学位論文要旨



No 120008
著者(漢字) 高柳,伸一
著者(英字)
著者(カナ) タカヤナギ,シンイチ
標題(和) 16世紀後期スペインの要塞化事業における工兵の活動と職能 : クリストバル・デ・ロハス(1555年頃-1614年)の活動歴からの考察
標題(洋)
報告番号 120008
報告番号 甲20008
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5950号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

 工兵(military engineer/ingeniero militar)は国王と直接契約し、防御施設を建造することで、国土の安全と国力の維持・拡大を担った、16世紀前半に火器の誕生を契機に誕生した、軍隊組織に属する職種で、拠点や都市、または、国土全域の防御力を高める要塞化事業の専門家であった。

 本論文は、帝国とも称され、世界規模で領土を拡大していった、16世紀後期スペインの要塞化事業における工兵の活動に関する研究として、クリストバル・デ・ロハス(Cristobal de Rojas, 1555年頃-1614年)を取り上げ、同工兵の経歴に則して、工兵の職能を論じたものである。近年、16世紀の工兵が建築史の分野で扱われる際、その研究意義として、戦争、国防の分野における実務者としての歴史的な重要性に加えて、建築家、軍人の双方が融合して工兵の職種が誕生した同世紀の工兵は、その職能においても、また、実際の活動においても、建築家に共通する要素が内在している点が強調される。本研究は、これらの観点に喚起されたもので、ロハスの経歴を介して、それらの点を具体的に検証することを目的としている。

 16世紀後期の工兵は、18世紀初期に専門の工兵師団が設立された後、軍規に則して活動した工兵とは異なり、その活動はより独立していた。クリストバル・デ・ロハスは、研究対象となり得る経歴を有した、極めて数が少ないスペイン人工兵で、また、スペイン語で初めて要塞化理論を体系的にまとめた著述家でもあった。ロハスは工兵の職種が誕生する1520年代から30年年代から数えて、おおよそ2世代半の後の工兵で、ロハスの経歴や時代からも、工兵の職能が具現化されていった経緯を考察することが可能になる。

 本研究の意義は、当時、政治的にも軍事的にも西欧では最大の勢力を誇ったスペイン政府に雇われた工兵の活動と職能を、ロハスを事例として取り上げて、具体的に論じた点にある。また、本研究は、工兵が果たした国防における重要性を描き出すため、ロハスと同時代に活動し、イベリア半島の要塞化事業にとって決定的な役割を演じた、イタリア人工兵の活動の軌跡と連鎖も検討しており、この点も本研究の意義であると言える。工兵を論じることは、建造物を介した国土防衛の試みを論じることに等しく、それは16世紀後半のスペイン国のひとつの様相、側面も論じることになる。

 本論文は、2部構成で、第1章と第2章から成る第一部では、工兵と要塞化事業を全般的に論じ、第3章から第5章までの第2部では、ロハスの活動を介して、フランス・ブルターニュ遠征中の要塞化、カディスの要塞化、そして、ラ・マモラの要塞化を論じた。

 第1章は、主に先行研究の成果をまとめた内容で、16世紀後半の工兵の職種を全般的に論じた。工兵の職能に関しては、ロハスが理論書で説明していた、工兵に必要とされる3種類の知識・能力から、職能における建築家との相違を指摘した。両者を隔ていたものは、ロハスが「地点の認識」と呼んでいた能力の有無であった。これは、要塞の配置や形式・規模を判断する際に必要とされた職能であった。この能力は、工兵の職能が具現化していった過程を考察する材料にもなり得た。16世紀中期のマルキの理論書では、要塞建設には建築家・兵士の双方が必要であるとされていた。兵士が必要とされる理由は上記の能力を備えていたためで、要塞の配置が決定された後、その設計・建設は建築家の領分であると説明されていた。一方、マルキの時代と比較して工兵の数も増していた16世紀末期のロハスの理論書では、 建築家、兵士の双方の能力を備えた職種として工兵が描かれており、既に要塞建設の舞台から建築家は消えていた。 要塞の建設現場には、工兵の他、主任施工士も雇われていたが、両者を隔ていた能力も上記した「地点の認識」の有無であった。また、ロハスが工兵の資格を取得したのはフランス・ブルターニュ遠征後で、建築家が兵士の領域である「地点の認識」の能力を内在させて、工兵になっていった姿がロハスの経歴からも確認できた。さらに築城術の発展、築城理論の論述者の変化、要塞建設の実務者の推移、そして、建築界の反応などから判断して、工兵の職能の具現化の過程は、同時に、軍事建築が純粋建築から分離する過程でもあったと指摘した。

 第2章では、16世紀後半のスペインで活動した代表的な4人の工兵の活動の軌跡と系譜を整理分析することで、イベリア半島の要塞化事業の基本的な経緯を描き出した。そして、その経緯を、新規調査、地中海沿岸部から大西洋沿岸部への事業の拡大、ピレネー一帯の防御の大きな3つの枠組みに整理した。新規調査で重要であった工兵は、カルビ、アントネリィ、スパノッキィで、カルビは、地中海沿岸部の重要な都市で、初めて近世築城法を本格的に適用した。また、アントネリィは、監視塔のため、地中海沿岸部の海岸線を調査した。スパノッキィは、ピレネー山脈の中央部で重要な調査をした。大西洋へと事業が拡大される推移は、アントネリィとフラティンの活動歴に最も良く反映されていた。アントネリィは、1580年のポルトガル合弁前から同一帯で調査を開始し、それは、リスボン周辺の要塞を設計したフラティンに受け継がれた。また、大西洋の時代となる1585年以降、同海域に面する港湾都市がイングランド・オランダ艦船によって攻撃されることになったが、それらの事態に対応した工兵は、スパノッキィで、その他3人の工兵の経歴には含まれていなかった、新しい歴史の文脈が現れていた。4人が一様に関与していたピレネー山脈一帯に関しては、16世紀中期のカルビの活動は、地中海側の一帯に限られていたが、その後、アントネリィとスパノッキィが大西洋側の一帯で精力的に活動することになり、同山脈一帯においても、地中海から大西洋へと事業が拡大されていった経緯を3人の工兵の系譜から確認できた。また、ピレネー中央部にいたっては、フラティンがパンプロナに、そして、スパノッキィがハカに、それぞれが都市型城塞の建設を開始し、同国境地帯の防御が、16世紀終わりに整備されてゆく経緯も概説できた。他方、ロハスが工兵として活動を開始した際、半島の基本的な調査活動は既に上記した4人の工兵によって実施されていた。ロハスの活動期は、既に大西洋側に面する地域がより重要になっており、その活動歴からも、大西洋を舞台にしたヨーロッパの列強との抗争の枠組みの中に展開していたと言えた。

 第3章では、フランス・ユグノー戦争にスペインが介入した際、ブルターニュでスペイン軍が建設した2つの要塞を、ロハスの活動を介して新規に描き出した。ロハスが参加した遠征軍は、同戦争にスペインが介入した際、唯一永久的要塞の建設を企てたスペイン軍であった。2つの要塞は、異なる過程を経て実現されたが、ロハスの活動はそれらが反映されていた。ブラベ要塞では、ロハスは建設で主導的な働きを果たした。他方、ブレストのレオン要塞では、事前の調査活動から、実際の設計および建設の指揮に至るまで、ロハスは要塞建設の実務者として大きな働きを演じた。ロハスの調査には、材料、立地条件、配置などのほか、実際に建設工事に従事する兵士の宿営場所の有無も観察されたもので、工期の短さも記されていた。ブレスト攻略の遠征が実施される前、ロハスはマドリードの宮廷に一旦戻り、同地周辺の状況説明を行なっていた。ブレスト湾に要塞が建設されるまでの経緯から、周到に準備がなされ、要塞建設も含んでいた軍事遠征における工兵の役割と意義をロハスを介して描くことができた。

 第4章では、本国のカディス市の要塞化を扱った。本研究では、ロハスの職能が最も明確に現れる期間と判断した、1596年のイングランド・オランダの艦船による奇襲後から同地の要塞化が議論され、国王が最終案を決定した、1597年10月までの約1年2ヶ月間を分析した。最も際立っていたロハスの職能は、建設費用の試算能力で、これは、ロハスの計画案にも反映されていた。奇襲後、フラティンとスパノッキィの2つの案が基本案として宮廷、現地の双方で議論されていたが、最終的には、スパノッキィ案は中止され、ロハスが計画したサンタカタリナ要塞の建設が決定された。本章では、この決定の大きな要因として、ロハスが試算したスパノッキィ案の城塞の建設費は、宮廷が準備していた資金を大きく上回っていたことであったと指摘した。ロハスの理論書では、建設費の試算能力は「算術」に分類され、その調査には建設術に分類できる知識・経験が必要であった。上記の期間、唯一工兵として関与していたロハスのみがその調査を実施する能力を示しており、これは、他の軍人達には見られなかった計画案作成の能力であった。

 第5章では、北アフリカのラ・マモラの要塞化を論じた。同地の要塞化は、軍事遠征の一環として実施されたもので、ロハスは、同地の領有化の目的に則してフェリペ3世要塞を設計した。マモラでの要塞建設では、定められた規模の軍隊を駐在させる要塞を実現させることが最も原則的な要素で、常に一定数の兵士を駐屯させる要塞の収容能力が、中心的な課題であった。ロハスが要塞を設計した後、他の軍人達はロハスの設計を非難した。この対立は、他の軍人等がロハスが設計した要塞では、当初計画されていた収容能力を有しないと判断したため生じた。この非難に対し、ロハスは皆の前で実測し、自身の設計の正しさを証明した。最終的に、当初の計画に則した能力の要塞がロハスの設計に従って実現されることになり、それはロハスの設計計画の能力の高さを示すものであった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、帝国とも称され、世界規模で領土を拡大していった、16世紀後期スペインの要塞化事業における工兵の活動に関する研究として、クリストバル・デ・ロハス(Cristobal de Rojas,1555年頃-1614年)を取り上げ、同工兵の経歴に則して、工兵の職能を論じたものである。

 近年、16世紀の工兵が建築史の分野で扱われる際、その研究意義として、戦争、国防の分野における実務者としての歴史的な重要性に加えて、建築家、軍人の双方が融合して工兵の職種が誕生した同世紀の工兵は、その職能においても、また、実際の活動においても、建築家に共通する要素が内在している点が強調される。本研究は、これらの観点に喚起されたもので、ロハスの経歴を介して、それらの点を具体的に検証することを目的としている。

 16世紀後期の工兵は、18世紀初期に専門の工兵師団が設立された後、軍規に則して活動した工兵とは異なり、その活動はより独立していた。クリストバル・デ・ロハスは、研究対象となり得る経歴を有した、極めて数が少ないスペイン人工兵で、また、スペイン語で初めて要塞化理論を体系的にまとめた著述家でもあった。ロハスは工兵の職種が誕生する1520年代から30年年代から数えて、おおよそ2世代半の後の工兵で、ロハスの経歴や時代からも、工兵の職能が具現化されていった経緯を考察することが可能になる。

 本研究の意義は、当時、政治的にも軍事的にも西欧では最大の勢力を誇ったスペイン政府に雇われた工兵の活動と職能を、ロハスを事例として取り上げて、具体的に論じた点にある。また、本研究は、工兵が果たした国防における重要性を描き出すため、ロハスと同時代に活動し、イベリア半島の要塞化事業にとって決定的な役割を演じた、イタリア人工兵の活動の軌跡と連鎖も検討しており、この点も本研究の意義であると言える。工兵を論じることは、建造物を介した国土防衛の試みを論じることに等しく、それは16世紀後半のスペイン国のひとつの様相、側面も論じることになる。

 本論文は、2部構成で、第1章と第2章から成る第一部では、工兵と要塞化事業を全般的に論じ、第3章から第5章までの第2部では、ロハスの活動を介して、フランス・ブルターニュ遠征中の要塞化、カディスの要塞化、そして、ラ・マモラの要塞化を論じた。

 第1章は、主に先行研究の成果をまとめた内容で、16世紀後半の工兵の職種を全般的に論じた。工兵の職能に関しては、ロハスが理論書で説明していた、工兵に必要とされる3種類の知識・能力から、職能における建築家との相違を指摘した。両者を隔ていたものは、ロハスが「地点の認識」と呼んでいた能力の有無であった。これは、要塞の配置や形式・規模を判断する際に必要とされた職能であった。この能力は、工兵の職能が具現化していった過程を考察する材料にもなり得た。16世紀中期のマルキの理論書では、要塞建設には建築家・兵士の双方が必要であるとされていた。兵士が必要とされる理由は上記の能力を備えていたためで、要塞の配置が決定された後、その設計・建設は建築家の領分であると説明されていた。一方、マルキの時代と比較して工兵の数も増していた16世紀末期のロハスの理論書では、 建築家、兵士の双方の能力を備えた職種として工兵が描かれており、既に要塞建設の舞台から建築家は消えていた。 要塞の建設現場には、工兵の他、主任施工士も雇われていたが、両者を隔てていた能力も上記した「地点の認識」の有無であった。また、ロハスが工兵の資格を取得したのはフランス・ブルターニュ遠征後で、建築家が兵士の領域である「地点の認識」の能力を内在させて、工兵になっていった姿がロハスの経歴からも確認できた。さらに築城術の発展、築城理論の論述者の変化、要塞建設の実務者の推移、そして、建築界の反応などから判断して、工兵の職能の具現化の過程は、同時に、軍事建築が純粋建築から分離する過程でもあったと指摘した。

 第2章では、16世紀後半のスペインで活動した代表的な4人の工兵の活動の軌跡と系譜を整理分析することで、イベリア半島の要塞化事業の基本的な経緯を描き出した。そして、その経緯を、新規調査、地中海沿岸部から大西洋沿岸部への事業の拡大、ピレネー一帯の防御の大きな3つの枠組みに整理した。新規調査で重要であった工兵は、カルビ、アントネリィ、スパノッキィで、カルビは、地中海沿岸部の重要な都市で、初めて近世築城法を本格的に適用した。また、アントネリィは、監視塔のため、地中海沿岸部の海岸線を調査した。スパノッキィは、ピレネー山脈の中央部で重要な調査をした。大西洋へと事業が拡大される推移は、アントネリィとフラティンの活動歴に最も良く反映されていた。アントネリィは、1580年のポルトガル合弁前から同一帯で調査を開始し、それは、リスボン周辺の要塞を設計したフラティンに受け継がれた。また、大西洋の時代となる1585年以降、同海域に面する港湾都市がイングランド・オランダ艦船によって攻撃されることになったが、それらの事態に対応した工兵は、スパノッキィで、その他3人の工兵の経歴には含まれていなかった、新しい歴史の文脈が現れていた。4人が一様に関与していたピレネー山脈一帯に関しては、16世紀中期のカルビの活動は、地中海側の一帯に限られていたが、その後、アントネリィとスパノッキィが大西洋側の一帯で精力的に活動することになり、同山脈一帯においても、地中海から大西洋へと事業が拡大されていった経緯を3人の工兵の系譜から確認できた。また、ピレネー中央部にいたっては、フラティンがパンプロナに、そして、スパノッキィがハカに、それぞれが都市型城塞の建設を開始し、同国境地帯の防御が、16世紀終わりに整備されてゆく経緯も概説できた。他方、ロハスが工兵として活動を開始した際、半島の基本的な調査活動は既に上記した4人の工兵によって実施されていた。ロハスの活動期は、既に大西洋側に面する地域がより重要になっており、その活動歴からも、大西洋を舞台にしたヨーロッパの列強との抗争の枠組みの中に展開していたと言えた。

 第3章では、フランス・ユグノー戦争にスペインが介入した際、ブルターニュでスペイン軍が建設した2つの要塞を、ロハスの活動を介して新規に描き出した。ロハスが参加した遠征軍は、同戦争にスペインが介入した際、唯一永久的要塞の建設を企てたスペイン軍であった。2つの要塞は、異なる過程を経て実現されたが、ロハスの活動はそれらが反映されていた。ブラベ要塞では、ロハスは建設で主導的な働きを果たした。他方、ブレストのレオン要塞では、事前の調査活動から、実際の設計および建設の指揮に至るまで、ロハスは要塞建設の実務者として大きな働きを演じた。ロハスの調査には、材料、立地条件、配置などのほか、実際に建設工事に従事する兵士の宿営場所の有無も観察されたもので、工期の短さも記されていた。ブレスト攻略の遠征が実施される前、ロハスはマドリードの宮廷に一旦戻り、同地周辺の状況説明を行なっていた。ブレスト湾に要塞が建設されるまでの経緯から、周到に準備がなされ、要塞建設も含んでいた軍事遠征における工兵の役割と意義をロハスを介して描くことができた。

 第4章では、本国のカディス市の要塞化を扱った。本研究では、ロハスの職能が最も明確に現れる期間と判断した、1596年のイングランド・オランダの艦船による奇襲後から同地の要塞化が議論され、国王が最終案を決定した、1597年10月までの約1年2ヶ月間を分析した。最も際立っていたロハスの職能は、建設費用の試算能力で、これは、ロハスの計画案にも反映されていた。奇襲後、フラティンとスパノッキィの2つの案が基本案として宮廷、現地の双方で議論されていたが、最終的には、スパノッキィ案は中止され、ロハスが計画したサンタカタリナ要塞の建設が決定された。本章では、この決定の大きな要因として、ロハスが試算したスパノッキィ案の城塞の建設費は、宮廷が準備していた資金を大きく上回っていたことであったと指摘した。ロハスの理論書では、建設費の試算能力は「算術」に分類され、その調査には建設術に分類できる知識・経験が必要であった。上記の期間、唯一工兵として関与していたロハスのみがその調査を実施する能力を示しており、これは、他の軍人達には見られなかった計画案作成の能力であった。

 第5章では、北アフリカのラ・マモラの要塞化を論じた。同地の要塞化は、軍事遠征の一環として実施されたもので、ロハスは、同地の領有化の目的に則してフェリペ3世要塞を設計した。マモラでの要塞建設では、定められた規模の軍隊を駐在させる要塞を実現させることが最も原則的な要素で、常に一定数の兵士を駐屯させる要塞の収容能力が、中心的な課題であった。ロ ハスが要塞を設計した後、他の軍人達はロハスの設計を非難した。この対立は、他の軍人等がロハスが設計した要塞では、当初計画されていた収容能力を有しないと判断したため生じた。この非難に対し、ロハスは皆の前で実測し、自身の設計の正しさを証明した。最終的に、当初の計画に則した能力の要塞がロハスの設計に従って実現されることになり、それはロハスの設計計画の能力の高さを示すものであった。

 このように丁寧に論証を展開する本研究は西洋建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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