学位論文要旨



No 120115
著者(漢字) 菅野,望
著者(英字)
著者(カナ) カンノ,ノゾム
標題(和) 近赤外線吸収分光法によるヒドロペルオキシラジカル自己反応の速度論的研究
標題(洋)
報告番号 120115
報告番号 甲20115
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6057号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 大島,義人
 東京大学 助教授 三好,明
 東京大学 助教授 戸野倉,賢一
内容要旨 要旨を表示する

 ヒドロペルオキシラジカル(HO2)の自己反応HO2 + HO2 → H2O2 + O2は,大気化学,燃焼場における主要な過酸化水素(H2O2)生成源の一つと考えられている.成層圏大気中においてH2O2は紫外光による光分解反応によりOHラジカルを生成するため,成層圏オゾン破壊プロセスの一つであるHOxサイクルのリザーバと見なされている.対流圏大気中においてOHはOH + COなどの反応を通しHO2を生成する.HO2はNOとの反応によりOHを再生するが,この反応と競合するHO2自己反応により生成するH2O2は容易にエアロゾルや雲滴へ取り込まれ,雨と共に地表へ流される.このためHO2自己反応は対流圏大気中のHOx種の濃度に影響の大きい反応と考えられる.燃焼場においてHO2自己反応は連鎖停止過程と見なせるが,高温または高圧において生成したH2O2の熱分解反応H2O2 (+M) → OH + OH (+M)が進行する条件においては,これら二つの反応により反応活性の低いHO2から反応活性の高いOHが生成する縮退連鎖分岐過程と見なせる.このようにHO2自己反応はHO2の消費のみならずH2O2生成過程として重要な反応である.

 このように様々な分野で重要な反応であるため,HO2自己反応の速度定数に関する研究は数多くなされている.常圧付近の速度定数は800 K付近で極小となる非アレニウス型の温度依存を示すことが報告されている.特に室温付近では圧力に依存する傾向が確認され,化学活性化反応であると考えられている.HO2自己反応速度は水やメタノール,アンモニアにより促進される傾向が確認されており,これらの効果は化学活性化反応における中間錯体との衝突によるエネルギー移動効率のみでは説明できないほど大きい.このためHO2との水素結合錯体が反応に関与していると考えられている.みかけのHO2自己反応速度定数において水素結合錯体生成反応の平衡定数と水素結合錯体の反応速度定数の相関が大きいため,みかけの自己反応速度定数の水濃度依存のみから各素過程の平衡定数,速度定数を決定することは難しい.従来のHO2に関する反応速度論の研究では,220 nm付近の波長を用いた紫外吸収分光法が用いられている.HO2の220 nm付近の吸収帯は吸収断面積が大きく高感度検出が可能であるが,前期解離性の遷移に由来する回転構造を持たない吸収帯であるため選択的な検出は困難である.そこで本研究では1.43μm付近に存在する回転構造を持つ振電吸収帯である第一電子励起状態への電子遷移を用いてHO2を選択的に検出し,反応速度測定とは独立にHO2-H2O錯体生成の平衡定数を決定することで,HO2自己反応における水による促進機構について速度論的検討を行うことを目的とした.

 上述のような研究目的に沿って,レーザー光分解/近赤外光周波数二重変調分光法を用いたHO2検出装置を新たに製作した.近赤外域のHO2の吸収帯は吸収断面積が小さく,通常の吸収分光法による検出は困難であるため,周波数二重変調分光法とヘリオット型多重反射セルを併用し,感度の向上を図った.検出用近赤外光を599.8 ± 2.6 MHzで変調し,検出器で検出される光電流中の5.2 MHzの成分を検波することで吸収スペクトルの二次の差分スペクトルに相当する信号を得た.HO2の生成にはCl2/CH3OH/O2/N2混合気体へのNd:YAGレーザー第三高調波による光分解法を用いた.

 実際に製作した装置を用いてHO2の第一電子励起状態への電子遷移吸収帯の過渡変調スペクトル,H2O2のv1 + v5結合音吸収帯の吸収スペクトルを測定した.得られたスペクトルを比較することで,これらの化学種がお互いの干渉を受けずに選択的に検出可能な吸収線を選別した.選別されたHO2,H2O2の吸収ピーク位置に検出用近赤外レーザー周波数を固定し,HO2自己反応によるこれらの化学種の濃度の時間変化を測定した.H2O2の生成速度はHO2の減衰速度と一致し,HO2自己反応の直接生成物としてH2O2が検出されていることを確認した.

 HO2吸収線形の窒素及び水分圧依存から,吸収線形の窒素及び水による圧力広がり係数を決定した.本研究で得られた水による圧力広がり係数は窒素によるものよりも大きく,窒素希釈で全圧を一定に固定した計測において,水を大量に添加すると吸収線幅が増加する傾向が確認された.測定した圧力広がり係数から回転緩和を伴う衝突断面積を推算し,HO2と水及び窒素の遠距離相互作用は,水の場合では双極子−双極子相互作用が,窒素の場合では双極子−四重極子相互作用が支配的であることを示した.窒素希釈全圧50 Torrの条件で水を添加すると,変調スペクトルから復元したHO2吸収スペクトルのピーク面積は水濃度の増加と共に減少する様子が確認された.HO2吸収ピーク面積の水濃度依存からHO2 + H2O 〓 HO2-H2O錯体生成反応の平衡定数を見積もった.

 窒素希釈全圧50 Torrの条件で,みかけのHO2自己反応速度定数の水濃度依存を測定し,HO2のピーク面積から決定したHO2-H2O錯体平衡定数と併せてHO2 + HO2反応,HO2 + HO2-H2O反応の速度定数を推算した.近赤外吸収分光法を用いたHO2の選択的な検出によりHO2-H2O錯体平衡定数をHO2自己反応の速度論とは独立に決定することが可能となり,HO2 + HO2-H2O反応の速度定数をより正確に見積もることが可能となった.得られた速度定数の温度に対する依存は小さく,HO2 + HO2-H2O反応もHO2 + HO2反応と同様な化学活性化反応であることが示唆された.得られた速度定数はHO2 + HO2反応よりも一桁程度大きく,HO2自己反応の水による促進効果はHO2-H2O錯体の生成とその迅速な反応により説明可能であることを示した.また既往の量子化学計算による反応ポテンシャルエネルギー曲面の報告例と比較し,HO2 + HO2-H2O反応速度がHO2 + HO2反応速度よりも一桁程度早い要因として,三重項状態における中間錯体と第三体の衝突によるエネルギー移動効率が増加している可能性,一重項遷移状態の安定化に伴うトンネル効果の寄与などが考えられる.

 水の添加に伴い,HO2の生成直後の信号強度,H2O2の反応完結時の信号強度が減少する傾向が確認された.これらの傾向は水の添加に伴う吸収ピークの圧力幅の増加による変調信号検出感度の低下および検出化学種の濃度の減少により引き起こされる.化学種の濃度の減少はHO2に関してはHO2-H2O錯体生成によるものと考えられ,H2O2に関してはH2O2-H2O錯体生成及びHO2自己反応におけるH2O2生成収率の水濃度依存を反映している可能性もある.HO2に関してはスペクトル測定から検出感度の変化,HO2-H2O錯体生成の寄与を実際に確認した.今後H2O2に関しても同様の測定を行い,これら二つの寄与が推算できればHO2自己反応におけるH2O2生成収率の水濃度依存を見積もることが可能であり,HO2自己反応の水による促進機構についても更なる検討が可能になると考える.

 本研究において得られた室温におけるHO2-H2O錯体生成の平衡定数,HO2 + HO2-H2O反応の速度定数をもとに,大気化学への影響を簡単に推算した.297 K, 湿度50%の大気中においてHO2-H2O錯体の平衡濃度はHO2の二割程度であり,大気中に数pptv程度存在すると予測される.この条件においてHO2自己反応により消費されるHO2の中で,HO2 + HO2-H2O反応による寄与はHO2 + HO2反応による寄与の1.5倍程度であり,HO2 + HO2-H2O反応生成物に関する情報が有用となることが示唆された.

 本研究では近赤外域に存在する回転構造を持つ振電吸収帯を用いたHO2の選択的検出によって,HO2-H2O錯体生成反応の平衡定数を反応速度測定と独立に決定することが可能であり,HO2-H2O錯体の関与する反応に関して速度論的検討できることを示した.HO2自己反応以外にも,幾つかのHO2の化学反応において水による促進効果が確認されている.本研究と同様の手法により,このような促進効果をHO2-H2O錯体の化学反応として検討することが可能となる.HO2-H2O錯体は大気中において数pptv程度存在すると予測され,HO2 + HO2-H2O反応速度はHO2 + HO2反応速度よりも一桁程度大きいことが確認された.このことからもHO2-H2O錯体の反応は大気化学においても重要であると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「近赤外吸収分光法によるヒドロペルオキシラジカル自己反応の速度論的研究」と題し、大気化学及び燃焼化学において重要となるヒドロペルオキシラジカル自己反応の水添加効果について反応速度論的な知見を得ることを目的とし、6章からなっている。

 第1章では、既往の研究をまとめた上で、これまでに推定されているヒドロペルオキシラジカル自己反応速度の水による促進機構を説明し、この機構に関する具体的な情報が少なく、反応素過程の検討が必要であることを指摘している。特に従来ヒドロペルオキシラジカルの検出に用いられる第二電子励起状態への電子遷移を利用した紫外吸収分光法ではヒドロペルオキシラジカルの選択的な検出は難しかったが、第一電子励起状態への振電遷移を利用した近赤外吸収分光法により水錯体と区別したヒドロペルオキシラジカルの選択的な検出が可能になるとしている。

 第2章では、本研究の実験において採用した周波数二重変調分光法、多重反射セルなどの原理について簡潔にまとめ、本論文の目的にあわせて設計・製作した実験装置の概略についてまとめている。

 第3章では、実際に製作した実験装置の性能評価について述べている。ヒドロペルオキシラジカル、重水素化ヒドロペルオキシラジカルの過渡変調スペクトル及びヒドロペルオキシラジカル自己反応の主生成物である過酸化水素の吸収スペクトルを測定し、適切なレーザー周波数を選択することでヒドロペルオキシラジカルと過酸化水素をそれぞれ独立に測定可能であることを示している。また、ヒドロペルオキシラジカルの検出限界を見積もり、実験条件の選定を行っている。

 第4章では、ヒドロペルオキシラジカル過渡変調スペクトルの窒素、水分圧依存を測定した結果が述べられている。ヒドロペルオキシラジカルの吸収線の窒素及び水による圧力幅の増加から、圧力広がり係数を測定し、窒素について既往の報告との比較を行っている。水による圧力広がり係数は本論文において初めて測定され、窒素による圧力広がり係数よりも大きいとしている。このことから、窒素により希釈された全圧一定の条件において水を大量に添加した際、吸収線幅が増大し、ヒドロペルオキシラジカルの定量には変調信号強度ではなく吸収ピーク面積を評価する必要があることを示している。測定された圧力広がり係数をもとに、回転緩和を伴う衝突の衝突断面積を評価し、ヒドロペルオキシラジカルの圧力広がりにおいて、窒素の場合は双極子―四重極子相互作用が、水の場合には双極子―双極子相互作用が支配的であると結論している。また、水を添加した実験における吸収ピーク面積の変化から、250-350 Kにおけるヒドロペルオキシラジカル−水錯体生成の平衡定数を見積もっている。熱力学第二法則による解析により得られた水錯体生成反応の反応エンタルピー(-31 kJ mol-1)は水素結合エネルギーの二倍程度であり、このことからヒドロペルオキシラジカル‐水錯体は、量子化学計算により予測されているような水素結合を二つ有する五員環構造であることを示唆している。

 第5章では、ヒドロペルオキシラジカル自己反応速度の水による促進効果について検討している。ヒドロペルオキシラジカル自己反応速度の水による促進機構として水錯体の生成とヒドロペルオキシラジカルと水錯体の反応を仮定し、第4章において得られた水錯体生成反応の平衡定数を用いて、ヒドロペルオキシラジカルと水錯体の反応速度定数を297-350 Kにおいて見積もっている。得られた速度定数は水が存在しない系のヒドロペルオキシラジカル自己反応速度定数に比べ一桁程度大きく、水錯体の生成と後続反応によりヒドロペルオキシラジカル自己反応が促進されるとしている。本研究で得られた平衡定数を用いて対流圏大気中のヒドロペルオキシラジカル‐水錯体の存在量を見積もり、下部対流圏大気化学においてヒドロペルオキシラジカル‐水錯体の反応が重要となる可能性があるとしている。

 第6章は研究の総括であり、測定により得られた知見と未解決の問題点を整理し、今後の展望を述べている。ヒドロペルオキシラジカル自己反応の水による促進効果に関して更なる検討を進めるためには、生成物である過酸化水素の収率を定量的に評価することが重要であるとしている。

 以上要するに、本論文はヒドロペルオキシラジカル自己反応速度の水による促進機構を理解する上で重要な反応素過程の詳細を近赤外吸収分光法によるヒドロペルオキシラジカルの選択的な検出により明らかにして、ヒドロペルオキシラジカル‐水錯体の平衡定数、ヒドロペルオキシラジカルと水錯体の反応性に関して信頼できる新しい知見を加えたものであり、化学システム工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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