学位論文要旨



No 120036
著者(漢字) 佐野,稔
著者(英字)
著者(カナ) サノ,ミノル
標題(和) 機械刺激負荷に対する細胞内Ca2+応答機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 120036
報告番号 甲20036
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5978号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛田,多加志
 東京大学 教授 鷲津,正夫
 東京大学 教授 安藤,譲二
 東京大学 教授 杉浦,清了
 東京大学 講師 古川,克子
内容要旨 要旨を表示する

 生体は常に様々な力を受けており,これをメカニカルストレスや機械刺激,力学刺激,物理刺激などと呼ぶ.生体には常に一定の重力がかかっており,生体が運動することでさまざまな部位への荷重が発生する.また生体外から力を受けるだけでなく,生理機能によって生体内部からの力学刺激負荷も発生している.たとえば,血管内腔面を覆う内皮細胞には血流による剪断応力が負荷され,その外周に位置する平滑筋細胞には拍動による伸張応力が負荷されている.このような力学刺激を細胞は何らかの手段をもって能動的あるいは受動的に認識し,組織・細胞の機能維を実現している可能性が強く示唆されている.内皮細胞や平滑筋細胞ではこのような力学刺激負荷が抗血液凝固物質や細胞増殖因子の産生,血管構造の弛緩・収縮といった機能に直接的な関与があることもわかってきた.血管だけでなく,筋肉や骨の代謝メカニズムへの関与,軟骨細胞での分化・脱分化制御などメカニカルストレスに対する細胞や組織の生理学的挙動についての研究が注目を浴びるようになり,Mechano-transductionやMechano-biologyなどとして認知されるに至っている.

 メカニカルストレスが生体の形態形成,機能維持に大きな役割を果たしているということは次第に明らかになってきたが,細胞がメカニカルストレスを感知してから最終的に生理学的な応答を示すに至るまでのメカニズム(シグナル伝達経路)の全容はまだ解明されていない.中でも応答経路での上流域,すなわち細胞に備わっていると想定されるストレスセンサーについては不明な点が多い.この受容機構は機械受容体(Mechano-receptor,Mechano-sensor),機械感受性がある(Mechano-sensitive)と表現され,いくつかのモデルが提案されてきた.

 本研究で着目したのはGTP結合タンパク質(Gタンパク)−ホスホリパーゼ(PLC)活性化経路である.メカニカルストレスによってGタンパクやPLCの活性が導かれることは,内皮細胞や平滑筋細胞,心筋細胞などを用いた実験で報告されている.しかしながら活性化されたPLCから細胞内Ca2+濃度上昇にいたる情報伝達を媒介するセカンドメッセンジャーであるイノシトール1,4,5トリスリン酸(IP3)のメカニカルストレスに対する挙動を直接に証明した報告はない.メカニカルストレスに応答するCa2+濃度上昇は,ストレスの負荷に対して瞬時に上昇してから数分程度持続し,時間による勾配をみせる.また細胞内や細胞間で濃度勾配が発生するため時間的・空間的な挙動解析が有効である.これはそのままIP3にも当てはまると考えられ,IP3を検出するプローブ開発およびCa2+との同時測定の実現,メカニカルストレス負荷環境下での測定などが求められている.

 本研究の目的を次に示す.

1.Ca2+およびIP3のリアルタイム計測を実現する

2.メカニカルストレス負荷によるIP3応答の有無を探る

3.メカニカルストレス負荷によるCa2+のIP3依存性を探る

4.メカニカルストレス負荷によるCa2+波のIP3依存性を探る

 本研究では蛍光イメージングによるIP3の可視化を試みた.生きた細胞でのシグナル伝達を観察するためのイメージング技術が急速に発達しており,green fluorescent protein(GFP)の変異体が盛んに使用されている.細胞内シグナル伝達研究においてGFPを用いることの利点の一つは,cDNAがすでに単離されており,細胞内で産生させられる点である.GFPに機能タンパク質を融合させた複合タンパク質を産生させ,蛍光の局在変化を利用して機能タンパク質の移動を可視化するという実験手法を適用した.PLC-δ1のプレクストリン相同ドメイン(PHD)はIP3の前駆体であるホスファチジルイノシトール4,5ビスリン酸(PIP2)と強く結合することが知られており,GFPとPHDとの融合タンパク質を細胞に産生させることで,受容体刺激に応じて細胞膜から細胞質へと移動するGFPを観察する.本研究ではGFPとPHDの融合について,GFPのN末端にPH domainが結合されるPHD-GFPとC末端に結合されるGFP-PHDとをコードする遺伝子ベクターを独自に作製し,また東京大学医学研究科の廣瀬博士より提供いただき,各種の細胞での機能発現を比較した.図1に代表例を示す.PHD-GFPでは細胞質中にGFPによる蛍光が均一に分布し,GFP-PHDでは細胞膜への局在が確認された.PHD-GFPではタンパク質同士をつなぐリンカー設計の不調もしくはGFPのN末端の堅さが影響し,機能タンパクがフォールディングされなかったためと推定される.これ以降の実験ではGFP-PHDを使用した.PHDがPIP2だけでなくIP3とも結合することができること,また,PHD−PIP2間よりPHD−IP3間での親和性がより高いために,細胞質中のIP3濃度が上昇すればPHDはPIP2との結合が競合的に外れてIP3に結合することで結果的にGFPの局在変化が引き起こされていることが報告されている.

 先に述べたように血管内皮細胞ではその機能保持へのメカニカルストレスの関与は様々に示されている.しかしながら,遺伝子導入を試みるには導入効率の低さ,細胞毒への過敏性などの問題により十分な実験効率が期待できないため,本研究では腎臓尿細管由来の細胞株であるMardin-Darby Canine Kidney Cells (MDCK)を使用した.腎臓内では血液や体液が循環し,細胞表面の物質交換も盛んであるため,その上皮細胞であるMDCKはストレス応答性が高いと予想したが,StretchやPokingに対して鋭敏な応答を確認することができた.

薬剤刺激負荷実験

 GFP-PHDの細胞への導入にはリポソーム系試薬を用いた.導入後24〜36時間を経て細胞での発現をGFPの蛍光強度および膜近傍への局在によって確認し,薬剤刺激付加実験および機械刺激負荷実験を行った.Ca2+指示薬としてFura-2を使用し380nmで励起した.

 GFP-PHDがIP3の挙動を正確に追随しているかを調べるため,ATPによる薬剤刺激負荷実験を行った.ATPはP2レセプターに受容されGタンパク,PLCの活性化を導くので,IP3の局在変化が予想される.結果は図2に示すように,ATP添加後即座に,細胞内Ca2+濃度上昇と並行してIP3が産生されていることが確認された.

 各種の阻害実験での結果を図3に示す.PLCを阻害するためU-73122で細胞を前処理してATPを負荷すると,IP3の局在変化はみられなかった.PLCの阻害によりIP3が産生していないと考えられるので,GFP-PHDは細胞内でのIP3産生の有無を確かに指示している.またCa2+濃度上昇を引き起こすCa2+源を細胞内小胞体と細胞外液とに区別し,それぞれThapsigarginによる小胞体Ca2+枯渇と細胞外液からのCa2+除去(HEPES(-))によって阻害した.結果はCa2+濃度ではそれぞれ減少と上昇が観察されたのと対照的に,IP3の局在変化に伴う蛍光強度変化はほぼ同じ上昇率をみせた.ここでCa2+源の枯渇はIP3産生を直接に阻害するものではないが,controlと比較すると1/3程度の上昇率であった.このことはPLC阻害実験と同様に,GFP-PHDは細胞内でのIP3産生を確かに指示していることを示しており,またIP3の産生は細胞内外のCa2+源が同時に存在することで促進されることがわかった.

 IP3の非活性化をPLC阻害ではなく,産生されたIP3を側から分解する阻害法を試みた.正常な細胞ではIP3はセカンドメッセンジャーとしての役割をおえると,IP3ホスファターゼによって脱リン酸化されるが,このIP3ホスファターゼをコードするベクターを人為的に過発現させた.結果は図3にあるようにIP3の局在変化が強く抑制されている.PLCによる阻害と比較してIP3の産生が抑制されている点では共通であるが,Ca2+濃度変化が異なることがわかった.この理由に関しては不明である.

機械刺激負荷実験

 GFP-PHDを発現させた細胞へ機械刺激を負荷し,応答を観察した.機械刺激には二通りの方法を試みた.一つはガラス管から作製したピペットによる,瞬間的な細胞表面の変形である(Poking).ピペット先端形状は細胞を貫通しないよう丸めてあり,20μm程度の直径である.他方はシリコンシート上へ播種した細胞への瞬間的な一軸引張負荷である(Stretch).StretchではCa2+上昇を導き易く,細胞非破壊であるひずみ量として20%を予備実験の結果から選択した.Pokingは細胞膜を刺激し,Stretchは細胞基底膜を伸張していると考えられるが,ATP負荷に比較するとその上昇幅は小さいものの両者とも有意なIP3濃度上昇がみられた(図4).これはIP3産生を引き起こす機械受容体が細胞膜に広く発現している可能性を示唆している.この可能性を検証すべく,U- 73122を用いたPLC阻害,IP3ホスファターゼによるIP3分解を試みた.PLC阻害ではIP3の産生は全く確認されず,刺激負荷直後のCa2+上昇は見られなかった(図5).また,IP3ホスファターゼを発現させた細胞でのCa2+応答率はcontrolに比較して大きく減少した(図6).これらの結果はIP3産生を引き起こす機械受容機構が存在しCa2+濃度上昇に強く関与していることを示唆している.一方で原核細胞ではすでに同定されているStretch activatedチャネル(SAチャネル)は細胞膜への伸張刺激によって機械的に開口するとされるが,このイオンチャネルの関与について調べた.SAチャネルの特異的な阻害剤であるGd3+で処理した細胞へPokingを負荷したところ,Ca2+上昇率は有意な減少はみられなかった.これらのことからCa2+の初期応答に関してはSAチャネルとされる関与はあまりなく,IP3の関与が大きいことが示された.

 IP3産生からシグナル伝達を遡るとPLC活性化,小分子Gタンパク活性化の順になる.機械刺激負荷によってGタンパクが活性化されることは以前にも提唱されてきたが,本研究でもGタンパクの関与について検証を行った.阻害方法として,GタンパクのPLC-βとの結合部位へアンタゴニストとして作用するペプチドをベクター導入により細胞内へ多量に産生させる競合的阻害を試みた.このペプチドは小分子Gタンパクグループの中でGqおよびG11へ作用し,IP3の代謝物であるIPの産生が有意に減少したとする報告がある.Pokingに対するCa2+応答率を計算したところ有意な減少がみられた(図7).このことから,小分子GタンパクグループではGqもしくはG11の機械受容機構への関与が示唆される.

 単一細胞へPokingを負荷すると,負荷された細胞に引き続いて周辺細胞へとCa2+濃度上昇が伝播していくCa2+波がよく知られている.本研究ではGFP-PHDを用いてIP3の挙動を調べたところ,周囲の細胞でもIP3産生がみられ,伝播していくことがわかった.またIP3ホスファターゼを発現させた周辺細胞ではCa2+上昇率は強く減少することがわかった(図8).これによりCa2+波はIP3波ともいうべきIP3の伝播によって引き起こされることが示された.

 以上の結果から,GFP-PHDを用いたIP3動態の時間的・空間的な解析およびFura-2染色の併用によるCa2+濃度との同時測定が可能であることがわかった.この実験系ではPokingやStretchの負荷に対するCa2+,IP3応答の観察が可能であり,刺激を負荷された細胞とその周辺細胞ではCa2+,IP3の上昇および伝播が観察された.また阻害実験によりIP3産生がCa2+上昇を導くことが強く示唆されている.これは近年報告された機械刺激の負荷によってATPが何らかの機構によって放出され,オートクリン・パラクリン的に作用するとするモデルと対立するものではない.なぜなら先に述べたようにATPの作用によりIP3は産生されるからである.しかしながら本実験で検証したATP負荷によるIP3の上昇率と機械刺激によるそれとでは大きく異なっているため,詳細の解明が期待される.

図1 左)GFP-PHD 右)PHD-GFP

図2 蛍光強度変化.左)Fura-2 右)GFP-PHD.10秒経過時点でATPを負荷

図3 上)ATP刺激後10秒での変化率.Mean±S.E.M. (n = 3 to 15) *P < 0.001

   下)ATP刺激後50秒間での変化率の最大値.Mean±S.E.M. (n = 3 to 15) *P < 0.001

図4 Pokingに対するGFP-PHDの蛍光強度変化

   Mean±S.E.M..n=7 to 9

図5 PLC処理を施した細胞でのPokingに対する蛍光強度変化

図6 Stretchに対するCa2+応答率

   Mean±S.E.M(n=4)*P<0.05

図7 Pokingに対するCa2+応答率

   Mean±S.E.M(n=3 to 5)*P<0.01

図8 Pokingに対するCa2+応答の伝播.上)蛍光強度の経時変化 右)最大変化率の平均.Mean±S.E.M(n=9 to 10)*P<0.001

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,「機械刺激負荷に対する細胞内Ca2+応答機構に関する研究」と題し,本文7章と付録からなる.

 機械刺激を負荷された細胞はさまざまな機能を発現させることが知られているが,再生医療における生体外での組織培養環境の構築など臨床応用の観点からも意義深い研究対象である.しかし,細胞の応答機構について十分に明らかであるとはいえず,特にシグナル伝達経路の上流に関する知見が不足している.Inositol1,4,5-trisphosphate(IP3)やCa2+といったセカンドメッセンジャーはこの上流域に存在するとされるが,機械刺激に対する動態変化を観察するには従来の生化学的手法では時間および空間的な分解能が絶対的に不足である.

 本論文はそのような問題点を克服すべく,生細胞を用いたリアルタイムイメージング手法に取り組み,機械刺激負荷環境下でのIP3およびCa2+応答機構について検証したものである.

 第1章および第2章では,研究の背景として細胞の機械刺激受容機構に関する先行研究やGreenFhlorescentProtein(GFP)を使ったリアルタイムイメージング手法,IP3-Ca2+応答機構を概観し,本研究における目的を列挙している.

 第3章では,IP3を可視化するためのプローブとしてPleckstrinHomologyDomain(PHD)とGFPの融合タンパクに着目し,GFPとPHDの配列順序や連結部位タンパクの違いによるIP3指示能力の差について検討している.ベクターを遺伝子導入によって生細胞で発現させ,静置状態でのGFP局在を観察した結果では,GFP-PHDで細胞膜近傍への集中が最も顕著であり,IP3の前駆体への結合モデルと一致することから,IP3動態への優れた指示能力が予想されている.

 また,IP3-Ca2+応答の同時測定を実現するための蛍光指示薬の選択や光学フィルターの設計による蛍光観察系の構築や,落射型蛍光顕微鏡でのリアルタイムイメージング観察下での機械刺激負荷装置の構築がなされている.

 第4章では,GFP-PHDを発現させた細胞での薬剤刺激または機械刺激負荷が行われている.

 まず,薬剤刺激に対する細胞応答の結果から,IP3とCa2+のもつ時間・空間依存的動態が同時かつ明確に補足され,二重蛍光観察系の妥当性が示されている.さらに阻害実験から得られたGFP-PHDの局在変化に関する結果とIP3-Ca2+応答モデルとがよく一致することから,GFP-PHDが刺激に対するIP3応答を忠実に指示することが示されている.また,GFP-PHDを指標とすることで各種の阻害実験条件の有効性が裏付けされている.

 次に,機械刺激負荷実験結果ではIP3産生が導かれる直接証拠がリアルタイム画像として得られており,従来の阻害実験による間接的手段では得られなった単一細胞内でのIP3産生の偏りやIP3の細胞間伝播が時間依存的に変化する様子が示されている.単一細胞でのCa2+濃度の上昇率が薬剤刺激実験とほぼ等しいにも関わらず,IP3産生量は大きく異なることから,二つの経路が完全に同一ではない可能性が示されている.さらに,PhospholipaseC(PLC)やIP3産生の阻害実験によりCa2+応答のIP3依存性が示されている.

 第5章では,前章で得られたCa2+応答がIP3依存的であるという結果をもとに,シグナル伝達経路の上流側にむけた更なる検討が試みられている.三量体Gタンパクの一種であるGqタンパクとGqタンパク結合型受容体との相互作用に対する競合的阻害を試みることで,Gqの活性化を介してCa2+応答へ至る機械受容機構の可能性が示されている.

第6章では,本研究で得られた機械刺激に対する細胞応答機構に関する知見である,Gqα,IP3,Ca2+といった情報伝達因子の関与と近頃報告された機械刺激応答性のATPオートクライン・パラクライン機構との対応や活性化されたGqタンパクのCa2+上昇だけではなく低分子量Gタンパクへの作用について議論されている.

 第7章は「結論」であり,本論文での成果である.

 「付録」では,本研究で使用したベクター作製に関する基礎情報およびプロトコルがまとめられている.

 以上のように,本論文では機械刺激負荷に対する細胞シグナル伝達経路の解析を目的とし,GFP融合タンパクをコードする遺伝子導入によってリアルタイムイメージングを実現した.これにより細胞膜上の機械感受性チャネルの関与が想定されていた細胞内Ca2+濃度上昇経路について,細胞内部からの放出を引き起こすIP3産生の直接的な証左が得られ,さらに,その上流にはGqタンパク結合型受容体が存在する可能性が示されている.これらの知見は,再生医療における物理刺激を用いた組織培養技術の向上に大きな示唆を与えるものである.このように,本研究は工学的な意義が大きく,細胞の機械受容機構の解明に重要な貢献をなすものと考えられる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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