学位論文要旨



No 120078
著者(漢字) 清水,俊彦
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,トシヒコ
標題(和) 高次高調波を用いたアルカリハライドのオージェ過程の研究
標題(洋)
報告番号 120078
報告番号 甲20078
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6020号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 黒田,和男
 東京大学 教授 志村,努
 東京大学 教授 辛,埴
内容要旨 要旨を表示する

 近年,フェムト秒のパルス幅を有する超短パルスレーザーは,超高速時間分解分光,及び高強度非線形過程の研究における光源として,ますますその重要性を高めている。特に,高強度レーザーと希ガスなど媒質の相互作用によって発生する高次高調波は,真空紫外・軟X線領域で超短パルス性・小規模・高繰返し性・波長可変性など数多くの優位な性質をもつ有望な光源として,盛んに研究され,固体分光・分子分光・プラズマ物理・アト秒パルス生成など広い分野で応用されている。

 本研究では、物性面での応用として、高調波励起によるオージェ過程の研究を行った。励起光源は真空紫外光なので、ある程度内殻レベルが浅い物質を選ぶ必要がある。アルカリハライドは十分高調波で励起が可能であり、放射光励起などの研究例の多いため、これを用いることにした。はじめに、オージェ過程の寿命を発光過程と共存するような特殊な系において測定した。内殻に生成された正孔の緩和を示す、発光の立ち上がり時間のエネルギーによって変わる様子を観測した。さらに発光寿命を測定し、その温度依存性を測定した。オージェ過程と共存する発光過程の寿命はオージェ過程の寿命とほぼ等しくなるため、それによりオージェ過程の寿命を測定したといえる。今回得られた、温度依存の結果を放射光により測定された低温における結果と合わせてフィッティングすることにより、高温極限におけるオージェ過程の寿命を決定した。その値は2.4 fsであった。高温極限では発光過程が抑制されるため、通常の物質におけるオージェ過程と同様になると考えられる。

 次に、このような特殊な系から一般的な応用のために、オージェ電子を直接測定することが必要となった。そこで、高調波を用いたオージェ電子の観測システムの設計・製作を行った。まず、光電子分光器の作成を行った。試料の設置スペースやスペクトルが一度に測定できるという利点から飛行時間型が目的に適していると考え、さらに電子収率をあげるために静電型電子レンズも作成した。光電子測定において、励起光が複数の次数が混在しているといくつものピークが現れるため、それを抑えるために次数選択を行わなければならない。このようにして、完成したシステムを用いて高調波による内殻励起によって、オージェ電子の測定に成功した。

 以下に、これらの研究の詳細を示す。

1. オージェ過程と発光過程が共存する系における、オージェ過程の測定

 高出力超短パルスレーザーの高次高調波は、その超短パルス性、波長可変性、時間的及び空間的コヒーレンスから、軌道放射光とは一線を画する真空紫外、軟X線領域の光源として期待を集めている。固体光電子分光ではこれまで可視域レーザー励起による価電子帯−伝導帯間の遷移に関するものが大部分であった。励起波長が真空紫外・軟X線領域に達すると固体の内殻電子を励起できるようになる。多くの場合、内殻正孔はオージェ過程により緩和する。オージェ過程は超高速現象であり、その寿命はスペクトルの線幅などから間接的に推測するしか今まではできなかった。しかし、フェムト秒レーザーを用いることでこれをより直接的に測定することが可能となる。

 オージェ過程の観測の1つのモデルとしてアルカリハライド結晶の一つであるCsBrを用いた。CsBrの内殻正孔緩和には輻射を伴う遷移と無輻射のオージェ遷移の2つの過程が存在する。低温ではバンドギャップが内殻-価電子帯間のエネルギーよりも大きいため、オージェ遷移は禁制遷移となる。しかし、温度が上昇するにつれUrbach tailが広がりオージェ遷移が一部許容になる。しかしながら、内殻準位‐価電子帯間の発光も存在する。輻射遷移の寿命はオージェ過程による緩和より長いため、発光の時間分解測定を行えばオージェ過程の寿命を知ることができる。このUrbach tailへのオージェ遷移の寿命の温度依存を測定し、フィッティングによりその高温極限を求めることに成功した。

 次に実験方法について説明する。内殻励起にはTi:Sapphireレーザーの高次高調波を使用した。寿命測定は差周波発生法で行った。まず、はじめに300Kにおける測定を行った。スペクトルには5eVと6eVにピークが現れている。これは電子ビーム励起により測られたものとよく一致している。このそれぞれのピークにおける発光の寿命を測定した。測定の結果、寿命はどちらも5psであった。高エネルギーバンドの発光は低エネルギー側の発光に比べ速やかに立ち上がっている。これはCsClでも同様の傾向が観測されており、それは以下のようなプロセスによるものと考えられる。内殻正孔が生成されるとクーロン力により格子が歪み正孔は新たな束縛状態へ緩和をする。価電子帯と内殻の歪みは同程度であるのでこのエネルギー差に相当する発光は励起直後から光り続けると考えられる。一方緩和後にも残存する連続準位への遷移も存在しており、これが低エネルギー側の発光になると考えられる。このエネルギーの発光は緩和するまで起きないため発光の立ち上がりがおそくなるものと考えられる。

 次に発光寿命の温度依存を測定した。サンプルの温度を320K、340Kに上昇させ、それぞれにおいて300Kのときと同様にして寿命測定を行った。300Kでの実験において、寿命はエネルギーに依存してないと言えるため5eVのピークでの発光に絞って測定した。寿命は320Kで2.5ps、340Kで1.5psであった。

 輻射遷移とオージェ遷移が共存するとき、観測される発光の寿命τ(T) はそれぞれの遷移の寿命を用いて以下のように書くことができる。

1/τ(T) = 1/τr + 1/τa(T)

τrは輻射遷移の寿命、τa(T) はオージェ遷移の寿命でこれは前に述べたように温度依存する。今回のオージェ遷移はUrbach tailへのものなのでその寿命はUrbach tailの吸収係数

A(E,T) ∝ exp[-σ(E0 − E)/kB T] を用いて

1/τa(T) = ( 1/τa0 ) × exp[-σ(E0 − Evc)/kB T]

となる。σはtailのsteepness因子、Eo はconverging energy、Evcは内殻準位−価電子帯間のエネルギーであり、これらはそれぞれ別の実験で求められた値を用いた。τaoはオージェ遷移の寿命の高温極限で、これをフィッティングにより求めた。その値は2.4 fsであった。なお、発光寿命の低温部のデータには軌道放射光による実験で求められたものを用いた。軌道放射光の300Kのデータは時間分解能の限界であると考えられるため、フィッティングからは除いた。

 高温極限ではバンドギャップが内殻-価電子帯間のエネルギーよりも小さい通常の物質のオージェ遷移と同等になると考えられる。NaFにおいては寿命が理論的に計算されておりそれは4.3 fsで同程度の大きさである。今回の実験は固体中のオージェ遷移の寿命の直接的な観測の初めてのものである。

2. 高次高調波励起によるオージェ電子の測定

 オージェ過程を共存する発光過程より観測する方法は、CsBrのようなバンドのエネルギー差が特殊な系が必要である。これをより一般的な物質で行うためにはやはりオージェ電子を直接観測する必要がある。そこで、高次高調波励起による、オージェ電子測定システムの開発を行った。

 まず電子測定のため飛行時間型光電子分光器を作成した。飛行時間型分光器はスペクトルが一度に測定できるという利点がある。分光器は飛行管、電子レンズ、ディテクターよりなる。飛行管と電子レンズを作成し、ディテクターとしてマイクロチャンネルプレートを用いた。

 高調波発生システムにも以下のような改良を行った。以前の実験では高調波発生のための媒質供給をガスフローで行っていた。しかし、これでは光電子分光に用いるディテクターの真空度に対する使用制限から、ガス濃度をある一定以上には上げることができず結果として高調波の光量の低下を引き起こす。そこで、ガスフローをパルスガスジェットに換え、さらに差動排気系を組むことでこれらの問題の解決を行った。

 発生した高調波はビームスプリッターにおいて基本波と分離されアルミフィルターにより低次高調波を落とし、金コートのトロイダルミラーによって集光していた。この方法には以下のような問題があった。ビームスプリッターは高次の高調波に対する反射率が低く、使用する予定であったサンプルの内殻励起をするのに不利であった。さらに、金コートトロイダルミラーは収差が大きく、反射帯域が広いため、分解能の低下や予期せぬ次数での励起による電子スペクトル構造の変化などの問題が予想される。これらを解決するために、ビームスプリッターを用いずにマスクと絞りによって基本波除去を行った。さらに集光強度を上げ、特定の次数のみを選ぶために誘電体多層膜凹面鏡を用いた。

 以上のような装置を用い、Sc/Siミラー(〜25eV)を用いてアルカリハライドであるKIのオージェ電子測定を行った。しかし、KIはオージェ電子の運動エネルギーが低いため、2次電子などの影響により観測ができなかった。そこで、Mo/Siミラー(〜47eV)を用いてより高エネルギーのオージェ電子を放出するNaClのオージェ電子スペクトル測定を行い、これに成功した。

 結論としては、高次高調波励起による固体試料のオージェ電子観測システムの開発に成功したと言える。超短パルス励起が可能のため、それを利用したオージェ過程に関する様々な実験が可能になったと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 近年,フェムト秒のパルス幅をもつ超短パルスレーザーは,超高速時間分解分光,及び高強度非線形過程の研究における光源として,ますますその重要性を高めている。特に,高強度レーザーと希ガスなどの媒質との相互作用によって発生する高次高調波は,真空紫外・軟X線領域で超短パルス性・小規模・高繰返し性・波長可変性など数多くの優位な性質をもつ有望な光源として,盛んに研究され,固体分光、分子分光、プラズマ物理、アト秒パルス発生など広い分野で応用されている。この論文では、高次高調波の物性面での応用として、高調波励起によるオージェ過程の研究について述べたものである。

 第1章は序論として研究の背景と高調波の歴史について説明している。ここでは、超短パルスレーザーの高次高調波は高い時間分解能を持つ真空紫外・軟X線領域の光源であり、これを用いることによりオージェ過程のような高エネルギー励起を必要とする超高速現象を直接的に測定することが可能となること述べられている。

 第2章は高次高調波の理論についての解説である。高次高調波発生は高強度レーザーを非線形媒質に入射させることによって起こる効果で、ここでは発生における理論を古典的な摂動論から量子論的な計算まで紹介している。

 第3章は内殻正孔の緩和過程についての解説である。高次高調波のような真空紫外光源を用いると物体の内殻を励起することが可能となる。この章では内殻励起とそれに伴う内殻正孔の緩和過程についての説明している。内殻正孔の緩和過程として、オージェ過程や格子緩和や輻射遷移があるが、これらが相互作用をする場合、その正孔のダイナミクスがどのようになるかを考察している。

 第4章および第5章は実際に行った実験とその考察であり、この研究の中核をなす。まず、第4章では、アルカリハライドの一つであるCsBrのオージェ過程の緩和時間の測定を行っているが、その測定方法は独創的な方法であった。CsBrは0Kではオージェ過程が禁制となり内殻正孔は輻射遷移で消滅するが、温度が上昇するとアーバックテイルとよばれるバンドの裾の効果によりオージェ過程が一部許容となり輻射遷移と共存するようになる。この状況で発光の寿命測定の温度変化測定を行うことによりオージェ過程の緩和時間の決定を行ったことについて述べられている。まず、立ち上がり時間の測定から格子緩和の様子が観測され、ついで発光寿命の温度変化が測定された。この発光寿命の温度変化を低温での放射光のデータと合わせてフィッティングすることにより高温極限でのオージェ過程の緩和時間、2.4 fsが決定された。高温極限ではバンドギャップが内殻-価電子帯間のエネルギーよりも小さい通常の物質のオージェ遷移と同等になると考えられ、CsBrに近い物質であるNaFでの理論的な計算値、4.3 fsとよく一致している。この実験は固体中のオージェ遷移の緩和時間の直接的な観測に初めて成功したものである。

 第5章では、高次高調波を励起光源とした固体のオージェ電子観測システムの開発について述べている。オージェ過程を共存する発光過程より観測する方法は、CsBrのようなバンドのエネルギー差が特殊な系で可能であったが、これをより一般的な物質で行うため高次高調波励起によるオージェ電子を直接観測するシステムの開発を行った。初めに測定のために作成した飛行時間型の光電子分光器について述べている。次いで、光電子分光システム全体について述べて、各注意点について説明している。実験は、まず分光器のテストを高調波スペクトルの希ガスのイオン化による測定を行い、集光や高調波発生のための媒質供給法の改良を行った後に、アルカリハライドの光電子分光を行っている。初めはKIの電子測定について述べている。しかし、KIでは低エネルギー帯に構造を持つ二次電子の影響のためにオージェ電子スペクトルが観測できなかった。そこで、より高いエネルギーを持ったオージェ電子が発生するNaClでの測定を行い、オージェ電子のスペクトルの観測に成功した。このような超短パルス・高強度の高調波励起によるオージェ電子分光システムが完成したことにより、今後オージェ電子の実時間分光や多光子内殻励起の実験などが可能となる。

 第6章では本論文のまとめを行っている。以上の内容からこの研究は今まで観測が困難であった内殻正孔のダイナミクス特にオージェ過程のような超高速過程の観測の道を切り開いたものであり、その意義は極めて大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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