学位論文要旨



No 120001
著者(漢字) 渡部,裕美
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒロミ
標題(和) 熱水噴出域に固有のNeoverrucidae科蔓脚類の幼生生態と遺伝的分化
標題(洋) Larval Ecology and Genetic Differentiation of Hydrothermal Vent-Endemic Barnacles of the Family Neoverrucidae
報告番号 120001
報告番号 甲20001
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4730号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小島,茂明
 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 講師 成瀬,清
 北里大学 助教授 加戸,隆介
 東京大学 教授 太田,秀
内容要旨 要旨を表示する

 熱水噴出域は,深海底の拡大軸や火山フロントに沿って断続的に分布しており,海底深くのマグマの活動に関連した不安定な環境として知られる.熱水噴出域は,20 kg/m2にも達する豊富な生物生産量を有するが,生物活動に有害な火山性物質に富む海水が分布するため,特定の固有生物が多数生息することが知られている.このような不安定で特殊な生態系のみに生息する固有生物は,どのように個体群を維持し,新しい生息域に移入しているのであろうか.本研究では,熱水噴出域に固有の生物のうち,成体の移動能力が非常に低く,日本周辺を中心とした西太平洋海域に広く分布するNeoverrucidae科蔓脚類を対象として,幼生の生態学的特徴・分子系統学的解析・集団遺伝学的解析に基づき,現在および歴史的な熱水噴出域間の幼生分散および遺伝的分化の過程を明らかにした.

 ハナカゴ亜目Neoverrucidae科の蔓脚類(以下neoverrucidsとする)には,3例の形態学的研究に基づきNeoverruca brachylepadoformisとImbricaverruca yamaguchiiの2属2種が記載されている(Newman & Hessler 1989, Newman 1989, Newman 2000).日本周辺の伊豆-小笠原弧海域と沖縄トラフ海域には,抱卵様式が異なる未記載種のNeoverruca sp.が分布している.本研究の過程で,このNeoverruca sp.について,一般的な蔓脚類とは異なる蔓脚運動を行うこと,摂餌器官である蔓脚に特定の種のバクテリアが多数付着していること,幼生着底後約1年で成熟することといった生態学的特徴が明らかになっている.

Neoverruca sp.の幼生に関する生態学的研究

 底生生物の分散および付着場所の決定に大きく関わる浮遊幼生期の生態を明らかにするため,Neoverruca sp.の幼生および熱水の影響のない深海に生息する蔓脚類3種(エボシガイ亜目のScalpellum rubrumおよびTrilasmis kaempferi, ハナカゴ亜目のRostratoverruca kruegeri)の幼生を飼育し,その特徴を比較した.陸上の実験水槽内で飼育した深海産の成体個体群の外套腔から放出された幼生を,4℃の濾過海水を使用し大気圧下で個別に飼育した.

 沖縄トラフ海域の第四与那国海丘熱水噴出域より採集されたNeoverruca sp.の幼生は,一般的な蔓脚類と同様に6期のノープリウス幼生期を経てキプリス幼生に変態することが確認された.幼生期を通じて卵黄栄養性であり,顕微鏡下で観察可能な眼点を持たず,飼育した幼生のほとんどはキプリス幼生期で形態異常を示し,着底行動を行うことができなかった.眼点の欠失とキプリス幼生の形態異常は, 同時に幼生飼育を行った3種の深海性蔓脚類のうちR. kruegeriにおいても観察された.両種は,いずれも深海環境に適応したハナカゴ亜目に属する蔓脚類であることから,キプリス幼生の異常はこの亜目に特有の要因が想定されるが,眼点の欠失は,サメに寄生するミョウガガイ類Anelasma squaricolaの幼生でも報告されているため,付着場所が特異的であること(Neoverruca sp.は熱水噴出域,R. kruegeriはサオウニ類の棘上のみに分布)との関連が示唆された.

 幼生期間の長さは,第四与那国海丘のほか,伊豆-小笠原海域の明神海丘および沖縄トラフ海域の鳩間海丘から採集した同種の幼生と比較したところ,季節間あるいは集団間で幼生期間の長さが変化することが示唆された.また,同一集団内の幼生を水温10℃あるいは5cm/sの振とう条件下で飼育したところ,いずれの場合においてもノープリウス第4期から第6期の脱皮間隔が短縮された.特定の齢期のみにおける脱皮間隔の短縮は,その他の深海性種の幼生には観察されなかった.このことから,Neoverruca sp.の幼生は付着行動に特化したキプリス幼生への変態を遅延することで,深海底に断続して分布する熱水噴出域間を分散していることが示唆された.飼育から得られた浮遊幼生期間に基づき分散可能な範囲を推定したところ,Neoverruca sp.の生息海域間の分散が可能であると考えられた.しかし,15℃以上の高水温では幼生が死滅してしまったことから,沖縄トラフ海域と伊豆-小笠原弧海域の間の分散は,現在の海洋環境下では困難であることが示唆された.

西太平洋に分布するNeoverrucidsの系統地理学的研究

 西太平洋では, 6つの海域(伊豆-小笠原弧,沖縄トラフ,マリアナトラフ,マヌス海盆,北フィジー海盆,ラウ海盆)から熱水噴出域が発見されている(図1).このうち,伊豆-小笠原弧,沖縄トラフ,マリアナトラフ,マヌス海盆に分布する11の熱水噴出域から採集した136個体のneoverrucidsからミトコンドリアDNAを抽出し,COI領域の部分塩基配列(624bp)を決定した.得られた塩基配列からは,計48のハプロタイプが検出され,これらに基づき分子系統解析および集団遺伝学的解析を行った.

 分子系統解析からは,最も南に位置するマヌス海盆の未記載種と推定されるneoverrucidsの分岐が最も古く,次いでマリアナトラフから得られたNeoverruca brachylepadoformisのハプロタイプ群が分岐し,日本周辺の沖縄トラフと伊豆-小笠原弧に分布するNeoverruca sp.のハプロタイプ群が最も派生的であること,沖縄トラフのハプロタイプ群が伊豆-小笠原弧のハプロタイプ群の側系統群であることが示唆された(図2).マリアナトラフから伊豆-小笠原弧にかけての分岐順は,北赤道海流から黒潮に繋がる海流の方向とよく一致するため,neoverrucidsはこれらの海流を利用して分布域を拡大してきた可能性が高いと考えられる.いずれの海域の間にも共通するハプロタイプはなく,現在は海域間で遺伝的に隔離されていると推測された.また,neoverrucidsのハプロタイプ間の分岐が始まった時期は,西太平洋の熱水噴出域の活動が活発化した時期とほぼ一致した.

 集団遺伝学的解析からは,沖縄トラフ海域内および伊豆-小笠原弧海域内の集団間での自由な遺伝的交流が示唆された.マリアナトラフ海域内の集団間にはハプロタイプ頻度に有意な差があることがAMOVAによって示唆されたが,マリアナトラフ海域内の遺伝的多様性は他の海域と比較して高く,集団間で共通するハプロタイプが存在することやFST値からが遺伝的交流が示唆されたことから,各海域集団を1つの単位とし,mismatch analysisを行った.Mismatch distributionからは各海域集団はいずれも過去に少数個体から急激に拡大したことが示唆された.Mismatch analysis から算出されたτ値,Neoverruca sp.の世代時間の推定値および十脚甲殻類の塩基置換速度(Knowlton & Weight 1998)に基づき算出した集団の拡大年代は,マリアナトラフに分布する集団で最も古く,沖縄トラフや伊豆-小笠原弧の集団の順に新しい値となった.集団の拡大年代は,いずれも現在から数十万年の間の値を示し,それぞれの海域で熱水噴出活動が始まったと考えられていた年代よりもずっと若い値を示した.このことから,各海域内の熱水噴出域に分布する集団は,熱水噴出活動が数年から数千年のスケールで変動することに関連して,絶滅と新規移入・拡大を繰り返しているものと考えられる.

まとめ

 Neoverruca sp.の幼生飼育からは,15℃を越える高水温では幼生死滅してしまうことなどから伊豆-小笠原弧海域と沖縄トラフ海域の間の幼生分散が難しいことが示唆された.集団遺伝学的解析からは,両海域集団が遺伝的に分化していることが示され,幼生飼育から得られた仮説を支持した.これらのことから,西太平洋に分布する沖縄トラフ海域をはじめとする背弧海盆域では周囲を取り囲む島弧が熱水噴出域固有種の分散の障壁となっているものと考えられる.また,日本周辺のNeoverruca sp.のと共通の祖先から分岐したと考えられるマリアナトラフ海域に分布するNeoverruca brachylepadoformisが近接する伊豆-小笠原弧海域に分布しないことは,マリアナトラフ海域が,マリアナ島弧と西マリアナ海嶺によって囲まれ海域外への幼生分散が制限されていることと,北赤道海流の流路によって説明することができる.

 熱水噴出域固有種の分散については,これまで東太平洋の中央海嶺域において多数の研究がなされてきたが,幼生の生態学的特徴に基づく分散経路の推定と集団遺伝学的解析に基づく遺伝的交流の推定の両方から幼生分散過程を明らかにした研究はわずかに2例のみである(Hurtado et al. 2004).本研究は,これまで知見の少なかった西太平洋の背弧海盆に生息する熱水噴出域固有種の幼生分散とその分化過程について明らかにした点で,有意義なものである.

図1 西太平洋の熱水噴出域の分布.Og: 伊豆-小笠原,Ok: 沖縄トラフ,Mr: マリアナトラフ,Mn: マヌス海盆,Nf: 北フィジー海盆,La: ラウ海盆.▲:neoverrucidsの生息が報告されている熱水噴出域.△:neoverrucidsの生息が報告されていない熱水噴出域.マリアナトラフにはNeoverruca brachylepadoformis,ラウ海盆にはImbricaverruca yamaguchiiが生息する.伊豆-小笠原弧と沖縄トラフには未記載種のNeoverruca sp.が生息する.

図2 ミトコンドリアCOI遺伝子領域の部分塩基配列に基づく近隣結合樹.外群にはミョウガガイを用いた. OTUはneoverrucidsから検出された48個のハプロタイプと同じハナカゴ亜目に属するVerruca stroemia (Ver), Rostratoverruca kruegeri (Ros), Altiverruca sp. (Alt), Brochiverruca sp. (Bro), Metaverruca cf. recta (Met) からなる.neoverrucidsのハプロタイプ名のアルファベットは,図1の海域を示すアルファベットに対応している.枝側の数値は1000回試行したブートストラップ値で,50以上を示したもののみを記している.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなる。第1章はイントロダクションであり、深海熱水噴出域の分布と特徴および熱水域固有動物群の幼生分散研究の重要性を述べ、主な研究対象としたNeoverrucidae科蔓脚類に関するこれまでの分類学、形態学、生物地理学、生態学上の知見について、論文提出者の未発表データも含めて簡潔にまとめている。

 第2章では沖縄トラフおよび伊豆・小笠原島弧の熱水域に分布するNeoverruca sp.の幼生生態について述べられている。論文提出者は本種の幼生を親から放出された直後のノープリウスI期からキプリス期まで飼育し、その成長過程を記載した。さらに本種の幼生を水温4℃で飼育した場合、他の蔓脚類に比べてノープリウスVI期が異例に長いが、より高水温で飼育すると著しく短縮される事を明らかにし、こうした幼生の特性が深海底に不連続に分布する熱水域に確実に着底するとともに、遠く隔てられた他の熱水域への効率的な分散を可能としている事を指摘した。さらに他の深海性蔓脚類3種についても幼生を飼育し、それらとの比較に基づきNeoverruca sp.の幼生の持つ特性の系統的、生態的背景について議論した。本章の成果は、世界で初めて熱水域固有種の全浮遊幼生過程を明らかにした事に加え、不安定かつ不連続な深海熱水域の固有種が幼生分散により、どの様に集団を維持しているかを具体的に示した点で高く評価される。

 第3章では分子系統学・集団遺伝学的解析により解明されたNeoverrucidae科蔓脚類の進化過程について述べられている。この中で、現生ハナカゴ亜目を構成するNeoverrucidae科およびVerrucidae科がそれぞれ単系統群である事、Neoverrucidae科では南方に分布する種または集団ほど先に分岐している事、マリアナトラフ、沖縄トラフ、伊豆・小笠原島弧の各集団が比較的最近、急激な集団サイズの増加を経験しており、互いに完全に分化している事、各海域の中では自由な幼生分散がおこっている事、伊豆・小笠原島弧の集団が沖縄トラフの集団から派生した事などが明らかにされた。本章の研究は、西太平洋の熱水域固有動物群の進化について分子マーカーを用い、集団レベルで解析した初めての事例であり、これまで形態分類に基づく種レベルのデータから提唱されていた仮説を直接、より詳細に検証する事を可能とした。さらに先行する東太平洋中央海嶺での研究例との比較により、熱水域における生物進化の普遍性と多様性を解明する事を可能とした点で、深海熱水域という特殊環境における進化現象のより高度な解析と生物進化の本質的な理解に新たな可能性を拓くものである。

 第4章では、第2章および第3章で得られた結果を総合してNeoverrucidae科蔓脚類の歴史的な分散、分化過程とその機構について総合的に議論している。本分類群では海域間の長距離分散が物理的には可能であるが、現在の海洋環境下では海域を隔てる島弧が障害となって地理的隔離が成立しているとする結論は合理的なものであり、また今後のフィールド調査により検証可能なものである。本論文の研究から、西太平洋の熱水域では、その地形および歴史の独自性に対応して、固有動物群が東太平洋のものとは異なる機構により分散、進化してきた事が強く示唆された。この意味で本論文は、現在の深海生物学の中心的な課題のひとつである熱水噴出域固有の生物群集研究のスコープを広げ、より包括的な理解へ飛躍させるものであり、当該分野の研究の進展に大きく寄与する事が期待される。

 なお、本論文第2章は小島茂明、土田真二、許 正憲、三宅裕志、加戸隆介との、第3章は小島茂明、土田真二、稲垣史生、山本啓之、藤倉克則、許 正憲との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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