学位論文要旨



No 120047
著者(漢字) 塚田,修大
著者(英字)
著者(カナ) ツカダ,ノブヒロ
標題(和) 細胞ハンドリングシステムに関する研究
標題(洋)
報告番号 120047
報告番号 甲20047
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5989号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,俊郎
 東京大学 教授 毛利,尚武
 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 佐々木,健
 東京大学 助教授 神保,泰彦
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 近年,化学または生物学の分野で,ガラスやプラスチック基板上に形成された微細構造を用いて,化学物質の合成や,細胞の培養,DNAの分離などを行う研究が盛んに行われている.これらの研究は,従来の実験手法を微細なチップ上で行えるということからLab on a Chipと呼ばれている.チップ上の微細流路を用いることで,試薬や試料の節約,実験の簡略化・効率化などが可能になる.特に細胞培養に関して言えば,コンタミネーションの減少,より生体内に近い培養環境の実現,単一細胞の取り扱い,などが利点として挙げられる.

 Lab on a Chip技術の適用が期待される分野の一つとして発生工学がある.発生工学とは,生物の個体発生過程に様々な実験的操作を加えることによって,その発生過程をこれまでと違った新しいものに変えたり,その結果として新しい生物系統をつくることを主な内容とする生物学の一分野である.しかし,発生工学の実験に,微細チップを用いるという研究例は少ない.その理由は,発生工学では細胞に対して機械的な操作をする必要があり,それを微細チップ内の微細構造によって行うことは困難であるからである.例えば,クローン動物の作製過程の一つである核移植では,卵細胞の核を取り除く必要がある.この操作は,現状では微細ピペットを用いることでしか実現できない.

 したがって,より汎用的な細胞操作を実現するには,図1に示すようなピペットによる操作と微細チップの併用が可能な新しいタイプの細胞ハンドリングシステムが必要となる.このようなシステムでは,ピペットとその補助的なツールを用いて細胞を操作した後に,微細チップ内のin-situ加工によって細胞周囲に流路などの微細構造を作製する必要がある.そこで本研究では,そのシステムを実現するための要素技術として,

・静電気力による細胞の回転操作技術

・レーザ加熱によるin-situ微細加工技術

を開発することを目的とする.

2.静電気力による卵細胞の回転操作

 微細ピペットによって,細胞の搬送や保持など様々な操作が実現できる.しかし,細胞の姿勢を位置決めする回転操作は困難である.そこで本研究では,微小物体の操作に優れる静電気力を利用した,細胞の回転操作技術を開発する.静電気力による微粒子や細胞の挙動として,回転電界によって微粒子が回転する誘電回転や,電界強度分布の不均一によって微粒子が移動する誘電泳動が知られている.この二つの現象を同時に起こす電界によって,細胞を定位置に捕捉し,かつ回転させることが可能である.

2.1.基礎実験

 図2に試作した微小電極を示す.これはガラス基板上にクロムとアルミを真空蒸着し,その後エッチングすることによって製作した.この微小電極に振幅4.0V0-p,周波数500kHzの四相交流電圧を印加して,培養液中でマウス卵細胞を回転させた様子を図3に示す.このように,卵細胞を定位置で回転させることが可能であることを確認した.また,電圧の印加をやめるのとほぼ同時に卵細胞の回転が止まる.これは卵細胞程度の大きさでは,慣性力よりも周囲の液体の粘性力の効果が大きいことに起因している.したがって,回転姿勢を高精度に位置決めすることができる.

 卵細胞は他の細胞と異なり,その表面を透明帯と呼ばれる厚い膜で覆われている.透明帯は表面に親水基を持つため,同じく親水表面を持つガラスに吸着する.その吸着力によって回転操作が阻害されるため,シリコーン処理によってガラス基板表面を疎水化することを試みた.その結果,吸着力を弱めることができ,ほぼすべての卵細胞を回転させることに成功した.シリコーン処理をした電極基板を用いた場合の,印加電圧の周波数と振幅に対する卵細胞の回転速度を図4に示す.回転速度は,周波数500kHzで最大となり,振幅に対しては単調に増加する.印加電圧の振幅によって回転速度を調整でき,目視で十分確認できるほど遅い速度でも回転させることが可能であった.このことより,この手法は卵細胞の回転操作に適していることが明らかとなった.

2.2.卵細胞の受精能・発生能に与える影響

 静電気力による回転操作が,卵細胞の受精能および発生能に与える影響を検討する必要がある.そこで,静電気力によって回転させた卵細胞に,体外受精(In vitro fertilization: IVF)または核移植を行い,その発生状況を確認した.その結果を表1に示す.IVFに関しては,受精率,卵割率,発生率の全てにおいて,回転させた卵細胞とコントロールの間に統計的に有意な差は見られなかった.したがって,静電気力による回転操作は,卵細胞の受精能・発生能に影響を与えないと結論付けられる.核移植に関しては,融合率,卵割率については有意な差は見られない.発生率に関しては,発生した卵細胞の絶対数が静電気力で回転させたものが2,コントロールが7と少なく,統計的な判断をすることは難しいが,静電気力による回転操作の後にも,発生することは確認できた.

2.3.三自由度の回転操作

 図5に示すように,2枚の電極基板を上下に重ね合わせ,それらの電極に交流電圧を印加することによって立体的に回転する電界を発生させ,卵細胞を立体的な三自由度に回転させることに成功した.図6にマウス卵細胞の立体的な回転の様子を示す.印加電圧は周波数500kHz,振幅3.0V0-pである.

3.レーザ加熱によるin-situ微細加工技術

 図1に示した細胞ハンドリングシステムでは,微細ピペットを細胞の操作に用いた後に退避させ,その状態で細胞の周囲に微細構造を作製する必要がある.そこで本研究において,生体適合性の高いパラフィンをレーザ加熱によって変形させる加工技術を新たに開発した.この加工法は,液体中のパラフィンにレーザを照射すると,融解したパラフィンが凸状に成長するという興味深い物理現象を利用している.実験には,波長1064nmのNd:YAGレーザを用いた.

3.1.加工原理の実験的検証

 図7に,形成される微細構造の生成過程を示す.まず,レーザ加熱によってパラフィンが局所的に融解し(a),膨張する(b).その後,融解した部分は液体中を凸状に成長する(c).レーザの遮断に伴って,融解していた部分が固化する(d).生成過程の中で最も興味深い部分である,レーザ加熱によって融解したパラフィンが液体中を凸状に成長するメカニズムを実験的に検証した.

 水中でのパラフィンの突起の形成過程を観察した結果,突起の先端のみが変形し,また突起の内部に流路状のものが確認された(図8).また,空気中や,水よりも熱伝導率が低い液体中でレーザをパラフィンに照射すると高アスペクト比の突起状の構造は形成されなかった.これらの結果から,成長中の突起の液体に接している部分は液体への放熱によって固化するが,その内部はレーザによる加熱で融解された状態を保って膨張を続けることで,突起が成長するということが示された.

3.2.本加工法の応用

 本加工法は,液体の上にレーザを透過するカバーをかぶせても,加工材料を加工することができる.そこで,パラフィンとガラスカバーの間に水を満たした空間内で,微細構造を作製することを試みた.図9(a),(b)に作製した微細構造を示す.このように,細胞の囲い(a)や,流路(b)のような微細構造を作製することが可能である.また,形成される微細構造はガラスカバーと接合することが確認されており,微細チップの密封にも利用できる可能性が示された.

 本加工法は,レーザの照射方法によって,柱,壁,傾斜した柱,円錐など様々な形状の微細構造を作製することが可能である.また,それらの形状は,レーザの出力や照射時間,走査速度,走査回数などで制御することができる.また,本加工法は熱可塑性の材料の加工に応用できる.その一例として,汎用的なプラスチック材料であるポリエチレンを加工することを試みた.その結果,ポリエチレンから突起状の微細構造を作製することに成功した.図9(c),(d)に,本加工法で作製した微細構造の例として,パラフィンの柱とポリエチレンの突起をそれぞれ示す.

4.まとめ

 本研究では,微細ピペットによる細胞操作と微細チップを併用する細胞ハンドリングシステムの構築を目指し,その要素技術である,静電気力による細胞の回転操作技術,およびレーザ加熱を利用したin-situ微細加工技術に関して研究を行った.静電気力を用いて,卵細胞の3自由度の回転操作を実現した.また,この操作は卵細胞の受精能・発生能に影響を与えないことを示した.本研究で新たに開発したレーザ加熱によるin-situ加工技術によって,微細チップ内のような密閉された空間の中で,パラフィンから流路やチャンバーのような形状を作製できることを可能とした.

図1 微細ピペットと微細チップを併用した細胞ハンドリングシステムの概要図.ピペットによる操作(a)の後に,ピペットを退避させ,チップ内で微細構造を作製する(b).

図2 試作した四相電極.(a)外観.(b)先端拡大図(黒い部分が電極.中央にマウス卵細胞がある).

図3 マウス卵細胞の回転の様子.印加電圧の条件:周波数500kHz,振幅4V0-p.

図4 印加電圧の周波数(左,振幅4V0-p),振幅(右,周波数500kHz)に対する,マウス卵細胞の回転速度.

表1 IVF(上),核移植(下)の結果("Developed"はMorulaの段階まで発生した卵細胞の数を示す).

図5 三自由度の回転を実現する電極配置.

図6 立体回転の様子(点線で囲んだ極体が移動している様子が確認できる).

図7 レーザ加熱によって形成される微細構造の生成過程.

図8 生成中の突起.(a)画像.(b)線画.

図9 本加工法で作製された微細構造の例.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「細胞ハンドリング」と題し,微細チップを併用する細胞ハンドリングシステムの構築を提案し,その要素技術である,静電気力による卵細胞の回転操作機構と,レーザ加熱を用いたin-situ微細加工技術に関して行った研究を纏めたものである.

 第1章「序論」では,本研究の背景である現在の細胞操作技法とその課題,それに対する自動化に関する研究,および,本研究に関連する技術である静電気力による細胞操作技術とin-situな微細加工技術について述べている.

 以下は全4章の第I部「静電気力による卵細胞の回転操作」と全3章の第II部「レーザ加熱によるin-situ微細加工技術」で構成されている.

 第I部第2章「基礎的検討」では,静電気力を用いて,培養液中での卵細胞の回転操作を実現するための基礎的な技術の開発を行っている.培養液中で電界を発生させる際には,電気分解やジュール熱の問題が生じるため,電極に印加する電圧に制限がある.そこで,ガラス基板にシリコーン処理をすることで,卵細胞とガラス基板との吸着力が減少させ,印加電圧の振幅を大きくすることなく,卵細胞を確実に回転させることを実現している.また,卵細胞の回転操作における回転速度は印加電圧の振幅によって制御できることを明らかにしている.

 第3章「卵細胞の発生能に与える影響の検討」では,静電気力による卵細胞の回転操作がその受精能と発生能に与える影響を調べた.静電気力により回転させた卵細胞に対して,体外受精および核移植を行い,体外受精に関しても核移植においても,回転操作を受けた卵細胞と通常の卵細胞の間には,発生状況にほとんど差は見られず,受精能・発生能に影響を与えないことを示している.

 第4章「3自由度の回転操作」では,卵細胞の3自由度の回転操作法を提案し,フォトリソグラフィプロセスを用いて作製した微細電極をもつガラス基板を2枚用いる方法によって,卵細胞の3自由度の回転操作を実現している.

 第5章「ピペット型電極を用いた回転操作」では,微細ピペットの先端に取り付けた微小電極を用いて,卵細胞の回転操作を実現できることを示している.

 第II部では,新しく開発したレーザ加熱によるin-situ微細加工技術に関して述べている.この加工法は,パラフィンの上に薄く水をはった状態で,レーザをパラフィンに照射すると直径0.1mm程度で高さ1mmほどのパラフィンの円柱が形成されるという現象の発見を利用したものである.パラフィンの壁を空間内で任意の場所に形成できることにより,培養中の細胞周辺に流路やチャンバーなどを作製することが期待できる.そこで,これを検証するために作製したレーザ加工システムを第6章「実験装置」に纏めて示し,第7章「加工原理の実験的検証」で,種々の基本的な加工実験を行った.その結果,レーザによって融解される材料と,その周辺の液体の熱的なバランスによって微細構造に成長する材料内部に噴水流れが生じ,それによって微細構造が形成されることを明らかにした.

 第8章「本加工法の展開」では,この独創的な加工法の応用の可能性を実証するために種々の実験を行っている.レーザの照射方法によって,様々な形状の構造物を作製できる例として,傾斜した柱状の構造の作製を実現した.また,加工材料として,熱可塑性のプラスチック材料であるポリエチレンについても同様の加工を試み,突起状の構造物を作製できることを示している.そして,細胞ハンドリングシステムへの利用を目的として,液体で満たされた密閉空間での微小流路などの微細構造の加工を実現し,新加工法のμTASへの適用の有効性を証明している.

 本論文でなされた研究の成果である卵子の回転操作法は顕微授精の自動化に役立ち,また,レーザ照射による熱可塑性材料の柱や壁の形成法は,凸構造を形成できる革新的なレーザ加工技術であり,広く産業界で利用されることが期待でき,本論文の研究は精密機械工学と医療工学の分野の発展に貢献するところが大である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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