学位論文要旨



No 120080
著者(漢字) 武井,宣幸
著者(英字)
著者(カナ) タケイ,ノブユキ
標題(和) 量子エンタングルメントスワッピングの研究
標題(洋)
報告番号 120080
報告番号 甲20080
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6022号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 古澤,明
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 志村,努
 東京大学 助教授 香取,秀俊
内容要旨 要旨を表示する

 現在、次世代の情報処理技術として量子情報処理が盛んに研究されている。情報処理に量子力学的効果を取り入れることによって、従来の情報処理の性能を大きく上回ることが期待されている。その量子的効果の中核となるのは、量子エンタングルメントである。量子エンタングルメントとは複数の系からなる全系の状態をそれぞれの系に分けて記述できないことを指し、各系の間には非局所的な相関が存在する。量子情報の研究において、そのエンタングルメントを生成・制御することは最も重要な課題の一つである。この量子エンタングルメントを積極的に活用することにより、量子テレポーテーションなどの新たな通信技術が研究されている。

 量子テレポーテーションとは、未知の量子状態を量子エンタングルメントと古典通信を用いて転送するプロトコルであり、原理的には量子状態の完全な転送を可能とする。量子テレポーテーションは、量子エンタングルメントの生成・制御とベル測定という量子情報における重要な技術を含むため、量子情報処理の中核技術と捉えることができる。このプロトコルには、2準位系などのいわゆる量子ビットで行うものと、連続変数で行うものがあり、どちらも実験で検証されている。量子ビットを扱う場合に比べ、連続変数の場合には量子エンタングルメントの生成とベル測定を高い効率で容易に行うことができるという利点がある。本研究ではその利点に注目し、連続変数での量子テレポーテーション実験を行う。

 連続変数のテレポーテーションは、位置と運動量といった共役物理量に対して提案された。これまでの実験は、量子光学の手法を用いて、光の量子状態を扱うことで実現されてきた。それは、光の直交位相振幅、あるいはcos成分とsin成分が共役物理量と見なせるからである。量子テレポーテーションは入力状態として任意の量子状態を転送することができるが、これまでは実験的な容易さからコヒーレント状態のみが転送されてきた。量子テレポーテーションの成功を検証するために、入出力の状態がどの程度等しいかを評価するフィデリティFという量が定義されている。入力が純粋状態|ψin〉の場合は、出力が一般に混合状態ρoutになるとして、F=〈ψin|ρout|ψin〉と表される。Fは0から1の間の値をとり、F=1が完璧なテレポーテーションを表す。量子エンタングルメントを用いずに古典的に達成できる最大値を古典限界と呼び、コヒーレント状態を転送する場合は、F=0.5であることが示されている。これまでに報告されている最も高い値は0.64であるが、本研究ではこの値を更新し、さらに質の良いテレポーテーション実験を行うことが重要と考える。

 本研究では、次の段階として非古典的な状態の一つであるスクイーズド状態を入力として選び、量子テレポーテーション装置が非古典的な入力状態に対しても適切に動作するかどうかを検証することを考えた。実験で得られるスクイーズド状態は、損失のために混合状態となるため、混合状態としての扱いと考察が必要となる。さらに本研究では、非古典状態を入力する次の段階として、エンタングルした状態を転送する実験を行い、量子エンタングルメントという量子的な相関が量子テレポーテーション過程において保存されることを検証することを考えた。この量子エンタングルメントのテレポーテーションは、量子エンタングルメントスワッピングとも呼ばれ、量子情報処理において最も重要なプロトコルの一つである。本研究の目的は、この量子エンタングルメントスワッピング実験を行うことである。

 量子テレポーテーション実験を行う上での鍵は、量子エンタングルメントの生成・制御である。この量子エンタングルメントの概念はEinstein, Podolsky, Rosen (EPR)らによって議論されたために、(2者間で)エンタングルした状態はEPR状態と呼ばれる。本研究では光の直交位相振幅を用いてEPR状態(光を用いるので以後EPRビームと呼ぶ)を生成する。そのようなEPRビームは、直交位相成分がスクイーズされた真空場を2つ用意し、それらの相対位相を90度にしてハーフビームスプリッター(HBS)で合波することで生成できる。本研究では、スクイーズされた真空場を、光パラメトリック発振器(OPO)を閾値以下で駆動することによって生成する。その際、非線形光学結晶としてニオブ酸カリウムを使い、タイプIの温度位相整合を行う。波長860nmのCWチタンサファイアレーザーの出力から、外部共振器で第2次高調波を発生させ、OPOの励起光とする。

 量子テレポーテーションの実験系を右図に示す。ここでは、送信者アリスが受信者ボブへある量子状態(in)を転送し、検証者ヴィクターが出力(out)を評価するとする。まず初めに前述の方法でEPRビームを生成し、その片方Aをアリス、もう片方Bをボブに配ることによって、アリスとボブで量子エンタングルメントを共有する。アリスは入力状態(in)と自分のEPRビームAをHBSで重ね合わせ、そのHBSからの2つの出力に対してそれぞれ直交した位相成分をホモダイン測定する。このアリスが行う操作を(連続変数での)ベル測定と呼ぶ。アリスは測定結果を電気信号としてボブに送り、ボブはその情報を元にして自分のEPRビームBにユニタリー変換を行う。それは連続変数の場合、位相空間での変位に対応し、電気光学変調器(EOM)と高反射ミラーを用いて行うことができる。最後にヴィクターは、ボブからの出力をホモダイン測定し、量子テレポーテーションの成功を検証する。

 本研究では、非古典的な入力として、スクイーズされた真空場の転送実験を行った。実験では3つめのOPOを製作しスクイーズされた真空場を生成し入力状態とした。まず真空場を転送し、出力側に基準となる量子ゆらぎを決める。次にスクイーズされた真空場を転送し、スクイーズされた位相では、出力の量子ゆらぎが基準の量子ゆらぎを下回ることを観測した。これは、スクイーズという非古典的性質が確かに転送されたことを示している。しかしながら、出力された量子ゆらぎは本当の真空場のゆらぎよりは小さくなっておらず、真の意味でスクイーズされた出力を得るには至らなかった。また、本研究で用いたスクイーズド状態は、損失などのために混合状態となっている。入力状態を混合状態として古典限界を求めるとF=0.73となり、量子テレポーテーションではF=0.85を得た。よって、古典限界を越えているため、スクイーズド状態の量子テレポーテーションに成功したと言える。純粋状態である普通の真空場は、古典限界F=0.5に対し、テレポーテーションではF=0.67を得た。このように純粋状態よりも混合状態の方がフィデリティ、特に古典限界が高い。したがって、混合状態の方が転送しやすいと考えることができる。

 さらに本研究では、入力状態として量子エンタングルメントを転送する、つまり量子エンタングルメントスワッピング実験も行った。EPRビームの片方を転送してボブから出力した状態と、アリスの手元に残っているEPRビームのもう片方の状態の量子相関を調べる。もし相関が観測されれば、量子テレポーテーションが量子相関を転送する能力を持つことを検証することができる。実験では、4つのOPOからスクイーズド光を生成し、2つのペアのEPRビームを生成する。referenceモードとinモードから成るEPR1と、AモードとBモードから成るEPR2である。EPR2を量子テレポーテーションのリソースとしてアリスとボブで共有し、inモードを入力状態とする。このとき、量子テレポーテーションによって、入力状態は出力モード(out)へ転送される。その結果、referenceモードとout(あるいはB)モードがエンタングルするようになる(上図を見るとoutモードは元々Bモードである)。したがって、referenceモードとinモードの間のエンタングルメントが、referenceモードとBモードの間に移る。よってEPR1とEPR2の間でエンタングルメントがスワップされた形になるため、このプロトコルを量子エンタングルメントスワッピングと呼ぶ。注目すべき点は、referenceモードとBモードは全く相互作用していないことである。ゆえに、このプロトコルによって、相互作用のない離れた2点をエンタングルさせることが可能になる。また、ここで用いたテレポーテーションの実験系はスクイーズド状態を転送した時から改良を加えており、この実験系でコヒーレント状態を転送したところ、フィデリティ0.70を得た。

 本研究では、量子光学の手法を用いて、連続変数での量子テレポーテーション実験を行った。特に非古典状態を入力とした実験では、その非古典性がテレポーテーションの過程で保存されることを検証した。スクイーズド状態を転送する実験では、スクイーズド状態の非対称な量子ゆらぎが転送されていることを検証した。また、混合状態に対するフィデリティを使用して実験を評価し、古典限界0.73に対し量子テレポーテーションでは0.85を得た。量子エンタングルメントの転送実験では、量子エンタングルメントが維持されることを検証した。このテレポーテーションの系を用いてコヒーレント状態を転送したところ、フィデリティ0.70を得た。今後の課題として、さらにフィデリティの高い実験を実現することが挙げられる。特にスクイーズド状態の転送に関して、出力側でもスクイーズさせることが課題である。また、本研究に用いた実験手法を用いて、量子情報処理のより高度なプロトコルの検証実験を行うことが考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 近年、次世代の情報処理技術として量子情報処理が盛んに研究されており、量子力学的効果を情報処理に取り入れることによって従来の情報処理の性能を大きく上回ることが期待されている。その量子情報処理の研究において、量子エンタングルメントという非局所的相関を生成・制御することが最も重要な課題の一つである。その量子エンタングルメントを積極的に活用した技術の一例として、量子テレポーテーションという新たな通信技術が挙げられる。本研究は量子光学の手法を駆使し、特に連続変数を扱う系において、その量子テレポーテーションの研究に取り組んだものである。

 量子テレポーテーションとは、未知かつ任意の量子状態を、量子エンタングルメントと古典通信路を用いて転送する技術である。本研究では共役物理量である光の直交位相振幅を連続変数として扱い、既に報告されているコヒーレント状態の転送実験を発展させ、さらに非古典的状態であるスクイーズド状態の転送、および量子エンタングルメントの転送、つまり量子エンタングルメントスワッピングの実験を行うことを目的とした。これらの非古典状態の転送を検証した実験から、量子テレポーテーション実験の検証方法について新しい知見を得たものである。

本論文は以下の7章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、量子情報処理および量子テレポーテーションに関する研究など、本研究の背景について紹介し、これらを踏まえた上で本研究の目的を示し、さらに本論文の構成について述べている。

第2章では、量子テレポーテーション実験を行うために用いた量子光学の基礎とその実験手法について述べている。まず電磁場を量子化し、それから得られる光の量子状態を整理している。次にそのような量子状態の一般的な操作方法および測定方法を解説している。次に本研究で用いるスクイーズド状態の生成理論について解説し、さらにその生成実験の詳細を説明している。

第3章では、本研究で行った量子テレポーテーションについてその基礎事項を述べている。まず、量子エンタングルメントの性質について述べ、その実験における生成方法および検証方法を説明している。次に、量子テレポーテーションの理論的枠組み、および4章から6章で述べる各々の実験に共通する事柄についての詳細を解説している。さらに、量子テレポーテーション実験の検証に用いるフィデリティという指標と、量子エンタングルメントを使用しない場合の古典限界の概要を説明している。

第4章では、光のコヒーレント状態を入力とした量子テレポーテーション実験について述べている。まず系が不完全な場合の実験についての詳細な解説をし、それから後の章にも共通する古典通信路の製作について述べている。本研究では、実験系を安定化し量子エンタングルメントの相関の度合いを改善することにより、これまでに報告されたフィデリティの最高値0.70を実現している。純粋状態であるコヒーレント状態に対してフィデリティ2/3を越えることは量子情報処理の分野において安全面などから重要な意義があり、その値を越えている実験系を構築している。

第5章では、非古典的な状態であるスクイーズド状態を入力とした量子テレポーテーション実験について述べている。本研究では量子テレポーテーション装置がスクイーズド状態という非古典的な入力に対して適切に動作し、その非対称な量子ゆらぎが転送されることを検証している。また、実験で得られるスクイーズド状態はその生成過程の損失から一般に混合状態となるため、既存のフィデリティではなく混合状態に対するフィデリティを導入して古典限界を議論している。その際に純粋状態から少しでも混合状態へ移行した場合に、古典限界の値が急激に増加することからフィデリティを成功基準とすることへの問題点を挙げている。

第6章では、量子エンタングルメントを入力状態とした量子テレポーテーション実験、つまり量子エンタングルメントスワッピング実験について述べている。本研究では、この実験を通じて量子エンタングルメントという非局所的相関が量子テレポーテーション過程において維持されることを検証している。特に量子テレポーテーションの意義を任意の状態の転送であると考え、それを達成できる条件において実験を検証している。さらにここではフィデリティを用いずに量子テレポーテーションを評価しており、既存の検証とは異なる方法で実験を評価できることを見出している。

第7章では、本研究の結果をまとめ、最後に課題と今後の展望を述べている。

 以上のように、本研究は量子光学の手法を駆使して連続変数での量子テレポーテーション実験を行った。コヒーレント状態の転送においては実験系を改善しフィデリティ0.70とこれまでの最高値を得た。次に非古典状態であるスクイーズド状態の転送を検証した実験から、混合状態に対するフィデリティの問題点を見出した。さらに量子エンタングルメントスワッピング実験において、量子エンタングルメントがテレポーテーション過程において維持されることを検証した。また、フィデリティを用いずにその実験を評価し既存の方法とは異なる角度から実験を検証した。これらの研究は、量子テレポーテーション実験を改善し、また非古典的な量子状態を転送・検証すると共に、その実験において異なる評価方法を与える新たな知見を与えた点で重要な意義があり、物理工学の発展への寄与は大きい。

よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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