学位論文要旨



No 119977
著者(漢字) 山本,達
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,ススム
標題(和) Rh(111)表面における氷の構造と反応
標題(洋) Structure and Reaction of Water Ice on Rh(111)
報告番号 119977
報告番号 甲19977
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4706号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 吉信,淳
 東京大学 教授 斉木,幸一朗
 東京大学 教授 柴山,充弘
 東京大学 助教授 佐々木,岳彦
 東京大学 助教授 高木,紀明
内容要旨 要旨を表示する

序論

 氷は、温度と圧力の条件によって現在までに13もの構造多形が見つかっている特異な物質である。特に、低圧(<0.2GPa)・低温の条件下では、氷は温度によってアモルファス氷、立方晶系結晶性氷(Ic)、六方晶系結晶性氷(Ih)として存在することが知られている。これらの氷は、生命現象・宇宙科学・環境化学を初めとした多くの分野で重要な役割を果たしている。例えば、宇宙空間における分子の化学進化はアモルファス氷で覆われた宇宙塵の上で進行すると考えられている。また、大気圏における酸性雨の発生やオゾン層破壊等の反応は、水滴や氷微粒子(Ih氷)表面を反応場として進行する。そのため、反応場である氷の構造及びその凝集過程を明らかにし、その表面や内部で進行する化学反応を理解することは非常に重要である。しかし、これまでになされた膨大な研究にもかかわらず、氷の構造と反応について原子・分子レベルでの理解は十分ではない。本研究では、よく規定されたRh(111)単結晶表面に成長させた氷について赤外反射吸収分光法(IRAS)を用いて、以下の3点を解明することを目的とした。1)Rh(111)表面での水分子の凝集過程を調べ、基板の特性が水分子の凝集過程にどのような影響を与えるのかを明らかにする。2)Rh(111)表面に多様な構造の氷薄膜(アモルファス氷、Ic氷、Ih氷)を作り分け、その振動ピークの違いを明らかにする(Rh(111)表面はIh氷との格子定数のずれが小さいため、Ih氷をエピタキシャル成長させることができる基板である)。3)アモルファス氷に一酸化炭素COを埋め込み、電子線照射を行い電子線誘起反応が進行するかどうかを明らかにする。

実験

 実験は全て超高真空チェンバー内(〜1×10-10Torr)で行った。Rh(111)基板はNe+スパッタリング及び電子衝撃法による加熱を繰り返すことにより清浄化し、低速電子線回折(LEED)及びIRASにより清浄面を確認した。実験で使用した水、COはガス状にてパルスバルブを用いて再現性良く試料表面に導入した。水分子の吸着量は、昇温脱離法(TPD)を用いて見積もり、bilayer(BL)単位で表記した(1BL=1.07×1015molecules/cm2)。IRASはFT-IR分光器(Bruker IFS66v/S)及び検出器Si:B(測定領域4000〜370cm-1)を用いて、分解能4cm-1、500〜1000回積算の条件で測定した。試料はクライオスタットにより20Kまで冷却し、ガスの吸着及びIRAS測定は全てこの最低温度で行った。

結果と考察

1.低温Rh(111)表面における水分子の凝集過程1)

 図1に20Kに冷却したRh(111)表面のD2Oの吸着量を徐々に増加させた時の、OD伸縮振動(νソOD)とDOD変角振動(δDOD)領域のIRASスペクトルの変化を示す。吸着量増加と共に出現する多数のピークは、マトリックス単離法や分子線を用いた実験から既知の水クラスターの振動数と比較し、またピークの出現順序を考慮に入れることで帰属した。その結果、水分子は初期吸着量ではモノマーとして存在し、吸着量が増えるに従い、まずダイマーが現れ、その後トライマーからヘキサマーまでの大きなクラスターが出現し、様々な大きさのクラスターが混在することが分かった。

 次に、0.13BLのD2Oを吸着させ、温度依存性を調べた(図2)。この吸着量ではピーク帰属の結果、モノマー及びダイマーのみが存在する。加熱により4本のνOD(2690,2650,2550,2450cm-1)が出現した。最近の走査トンネル顕微鏡による観察や第一原理計算によって、ヘキサマーやそれらが集まった2次元島が最も安定に存在することが示されたことから、これらのピークは主にヘキサマーやヘキサマーを構成単位とする2次元島に由来すると考えた。モノマーやダイマーは、加熱により表面を拡散しヘキサマーを構成単位とした2次元島を形成したと考えられる。また、80Kと140Kに加熱した時を比較すると、2690,2450cm-1のピークは増加するのに対し、2650,2550cm-1のピークは減少している。温度が上昇するにつれ2次元島の面積は増加し、島内部の水分子の割合は増加し周縁の水分子の割合は減少する。そのため、2690,2450cm-1のピークは2次元島内部の水分子由来であり、2650,2550cm-1のピークは2次元島周縁の水分子由来と帰属した。この帰属を元に、Rh(111)表面と他の低温金属表面での水分子の凝集過程を比較した。その結果、Rh(111)表面では周縁と内部の水分子がほぼ同程度存在する面積の小さな2次元島が形成されることが分かった。これは、Rh(111)表面の水分子との相互作用が比較的強いため、低温では水分子の拡散が抑えられたためと考えられる。

2.低温Rh(111)表面に成長させた様々な氷

 図3に、Rh(111)表面に成長させた様々な氷のνOD領域のIRASスペクトルを示す。図3(a)は、20Kに冷却したRh(111)表面に水分子(D2O)をガス状で吸着させ作成したアモルファス氷である。図3(b)は、そのアモルファス氷を140Kまで加熱し作成した大部分がIcの氷である(なお、一部はアモルファス氷として存在する)。図3(c)は、脱離直下の温度で水分子を吸着させエピタキシャル成長により作成したIh氷である。図3(d)は、アモルファス氷を140Kに加熱しつつ電子線照射を行った氷である。アモルファス氷は水分子の存在する環境が不均一であるために巾広いピーク形状を示す。これに対し結晶性氷では、結晶化により水素結合ネットワークが秩序化し環境の不均一性が減少している。その結果、ピーク形状は鋭くなり、ピーク位置も低波数側へ移動している。加熱と電子線照射を同時に行うことにより作成した氷(図3(d))は、Ih氷(図3(c))よりも鋭いピーク形状を示すことから、より結晶性の高い氷であると考えられる。

3.アモルファス氷におけるCOの電子線誘起反応2)

 20Kまで冷却したRh(111)基板上にCOをアモルファス氷薄膜で挟み込んだWater/CO/water/Rh(111)サンドイッチ構造を作成し、電子線照射による変化をIRASにより観測した。水とCOは、宇宙の分子凝集体の中で最も組成比の高い2つの分子である。20Kで電子線照射を行うと、CO2が生成した。水及びCOを同位体ラベルした実験から、COと水分子の酸素からCO2が生成することが明らかになった。

 図4にCO2生成量の電子線エネルギー依存性を示す。CO2のピーク強度が20eVから急増していることが分かる(図4(b))。この結果を議論する前に、水・氷の電子構造について簡単に説明する。孤立水分子は基底状態において(1a1)2(2a1)2(1b2)2(3a1)2(1b1)2の電子配置をとり、最低非占有軌道である4a1軌道はO-H結合に対して強い反結合性を示す。氷では、エネルギー準位に若干の巾広がりやエネルギーシフトがあるものの孤立水分子とほぼ同じ電子構造を示す。今回観測された20eV付近の閾値は、これまでに報告された氷のESDにおいてH+(D+)等のイオンやDやO等の原子が脱離し始めるエネルギー閾値とよく一致している。中性のDやO等の原子の脱離は1正孔1励起電子(1-hole 1-electron:1h1e)状態に起因し、6.5eVに閾値を持ち〜21eVで急増する。これに対し、H+(D+)等のイオンの脱離を引き起こす2正孔1励起電子(2-hole 1-electron:2h1e)状態は、21〜25及び26〜31eVに閾値を持ち、各々(3a1)-1(1b1)-1(4a1)1、(1b1)-2(4a1)1の電子配置に帰属される。これらの1h1e及び2h1e励起状態は、いずれも強い反結合性軌道である4a1軌道への電子励起を伴う。そのため励起状態のポテンシャルエネルギー曲線は解離性を示す。この事から、水分子が電子線により1h1e及び2h1e状態に励起され解離し(H2O→OH+HまたはO+2H)、その結果できたOHやOがCOと反応し、CO2が生成したと考えられる。また、20eV以下でも少量のCO2の生成が認められることから、解離性電子付着(Dissociative electron attachment)やDipolar dissociationといった過程も寄与していると考えられる。

 次に、この電子線誘起反応に対する温度の影響について調べた。図5は、電子線照射時の温度を変化させたときのWater/CO/water/Rh(111)IRASスペクトルである。20Kで電子線を照射すると、CO2以外にもホルミルラジカルHCOのCO伸縮振動(νco)に由来するピークが1846cm-1に観測された。一方、60Kでは2000cm-1から900cm-1の波数領域に数本の新たなピークが出現した。これらのピークは、ホルムアルデヒドH2COやメタノールCH3OHに帰属される(例えば、1710cm-1のピークはH2COのνco,1016cm-1はCH3OHのνcoであることが同位体置換により解明された)。これらCOの還元生成物は、電子励起によって水分子が解離した結果できたHがCOと反応したことにより生成したと考えられる。また、60KではCO2のピーク強度も20Kと比べ大きく増加した。この事から、アモルファス氷中のCOの電子線誘起反応は,熱により促進されることが分かる。100〜140Kで生成物のピーク強度が減少しているのは、COの一部が熱脱離したためと考えられる。加熱により反応が促進したのは、COや反応中間体(CHxO)が加熱により混合氷中で拡散や回転をし、化学反応が進行しうる配置を取る確率が高まったためと考えた。更に、H2COやCH3OHはCO分子と水素原子の多段階反応を必要とするため、加熱により反応が活性化されると考えられる。これに対し、CO2やHCOはそれぞれCO分子とO(OH),Hの一段階反応で進行すると考えられるため、20Kという低温でも生成する。

まとめ

 Rh(111)表面における水分子の凝集過程において、水分子は初期吸着量ではモノマーとして存在し、吸着量が増えるに従いダイマーからヘキサマーまでの様々なクラスターが混在し、その後2次元島が形成されることが分かった。また、水分子との相互作用が比較的強いRh(111)表面では、低温では水分子の拡散が抑制され面積の小さな2次元島が形成されることを見い出した。また、Rh(111)表面にアモルファス氷、Ic氷、Ih氷等の様々な氷薄膜を作り分けた。更に、アモルファス水にCOを埋め込み電子線照射を行うと、電子励起反応によりCOの酸化還元反応が進行し、CO2,HCO,H2CO,CH3OHなどの化学種が生成することを発見した。

参考文献1)"Water adsorption on Rh(111)at 20 K:from monomer to bulk amorphous ice",S.Yamamoto,A.Beniya,K.Mukai,Y.Yamashita,and J.Yoshinobu,submitted to J.Phys.Chem.B(Dec.2004).2)"Low-energy electron-stimulated chemical reactions of CO in water ice",S.Yamamoto,A.Beniya,K.Mukai,Y.Yamashita,and J.Yoshinobu,Chem.Phys.Lett.388,384(2004).

図1 D2O/Rh(111)IRASスペクトルの吸着量依存性(T sample=20K)

図2 0.13BL D2O/Rh(111)IRASスペクトルの温度依存性

図3 Rh(111)表面に成長させたD2O氷薄膜のIRASスペクトル(a)20Kで気相蒸着した氷、(b)(a)を140Kに加熱した氷、(c)145Kで気相蒸着した氷(1層目のみ155Kで蒸着)、(d)(a)を140Kで加熱しつつ電子線照射を行った氷(200eVの電子線を15秒間照射、試料における電流密度2.9×10-5A/cm2)

図4 CO2生成量の電子線エネルギー依存性

(a)H216O/13C16O/H216O/Rh(111)に対して5〜50eVの電子線を10分間照射した時のIRASスペクトルの変化(試料における電流密度2.4×10-7A/cm2)(b)電子線のエネルギーに対する13C16O2逆対称伸縮振動(2280cm-1)の吸収強度変化

図5 電子線照射時の温度を20〜140Kまで変化させた時のH216O/12C16O/H216O/Rh(111)IRASスペクトルの変化。それぞれ、200eVの電子線を2分間照射した。(試料における電流密度2.8×10-6A/cm2)

審査要旨 要旨を表示する

 水の凝集相である氷は温度と圧力に依存して様々な相をとる.300K以下の低温・常圧以下では,氷はアモルファス氷,立方晶氷(Ic),六方晶氷(Ih)として存在する.地球表層や宇宙空間ではこれら3つの構造のどれかをとり,その内部や表面で様々な物理過程や化学反応が生じている.例えば,地球大気圏のエアロゾル表面における不均一反応は,酸性雨やオゾンホールの出現と密接に関係している.また,宇宙空間における分子の化学進化には,宇宙塵を覆うアモルファス氷表面における不均一反応が重要な役割を演じていると考えられている.近年,真空装置内で低温の固体表面に水分子を凝集させることにより上記の氷を作り分け,様々な表面分析法を駆使することにより,実験室的に氷表面の構造と不均一反応過程を分子レベルで明らかにすることができるようになってきた.

 本論文では,Rh(111)表面における水分子の凝集過程,生成した氷表面の構造,氷を反応場とした化学反応を,赤外反射吸収分光(IRAS),低速電子回折(LEED),昇温脱離質量分析(TPD)などの表面科学の手法を用いて詳細に研究した.本論文は7章からなり,第1章は序論,第2章は実験装置,第3章は実験手段の原理,第4章は低温(20K)のRh(111)表面における水分子の吸着状態と凝集化過程,第5章はRh(111)に成長させた様々な氷薄膜の構造,第6章はアモルファス氷薄膜におけるCOの電子線誘起反応,第7章は結論が述べられている.

 第1章では,研究の背景を述べ,これまでに知られている実験的および理論的研究のレビューを簡単に行い,本研究の位置づけを行なった.

 第2章は,本論文で用いられた実験装置と試料作成について述べられている.用いられた表面解析手段は,赤外反射吸収分光(IRAS),スポットプロファイル分析型低速電子回折(SPA-LEED),昇温脱離質量分析(TPD)などである.本研究では,試料を液体ヘリウムや液体窒素を用いて冷却し温度を精密に制御することが重要であり,この点についても詳述されている.

 第3章では,IRASの原理と選択則,LEEDの原理とSPALEEDの特徴,TPDの解析法についてやや詳しく記述されている.

 第4章では,20KのRh(111)表面に被覆率を変化させて水分子を吸着させた場合のIRASスペクトルをもとに,表面における水分子のクラスター化(凝集化)過程について詳細な議論が展開された.低被覆率では水分子はRh(111)表面でモノマーとして存在するが,被覆率が増加するにしたがって,ダイマーからヘキサマーまでのクラスターが形成され,さらに増加するとサイズの大きな2次元島が形成される.20Kでモノマーやダイマーしか観測されない低被覆率の吸着表面を徐々に加熱すると,スペクトルが変化し,表面拡散によりより大きな2次元クラスターが形成されて行く様子が明らかになった.さらに,低温で水分子が吸着したRu(111),Pt(111),Ni(111)表面のIRASスペクトルとの比較により,遷移金属表面における水クラスター形成過程について総括的に議論を行った.

 第5章では,Rh(111)表面に成長させたアモルファス氷,アモルファス氷を加熱することにより作製した立方晶氷(Ic),エピタキシアル成長により作製した六方晶氷(Ih),Ic氷に電子線照射を行い結晶性を高めた氷薄膜について,IRASとLEEDの測定にもとづき,詳細な評価を行った.これらの結果より,Rh(111)表面で様々な氷薄膜を作製する方法が確立された.

 第6章では,低温(20K)でCOを含んだアモルファス氷薄膜に電子線を照射し,誘起された化学過程をIRASで観測し,詳細な解析を行った.電子線照射によりCOからCO2への酸化反応のみならず,ホルムアルデヒド,メタノール生成などの還元反応が誘起されることが解明された.さらに,CO2生成の電子エネルギー依存性を測定することにより,反応機構について考察し,電子線照射による水の解離が引き金になっていることが,明らかにされた.これらは,氷という反応場で低エネルギー電子がCOからの化学進化を誘起することを示した重要な結果である.

 第7章は結語であり,本論文により初めて明らかにされた低温のRh(111)における水分子の凝集過程と作り分けられた氷薄膜の評価,アモルファス氷中でのCOの電子線誘起反応についてまとめられている.

 なお,本論文の第4章,第5章,第6章は,吉信淳,山下良之,向井孝三,紅谷篤史との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験とその解析を行なったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.したがって,審査員全員により,博士(理学)の学位を授与できると認めた.

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