学位論文要旨



No 120024
著者(漢字) 徐,蘇斌
著者(英字)
著者(カナ) ジョ,ソヒン
標題(和) 中国における都市・建築の近代化と日本
標題(洋)
報告番号 120024
報告番号 甲20024
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5966号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

 問題意識

 本論文は、20世紀初頭から中華人民共和国の建国初期における、中国の都市・建築の近代化過程と日本との関係を歴史的に研究するものである。中国の近代化は大きく2つの力によって形成されたと考えられる。一つは中国の伝統を継承していこうとする前進力であり、もう一つは外来の刺激を契機とした推進力である。この2つの力はいずれも近代化のプロセスを解明する上で重要な鍵となる。さらに本論文では、中国における近代化過程の詳細な内容を検討するため、外来の影響の「受容」形態に着目した。

 具体的には、本研究の問題意識は次の3点に集約される。

 20世紀前半の日中関係は「非友好」的歴史と言われ、そこでは、中国人のナショナリズムは満州事変、日中戦争を経て、一つのピークを迎えた。積極的に日本の先進技術を導入しながらも、そこには「反受容」的側面も併存していた。これまでの研究では、外来の影響に伴う「受容」については、無視、あるいは看過されてきた傾向があるが、「受容」「反受容」と「ナショナリズム」という2つの側面からの考察は、中国における都市・建築の近代化過程を探る上での前提と考えている。

 第2に、外来の刺激を契機とした推進力については、論者は特に中国人自身の意識変革と外国からの受容に重点を置いた。いわば「主体的受容」である。その理由は、受容が実現するためには、政府主導による「上から」の適切な近代化政策は不可欠である。また、自国のものとして内部化してしまう担い手の厚い技術者層が形成されることが必要である。つまり、清末における洋務派の改革政策と後の留学生たちの活躍と深く関わっている。本論文の重点は洋務派及び留学生の事績に見られる「受容」と「中国への応用」の解明にある。

 第3に、アジア諸国のなかでは、とりわけ先発国日本は、中国に多大な影響を与えた。そこで中国側が「受容」したものは、純西洋でもなければ、純日本のものでもなかった。つまり、日中における「受容」形態には、アジアにおける独自の近代化のプロセスが存在しているのである。本論文では、その独自性の解明にも努めた。

 論文の構成

 日中における都市・建築の近代化過程と相互の関連性は、その時期によって異なるし、同じ時期でも多面性を有している。本論文では、清末、民国、さらに建国初期の順に、各時期における日中関係の重要な断面を取り上げて考察した。

 具体的には、以下のような内容となる。

 第I章は中国における「近代建築」という概念の定義に関する基礎的研究である。本章では、古代から近代への建築認識の変容に焦点を当てている。清朝期に編纂された一大古典知識体系である『四庫全書』を取り上げ、中国古代においては、独立した分類としての「建築」は存在せず、建築を「章典制度」の一部として認識されていたことを跡づけた。一方、日本の影響を受けて作成された京師大学堂章程において初めて「建築学」の設置が見られるが、ここにはじめて、建築という概念が工学の一部として受け入れられるようになった。この過程を通じて、近代建築学というジャンルの再編成に至る転換点を明らかにした。

 第II章は、清末における中国の鉄道建設と日本との関係の考察である。清末には鉄道建設と建築との分業が明確ではなかった。当時の鉄道教育には、「建築」も存在していた。鉄道建設は全国的規模で行われ、その影響力は非常に強く、近代国家建設における最も重要な社会基盤整備事業である。清末期は中国における都市建設の黎明期であり、鉄道の開通によって、都市の建設と繁栄を招いた。

 中国の鉄道建設における外国との関係には大きく2つのタイプがある。1つは、中国人が主体となって計画された鉄道建設である。もう1つは、植民地における鉄道建設である。前者は洋務派や地方商人が行った鉄道建設であり、後者は満鉄、台湾鉄道を代表とするものである。

 本章では前者を対象に、清末・民国初期において日本人技術者が関与した、福建省の鉄道建設をはじめ、関内外鉄道、粤漢鉄道、湖北鉄道における具体的内容を明らかにするとともに、中国の鉄道建設とその自立過程における外国人技術者の功罪について歴史的に位置づけた。

 第III章は、清末における勧業博覧会の「受容」に関する研究である。具体的には、清末中国における勧業博覧会の受容とその変容過程を通じて、中国近代の都市空間の再編成、ならびにその空間の「公共性」に着目している。

 中国の近代化において、20世紀最初期の数年間は、工商振興、およびそれに伴う都市空間の変容過程において、重要な画期をなす一時期と言える。清末の行政改革と商工振興の施策はこの時期に形作られ、それとともに都市空間の変容が見られる。そこでは諸外国の影響は無視できない。とりわけ、1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会は直接的に中国に影響を与えていた。本章では博覧会の受容を通して、中国の都市空間と日本との関係について、その一側面を明らかにした。

 第IV章は、中国人技術者層の誕生とその養成に焦点を当て、戦前期における中国人工学系留学生、特に建築系留学生の事績についての歴史的考察である。

 日本留学の重要な目的の1つは、先進的な産業技術を学ぶことにある。明治末からすでに留学生の受け入れ政策はあった。戦前期には、6帝国大学、15高等工業学校・高等工芸学校、10私立学校で中国人工学系留学生を受け入れていた。留学生は鉄道・機械・土木・建築・応用化学・紡績などの工学領域全般に亘っており、中国の産業近代化にとって看過できない大きな役割を担っていた。

 本章では、工学系留学生を対象として、各種関係名簿をはじめ、人名辞典、当該関係資料等の収集・分析を行い、日本留学の最初期から1945年までの半世紀における留学生の個人データ(約2,000件)を作成した。これに基づいて、戦前期工学系留学生の輪廓を描いた。

 さらに、工学留学者が最も多かった東京高等工業学校(東京工業大学も含む)の建築科を例にして留学生の日本での学習状況、帰国後の勤務状況などを考察した。また、残された卒業論文などから、留学生の建築観における日本の影響を明らかにした。

 第V章は現代建築を導入した代表的存在である柳士英に関する研究である。柳士英は文化大革命以前に湖南大学の副学長となった人物である。彼は1920年に東京高等工業学校建築科を卒業し、その後、中国における近代建築教育や、「新建築」の導入などに大きな貢献を果たした。新建築とは、19世紀後半からヨーロッパに生み出されたアール・ヌーヴォー、表現主義、分離派、モダニズムなど一連の新しい建築様式を中国では指している。新建築は20世紀に入ると世界に伝播していったが、大正初期以降、日本へもその影響が窺える。そして、ほぼ同じ時期、中国にも影響を与えた。

 新建築は西洋人建築家によって中国へ導入されたものもあれば、中国人建築家によるものもある。従来の研究では、中国人建築家の新建築の設計については未解明なところが多い。本章では、中国新建築の萌芽期における新文化運動との関係、さらに建国初期における民族主義形式と新建築との関係など、新建築の興隆と崩壊についての諸問題について、柳士英の事績という一側面を通して明らかにした。

 第VI章・第VII章は、中国近代建築史学の興隆に焦点を当て、日本と中国の2人の代表的な建築史学の先駆者を取り上げ、日中における建築史学の内在的関連性及びその比較に関する考察を行った。

 第VI章では、日本近代を代表する東洋建築史家・関野貞の中国調査を記した「関野調査帖」を中心にして、関野貞の中国調査の全容の復原作業を行い、さらに、彼の問題意識、方法論、調査内容及び中国社会との関連などを明らかにした。第VII章では、中国における中国建築史学の開拓者・劉敦〓について考察を行った。劉敦〓は日本留学の経験を持ち、日本における東洋建築史学研究の成果を踏まえながら、中国人による自立した中国建築史学を開拓した先駆者である。本章では、劉敦〓の足跡を通して中国建築史学の形成過程を跡づけた。

 第VIII章は、解放後、大いに活躍した留日建築家・趙冬日の事績に関する研究である。本章では、趙冬日の留学経歴および帰国後の活動に焦点を当て、当時の社会的背景を念頭に置きながら、中国現代建築の成立基盤についてその一側面を明らかにした。

 結論

 以上、本研究では、20世紀初頭から建国初期における、中国の都市・建築の近代化過程と日本との関係を解明するため、8つの断面の分析を行った。

 そこでは、清朝政府の改革者を主体とした近代的建築学の導入をはじめ、社会基盤整備事業としての鉄道建設、さらには近代的公共空間の創出に繋がる博覧会事業への積極的な取り組みが認められた。また一方、近代国家建設のため、工学系留学生の派遣事業を精力的に遂行し、帰国後、留学生たちは日本での学習を踏まえ、中国への応用を試み、近代的な建築学の導入をはじめ、中国建築史学の創出、さらには建国初期における国家プログラムの推進など、多面的に活躍した事実は看過できない歴史的一断面と言える。

 また、ここに見られる清末の改革派や留学生たちの「受容」活動は、単純な模倣的行為ではなく、中国の歴史、さらには社会発展に応じて試みられた再創造に向けた壮大な実験でもあった。むろん、その試みには、成功と失敗が伴っている。その再創造の営みこそ、都市・建築の近代化における外来文化の受容において特筆すべき点であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、20世紀初頭から建国初期における、中国の都市・建築の近代化過程と日本との関係を歴史的に解明しようとするものである。日中における都市・建築の近代化過程と相互の関連性は、その時期によって異なり、同じ時期でも多面性を有している。本論文では、清末・民国、さらに建国初期の順に、各時期における日中関係を読み取る上で重要な断面を考察している。また、そこに通底する論者の問題意識は、従来の研究で無視、あるいは看過されてきた傾向がある−外来の影響に伴う「受容」「反受容」と「ナショナリズム」という2つの側面からの考察にあり、中国における都市・建築の近代化過程を探る上での前提と考えられている。

 第I章は、中国における「近代建築」という概念の定義に関する基礎的研究である。本章では、古代から近代への建築認識の変化に焦点を置いている。清朝期に編纂された一大古典知識体系である『四庫全書』を取り上げ、中国古代においては、独立した分類としての「建築」は存在せず、建築を「典章制度」の一部として認識されていたことを跡づけている。一方、日本の影響を受けて作成された京師大学堂章程に「建築学」の設置が見られるが、ここにはじめて、建築という概念が工学の一部として認識されるようになったことを指摘している。この過程を通じて、近代建築学というジャンルの再編成に至る変換点を明らかにしている。

 第II章は、清末における中国の鉄道建設と日本との関係に関する考察である。鉄道建設は全国的規模で行われたが、近代国家建設における最も重要な社会基盤整備事業である。清末期は、中国における都市建設の黎明期であり、鉄道の開通によって、都市の建設と繁栄を招いている。

 本章では、中国人を主体にして計画された鉄道建設を対象に、清末・民国初期において日本人技術者が関与した、福建省の鉄道建設をはじめ、関内外鉄道、粤漢鉄道、湖北鉄道における具体的内容を明らかにするとともに、中国の鉄道建設とその自立過程における外国人技術者の功罪について歴史的に位置づけている。

 第III章は、清末における勧業博覧会の「受容」に関する研究である。具体的には、清末期の中国における勧業博覧会の受容とその変容過程を通じて、中国近代の都市空間の再編成、ならびにその空間の「公共性」に着目している。

 中国の近代化において、20世紀最初期の数年間は、工商振興、およびそれに伴う都市空間の変容過程において、重要な画期をなす一時期と言える。清末の行政改革と商工振興の施策はこの時期に形作られ、それとともに都市空間の変容が見られることを指摘している。そこでは外国の影響は無視できないが、とりわけ、1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会は直接的に中国に影響を与えていたことを明らかにし、中国の都市空間と日本との関係について新たな視点を提供している。

 第IV章は、中国人技術者層の誕生とその養成に焦点を当て、戦前期における中国人工学系留学生、特に建築系留学生の事績についての歴史的考察である。

 本章では、工学系留学生を対象として、各種関係名簿をはじめ、人名辞典、当該関係資料等の収集・分析を行い、日本留学の最初期から1945年までの半世紀における留学生の個人データ(約2,000件)を作成し、これに基づいて、戦前期工学系留学生の輪廓を描いている。

 さらに、工学系留学者が最も多かった東京高等工業学校の建築科を例に、留学生の日本での就学状況、帰国後の勤務状況などを考察している。また、残された卒業論文などから、留学生の建築観における日本の影響を明らかにしている。

 第V章は現代建築を導入した代表人物・柳士英についての研究である。柳士英は中国文化大革命以前に湖南大学副学長の立場にあった人物である。彼は1920年東京高等工業学校建築科を卒業し、その後、中国における近代建築教育や、新建築の導入などに大きな貢献を果たした。

 本章では、中国新建築の萌芽期における新文化運動との関係、さらに建国初期における民族主義形式と新建築との関係など、新建築の興隆と崩壊についての諸問題について、柳士英の事績という一側面から明らかにしている。

 第VI・VII章は、近代中国建築史学の興隆に焦点を当て、日本と中国における代表的な建築史学の先駆者を対象にして、日中における建築史学の内在的関連性、及び比較に関する考察を行っている。

 第VI章では、日本近代を代表する東洋建築史家・関野貞の中国調査を記した「関野調査帖」を中心にして、関野貞の中国調査の全容の復原作業を行い、さらに、彼の問題意識、方法論、調査内容及び中国社会との関連などを明らかにしている。第VII章では、中国建築史学の開拓者・劉敦〓について考察している。劉敦〓は日本留学の経験を持ち、日本における東洋建築史学研究の成果を踏まえながら、中国人による自立した中国建築史学を開拓した先駆者である。本章では、劉敦〓の足跡を通して中国建築史学の形成過程を跡づけている。

 第VIII章は、解放後、目覚ましい活躍をした建築家・趙冬日を取り上げ、社会主義体制後の中国における活動の具体的内容を考察し、中国現代建築の成立基盤について重要な側面を明らかにしている。

 以上、本研究では、20世紀初頭から建国初期における、中国の都市・建築の近代化過程と日本との関係を解明するため、8つの重要な断面の分析がなされた。従来までの単一な当該問題の捉え方から、大きな一歩を踏み出したものであり、さらに実証性に富んだ大部の内容となっている。今後の比較都市・建築史研究における新しい展望を拓いた労作と言えよう。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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