学位論文要旨



No 120016
著者(漢字) 黄,士娟
著者(英字)
著者(カナ) ホァン,シジュエン
標題(和) 台湾近現代の建築保存に関する研究
標題(洋)
報告番号 120016
報告番号 甲20016
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5958号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 台湾は百年間に二つの異なる政権を経験した。日本統治期及び1945年より1980年代までは、「史蹟」あるいは「古蹟」を通じて、国家意識を強調することが最も顕著な時期だ。当論文は1895年より2000年まで約百年間の、歴史的な建物に関する価値観の変化を比較し、それが歴史的な建物の保存にとのような影響を与えたのかを述べる。

2.論文の視点・目的・課題

 歴史的な建物という言葉は「歴史」・「 建物」二つ字の組み合わせである。「建物」は中立的で、ただ具体的なものを指すが、「歴史」は人間の活動の記録ではあるが、その記述には価値観が介在する。台湾の場でも百年間に異なる政権の下で、異なる立場によって選択された「歴史」がある。

 このような状況をふまえ、歴史的な建物に関する認識がかなり保存及び修復に影響を与えているではないかという視点から、歴史的な建物に関する概念と修復の関係に注目した。戦前と戦後は違うという立場で、歴史的な建物を保存する概念の生成とその保存・修復に与えた影響を明らかにすることを目的とする。

 本論文は以上のような視点・目的に立って、三つ課題を考えたい。

(1)最初の台湾建築史はどのような背景で始まったのか?日本統治期末までにどのように変化をしたか?また戦後から現在まで学者が台湾建築史を研究する動機はどのように変化してきたのだろうか?

(2)(1)に続いて、戦前と戦後では、各時期に建てられた建築に異なる評価がされた。人が歴史的な建物に認めた価値が、どのように人々の保存運動を左右するのか?

(3)日本人と台湾人の歴史的な建物保存についての概念は異なり、この概念は修復にどのような影響を与えたのか?

 本論文の研究対象は台湾にある歴史的な建物(戦前「史蹟」、戦後「古蹟」という)を中心とする。

3.研究の成果

3.1台湾建築史位置づけ

 最も早く台湾建築史について調査が行ったのは1908年に総督府が旧慣習調査のために安江正直に依頼したのだ。統治のためにした調査なので、昔いたオランダ人が建てられた建物は調査範囲以外であった。

 オランダ人が台湾に来るちょうど三百年の1930年、台南市役所が主催した台湾三百年記念会で相関資料の展示以外に、講演会もあった。「三百年記念会」という名前の意味は、主催者が台湾歴史を叙述するとき、特定の民族を中心するではなく、地理範囲としてこの島で起こった歴史を述べたいと思われる。

 こういう歴史に関する概念は建築史の研究者に影響が与えた。田中大作が書いた台湾建築史の目次によると、各民族が台湾で現れる順番で述べた。

 戦後大陸から来た学者が日本統治初期と同じ台湾建築は中国建築の南方建築の一支派だと思った。

 アメリカから帰った漢宝徳が留学する前に、古い町並みは古く、退歩の象徴だと思ったが、帰ってきた後、彼が古い建物について、懐かしい情緒に変わった。彼が台湾建築史に関する興味が生まれ、彼が中心として、台湾建築史研究が始めた。

 漢氏が注目したのは建物の様式、空間構成だ。建築史は彼の創作源泉になり、鉄筋コンクリートの構造体で、台湾の民家の空間を再現する多くの作品が作られた。李乾朗は漢氏のプロジェクト参与のきっかけで、漢氏と異なる視点から台湾建築史の研究を始めた。

 1970年代前半台湾建築史の研究が始まった頃、東海大学が調査していたのはほとんど清朝時代建てられた建物だった。1970年代後半から、李乾朗が研究範囲をオランダ時代から、スペイン時代、明朝時代、清朝時代、日本統治期までに拡大したのである。彼は1977年に林安泰宅保存運動に参加していたが、最後に林安泰宅の保存活動は都市計画に負けた。この事件は彼を促し、急いで短い期間内に《台湾建築史》を出すきかけとなった。

 1970年代の試みを経って、1980年代に入り、若手研究者の間で研究方法と中国建築史教育について異なる考えがあり、1990年代で台湾建築史に関する研究が広がった。なぜ1990年代以後台湾建築史が一気に建築史の中心になってきたのか?二つの原因があると思う。政治環境の変化があって、台湾史研究の立場は中立になることができ、台湾総督府の公文書の公開により、日本統治期の建築史研究も可能になった。近代建築史の研究に文献の面で大進展だと言える。二つ目は海外から帰国してきた人が昔は設計の方が多かったが、1980年代台湾建築史の研究が始まった影響で、建築史を勉強するために海外に留学していた人達が1990年代以後、帰国して来た。台湾建築史研究の研究者が一気に増えてきて、台湾建築史研究も大幅に進んできたと思う。

 1990年代史学の訓練に受けた建築史学者が現われると同時に、日本統治時期史料が公開され、過去に解明できなかった部分が明らかに分かってきた。地理範囲としての台湾島という研究視点は田中大作が考えた台湾建築史に回帰してきた。確かに三百年記念会に学者が言った通り、台湾の地理位置はちょうど大陸、日本と東南アジアの交差点というところで、各民族が移動するとき、各文化がここで交流・融合した結果、特有の台湾建築史が生まれたのではないだろうか。

3.2保存―脱政治の転換過程

 以上建築史に関することより、日本統治初期台湾建築が中国建築の一つ支派だと思ったし、価値が低いために保存する必要がないと見られた。都市計画の人が道路開通を妨げる建物は都市進歩の障害物だ考え、旧布政使司衙門はちょうど計画道路の上に、壊される運命に直面し、台湾総督府技師井手薫の呼びかけて、やっと総督の許可を得たが、結局原地保存できず、植物園に移築された。

 史蹟天然記念物について、博物学者が保存しようと呼びかけ、植民地政策が変わった後、日本本土の法律「史蹟天然記念物保存法」が台湾にも施行された。博物学学者が提出した保存リストは各民族の歴史を代表する建物を載せたが、総督府が指定したのはほとんど戦争史跡だった。しかも指定以後の文献資料を見ると、 総督府が指定した史蹟について、十分に保護されていないし、修理もされなかった。自然に壊れ、その場所に史蹟記念碑を建てる事例が多かった。史蹟の指定は政府側の行為だから、史蹟を通じ、政治的立場を反映することが当然だろう。

 戦争直後、日本統治時期を経て、僅か残された建物が取り壊され、中国の北方建築様式に改築されてしまった。例えば日本統治時期多くの台湾人の寺廟で改築が進んでいたとき、台湾神社宮司が人心を得るために、延平郡王祠は修理で済んでいたのに、戦後大陸からきた建築家が南方建築の地位は低いという理由で改築してしまった。

 台湾建築史が注目されたのは1970年代になった頃だった。当時都市計画の担当者が、日本統治時期と同様に、道路は都市進歩の指標だと思い、計画道路の上にある民家林安泰宅が取り壊される危機に直面した。多くの建築家及び学者が保存を呼びかけ、道路について二つの提案をしたが、やはり移築になってしまった。これは保存運動の失敗の事例だが、多くの人が保存活動のためには保存に関する法律を制定することだと意識した。

 「文化資産保存法」が公布された後、大量の清朝時代建てられた建物が古蹟に指定された。清朝時代創立され、日本統治時期に改築された寺廟も含んだ。この指定を通じ、台湾と大陸の関係を強調したのだ。桃園神社に関する保存運動が起こったとき、流れ造の神社なのに、これは中国から日本に伝わっていった唐朝時代の様式だという理由で、保存すべきだと述べた。流れ造様式の神社の保存は相当中国唐朝時代建築の保存と考え、どうしても中国建築と関係がなければ、保存の正当性がないと考えられた。1990年代以後、台湾建築史の研究分野が独立した後、台湾島の地理範囲で建築史の討論が可能になり、政治と関係なく、日本統治時期建物自体の歴史、文化上の価値によって、指定されることになる。

 大規模な指定は1935年、1985年、1998年にあったと分かる。外来政権なので、日本統治時期四十年、戦後三十年を経て、やっと大量の指定があった。政権の変わると同時に、政権が認める部分の歴史と史蹟も変わる。歴史の認めと史蹟の指定が政治に左右されたが、こういう状況は1998年大規模の指定でやっと政治と離れた。1990年代以後、台湾建築史学者が学術的に島内各時代の建物を再評価し、各時代、各民族の代表的建物も保存対象になることができ、さまざまな文化がここで交流したことが明らかに見えるようになった。

3.3修復―実証主義への回帰

 台湾人は寺廟の改築を通じ、神様に敬虔を示すと考えた。寺廟の規模が大きく、立派なら、この寺廟が多くの信者を持つと思われた。こういう考えの影響で寺廟は時間が経つと、かならず有名な大工を招聘し、改築を行なったのである。これで、日本統治時期台湾人の有名な寺廟がほとんど改築された。

 同時に台南にある開山神社と孔子廟は日本人のリードの下に、台湾人の人心を得るため、改築ではなく、修理し、白蟻の問題も解決した。歴史建物について、なるべく元の姿を保存し、問題がある部分を当時の技術で解決するという態度は明らかに台湾人の概念とまったく違う。

 1930年に台湾文化三百年記念会で、総督府技師栗山俊一がオランダ時期建てられた二つの城について調査結果と立面の復原図を発表した。当時総督府がプロビンシア城上にある文昌閣、海神廟を修理しようと考え、修理用図面を書いた。学者が木造二階の建物はオランダ時期建物ではないという理由で修理について反対した。学者は自然に壊れるのを待ち、その後オランダ城を発掘しようと主張した。意見が一致せず、そのまま放置された。学者の史蹟についての概念は、指定されたのはオランダ城だから、オランダ城を保存すべきだというもので、オランダ時代後ここで起こった歴史事件については関心がないと思われる。

 1940年代初期、台南市長のリードの下に、台南市役所が修復設計を担当した。修復図面と昔総督府が用意した図面とはほぼ同じだ。そのまま援用したのだろう。市役所が歴史、建築学者を顧問として頼み、更に建築学者千々岩助太郎がプロビンシア城の発掘計画を担当した。文昌閣の修理を機に、文昌閣の下にあるプロビンシア城の正門を発掘した。一方、発掘のために、大士殿を壊し、壊された大士殿の古材を再利用し、文昌閣の修理の部材に転用された。

 この時の修理はいくつかポイントがあり、一つ目は古材を使ったこと、二つ目は建物の弱点について改善したこと(例えば排水問題)、三つ目は構造補強だ、四つ目は彫刻を創作ではなく、復原したことだ。当時伝統的、優秀な木匠がまだいたが、彼ら任せではなく、元の形で復原しようという方針を決めた。台南孔子廟、開山神社、赤〓樓は地方官庁のリードの下に、歴史建物について尊重、慎重の態度で修理された。

 戦後赤〓樓の修復は、同じ台南市役所のリードの下に、成功大学賀陳詞教授に設計を依頼した。賀氏は構造に問題があれば、構造を変更すれば、解決できるのではないかと考え、元の木造を鉄筋コンクリートに変えてしまった。こういう考えは修理ではなく、改造行為ではないだろうか。

 台湾の古蹟修復プロセスは二段階に分かれる。一段階は調査研究だ。大学の建築史学者あるいは建築家事務所に頼んだ。第二段階は修復だ。経験がある建築家事務所に依頼した。経験があるという条件付きだから、修復設計はほとんど少数の建築家事務所に集中していくのだ。表のように、修復は漢寶徳を中心し、彼と彼の事務所より独立した人の事務所が半数以上の修復プロジェクトを持っている。

 漢寶徳は修理するとき、建物の構造を変えないが、修理について概念と賀陳詞と同じ、様式の復原だと思う。なぜ二人ども様式の復原に関心があるのか、二人ども設計中心の建築家と関係があるのだ。こいう修理の考えについて、東海大学建築史学者洪文雄が疑問を持ち、文化財の修理方法を研究するために日本に来た。彼は研究成果《古蹟保存序説》を書いたが、注目されなかった。

 1970年代以後、1990年代まで、古蹟の修復はいくつかの事務所に集中している状況が分かる。彼らはほとんど建築家出身だ。そのために第一段階の調査研究で建築史上の考証ができないと考えられる。台湾大学の土木研究所が担当した林家花園の報告書の中に、歴史考証の部分は歴史学者が書いたが、建築史の部分はなかった。詳しい建築史の考証がなければ、様式の復原しかできないだろう。また過去調査研究が終わると、すぐ修復工事に続いて、建物の損害状況及び原因について把握できず、施工図の上に保留あるいは修理部分を明記することできない、結局はほとんど新作になってしまった。修復された建物は元の歴史的価値が下がっただろう。

 以上の問題について、建築史学者黄俊銘が近代洋風住宅円山別荘の調査研究で事例をとおして日本の重要文化財の修理概念と調査方法を導入した。建物の工法、材料、損壊状況について詳細な調査を行い、そして所有者を説得し、既にある制度内で、解体調査を入れ、調査研究のとき、まだ判明しない部分を解体し、それが、修復設計の根拠になると考えた。

 当時同じぐらいの規模の建物の調査研究と修復期間は一年間で済むのが普通だったが、円山別荘は1998年から2003年まで約四年半かかった。この後、旧総督官邸の調査研究も黄俊銘に依頼し、所有者の同意を得って、同じ修復プロセスで実施している。

 それまで建築家がリードしていた修復だったが、建築史学者が参與した後、修復に関する概念がだんだん形成されてきた。建築史学者にとって、建築材料は過去の営造文化の代表、さまざまな歴史的インフォメーションを載せている重要なものだ。多くの材料が残されれば、建築価値がもっと高いと考えた。修復は様式の復原だけではなく、修復を通じ、過去の工法、材料を建築史の知識として積み上げられるのではないだろうか。

 建築家の問題以外に、修復の制度にも問題がある。1999年に大地震がきっかけで、建築史学者は過去にあった古蹟の修復問題について、法律を修正する提案を出した。2000年に「文化資産保存法」が修正された。古蹟修復は特殊な仕入れだと変えた。建築史学者の努力の下に、政府及び法律側で、古蹟修復と普通の工事との違う点を認識し、修復に関する概念がやっと形成されてきた。

4.結論・展望

 建築史研究は日本統治時期に始まったが、田中大作は建築史出身ではなく、構造学だった。藤島亥治郎は建築学者だが、台湾建築史は彼の研究範囲の一つ部分にすぎない。二人とも、台湾建築史について研究を続けてなかった。千々岩助太郎は原住民建築に注目し、《高砂族の住家》を出版した。興味深いのは原住民建築研究以外に、オランダ時期の城の発掘調査もしたことだ。千々岩氏が實證主義の研究方法で、栗山俊一の研究成果を基に、プロビンシア城を発掘した。このように詳細な文献考証と調査を合わせ発掘するには嚴密な學術的調査がバックとして支えなければ、うまくいかないだろう。

 戦後大部分の人がまだ保存意識を持ってないとき、漢寶徳は歴史建築について、ロマンチックな感情を持ち、彼の個人的な魅力で、多くの人々が彼のところに集まってきた。ロマンチックな感情は保存運動に凄く役に立ったが、保存運動以後、修復に入ると、理性的な調査、分析が必要だ。實證主義がなかったので、様式あるいは雰囲気的な復原になってしまった。

 台湾では保存運動を熱心にしていたのはほとんどロマン主義の人だ。代表は漢寶徳、夏鑄九、李乾朗だ。彼らの共通点は写真を使って、ロマンチックな、懐かしい雰囲気を表現し、現況で損壞されボロボロの部分を無視してロマンチックな想像をともに図面を描いたことである。一方、台灣建築史研究に熱心な實證主義派は洪文雄、黄俊銘が代表だ。彼らの共通点は創建当初から、現在まで改築過程を示す数枚の写真を使い、図面も現況、損壞情況及びこの資料を基に作った復原図を中心することである。復原というのは理性、學術的な科學過程を経て、元の様子に戻すことを主張した。

 戰後ロマン主義から始まり、建築史研究、保存運動及び修復が進んで、だんだん修復の面に足りない部分があることが意識されてきた。1990年代以後、実証主義の建築史学者がリードするように変わっている。1940年代千々岩助太郎が實證主義の方法でプロビンシア城を発掘したが、五十年間経って、修復がまた実証主義に回歸してきた。偶然のようにも見られるが、そうでもないとも考えられる。理由は修復というのは、ただ感性だけでは越えられない問題があるからだ。最後には實證主義に回帰するしかない。修復に関する概念はやっとここまで形成されてきた。

審査要旨 要旨を表示する

 黄君の論文テーマは「台湾近現代の建築保存に関する研究」である。台湾は過去百年間に、日本による統治と現政権の二つの体制を経験したが、その各々において建築保存は当局の抱える国家意識と密接に関わっていた。本論文は、1895年の日本による台湾領有開始から著者が実地調査を行った2000年までの約百年間における、歴史的な建築に関する価値観の変化を調査し、それが建築保存にどのような影響を与えたのかを考察したものである。

 本文は、時代区分により二部構成となっている。第一部は1895年より1945年までの日本統治時期を取り扱っている。初期の日本人研究者の台湾の建築史に関する考え方は、中国南方建築の亜流とみなすものであったが、やがて台湾に世界的な文化交流の一拠点としての価値を見出す方向に転換し、政府も台湾の史蹟保存を重視するようになった。史蹟を指定する上では総督府の示した歴史観が基準とされたが、実際の修復作業は、各地方官庁による積極的な取り組みにより達成されたものであった。

 第二部は第2次大戦以降を対象とした。大陸から来た国民党政府ならびに研究者は当初、日本統治初期と同様に、台湾の建築を中国南方の一分派にすぎないものとして軽視した。しかし、いくつかの保存運動を経て、その独自性を見出そうとする意識が醸成され、台湾の持つ歴史・文化が重視されるようになった。このような社会的態度の変化が背景となり、建築修復の考え方も変化をみせていった。ここでは、具体的事例を交えてその過程を述べている。

 以上の時代別の記述を通じて、本論文では歴史的建築に関する認識が保存及び修復に影響を与えているのではないかという視点から、その両者の関係に着目して分析を行っている。戦前・戦後の体制の変化や社会的通念の変化を考慮し、歴史的建築を保存する概念の生成とそれが実際の保存修復に与えた影響を明らかにしている。

 既往研究では、台湾における建築保存の概念について取り扱ったものはあるが、それがどのように修復に影響を与えたかという点については未だ解明されていなかった。一方、日本統治期と国民党政権初期の建築の修理に関する研究は、空白のまま残されていた。本論文では、多くの修復報告書を収集しその中から各時期の代表事例を挙げて分析をおこなっている。特に第2次大戦前と終戦直後の貴重な修理図面・史料を発見し、当時の修理方法を明らかにした点は、台湾での建築史研究においてたいへん意義深い作業であった。

 現在台湾では建築保存の意識は高まっているものの、実証的研究に基づく修復方法は未だ定着していない。本論文は、台湾における過去の修復事例を研究対象として客観的な分析を加えたものであり、今後の建築修復にとって大きな意義を持つものと考えられる。以上の事由により、本論文は博士(工学)の学位論文として合格するものと認められる。

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