs)が起ると、分子の対称性の低下は解離イオン対に反映されることになる。その結果、解離イオン対が対称でない場合のC1s光電子の角度分布のパターンに対称性の低下が観測されたものとの解釈を与えている。本研究成果も第7章の成果と同様で、内殻光電離の後〜10fsの間に起る分子構造の変化を捉えたもので、内殻光電離ダイナミクスの今後の指針を与えるものであり、高く評価できる。第9章はまとめであり、本論文の要約と本研究の展望が述べられている。

 なお、本論文の第5章は、足立純一・高橋正彦・柳下明との共同研究であり、第6章は、足立純一・高橋正彦・柳下明・P.Lin・R.R.Luccheseとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験および解析をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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