学位論文要旨



No 120123
著者(漢字) 藤ヶ谷,剛彦
著者(英字)
著者(カナ) フジガヤ,ツヨヒコ
標題(和) 超分子化学的アプローチからのスピンクロスオーバー錯体の設計と機能
標題(洋) Supramolecular Approach to the Design and Functions of Spin-Crossover Complexes
報告番号 120123
報告番号 甲20123
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6065号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 加藤,隆史
 東京大学 助教授 橋本,幸彦
 東京大学 講師 金原,数
内容要旨 要旨を表示する

【1】緒言

 集積型金属錯体はその多様な電子・光学・磁気的性質から、近年高い関心を集めている。特に、高・低スピン状態を転移するスピンクロスオーバーマテリアルはスピン状態の転移により磁気的性質や色が変化することから、分子スイッチ、メモリー、ディスプレー材料などへの応用が期待されている。本研究では、「相転移に連動したスピン状態の転移」の実現を目的とし、スピンクロスオーバーソフトマテリアルの開拓に挑戦した。これまでに様々なスピンクロスオーバーマテリアルが合成されているが、ほとんどはハードマテリアルであり、それらのスピン転移を外部環境の変化に応答させることは容易ではない。この意味において、本研究は概念的に新しい磁性材料の設計指針を提供するものである。

【2】自己組織化による新規なスピンクロスオーバーソフトマテリアルの創製と相転移によるスピン状態の制御(1)

 トリアゾールは鉄(II)に配位/架橋し、一次元多核金属錯体ポリマーを与えることが知られている。本研究では、長鎖アルキル鎖を有する一連の新しいトリアゾールリガンドを分子設計し、多核金属錯体ポリマーを基本コンポーネントとする「新規なスピンクロスオーバーソフトマテリアル」の開拓を目指した。

 長鎖アルキル鎖を有すベンゼンカルボン酸と4-アミノ-1,2,4-トリアゾールとのカップリング反応により、長さの異なるアルキル鎖を有する一連のトリアゾール(Cntrz; n = 8, 12, 16)を合成し、アスコルビン酸を含むTHF中、これらのトリアゾールとFe(ClO4)2・xH2Oを室温にて反応させ、目的の鉄(II)錯体((Cntrz)Fe; n = 8, 12, 16)を得た。IR、EXAFS(広域X線吸収微細構造測定)、元素分析から、得られた鉄(II)錯体が、6つのトリアゾールが鉄(II)に配位した構造からなる直鎖状配位ポリマーであることを明らかにした(Scheme 1)。

 (C8trz)Fe、(C12trz)Fe、(C16trz)Feはいずれもトリアゾール配位子のみに見られたDSCピークを示さず、0-30 ℃の温度範囲に新たな吸熱ピークを一つだけ示した(Figure 2)。温度可変FT-IR測定により、このピークは組織化したアルキル鎖の融解に対応していることが分かった。これらのサンプルを氷浴につけると、高スピン状態を示す白色から低スピン状態を示すピンクへと色が変化した。このような昇温/降温操作による色の変化は何度も繰り返すことができた。SQUIDにより磁化率の変化から、DSCのピークに対応する室温付近で材料が高スピン状態から低スピン状態へと転移することを明らかにした(Figure 3)。以上の結果から、DSC測定で観測されたピークは「アルキル鎖の融解過程」と「スピンクロスオーバー過程」の両方に対応していることがわかる。スピン状態の転移温度は、アルキル鎖が長くなるに連れて徐々に高温側にシフトした。即ち、アルキル鎖の長さにより相転移温度が変化し、それに連動してスピン状態の転移温度も変化する。スピン状態の転移をこのように精密に制御可能な例はこれまでにほとんどない。設計の柔軟性から、分子構造中に光/電子機能性ユニットを導入することも容易であり、新たな磁性複合機能材料への展開が期待される。

【3】スピンクロスオーバーデンドリマーの創製と機能(2)

 外側に長鎖のアルキル基を有する世代の異なるデンドリマー鎖をトリアゾールに導入し、それらから一連の鉄(II)錯体を合成し、スピンクロスオーバー現象に与えるデンドリマー組織の効果を検討した。その結果、デンドリマーの大きさがスピン転移に著しく影響することを明らかにした。

 鉄(II)-デンドリマートリアゾール錯体 (Lntrz)Fe(n = 1-3)は室温ではすべて紫色であり、鉄(II)-トリアゾールポリマー鎖が低スピン状態にあることが分かる。事実、紫外・可視吸収スペクトルを測定したところ、550 nmに鉄(II)の低スピン状態のd-d遷移に由来する特徴的な吸収極大が観察された。さらに、これらの錯体を加熱すると、高スピン状態に転移し、紫色は消失した。すなわち、(Lntrz)Fe(n = 1-3)はスピンクロスオーバー機能を有するデンドリマーである。

 鉄(II)-トリアゾール錯体からなるポリマー鎖の両末端にある鉄イオンは常に高スピン状態を維持することが知られており、そのために、材料が低スピン状態の時においても、ポリマー鎖が短い場合は磁性が残留する。この事実を利用し、低スピン状態における(Lntrz)Fe(n = 1-3)の残留スピンから、鉄(II)-トリアゾールポリマー鎖の繰り返しユニットの数(重合度m)を算出した。その結果、(L1trz)Fe、(L2trz)Fe、(L3trz)Feの重合度はそれぞれ20、10、3であると見積もられた。この結果は、元素分析の測定結果からも支持された。すなわち、デンドリマー組織が大きくなるにつれて、鎖の長さは短くなると結論される。

 さらに詳しい検討から、低スピン状態から高スピン状態への「スピン転移の急峻さ」もデンドリマー置換基の大きさに大きく依存することが分かった。Figure 5に示すように、(L1trz)Feと(L2trz)Feはともに昇温過程においてスピンクロスオーバーに由来する明確なDSCピークを示すが、(L2trz)Feの転移はより狭い温度範囲で起こる。DSCからスピンクロスオーバーに伴うエントロピー変化 〓Sを見積もった。〓Sは通常は40-80 J mol-1 K-1程度である。(L1trz)Feの場合、この値は47 J mol-1 K-1であった。これに対して、より急峻なスピン転移を示す(L2trz)Feは、240 J mol-1 K-1という破格に大きなエントロピー変化を示した。このような大きなエントロピー変化は、(L2trz)Feの低スピン状態が、磁性組織体中の無数の「鍵」によって維持されていることを示唆している。従って、低スピン状態から高スピン状態への急峻な転移においては、それらの「鍵」が一挙に解放し、組織全体の構造的な自由度が増大する必要がある。

 XRDを測定したところ、いずれのサンプルも低角側に強い回折ピークを示した(Figure 6)。特に(L2trz)Feはヘキサゴナルカラムナー相に帰属される回折パターンを示し、鎖同士がヘキサゴナルに集積してカラムを形成していることが明らかになった。詳しい検討から、(L2trz)Fe の場合、ユニットセル内に約2.8個のデンドロンユニットが存在することが示唆された。すなわち、カラム状集積体のユニットセル内にはL2trzの配位子がちょうど3つ入る空間が存在していることになる。(L1trz)Feでは4.3、(L3trz)Feでは1.6と見積もられた。従って、(L1trz)Feの場合はユニットセルが3つの配位子では満たされず、逆に(L3trz)Feの場合はユニットセルが配位子3つを収納することは難しい。

  (L2trz)Feからなる組織体中では、L2trz配位子がユニットセルをきれいに充填し、カラム内におけるデンドリマー組織間の強い相互作用を促していると考えられる。低スピン状態を安定化している無数の「鍵」として機能し、高スピン状態への急峻なスピン転移をもたらしている。

 以上、本研究では、デンドリマーユニットを有するはじめてのスピンクロスオーバーソフトマテリアルが設計された。適切な大きさのデンドリマーを用いるとカラム内のポリマー間の強い分子内相互作用によりスピン状態の急峻な転移が実現できることが明らかとなった。

【4】スピンクロスオーバーゲルの創製(3)

 長鎖アルキル鎖を有する鉄(II)-トリアゾール錯体[(C12trz)Fe、カウンターアニオン:CnSO3-; n = 1、8、12、16]はヘキサンやドデカンなどの非極性溶媒をゲル化させ(約0.5 mg/mL)、透明な物理ゲルを与えることを見いだした。室温ではこれらのゲルは紫色を呈し、低スピン状態にある。ゲルを加熱すると、ゲルからゾルへの相転移が起こり、同時に低スピン状態が高スピン状態へと転移した。昇温/降温操作によるこのようなゾル-ゲル相転移とスピン転移は可逆であり、何度も繰り返すことができた。この現象は、長鎖アルキル鎖を有する鉄(II)-トリアゾール錯体が溶液中においてもポリマー構造を維持し、それらが自己組織化によりファイバーを形成することを示している。興味深いことにゲル中のスピンクロスオーバーは固体中より急峻であったことから高い協同効果が発現していると考えられる。

 この高い共同性を生かして光によるスピンクロスオーバーの実現を検討した。これまでに、ハードなスピンクロスオーバーマテリアルに関しては、極低温において金属イオンを直接励起しスピン状態を転移させた報告はある。しかし、常温での光照射によるスピンクロスオーバーの例は皆無である。今後は、上記のスピンクロスオーバーゲルに着目し、光異性化ユニットを配位子やカウンターイオンとして導入し、室温における光誘起スピンクロスオーバーの実現を検討した。ゲルはデリケートな力で相転移を起こす可能性があり、室温におけるスピンクロスオーバーの可能性は高い。

(1) T. Fujigaya, D. -L. Jiang, T. Aida, J. Am. Chem. Soc. 2003, 125, 14690-14691.(2) T. Fujigaya, D. -L. Jiang, T. Aida, submitted.(3) T. Fujigaya, D. -L. Jiang, T. Aida, in preparation.

Scheme 1. Synthesis of (Cntrz) Fe (n = 8, 12, and 16) and spin crossover triggered by phase transition.

Figure 2. DSC profiles of (Cntrz) Fe (n = 8, 12, and 16) on (A) second cooling and (B) second heating at a rate of 5 K min-1.

Figure 3. Magnetic susceptibility profiles of (A) (C8trz)Fe, (B) (C12trz)Fe, and (C) (C16trz)Fe.

Scheme2. Synshesis of dendritic Fe-triazole complexes (Lntrz) Fe (n = 1-3).

Figure4. Magnetic susceptibility profiles of (A) (L1trz) Fe, (B) (L2trz) Fe, and (C) (L3trz) Fe upon heating and cooling.

Figure5. Differential scaming calorimetry (DSC) profiles of (A) (L1trz)Fe and (B) (L2trz)Fe.

Figure6. XRD profiles of (Lntrz)Fe"(n =1-3) recorded at 297K. (inset:a magnified spectrum of asmall angle region of (L2trz)Fe).

審査要旨 要旨を表示する

 金属錯体の中には2つのスピン状態、すなわち低スピン状態と高スピン状態とをともに持ちうるものが知られている。それらをスピンクロスオーバー錯体と呼んでいる。それらにおいては2つのスピン状態を加熱、加圧、光照射などの様々な刺激に応答させて変換させることが可能であり、さらに2つの状態においては色、磁化率、体積など様々な変化を伴うことからマルチインプット、マルチアウトプットのマテリアルとして応用が期待されている。

 本研究では、スピンクロスオーバー現象を起こすことが知られている鉄トリアゾール一次元高分子錯体についてソフトマテリルの融合と機能開拓について検討している。

 第0章では研究の背景、研究目的について述べている。この現象においては配位子間の相互作用によって急峻なスイッチングを僅かな刺激によってドミノ的に起こすことがあることが知られており、配位子間の相互作用が需要であることが述べられている。しかし、この現象のもつ魅力的な性質に対し、加工性の乏しさ、材料特性の制御の困難さから実用には至っていないと言う問題点を指摘している。

 第1章では、長鎖アルキル鎖を有するトリアゾール配位子からなる鉄トリアゾールスピンクロスオーバー錯体において集積したアルキル鎖の相転移によってスピン状態を制御すると言う興味深いアプローチを提案している。スピン転移に伴い、配位空間の大きな体積変化およびひずみの状態の変化が起こることが知られている。本論文ではこの知見に基づき、配位子に導入したソフトマテリアル間の相互作用を利用し配位空間の大きさの制御、すなわちスピン状態を制御することを提唱している。その結果として本章では配位子に導入したアルキル鎖間の相互作用により配位空間の小さな低スピン状態を安定化させることを報告している。すなわちアルキル鎖の結晶状態が低スピン配位空間を安定化させ、転移温度を高温部まで安定化させたことを報告している。さらにアルキル鎖集積体の結晶-溶融相転移はアルキル鎖の長さにより異なるために鎖長を替えることで転移温度をコントロールできたことも報告している。このアプローチはソフトマテリアル導入による溶解性の向上、すなわち成形性の改善と同時に性質の制御を同時に可能にした全く新しいアプローチであると報告している。

 第2章では、配位子間の長距離的な相互作用を実現し第一章においては実現できなかったスピン状態の急峻な変化を実現したことを報告している。配位子間の効率的な相互作用を実現させるためにお互いの大きな重なりが期待できるデンドリマーを導入したデンドリマー鉄トリアゾール錯体について報告している。その結果適度な広がりを有し、鉄トリアゾール一次元錯体の外周部に密にパッキングして集積するG1デンドロンを導入した錯体において急峻な変化を実現したことを報告している。この知見はソフトマテリアルにおいても十分に単結晶のような格子を形成させることが可能でフィルム状態における光誘起スピン転移が引き起こせる可能性を示唆していると述べている。

 第3章では、長鎖アルキル鎖を有する配位子に加え長鎖アルキル鎖を有するカウンターアニオンを導入した鉄トリアゾール錯体高分子について炭化水素系溶媒におけるゲル形成を報告している。興味深いことにスピン転移に伴いゲル状態は溶液状態に転移することも報告している。この原因については低スピンから高スピンに転移する際、配位構造の変化が一次元鉄トリアゾール錯体の棒状構造に歪みをもたらし、高次構造の秩序の乱れにつながるためだと述べている。さらに固体中と異なりゲル中においては変化が可逆的であると述べている。従来溶液中においてスピン転移は緩やかに起こるとされているがこの系においては固体中よりもさらに急峻な変化を与え、協同性は失われるばかりか増大していると報告している。また過去の報告などからこの転移は水素結合ネットワークの崩壊に誘起される形で起こると推察され、実際に配位子、水、カウンターアニオンからなる水素結合の存在を赤外分光から明らかにしている。この事実を利用して水素結合を弱める働きを持つアルコール分子を添加したところ添加量によってスピン転移温度およびゾルゲル転移温度をコントロールできたと報告している。この結果は水素結合を制御できる分子を添加することでスピン状態を室温に置いても制御できる可能性を示しており、加工性、実用性を兼ね備えたスピンクロスローバー材料の構築に先鞭をつけた研究であると述べている。

 第4章では、本論文の総括と展望を述べている。

 以上、本論文は長鎖アルキル鎖を有する配位子からなるコアシェル型鉄トリアゾール一次元スピンクロスオーバー錯体においてスピン状態を超分子化学的アプローチ、すなわち長鎖アルキル鎖、デンドリマーなどの弱い相互作用で集積した秩序構造によりスピン状態を制御するという全く新しい方法論を構築しスピンクロスオーバー材料の発展に寄与するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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