学位論文要旨



No 119982
著者(漢字) 澤,真理子
著者(英字)
著者(カナ) サワ,マリコ
標題(和) 線虫Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質の形態形成期における機能解析
標題(洋) Functional analysis of the C. elegans Arp2/3 complex and WASP family proteins in morphogenesis
報告番号 119982
報告番号 甲19982
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4711号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,嘉典
 東京大学 教授 馬渕,一誠
 東京大学 教授 竹縄,忠臣
 東京大学 教授 山本,正幸
 東京大学 教授 秋山,徹
内容要旨 要旨を表示する

 多細胞生物の形態形成過程において、細胞は形を変え機能すべき場所へと移動していく。この細胞の形態変化や細胞移動に伴い、細胞膜直下に存在するアクチン細胞骨格系が再編される必要がある。

 これまでに培養細胞や精製タンパク質を用いた再構築系での解析から、哺乳類Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質は、アクチン細胞骨格系の再編において速やかなフィラメント状アクチン(F-アクチン)の形成を可能にする重要な因子であることが示されてきた。哺乳類Arp2/3複合体は7個のサブユニットからなる複合体で、アクチン細胞骨格系の再編においてF-アクチンの形成におけるアクチンの重合核として機能する。哺乳類WASPファミリータンパク質はArp2/3複合体の活性化因子として機能し、N-WASP及びWASP,WAVE1-3の5個のタンパク質からなる。培養細胞において、哺乳類WASPファミリータンパク質及びArp2/3複合体が活性化されると、細胞に糸状仮足や葉状仮足という細胞移動を担う基本的な構造が形成されることが知られている。

 しかしながら多細胞生物の形態形成過程について考えてみると、アクチン細胞骨格系がどの様な局面で再編され、どの様に制御されているのかということについては多くは明らかではない。そこで、私は多細胞生物の形態形成期におけるアクチン細胞骨格系の再編機構を明らかにするために、線虫をモデル生物として線虫Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質の機能解析を行った。

1. 線虫Arp2/3複合体の機能解析

 線虫全ゲノムに対する相同遺伝子の検索から、線虫のゲノム上には哺乳類Arp2/3複合体の7個のサブユニットに対する相同遺伝子が、それぞれ一つずつ存在することが明らかになった。各遺伝子は、酵母や哺乳類の7個のサブユニットに対しそれぞれ60%程度の相同性を示した。そこで、哺乳類の7個のサブユニットArp3, Arp2, p41Arc, p34Arc, p21Arc, p20Arc, p16Arcに対応する線虫の相同遺伝子を分子量の順にarx(actin-related protein 2/3 complex)-1,arx-2, arx-3, arx-4, arx-5 arx-6, arx-7と名付けた。

 まず、これらの遺伝子の機能を解析するために、RNA干渉法(RNAi)による機能破壊実験を試みた。arx-3以外のArp2/3複合体のサブユニットに対するRNAiを、野生型株(N2)を用いて行ったところ、どのサブユニットに対してもF1世代で高い胚性致死率が観察された。それぞれの胚性致死率は、arx-1(RNAi)では100%(n=211)、arx-2(RNAi)では100%(n=254)、arx-4(RNAi)では83%(n=234)、arx-5(RNAi)では78%(n=261)、arx-6(RNAi)では88%(n=285)、arx-7(RNAi)では87%(n=296)であった。

 さらに致死となる原因を明らかにする為に、微分干渉顕微鏡下で胚の発生過程を観察した。線虫の胚発生期においては、第一卵割から約300分の間は卵割が繰り返される分裂期で、個体としての形態は形成されていない。特に形態形成期を経た胚で見られる表皮細胞の左右対称に背側、側面、腹側の三層構造も、この段階では最も腹側の表皮細胞が胚の側面に位置するため腹側は表皮細胞に覆われていない状態である。ところが第一卵割後約300分から400分にかけて、最も腹側に位置する表皮細胞が左右から腹側中央に向かい移動し(図A)、腹側中央で左右の細胞が互いに接着を形成する。この表皮細胞の移動過程はventral enclosureと呼ばれ、この過程を経て線虫の胚は表皮細胞に体全体を覆われる。その後、前後軸に沿った伸長がおこり細長い形態が形成されていく(図A)。ところがArp2/3複合体の各サブユニットに対するRNAiを行った個体では、ventral enclosureの時期における形態の変化が観察されなかった(図B,C)。表皮系細胞の接着部位に発現するAJM-1がGFPにより可視化された株を用いてRNAiを行い表皮細胞の形態をより詳しく観察したところ、致死胚では表皮細胞が体全体を覆う構造を示さず端に退縮していた(図F, G)。さらに多光子レーザー顕微鏡により、AJM-1::GFPを指標としてarx-2(RNAi)F1胚における表皮細胞の挙動を経時的に観察したところ、表皮細胞の移動が起きていないことが明らかになった。蛍光ファロイジン染色によりF-アクチンを染色したところ、表皮細胞の伸長端でのF-アクチンの集積が減少していることが確認された。その一方で、表皮細胞の分化マーカーとなるLIN-26やAJM-1の発現には、Arp2/3の機能破壊による影響は見られなかった。さらにARX-1及びARX-7に対する抗体を産生し、その局在を免疫染色法により解析したところ、ventral enclosure期における表皮細胞の伸長端付近にも存在していた。この局在はRNAiで観察された表現形を支持すると考えられた。

以上の解析結果から、線虫Arp2/3複合体はventral enclosureにおける表皮細胞の移動におけるアクチン細胞骨格系の再編において必須な因子であることが示された。

2. 線虫WASPファミリータンパク質の機能解析

 次にArp2/3複合体の活性化因子であることが予想される線虫WASPファミリータンパク質に着目した。データーベースの検索から線虫のゲノム上には、哺乳類N-WASP,WASPに対応する遺伝子が唯一存在し(wsp-1)、WAVE1-3に対する遺伝子も唯一存在する(wve-1)ことが明らかになった。

 wsp-1に対するRNAiを行ったところ、15%のF1世代で胚性致死が観察された(n=134)(図D)。微分干渉顕微鏡下で経時的に発生過程を観察すると7割の胚性致死胚は、ventral enclosure期での形態形成異常によるものであることが明らかになった。致死胚におけるAJM-1::GFPの局在を観察したところ表皮細胞は体全体を覆わずに退縮していた(図H)。一方でN2を用いたwve-1に対するRNAiでは表現形が観察されなかった。そこでRNAiの効きやすい株rrf-3を用いてRNAiを行った。その結果F1世代の35%の個体でArp2/3複合体やwsp-1に対するRNAiで観察された表現形と類似する、ventral enclosure期における異常が観察された(n=109)。rrf-3を用いてwsp-1に対するRNAiを行ったが致死率の亢進は観察されなかった(n=97)。またrrf-3を用いwsp-1とwve-1に対するRNAiを同時に行ったところ68%のF1胚でventral enclosure期での形態形成異常が観察された(n=89)。RNAiによるタンパク質発現量の変化を確認するため、rrf-3を用いたwsp-1(RNAi)F1胚及びwve-1(RNAi)F1胚を回収し、ウェスタンブロッティング法によりWSP-1及びWVE-1のタンパク質量を検出した。wsp-1(RNAi)F1胚におけるWSP-1とwve-1(RNAi)F1胚におけるWVE-1は、コントロールに比べそれぞれのタンパク質量は90%程度減少していた。しかし、wsp-1(RNAi)F1胚におけるWVE-1及びwve-1(RNAi)F1胚におけるWSP-1のタンパク質量には変化はみられなかった。このことから、wsp-1及びwve-1に対しRNAiは有意に効いていることが確認された。よって、wsp-1又はwve-1に対する単独のRNAiで致死率が低いのは、機能阻害されていないWVE-1又はWSP-1が機能しているためと考えられた。

 さらにWSP-1及びWVE-1に対する抗体を作製し、胚発生期における局在を観察した。WSP-1及びWVE-1はventral enclosure期に表皮細胞の伸長端にも存在することが観察された。このことはRNAiでみられた表現形と一致する結果と考えられた。またArp2/3複合体に対するRNAiF1胚でのWSP-1の局在を観察したところ、部分的に核へ移行していた。このことは、WSP-1の細胞膜への局在にはArp2/3複合体との結合が必要であることを示し、in vivoでのWSP-1とArp2/3複合体の結合を示唆するものであった。

一方で、wsp-1(RNAi)F1胚及びwve-1(RNAi)F1胚においてもLIN-26やAJM-1を指標とした分化状態には影響はみられなかった。

以上の解析から、線虫WASPファミリータンパク質もArp2/3複合体とともに表皮細胞の移動において機能していることが示された。

 本研究を通して線虫Arp2/3複合体は、ventral enclosure期の表皮細胞の移動に伴うF-アクチンの形成過程で重要な因子であることが明らかになった。また線虫WASPファミリータンパク質WSP-1、WVE-1もArp2/3複合体と同じ表皮細胞の移動に関与することが示された。これらのことから、線虫の形態形成期においてWASPファミリータンパク質からArp2/3複合体へのシグナル経路が表皮細胞の移動を担うアクチン細胞骨格系の再編において重要であることが示された。

 今後、WSP-1及びWVE-1の制御機構の解明により、形態形成過程におけるアクチン細胞骨格系の再編が、どの様にして時間的空間的に制御されているのか明らかにされる可能性がある。

 図 微分干渉顕微鏡による胚発生期の経時的観察(A-D)及び共焦点レーザー顕微鏡によるAJM-1::GFPの局在観察(E-H)。A,E; 野生型、B,F; arx-2(RNAi)F1胚、C,G; arx-5(RNAi)F1胚、D,H; wsp-1(RNAi)F1胚。RNAiF1胚では第一卵割後約280分から420分にかけての形態変化が観察されず(B-D)、表皮細胞が体の一部に偏っている様子が観察される(F-H)。Aにおける第一卵割後約420分と500分及びEは側面からの観察像であり、その他は腹側からの観察像。矢頭により表皮細胞を、矢印により咽頭細胞の境界面を示した。スケールバーにより10μmを示す。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、この研究分野における歴史的背景と関連研究の総括、その中での本研究の位置づけ、研究手法の説明、実験結果とそれに対する討論が明記されており学位論文に関する指針に沿ったものと認められる。

 本研究は、多細胞生物の形態形成過程におけるアクチン細胞骨格の再編機構を解明するために線虫をモデル生物としてArp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質の機能解析を行ったものである。多細胞生物の形態形成期には、様々な細胞の形態変化や細胞移動が重要である。この細胞の動的変化に伴い、アクチン細胞骨格は再編され新たなフィラメント状アクチンが形成される。これまでに培養細胞や精製タンパク質を用いた再構築系での解析から、Arp2/3複合体とWASPファミリータンパク質は、速やかなアクチン重合を促す重要な因子であることが示されてきた。しかし、これらの因子の個体レベルでの機能の詳細は明らかではない。さらには、多細胞生物の形態形成過程におけるアクチン細胞骨格の再編が、どの様な現象を担い如何に制御されているのかということは多くは未解明である。これまでに行われてきたマウスやショウジョウバエを用いた個体レベルの研究は、モデル生物自体の発生過程が複雑であるために、各因子の重要性を示すことはできても、実際に各因子が細胞の形態変化や細胞移動にどの様に関わっているのかということを詳しく解析することが非常に困難であったからだ。一方、培養細胞を用いた単細胞系での解析では、多細胞生物でみられる細胞集合体の移動過程の詳細を解析することは難しい。この様な背景の中で、本研究は多細胞生物でありながら形態がシンプルな線虫をモデル生物としたことで、Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質が、線虫の形態形成を担う表皮細胞の移動過程において重要であることを明らかにした点に新規性が認められた。

 特にArp2/3複合体に関するこれまでの研究は、構造解析や培養細胞系での解析が主であった。そのため、Arp2/3複合体の細胞移動における重要性は明らかでありながら、個体レベルの機能については多くは明らかではなかった。本研究は線虫をモデル生物としたことで、線虫Arp2/3複合体が形態形成を担う表皮細胞の移動過程でフィラメント状アクチンの形成に必須な因子であることを明らかにした。さらに、Arp2/3複合体の活性化因子であることが推測された線虫WASPファミリータンパク質WSP-1及びWVE-1の機能が、実際にArp2/3複合体と合致するということを示した。また哺乳類WASPファミリータンパク質の一因子であるWAVEの安定化に関わる因子Abiの線虫における相同遺伝子が、表皮細胞の移動過程で機能することを示した。これまでに表皮細胞の移動を促す因子として報告されていたのはGEX-2, GEX-3のみであり、表皮細胞の移動に伴って形成されるフィラメント状アクチンの集積が如何に制御されているのかは謎であった。本研究の中でGEX-2, GEX-3及び線虫Abiが線虫WVE-1の安定性に関わることが示された。このことは、線虫の形態形成過程で、GEX-2, GEX-3及び線虫AbiがWVE-1と機能上相互作用をもちArp2/3複合体の活性に関わる可能性を示した。よって、本研究の成果は、線虫の形態形成を担う表皮細胞の移動過程における細胞移動の制御機構に新たな知見をもたらしたと言える。

 線虫の発生過程では、表皮細胞の移動のみでなく細胞質分裂時にもアクチン細胞骨格が再編される。その中で、線虫Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質は表皮細胞の移動過程で重要であった。アクチン重合に関わる因子群の中でArp2/3複合体の最も顕著な特徴は、アクチン細胞骨格の再編においてアクチンの枝分かれ構造を可能にする点である。よってArp2/3複合体が、多細胞生物の発生過程でみられる様々なアクチン細胞骨格系の再編の中で、平面的広がりをもった表皮細胞の動的変化を担うという役割分担を示唆した点は意義深い。

 本研究において見出された、線虫Arp2/3複合体及びWASPファミリータンパク質が担う表皮細胞の移動過程における機能は、これまで高等生物を用いた解析においても、単細胞系での解析においても明らかにすることができなかった、個体レベルでの時間的空間的に制御された細胞集合体の移動とその制御機構という問題を解く糸口を示したものと評価できる。

 Arp2/3複合体及び線虫WSP-1の機能解析は、末次志郎氏、杉本亜砂子氏、三木裕明氏、山本正幸氏及び竹縄忠臣氏との共同研究として論文発表がなされているが、分析及び検証は論文提出者が主体となり行ったものである。この研究成果に対する論文提出者の寄与は十分であると言える。

 よって、審査委員会は全員一致で澤真理子に博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク