学位論文要旨



No 120079
著者(漢字) 高本,将男
著者(英字)
著者(カナ) タカモト,マサオ
標題(和) 光格子を用いた高安定原子時計に関する研究
標題(洋)
報告番号 120079
報告番号 甲20079
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6021号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 香取,秀俊
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 古澤,明
 東京大学 助教授 三尾,典克
内容要旨 要旨を表示する

[研究の背景と概要]

 現在(1967年以降)、時間・周波数標準は、セシウム原子(133Cs)の基底状態2S1/2の超微細構造間マイクロ波遷移(F=4,mF=0→F=3,mF=0;9.2GHz)を用いて定義されており、定義に用いられているセシウム原子時計の安定度は、10-15のレベルに達している。このセシウム原子時計は、高度情報通信システム、衛星航法装置(GPS)等へのさまざまな応用がなされている。一方で近年、この高精度な時計を基礎物理学的な用途に用いようとする研究が行われている。そのひとつが、微細構造定数の時間変化(alpha variation)の検出への応用である。しかし、この変動を見るには、現在の安定度では不十分である。

 時計の安定度は、アラン分散σy= Δf / (f0 Nτ)で評価することができる。ここで、Δfは観測される遷移線幅、f0は遷移周波数、Nは単位時間あたりの観測回数、τは観測時間である。そのため、より安定度の高い時計を構成するためには、よりQ値(=f0/Δf)の高い遷移を参照として用い、その遷移をより高いS/N比(=√Nτ)で観測できればよい。また近年、光周波数コムの技術により、光の周波数(THz)をラジオ周波数(MHz)まで分周することができるようになった。つまり、光の周波数を電気的に読み出すことができるようになったため、参照する遷移に原子の光学遷移を用いることができる。f0としてマイクロ波に対し5桁高い光周波数を用いることにより、10-18レベルの安定度が期待されている。そのため現在の標準研究は、マイクロ波標準から原子の光学遷移を用いた光周波数標準へと移行しつつある。

 光周波数標準の研究では、これまでのところ、主に二つの手法がとられている。ひとつは、ラム・ディッケ束縛されたイオンを用いたもので、もうひとつは、自由空間中の中性原子集団を用いたものである。前者では、米国標準研究所(NIST)のグループにより、ラム・ディッケ束縛された単一水銀イオンを用い、光学遷移として最も細いスペクトルの観測(6.7Hz)が実現されている。しかしこの系では、イオン間の強いクーロン反発により多数個のイオンを同時観測することが困難なため、S/N比の観点で不利である。一方後者の自由空間中の中性原子集団を用いる実験では、106個もの原子を同時観測できるために、S/N比の観点からは圧倒的に有利であるが、プローブレーザー光の波面ゆがみにともなう残留ドップラーシフトや原子間衝突シフトの発生、また、観測時間を十分に長く取ることができないために、正確さの評価において問題を残している。実際、Hannover大学のマグネシウム原子を用いた実験では、106個の原子を用いることにより高いS/N比を実現しているが、観測された線幅は290Hz程度となり、Q値の面ではイオンに対し1〜2桁劣っている。

 そこで我々はこれらの改善のため、光格子中にトラップされた中性原子を用いる"光格子時計"のアイディアを提案した。光電場中において、原子はU(r)=-1/2αE(r)2で表されるシュタルクポテンシャルを受ける。ここで、αは分極率、Eは光電場である。そのため、分極率αが正の場合、原子は光強度の強いところにポテンシャルの極小を感じ、トラップされる。このような原子に対し、光を対向させ3次元的な定在波パターンを作ると、原子は定在波の腹に捕捉され、格子状に並ぶ。このとき、原子は光の波長より小さな領域に束縛される。この強い束縛により、原子の熱運動は量子化され、ドップラー効果を除去する事ができる(ラム・ディッケ束縛)。さらに、原子間の斥力相互作用を利用し、各格子点の原子を0もしくは1個とすることにより、原子間の衝突シフトを除去できる。以上により光格子に捕捉された計106個の原子を用いることにより、高Q値と高S/N比を両立させることができ、高安定な原子時計システムを構成することが可能となる。しかし、光格子中において高精度分光をするためには、光格子のトラップポテンシャルが摂動とならない様、以下に述べる光格子の最適化を行う必要がある。

[光格子トラップポテンシャルのキャンセル]

 光格子中の原子のスペクトルは、f=f0-(αe(ωL,εL)-αg(ωL,εL))/(2h) |E(r)|2と書ける。ここで、f、f0はそれぞれ観測されるスペクトルおよび原子の無摂動スペクトル、αg、αeは基底、励起準位の分極率、E(r)は光格子を構成する光電場である。この式からわかるように、光格子中の原子を観測したときに得られる原子のスペクトルには、無摂動の原子のスペクトルに対し、上下準位のトラップポテンシャルの差が現れる。このトラップポテンシャルは、トラップ光の波長および偏光に依存する。そこで、このパラメータを制御することにより、トラップポテンシャルの項をキャンセルできれば、光格子中にもかかわらず、無摂動の原子スペクトルが観測できる。

 しかし、偏光の三次元的な制御を高精度で行う事は現実的ではないため、偏光依存性の小さなJ=0→J=0を時計遷移として用いる。本研究では、ストロンチウム原子のフェルミ同位体87Srの5s2 1S0(F=9/2)-5s5p 3P0(F=9/2)(遷移周波数698nm、線幅1mHz)を時計遷移として用いる。時計遷移の上下準位である1S0、3P0準位における光格子ポテンシャルをトラップ光の波長に対し計算したものが図1である。1S0、3P0のシュタルクポテンシャルが、トラップ光の波長800nm近辺においてキャンセルすることがわかる。

[ストロンチウム原子フェルミ同位体87Srの冷却・トラップ]

 本研究では、一次元の光格子を形成した。光格子レーザーは、800nm近辺で200mW程度を用いた。このとき、トラップポテンシャルの深さは10uK程度となる。この光格子に原子を充填するため、原子を数uKまで冷却する必要がある。ストロンチウム原子では、許容遷移によるmKの冷却と禁制遷移を用いた冷却によりこれを実現できる。得られた原子は、温度が3uK、原子数は105個程度であった。

[時計遷移観測用高安定レーザーシステムの開発]

 時計遷移(1S0-3P0;l0=698nm;Δf=1mHz)において精密分光を行うため、半導体レーザーを用いて高安定レーザーシステムを開発した。通常半導体レーザーは単体で、数十MHz程度の線幅をもつ。そこで、レーザー素子に回折格子を用いた外部共振器を施すことにより、数百kHzから数MHzの線幅へと狭線幅化する。さらに、高フィネス共振器へのレーザーの周波数安定化を行い、Hzレベルの短期安定度を目標とした。共振器のスペーサーには、超低膨張率ガラスを用い、共振器を膨張率のゼロ点温度付近で温度安定化をすることにより、長期ドリフトも抑えた。安定度の評価は実際に分光して得られたスペクトルから評価した。短期線幅は20Hzで、長期ドリフトレートは0.1Hz/sであった。

[時計遷移の観測]

 自然幅1mHzの遷移を観測するため、

1. 十分強いプローブ光により時計遷移に飽和広がりを生じさせる

2. クエンチングにより上準位の線幅を広げる

3. シェルビングにより、量子効率を上げる

ことにより、時計遷移の観測を行った。図2が得られたスペクトルである。原子は、光格子中において強く束縛されているため、運動が量子化されることにより、スペクトルが離散化しているのがわかる。三本のピークのうち、中心のピークは振動準位を変えない励起、周波数の高い側、低い側がそれぞれ、振動準位を一つ上げる(Δn=+1)、下げる(Δn=-1)励起である。

[キャンセル波長の同定]

 計算から得られたように、時計遷移の上下準位のシュタルクポテンシャルは、光格子波長が800nm近辺であるときキャンセルする。この計算には、ストロンチウム原子のさまざまな準位間の遷移双極子モーメントのデータが必要となるが、過去の実験データには限りがあり、数%程度のずれがあるものと思われる。そこで本研究では、このキャンセル波長を遷移周波数のシュタルクシフトから、実験的に導いた。

 キャンセル波長においては、シュタルクポテンシャルの項がキャンセルするため、遷移周波数は光格子光強度に依存しない。キャンセル波長以外で光格子を構成した場合、シュタルクポテンシャルの項がキャンセルせず、遷移周波数は光格子光強度に対し比例するシュタルクシフトが付加される。遷移周波数を様々な光格子波長において測定したのが図3である。遷移周波数が光強度に対し一次の振る舞いをしていることがわかる。ただし、キャンセル波長付近で傾きが0となっていることがわかる。そこで、この傾きをプロットしたのが、図4である。このグラフのy=0とのクロス点から、キャンセル波長は813.42(1)nmであることがわかった。

[キャンセル波長における狭いスペクトルの観測]

 同定されたキャンセル波長で光格子を構成することにより、トラップポテンシャルの影響を受けない無摂動スペクトルの観測を行った。プローブ時間は40ms、プローブ光強度は飽和広がりがプローブレーザーの線幅と同程度となる強度でスペクトルを観測した。スペクトルを図5に示す。観測された線幅は、フーリエ限界であるが、プローブ時間を延ばしても線幅は変わらないため、プローブレーザー光の周波数ジッターによるレーザー線幅(20Hz程度)が、スペクトルの幅を制限していることがわかる。

[時計遷移の絶対周波数測定]

 光周波数コムを用いて、時計遷移をプローブしているレーザーの周波数をセシウム原子時計とリンクさせ、時計遷移の絶対周波数を測定した。また、セシウム原子時計は、GPSを用いて国際標準時と比較することによりオフセット周波数のキャリブレートをしている。図6が、得られた測定値である。全測定値を重み付き平均することにより時計遷移の絶対周波数f0=429,228,004,229,952(10)Hzが得られた。本研究では、光格子中にトラップされた原子を用いる高安定原子時計を提案し、実際に有用であることを示した。得られた結果をまとめると、以下のようになる。

 光格子中において、時計遷移(自然幅1mHz)のスペクトルを観測した。時計遷移の上下準位におけるシュタルクポテンシャルをキャンセルする光格子レーザーの波長を実験的に導いた。得られたキャンセル波長を用い、時計遷移の超精密分光(スペクトル線幅 27Hz)を行った。光周波数コムおよびGPSを用いて国際原子時(TAI)とリンクすることにより、時計遷移の絶対周波数を決定した。

[まとめと本系の今後の展望]

 本系における今後の課題として、本研究では一次元光格子を用いたため、衝突シフトが生じてしまうが、三次元光格子への拡張、もしくはフェルミ統計性を利用した衝突シフトの抑制を行うことにより、衝突シフトの抑制は可能である。また、本研究においても衝突シフトの測定を行ったが、今回用いたプローブレーザーの線幅では有意なシフトは得られなかった。衝突シフト等のわずかなシフトの影響を議論するためには、さらなるプローブレーザーの安定化が必要になるものと思われる。また、二光子共鳴による高次のシュタルクシフトも光格子時計の安定度に大きな影響を与えるため、その大きさを実験的に見積もる必要がある。実験的には、光格子に捕捉される原子数のシーケンスごとのふらつきが観測のS/N比を大きく落としているため、原子数のキャリブレートを行う必要がある。最後に、本研究で得られた結果から既存のスキームに対しあと1〜2桁と迫る安定度が得られ、さらに上述の改善を行うことにより、光格子時計は光周波数標準でもっとも有望な系となるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 高精度な原子時計は、全地球測位システム(GPS)精度の向上や将来の高速大容量通信ネットワーク等、工学的に重大なインパクトをもつだけでなく、物理定数の測定精度向上、さらにはそれら基礎定数の恒常性の検出等、基礎物理学の検証に大きな威力を発揮する。現在SI単位系の"秒"は、セシウム原子基底状態、超微細準位間の9.2 GHzのマイクロ波吸収によって定義されており、このセシウム原子時計のもつおよそ14〜15桁の精度がすべての時間計測の測定精度の限界を支配している。マイクロ波の代わりに、100万GHzにもおよぶ周波数をもつ近赤外から紫外に渡る光の吸収を使えば、同一観測時間で5桁の安定度向上が期待されることから、高安定な光時計実現に向けた議論は数十年にわたってなされてきた。この光時計実現の上での大きな困難は光周波数の電気的計測法の欠如であったが、この数年間に急速な進歩を遂げた可視光周波数とラジオ周波数を直接つなぐフェムト秒モード同期レーザーによる光周波数の分周技術によってこの困難が解決され、光標準研究の本格的スタートの機は熟した。

 現在、光標準研究は10-18の安定度を到達目標として進んでいるが、その手法面では伝統的な2つの手法、「レーザー冷却された中性アルカリ土類原子集団を対象としたラムゼー分光」と、「ラム・ディッケ束縛された単一イオンの無反跳分光」で行われている。両手法とも技術的には完成しその限界が見えつつあるにもかかわらず、新たな分光法の発想を拒んでいたのは、「被観測原子への摂動の排除」という標準研究の伝統に支えられた大原則であった。本研究では、巧みな摂動の印加により両手法の特長を両立させる新たな分光手法「光格子時計」について理論的検討を加えるとともに、ストロンチウム原子を用いた分光計測を行うことで、光格子時計の実現可能性についての詳細な実験的検討を行っている。

本論文は以下の7章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、研究の背景として、原子時計の現状および現在行われている光周波数標準の研究、さらに論文の研究課題である光格子時計の背景について述べている。さらに、原子時計の高性能化を行う動機の一つとして、光周波数標準を用いた微細構造定数の時間変動検出の研究の現状について言及している。

第2章では、光格子を用いた原子時計の原理について述べている。ドップラーシフトを抑制する原子の精密分光の手法として、ラム・ディッケ束縛された原子のスペクトルについて述べ、光格子にトラップされた原子ではこのラム・ディッケ束縛条件が満たされ、多数原子を同時に精密分光できることを示している。また、光格子ポテンシャルの光格子レーザー波長、偏光、磁気副準位依存性を計算することにより、精密分光を行う上で必要となるパラメータの算出、および摂動の大きさを示している。

第3章では、ストロンチウム原子フェルミ同位体の冷却・トラップ実験について述べている。光格子へ原子を捕捉するために必要となる実験装置、光源、実験スキームを示し、光格子に捕捉された原子の個数および温度の評価を行っている。

第4章では、時計遷移の超精密分光を行うために必要となる高安定半導体レーザーシステムの開発、およびその安定度の評価について述べている。レーザーの安定化に用いた高フィネス参照共振器のQ値の評価、参照共振器のジッター低減のための防音、防振、および狭スペクトル線幅レーザーの伝送に伴う光ファイバの位相雑音の補償について詳述している。これらによって達成されたレーザー線幅・安定度の評価には、2台の安定化レーザーのビート信号を用い、短期線幅〜20Hz、長期ドリフト25Hz/sをもつことを示している。

第5章では、光格子中での時計遷移の分光実験について述べている。前章で述べられた高安定化レーザーを用い、(1)原子の光格子中での振動スペクトルの観測およびそのスペクトルによる原子の温度評価、(2)光格子ポテンシャルキャンセル波長の同定実験、さらに、(3)そのキャンセル波長を用いた精密分光によるスペクトルの観測について述べている。

第6章では、光周波数コムを用いた時計遷移の絶対周波数計測について述べている。絶対周波数を計測するため、光周波数コム、GPSによりストロンチウム原子の時計遷移の周波数をTAI(世界原子時)とリンクする実験手法について説明した後、計測に用いたセシウム時計から精度よく絶対周波数を定めるための実験手法について説明している。また、最終的な不確定性の要因についての詳細を示している。

第7章では、まとめと本系における今後の展望について述べている。今後の課題として、衝突シフト、2光子共鳴による高次のシュタルクシフトの評価、観測光源の安定度の向上、原子数の校正等を挙げている。

以上のように、本研究は光格子時計の手法をストロンチウム原子に適用し、その詳細な実験的検討を行っている。この結果得られたスペクトル線幅27Hzは、ここ10年以上更新されることがなかった中性原子のラムゼー分光を用いた光時計のスペクトル線幅300Hzを一桁以上改善したのみならず、時計安定度においても単一イオンを用いる光時計を凌ぐレベルになっていることを示した。また、SI単位の1秒を基準として原子の遷移周波数を14桁の精度で決定し、この光格子時計の手法が次世代の原子時計として、有効な手法であることを国際的にも認知させた。本研究は、このような20年来の光標準研究の方向性に大きな変革を迫る実験成果を提示している点で意義があり、物理工学の発展への寄与は大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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