学位論文要旨



No 120076
著者(漢字) 隅谷,和嗣
著者(英字)
著者(カナ) スミタニ,カズシ
標題(和) X線回析によるAg/Si(111)表面の再構成構造とその相転移の研究
標題(洋)
報告番号 120076
報告番号 甲20076
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6018号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,敏男
 東京大学 教授 市川,昌和
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

 Si(111)表面の吸着原子による再構成構造は、基礎研究のみならず工業的な観点からも非常に注目され様々な研究がなされている。なかでもAg原子を吸着させた表面は、金属/半導体表面・界面の代表的な例であり、〜1ML程度の吸着量によるSi(111)-√3×√3-Ag、Si(111)-6×1-Ag構造といった超周期構造から、Si(111)-√3×√3-Ag表面上にさらにAgもしくはAuを吸着させたSi(111)-√21×√21-Ag構造やSi上のAg薄膜形成など、幅広く研究が進められている。そこで、このような表面構造においてその物性を理解し、さらに新たな物性を理論的に予測するために、こうした表面における正確な原子配列を知ることは必須である。

 本研究では、Ag/Si(111)表面・界面の形成において基礎となるSi(111)-√3×√3-AgおよびSi(111)-6×1-Ag表面について表面X線回折を用いた研究を行い、その表面構造を系統的に理解することを目的とする。またこの2つの表面は、いずれも温度に依存して相転移を起こすことが知られている。しかしこれらの相転移のメカニズムについては未知の部分が多い。本研究はAg/Si(111)表面の相転移現象にスポットを当て、その構造の変化から表面物性に関する知見を得ることを目指している。

1.Si(111)-√3×√3-Ag表面構造および相転移の研究

 Si(111)-√3×√3-Agはその構造相転移現象が非常に興味をもたれている表面構造の一つである。もともとSi(111)-√3×√3-Ag表面は、高橋らによる表面X線回折を用いた解析からHCT(Honeycomb-chained triangle)構造(図1(a))が提案され[1]、STM観察、電子線回折など他の実験結果もよく説明することから、この構造をとると考えられてきた。しかし近年、第一原理計算から、表面のAg原子のつくる三角形がわずかに回転してできるIET(Inequivalent triangle)構造(図1(b))がエネルギー的にHCT構造より安定であることが示され[2]、低温でのSTM観察によって低温ではIET構造をとっていることが裏付けられた。そこで現在、この相転移現象に興味が集まるとともに、再び室温での原子配列についても活発な議論が行われている。

 これまでに我々は表面X線回折を用いてSi(111)-√3×√3-Ag表面からの散乱強度の温度依存性を測定し、表面構造および相転移現象についての解析を行ってきた[3]。この結果50Kにおける表面構造がIET構造をとっていることが分かった。一方室温においてはむしろHCTモデルの方が実験結果をよく説明できることがわかった。また50Kでは、ロッキングカーブに鋭いBragg成分のほかに散漫散乱の成分が観測された。これは低温におけるドメイン構造を反映したものである。そこでその強度の温度依存性の測定から相転移温度はTc=150K、臨界指数β=0.27と求められた。またBragg成分の強度も転移点において温度因子の効果では説明のつかない変化が見られた。これは秩序・無秩序型の相転移では起こりえないことであり、この相転移が変位型の特徴を持っていることをうかがわせる。

 これをうけて本研究では各温度における表面構造を表面X線回折により得られた散乱強度分布から解析するとともに、散乱強度の温度依存性から構造の変化について検討を行った。特に転移点である150K付近の構造の変化およびそれに伴う散乱強度の変化に注目した。

 実験ではまず室温から50Kまでのいくつかの温度について散乱強度分布を測定し、これらについてそれぞれパターソン関数および最小自乗法を用いて構造解析を行った。パターソン関数によると50KではIET構造を反映してAg-Ag原子間ベクトルに対応するピークが2つに分かれている様子が観測された。またこの2つのピークは温度が上昇するにつれて1つに重なっていく。これはIET構造からHCT構造への相転移を示唆している。

 次に、HCT構造、IET構造をそれぞれ仮定して最小自乗法による解析を行った。モデルでは表面のAg原子の熱振動として非等方性調和振動を仮定した。解析の結果、相転移温度以下では温度が下がるにつれてAgの三角形の回転角が大きくなる傾向を示した。これは定性的には相転移においてAgの三角形が徐々に回転するという我々のこれまでの結論とよく一致する。一方で、転移温度である150K付近においても回転角は予想より大きな値を示している。このことはAgの三角形の回転角が我々の予想以上に狭い温度領域で起こっている可能性を示している。そこでさらに相転移温度に近い温度で強度分布を測定し解析を行うことで回転角の温度変化をとらえることが可能であると期待される。このためにはさらに精度の高い温度調節機構が必要であり、また測定中の温度の安定性にも非常に厳密なものが求められ、実験装置の改良を含めてさらなる研究・開発が必要である。

 一方、以前の実験において特定の指数の反射スポットの強度が相転移温度以下でDebye-Waller因子では説明のつかない変化を見せることが分かった。そこで本研究ではさらに複数の散乱スポット強度の温度依存性を測定した。図2は本研究で測定された(32)および(51)反射の散乱強度の温度依存性である。このように相転移温度以下において明らかに散乱強度が大きく増大している。このことはこの相転移によって原子位置が変化したことを示すものであり、変位型相転移を示唆している。

2.Si(111)-6×1-Ag表面構造解析

 Si(111)-6×1-Ag表面はSi(111)-√3×√3-Ag表面からAgを脱離させることにより作製される。この表面もSi(111)-√3×√3-Ag同様に興味深い温度依存性を示す[4]。室温では6×1構造であるが、200℃以上の高温においては3×1構造に変化するのである。また最近、100K以下の低温においてc(12×2)構造になるという報告もなされており[5]、2次元系の相転移研究の対象として面白い。

 この表面構造については、STM観察などから複数の構造モデルが提案されている。これらのモデルに共通する特徴は、Ag原子が直線状に配列し1次元鎖を形成している点である。このことからこの表面は1次元の物性を示すことが予想され、朝永・ラッティンジャー液体的性質などの特殊な電子相関効果を示す可能性がある。このような表面の物性を理論的に予測するためにはAg原子の配列だけでなく表面数層の変位したSi原子の配列まで精密に知る必要がある。

 本研究ではCTR(Crystal Truncation Rod)散乱法を用いて表面垂直方向の原子配列を、GIXD法を用いて表面面内方向の原子配列をそれぞれ解析することにより、表面の3次元的な構造を求めることを目的とした。

 CTR散乱の観測はPhoton FactoryのビームラインBL15B2およびSPring-8のビームラインBL13XUにおいて行った。BL15B2に設置してある回折計はGIXDの測定に最適化されたものであり、CTR散乱、特に00rodに沿った測定を行うためにはこれまでの装置では不十分であった。そこで我々はこの目的のため新規にマニピュレータの開発、作製を行った。Si(111)-6×1-Ag表面の作製のためには、Si(111)清浄表面作製のため基板を1200℃まで加熱できることが必要なため、試料加熱方法は直接通電加熱とした。また将来的に低温における測定が可能になるようHe循環式クライオスタットを用いて試料を約70Kまで冷却できるように設計した。これを用いてCTR散乱の測定を行った。

 図3は実際に測定された00rodに沿った散乱強度である。l=3,9はそれぞれ111、333のBragg反射に対応する。このBragg反射の前後において明確な非対称性が観測されている。これは基板からの散乱と表面のAg原子および変位したSi原子からの散乱波が干渉した結果であり、原子位置を特定する上で重要な手がかりとなる。

 そこで原子配列としていくつかのモデルを仮定し最小自乗法を用いた解析を行った。モデルはこれまでに提案されている構造モデルを参考にし、単位格子内にAg原子が2つ存在するとし、これに対して変位したSi原子の数と高さを変えたモデルを仮定し、それぞれフィッティングを行って結果を比較した。

 図3の実線は、モデルとして変位したSi原子を4つ仮定し、これらが同じ高さに存在するとした場合の結果である。このモデルが最も実験結果をよく説明することが分かった。このモデルはHCC(Honeycomb-chain-channel)モデル[6]とよく一致するものである。これに対し4つのSiが異なる高さにあるとしたモデルやSiの数を2つもしくは5つとしたモデルでは実験結果をうまく説明できなかった。

 原子の高さはAg原子が基板最表面のSi原子から3.0Å、変位したSi原子が2.3Åであった。この高さは、Si(111)-6×1-Ag表面作製のもととなるSi(111)-√3×√3-Ag構造におけるAgおよびSiの原子位置とほぼ同じである。このことから、Si(111)-6×1-Ag表面作製の際のAg原子の脱離によって表面原子の高さは変わっていないことが分かる。

 次に、GIXDの測定および解析結果について述べる。実験はSPring-8のビームラインBL13XUに設置してある超高真空槽付多軸回折計を用いて行った。

 図4は散乱強度から計算されたパターソンマップである。図の中央に強いピークが表れているが、このピークと原点を結ぶベクトルがAg-Ag原子間のベクトルに相当すると考えられる。そこで我々は実験結果に対し最小自乗法を用いて解析を行ってAg原子の位置について調べた。その結果パターソンマップと同様の結果が得られた。このことは3×1⇔6×1構造の相転移についての情報を与える。つまり図5のように表面のAg原子が変位したことを示唆するものである。

3.まとめ

 本研究ではAg/Si(111)表面構造、特にSi(111)-√3×√3-AgおよびSi(111)-6×1-Ag表面について表面X線回折を用いた解析を行い、その相転移現象について議論した。Si(111)-√3×√3-Ag表面の研究では、相転移のメカニズムについて変位型の特徴を持っているとするこれまでの考えを裏付ける結論を得た。一方でAgの回転角の変化の様子を明らかにするには装置の改良を含めたさらなる研究の必要があることが分かった。

 一方Si(111)-6×1-Ag表面については、CTR散乱法およびGIXD法を用いて3次元的な構造解析を行った。CTR散乱法による表面垂直方向の構造解析では表面のAg原子および変位したSi原子の基板からの相対位置が決定された。また構造モデルの評価によりHCCモデルが最も実験結果をよく説明することが示された。一方GIXD法による面内構造の解析からはAg原子の位置関係が示唆された。さらにこの結果から3×1構造と6×1構造がAg原子の変位によって相転移することが分かった。

[1] T. Takahashi et al., Jpn. J. Appl. Phys. 27 (1988) L753.[2] H. Aizawa et al., Surf. Sci. Lett. 429 (1999) L509.[3] 田尻寛男 博士論文 (2002).[4] Y. Goto et al., Jpn. J. Appl. Phys. 17 (1978) 2097.[5] K. Sakamoto et al., Phys. Rev. B 65 (2001) 045305.[6] S. C. Erwin et al., Phys. Rev. Lett. 81 (1998) 2296.

図1. HCTモデルとIETモデル

図2. スポットの散乱強度の温度依存性

図3. 00rodに沿った散乱強度分布

図4. Si(111)-6×1-Ag表面のGIXD測定から得られたパターソンマップ

図5. 3×1と6×1構造間の相転移の描像

審査要旨 要旨を表示する

 Si(111)表面上にAgを吸着させた表面構造は金属/半導体表面の代表的な系であり最も盛んに研究が行われている表面の一つである。なかでも本論文で取り上げているSi(111)-√3×√3-Ag表面およびSi(111)-6×1-Ag表面はAg/Si(111)表面・界面の形成において基礎となる表面であり、Si-Ag原子間の相互作用を知るうえで重要な情報を与えると期待される。またこの2つの表面はいずれも温度に依存して相転移を示すことが知られている。このような表面における相転移は表面物性の観点から近年活発な議論がなされている分野である。本研究ではこれらの表面構造を詳細に解析し構造を決定するとともに、構造の温度依存性に着目し相転移のメカニズムについて調べている。

 本論文は6章から構成されている。第1章ではAg/Si(111)表面における様々な超構造とそれらの見せる興味深い物性についての紹介が行われ、本研究の目的が述べられている。

 第2章では表面X線回折の原理とその特徴が述べられている。また表面X線回折を用いた構造解析の方法が説明されている。

 第3章では本研究で用いられた実験装置の詳細について記述されている。本研究はX線源として放射光施設Photon FactoryおよびSPring-8を利用して行われており、いずれにおいても超高真空槽と精密多軸回折計を組み合わせた、表面X線回折に特化された装置を用いている。また質のよい試料の作製、低温における相転移などの物性の研究といった広い温度領域での試料表面の制御のため、実験に先駆けてマニピュレータを新規に設計・作製している。

 第4章ではSi(111)-√3×√3-Ag表面の相転移について、特に相転移における表面構造の変化の様子について解析がなされている。そこでは散乱強度の温度依存性の測定からこの表面が変位型相転移の特徴を持っていることが示されている。さらに室温から50Kまでの各温度での表面構造が解析されている。その結果、相転移温度以上ではhoneycomb-chained triangle(HCT)構造、以下ではinequivalent triangle(IET)構造をとっていることが示されている。またこの相転移において、表面のAg原子の作る三角形の回転角の温度依存性が求められ、回転角がオーダーパラメータとなっていることが示されている。

 第5章ではSi(111)-6×1-Ag表面の構造解析が3次元的に行われた。実験手法としてGIXD(Grazing-incidence x-ray diffraction)法とCTR(Crystal truncation rod)散乱法を用い、表面面内方向と表面垂直方向の構造がそれぞれ解析されている。GIXD法による面内構造の解析では、表面のAg原子の配列が決定されている。また500K以上の高温において現れる3×1構造との比較が行われ、6×1構造と3×1構造の間の相転移がAg原子の変位によるものであることが提案されている。一方CTR散乱を用いた表面垂直方向の原子配列の解析では、Ag原子および再構成したSi原子の数と原子位置が決定されている。その結果を、これまでに提案されている構造モデルと比較して表面構造に関する考察がなされている。

 第6章ではSi(111)-√3×√3-Ag表面およびSi(111)-6×1-Ag表面について本研究で得られた実験、解析結果のまとめが行われている。

 本研究において独創的な点は、表面の原子配列を精密に決定しこれを相転移と関連付けて議論することで温度に依存した表面構造の変化を観測した点である。Si(111)-√3×√3-Ag表面の研究では低温で起こる相転移においてAgの回転角がオーダーパラメータであることをつきとめたことである。このように表面における変位型相転移が起こる系は他に報告がなく、本研究において初めて実験的に証明されたものである。またこの結果はSi(111)-√3×√3-Ag表面の相転移の機構に関するこれまでの議論に明確な道筋をつけるものであり非常に重要な結果である。またSi(111)-6×1-Ag表面の研究ではGIXD法とCTR散乱法により表面面内および垂直方向の原子配列がそれぞれ解析されている。Si(111)-6×1-Ag表面構造はこれまで決定されておらず、本研究において初めて詳細な原子位置に関する情報が得られたことになる。またGIXD法の結果から6×1構造と3×1構造の間の相転移に関する情報が得られており、この相転移における表面構造の変化を観測した報告としては本研究が最初である。これらの成果はSi(111)表面におけるAg原子の振る舞いを理解する重要な手がかりであり、半導体表面の物性研究に大きく貢献するものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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