学位論文要旨



No 119993
著者(漢字) 沖田,紀子
著者(英字)
著者(カナ) オキタ,ノリコ
標題(和) 行動異常突然変異株を用いたクラミドモナス走光性発現機構の研究
標題(洋) Mechanism of phototaxis in Chlamydomonas studied with behavioral mutants
報告番号 119993
報告番号 甲19993
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4722号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 講師 吉田,学
 筑波大学 助教授 吉村,健二郎
内容要旨 要旨を表示する

 単細胞生物が環境の情報を感知して生存に適した環境を選ぶ走性行動は、細胞レベルにおける個体での行動反応の好例として、古くから多くの生物学者の興味を引いてきた。クラミドモナスは光に対する反応が顕著で、方向性のある光に対しては遊泳方向を変える走光性を示し、急激な光強度変化に対しては、一時的に後方遊泳する光驚動反応を示す。これら二種類の光反応の光受容体は、細胞側面の眼点部分に存在するイオンチャネル直結型のレセプターであることがわかっている。レセプターが光を受容すると、陽イオンが流入し、膜電位が変化する。それによって鞭毛に存在する電位依存性Ca2+チャネルが開き、鞭毛内のCa2+濃度が変化する。この鞭毛内のCa2+濃度の変化が、光反応における鞭毛運動の調節を担うと考えられている。

 細胞が走光性行動を行うためには、二本の鞭毛が発生する推進力のバランスを変化させて遊泳方向を変える必要があるが、そのために鞭毛打がどのように調節されているかは大きな問題である。細胞膜を除膜した「細胞モデル」を用いた研究において、眼点に近い側のcis鞭毛と遠い側のtrans鞭毛の打ちかたの強さのバランスが、10-9〜10-6Mという低濃度のCa2+によって変化することが見いだされ、このバランス変化が走光性行動の基礎であるという説が提唱された。その後、このバランス制御機構を失った変異株ptx1が走光性を示さないことが発見され、上記の説の有力な証拠と考えられた。また、その後の研究により、鞭毛のダイニン内腕の一種fを欠損した突然変異株ida1や、fのサブユニットのリン酸化状態が異常な突然変異体も走光性を示さないことが見いだされ、ダイニンfのリン酸化状態が鞭毛打のバランス調節と走光性の発現を制御しているという可能性が示唆された。

走光性分子機構の研究において極めて有力な方法は、走光性の突然変異体を単離して,その変異遺伝子を同定することである。最近、われわれの研究室では、外来遺伝子挿入法によって数種の走光性異常突然変異体を作製した。本研究では、その変異株の一つlsp1の行動異常を解析するとともに、その変異の分子的実体を解明することを目的とした。

 本論文は二部から構成される。第一部では、lsp1の光行動を、野性型株と既知の突然変異株の行動と対比して解析した結果を述べる。まず、lsp1の走光性能力を個々の細胞の動きから定量したところ、野性型より弱くなってはいたが、完全に失われているわけではないことが判明した。また、運動能には野生株と比べて大きな差はなかった。細胞が発生する光受容電流には異常は見られなかったので、この変異株の光受容能力そのものは正常である。更に、光驚動反応にっいても、lsp1株の細胞は、野性型と全く同じ反応性を示した。

 ところが、除膜細胞をATP存在下で運動を再活性化させたところ、野生型細胞ではCa2+濃度依存的に二本の鞭毛打のバランスが変化したのに対し、lsp1ではそのような変化は全く見られなかった。これらのことから、lsp1において走光性が低下しているのは、鞭毛打バランスの調節機構に異常があるためであると結論された。

 上記の実験は、そのような鞭毛打バランスの調節機構の異常があっても、走光性は完全には失われないことを意味している。一方、lsp1と同様に鞭毛バランス調節が欠如している変異体として、これまでにptx1が報告されているが、これは走光性を示さないと報告されており、lsp1の結果とは一致しない。そこで私は、ptx1の走光性能力を再検討したところ、この株も、走光性を完全には失っていないことが判明した。更に、鞭毛のダイニン内腕fを欠失しているida1も、これまでの報告に反して、弱い走光性を示すことが明らかになった。したがって,これまで、走光性の発現に必要と考えられていた細胞モデルにおけるCa2+依存的な鞭毛バランス調節とダイニンfは,ともに重要ではあるが必須ではないと結論される。このことは、走光性発現のための経路が複数存在することを示唆するものである。

 以上のように、lsp1とptx1の間で類似した形質が認められたので、遺伝解析により同じ変異体か否かを調べた。両者の交配の結果得られた四分子それぞれの走光性能力を調べたところ、野生型の走光性能力を示すものが現れた。このことから、両者は別の遺伝子の欠損による変異株であることがわかった。

 クラミドモナスの二本の鞭毛は、異なる頻度で打つことが知られており、野性型の細胞モデルにおいては、Ca2+濃度に関わらず常にtrans鞭毛の鞭毛打頻度の方がcis鞭毛よりも高いことが報告されている。lsp1とptx1の変異が鞭毛打頻度に影響するかどうかを調べるため、これらの株の細胞モデルにおいて、cis鞭毛とtrans鞭毛の鞭毛打頻度を別々に測定した。その結果、lsp1では、二本の鞭毛の両方が、野性型のシス鞭毛と同じ頻度で打つことが判明した。一方、ptx1では、二本の鞭毛の両方が、野性型のトランス鞭毛と同じ頻度で打っていた。従って、鞭毛打頻度の点ではptx1は二本の鞭毛ともトランス型になってしまった変異株であり、lsp1は逆に二本ともシス型になってしまった変異株と見なせる。

 本研究の走光性の定量実験から、走光性の符号について興味深い結果が得られた。すなわち、野生型とida1の細胞が正の走光性を示したのに対し、Ca2+による鞭毛打のバランス調節ができないlsp1とptx1は、正と負の走光性を示す細胞が同時に現れた。除膜細胞で見られるCa2+依存的鞭毛バランス調節現象は、走光性発現機構を反映しているものとして広く受け入れられてきたが、それだけではなく、走光性の正負を決定する機構にも関連した現象である可能性が考えられる。

 第二部では、lsp1の変異の原因遺伝子の解析について述べる。これまでに我々の研究室ではlsp1変異部位近傍のゲノム断片を含む45kbpのクローンが得られており、それによる形質転換によってlsp1の変異が相補されることが確認されていた。本研究では、その遺伝子決定にむけて、変異の相補に必要な最小のゲノム断片を特定するための実験を行った。まず、数種の制限酵素で切断したゲノムクローンでlsp1を形質転換し、走光性の回復を検討した。次に、制限酵素で切断したそれぞれの断片でlsp1を形質転換し、走光性を回復するゲノム断片を特定した。このゲノム断片をサブクローニングし、さらに別の制限酵素を用いて同様の作業を繰り返すことで、lsp1の変異を相補するゲノム領域を65kbpにまで狭めることに成功した。この全塩基配列を決定し、予測プログラムによる解析を行った結果、716のアミノ酸残基をコードする遺伝子一つが予測された。予測配列においては複数のリン酸化酵素のターゲット配列が認められた。走光性における鞭毛打の調節に関連した遺伝子配列が同定されたのは、ダイニンfの遺伝子を除けば、これが初めてである。

 ノザン解析では、この遺伝子の発現は検出されなかったが、RT-PCR法により、発現が認められた。また、lsp1の変異を相補するゲノム領域内部にHAタグを挿入したコンストラクトを作成し、lsp1株を形質転換したところ、変異が相補された株が得られた。しかし,HA抗体でウエスタンブロット法と間接蛍光抗体法では、Lsp1タンパクは検出されなかった。これらのことから、この遺伝子は非常に転写量が少ないことが予想された。

 同種別系統のクラミドモナス株のLSP1遺伝子のゲノム配列を決定し、比較した結果、エクソン部分の配列が比較的よく保存されていることがわかった。更に、他種の生物でこの遺伝子が保存されているか否かを調べるため、近縁の生物についてサザン解析を行った。その結果、群体性であるVolvoxでは検出されなかったが、Volvoxよりも系統的に離れているChlamydomouas moewusiiでは存在が認められた。この遺伝子の有無は、単細胞性と群体性の存在様式の違い、または行動様式の違いを反映している可能性も考えられる。

 本研究で、ジーンタギング法で作成した突然変異体を出発点として、ゲノムレベルではあるものの、走光性関連遺伝子を同定することに成功した。これによって、この方法が走光性異常突然変異体の変異遺伝子の解析に有効であることが確実になってきた。本研究で行った方法で更に多くの遺伝子を決定することで、クラミドモナスの走光性発現に至る分子メカニズムの全貌が明らかになると期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

 生物がその生存に適した行動を行う仕組みの理解は、生物学の基本的課題の一つである。緑藻クラミドモナスは、光合成に適した光環境を選択するために光源の方向、あるいはその反対方向に向かって遊泳する性質がある。本論文はこの走光性発現機構の解明のために行われた研究について述べたものである。走光性発現における鞭毛打の調節機構に関しては、まだきわめて断片的な情報しか得られていない。本論文で述べられている研究では、鞭毛打調節の分子機構に迫るため、走光性異常突然変異株の表現形の詳細な解析と、走光性に関与する新遺伝子の同定が行われた。

 本論文は二部から構成されている。第一部では、新たに単離された走光性異常変異株lsp1の光行動を野性型株と既知の突然変異株と対比して解析した結果が述べられている。lsp1は走光性能力が低下した変異株として単離されたが、定量的解析により、そのことが裏付けられた。運動能と光受容電流の発生には異常は見られなかったので、この株の欠陥は鞭毛打の調節機構にあることが推察された。実際、界面活性剤で除膜した細胞の運動をATP存在下で再活性化させたところ、野生型細胞ではこれまでの報告どおり低濃度のCa2+によって二本の鞭毛打のバランスが変化したのに対し、lsp1ではそのような変化は全く見られなかった。したがって、この変異株はCa2+による2本の鞭毛打のバランス調節に異常があると結論された。

 以上の結果は、そのような鞭毛打バランスの調節機構の異常があっても、走光性は完全には失われないことを意味している。一方、かつて単離された変異株ptx1は、鞭毛バランス調節が欠如しているとともに、走光性を全く示さないと報告されており、lsp1の結果と矛盾する。そこで申請者はptx1の走光性能力をあらためて詳細に解析したところ、この株も弱いながらも走光性を示すことを見いだした。更に、やはり走光性能力を喪失していると報告されている、内腕ダイニンfを欠失しているida1についても再検討が必要だと考え、同様に定量的検定を行ったところ、弱い走光性を示すことが判明した。したがって、細胞モデルにおけるCa2+依存的な鞭毛バランス調節現象や、ダイニンfは、それぞれ走光性発現に重要ではあるが必須ではないと結論される。これらの結果は、走光性発現経路がこれまで考えられていたより複雑であり、複数存在することを示すもので、この分野の研究にとってきわめて重要である。

 また、この研究の過程で、野生型とida1の細胞が光に向かう走性、すなわち正の走光性を示したのに対し、lsp1とptx1では正と負の走光性を示す細胞が同時に現れた。除膜細胞で見られるCa2+依存的鞭毛バランス調節現象は、走光性の正負を決定する機構にも関連した現象である可能性が考えられる。申請者はこれらの結果を説明する、走光性発現機構のモデルを提案している。

 第二部では、lsp1の変異の原因遺伝子の解析について述べられている。lsp1変異部位近傍のゲノム断片を含む45 kbpのクローンが得られていたが、本研究で申請者は、その遺伝子決定にむけて、変異の相補に必要な最小のゲノム断片を特定するための実験を行い、変異を相補するゲノム領域を6.5 kbpにまで狭めることに成功した。この全塩基配列を決定し、予測プログラムによる解析を行った結果、716のアミノ酸からなる新規蛋白質をコードする遺伝子一つが予測された。走光性関連で鞭毛打の調節に関与した遺伝子配列が同定されたのは、ダイニンfを除けば、これが初めてである。RT-PCR法によりこの遺伝子の発現が認められたが、全長のcDNAは得られなかったので、この遺伝子は非常に転写量が少ないと考えられた。

 更に、近縁の生物についてサザン解析を行ったところ、群体性であるVolvoxでは検出されなかったが、Volvoxよりも系統的に離れているChlamydomonas moewusiiで存在が認められた。この遺伝子の有無は、単細胞性と群体性の存在様式の違いを反映している可能性もある。このことの検証は今後の課題である。

 以上のように、本論文で述べられた研究は、ジーンタギング法で作成した突然変異体を用い、走光性の発現経路はこれまで考えられていた以上に複雑であることを示すとともに、走光性に関与した遺伝子をゲノムレベルで同定することに成功した。本論文は走光性研究の今後の方向について重要な示唆を与えるもので、博士課程としての十分な内容を持つものと認められる。また、本研究は論文提出者を含めて5人の共同研究であるが、論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、審査員全員一致で、申請者に博士〔理学)の学位を授与できるものと認める。

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