学位論文要旨



No 120130
著者(漢字) 本間,健
著者(英字)
著者(カナ) ホンマ,タケシ
標題(和) 感覚代行を目的とした触覚ディスプレイの生体工学的研究
標題(洋)
報告番号 120130
報告番号 甲20130
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6072号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊福部,達
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 助教授 福島,智
 東京大学 助教授 広田,光一
 東京大学 助教授 井野,秀一
内容要旨 要旨を表示する

 皮膚感覚を利用した情報伝達の研究は,聴覚や視覚に障害をもつ人たちの感覚代行方法の一つとして古くから進められてきている.1960年代以降では,指先皮膚表面に多数の振動ピンを配置した触覚ディスプレイを使用し,そのピンの振動パターンや凹凸パターンの刺激によって,音声や文字などを伝える試みが数多く行われた.しかし,従来の触覚ディスプレイに用いられてきた刺激は,単一周波数振動を用いたものが主で,質的に単純であり,伝達できる情報量も限られていた.

 本研究では,触覚による感覚代行の中でも聴覚の代行を想定し,触覚ディスプレイにおける伝達情報量をどこまで増加させ得るかを追求している.とくに多様な触感を惹起させるような触覚刺激を作り,音声の持つ質的情報も伝達できるようにするための基礎的研究を生体工学的な視点に基づいて行った.

 多様な触覚刺激をヒトに提示するには,振動振幅・振動周波数成分・波形・位相・時間ゆらぎといった触覚刺激パラメータを正確に制御でき,広い周波数帯域で皮膚に刺激を提示できる小型のアクチュエータを開発する必要がある.さらに,そのアクチュエータを用いて皮膚変形パターンを任意に制御するためには,指先上の部位や押し付け方の違いによるアクチュエータの振動伝達特性の変化を正確に把握する必要がある.しかし,現在まで,上記の2点の要求を満たすような触覚ディスプレイ用小型アクチュエータの設計を目的とした研究は皆無であり,声質などのノンバーバル情報を提示する手段も無かった.

 本研究では,まず,刺激対象である皮膚の機械特性を機械インピーダンスという指標を用いて,生体力学的な観点から定量的に調べた.その結果から,触覚ディスプレイに利用する小型の圧電アクチュエータで指先皮膚に効率的に振動刺激を与えるためのシミュレーションモデルを構築した.さらに,そのシミュレーション結果を踏まえて,ヒト指先の皮膚特性に整合した触覚ディスプレイ向けの圧電アクチュエータの設計製作を行った.製作したアクチュエータは,多様な触感を惹起させることができるように,従来のものより広帯域の周波数振動を指先に提示することができる.

 次に,このアクチュエータを使ってマルチチャンネルの二次元触覚ディスプレイを製作した.評価実験としては,触覚において音声の韻律情報を伝達することを目的とし,声質情報を触感情報に,また,声の高さ(ピッチ)を振動部位の違いに変換することを想定し,以下の心理物理実験を行った.

 まず,触覚刺激の振動周波数と振動波形の変化により,どのように触感が変化するかを調べた.また,これら触感の変化による伝達情報量の増加を定量的に測定し,触感情報を付加することにより伝達情報量を増加させられることを示した.また,実験で得られた触感をどのように声質情報と対応づけるべきかについて考察を行った.さらに,ピッチ変化に対応する刺激部位の移動速度をどこまで弁別可能かを実験により調べ,どの程度まで抑揚や音程の情報を伝達できるかを考察した.以上の結果から,本研究で提案する触覚ディスプレイが,聴覚代行,とくに韻律情報を伝達させるために有用であることを示すことができた.

 本研究の一連の試みは,とくに,触覚の質において単純であった感覚代行分野の全般,そして,それ以外の触覚情報伝達へも応用できると考えられる.とくに,視覚障害者や盲ろう者において,点字・触図などを通じた文字や形状の伝達という観点で触覚は重要な役割を担っている.そこに,本研究で提案した触覚の質的情報の提示を加味することによって,より豊富で理解しやすい情報の伝達が可能となると考えられる.さらに,バーチャルリアリティやテレイグジスタンス,一般用途のヒューマンインタフェースにおいても,本研究の成果が応用できると考えられる.

 以下に,各章の要約を述べる.

 第1章では,本研究の背景と目的について概説した.

 第2章では,本研究に関連した従来研究を紹介し,現状の感覚代行技術における課題を明らかにし,その課題の中での本研究の位置付けを述べた.第一に,従来の感覚代行技術の多くが,単純な質の触覚刺激を用いており,伝達情報量に限界があったことを示した.第二に,皮膚感覚の視点から考えて,広帯域振動を利用し,触覚刺激の振動周波数や波形パターンなどを増やすことによって,伝達情報量を増加させられる可能性があることを述べた.第三に,広帯域振動刺激を提示する触覚ディスプレイを製作するためには,皮膚機械インピーダンスを定量的に把握した上で,触覚ディスプレイで使用するアクチュエータの動特性をシミュレーションで推定する必要があることを述べた.

 第3章では,触覚ディスプレイの設計に際して必要となる,指先皮膚の機械インピーダンスの計測を行った.方法としては,ヒト指先皮膚に対し,触覚ディスプレイで一般に使用するピンを用いて正弦波振動を与え,その際の皮膚表面にかかる力と変形速度の関係から,機械インピーダンスを求めた.その結果,指先皮膚の機械特性は,バネとダンパからなる非線形なモデルで表現できることが分かった.さらに,実験条件によって機械インピーダンスの大きさが変化することを明らかにした.たとえば,刺激部位の差異により機械インピーダンスの大きさは約2倍の変動を示した.また,機械インピーダンスの大きさは,指先に加える押し付け力にほぼ比例した.以上のように,さまざまな実験条件において,指先皮膚の機械インピーダンスを定量的に把握した.さらに,ここで測定した機械インピーダンスが,皮膚が過渡的な変形を示した場合でも適用できることを確認した.

 第4章では,第3章で得られた指先皮膚の機械インピーダンスの測定結果を利用し,圧電バイモルフアクチュエータにより指先皮膚に振動を与える際のシミュレーションモデルを構築した.さらに,このモデルを利用したシミュレーションを行い,広帯域で指先皮膚に振動刺激を提示でき,かつ振動振幅の周波数特性が平坦で,皮膚変形パターンを正確に制御できるような触覚ディスプレイ用圧電アクチュエータの設計を行った.第一に,ヒトの皮膚の振動感覚特性を考えると,振動を感じることができる周波数帯域は1000Hzまでであり,振動閾値は低周波数域において大きく,10Hz以下においては約50μmp-pである.これより,アクチュエータ設計の際の条件としては,1000Hzまでの振動帯域において指先皮膚に50μmp-p以上の振動振幅を提示でき,かつ,圧電アクチュエータの共振周波数が1000Hzより十分に高くなるように設計した.第二に,この設計条件を満たす圧電アクチュエータ寸法を決定するため,圧電アクチュエータで指先皮膚に振動を与える場合を模擬したシミュレーションモデルを利用し,さまざまな寸法のアクチュエータにおける指先皮膚の周波数-振動振幅特性を計算した.その結果より,前述の設計条件を満足する圧電アクチュエータの寸法を洗い出し,その寸法に従って実際に圧電バイモルフアクチュエータを製作した.さらに,この開発したアクチュエータを使い,実際に指先皮膚に振動を与える実験を行った結果,設計どおりの広帯域振動提示が可能であることを確認した.

 第5章では,音声の韻律情報を触覚で伝達することを想定し,触覚知覚特性の心理物理実験を行った.第一に,音声ピッチ周波数を振動部位の位置情報に変換することを想定し,音声ピッチ周波数の変化に対応する振動部位の移動速度の弁別閾を測定した.その結果,比較的速度が遅く長時間継続するような移動刺激では,その速度変化が弁別しやすいものの,刺激時間が短時間で高速になるにつれて,弁別が困難となることが分かった.この結果と,過去に報告されている振動の二点弁別閾の測定結果を合わせて,指先で弁別できるピッチ情報の量を考察した.第二に,声質変化に対応して,振動周波数と振動波形による触感の変化を評価した.この実験においては,第4章で製作した広帯域振動型アクチュエータを使った触覚ディスプレイを使用した.まず,単一ピンの振動による触感の弁別実験を行い,触感の伝達情報量を測定したところ,振動周波数の変化によって約2bit,振動波形の変化によって約1bitの伝達情報量の増加が見込めることが分かった.つぎに,マルチチャンネルの二次元触覚ディスプレイを使い,振動周波数を低周波数(25Hz)から高周波数(400Hz)まで段階的に変化させた場合,振動波形を正弦波(25Hz)から段階的に矩形波へ近づけた場合によって,どのような触感の変化が得られるかを被験者に回答してもらった.その結果,周波数変化,波形変化のいずれの場合も,連続した触感の変化が得られた.さらに,声質の印象因子と触感の対応付けについて考察し,得られた触感により伝達できる声質情報の範囲を実験により調べた.以上の結果より,広帯域振動刺激によって,より多くの触覚情報を伝達できることが確認され,とくに韻律情報を伝達させるために有用であることを示すことができた.

 第6章では,本論文の結論と今後の課題・展望について述べた.次の課題としては,本研究で提案した韻律情報伝達が,聴覚障害者において音声識別や発声訓練にどこまで有効かを調べるとともに,聴覚障害者の触覚・音声の認知特性を考慮した補助機器へ発展させる必要性を述べた.他分野への応用としては,聴覚以外の感覚代行分野のほか,触覚情報通信やバーチャルリアリティなどの分野が考えられ,これらの分野においても本論文で提案した触感提示やアクチュエータ設計手法が生かされると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では,視覚や聴覚に障害をもつ人たちに対して,それらの情報を皮膚感覚を通じて伝達する感覚代行技術に着目し,触覚刺激の質的情報を利用することで,より伝達しうる情報量を増加させる方法を提案している.とくに,従来ほとんど行われてこなかった音声の韻律情報の伝達に焦点をあて,声質情報を触感情報に,音声ピッチ周波数情報を触覚刺激位置に変換する方法を提案し,心理物理実験を通じ,どの程度の韻律情報を触覚によって伝達しうるかを論じている.

 触覚の質的な情報を効率的に伝達するためには,その触覚ディスプレイの設計において,広い周波数帯域の振動刺激を提示できることが重要である.しかし,これまでの研究では,このような触覚ディスプレイを効率的に設計する手法が存在しない.そのため,本論文では,まず,指先皮膚の機械特性をさまざまな接触条件下で精密に測定した上で,触覚刺激用アクチュエータで指先皮膚に振動を与える状況を自在に模擬できるシミュレーションモデルを提案している.そして,このモデルを利用したシミュレーションの結果を踏まえて,指先皮膚の機械特性に整合し,広帯域の振動刺激を提示できる小型圧電アクチュエータを製作している.さらに,このアクチュエータを用いた触覚ディスプレイを利用して,音声の韻律情報と触覚情報の対応を探る心理物理実験を行い,皮膚感覚を介した韻律情報の新しい伝達方法について考察している.

 本論文は,7章から構成される.第1章では,研究の目的を述べている.第2章では,関連研究を紹介し,本論文の位置付けを述べている.とくに,従来の感覚代行技術では伝達情報量に限界があり,広帯域の振動刺激を用いて触覚の質的情報を加味することにより,伝達情報量を増加させる可能性があることを述べている.また,広帯域振動による多様な触覚刺激を実現するには,皮膚機械特性を測定した上で,触覚刺激用アクチュエータの動特性を推定する必要性を述べている.

 第3章では,指先皮膚の機械特性を,機械インピーダンスという指標により定量的に計測している.その結果,指先皮膚の機械モデルは,非線形なバネ-ダンパ系で表されることを明らかにしている.さらに,指先皮膚にかかる圧縮力や,指先振動部位などの条件において,その機械特性がどのように変化するかを定量的に把握し,触覚ディスプレイの設計において必要となる指先機械特性の収集を行っている.

 第4章では,第3章で行った指先皮膚の機械特性の計測結果を利用し,触覚ディスプレイ用アクチュエータの設計を行っている.使用するアクチュエータとして圧電バイモルフを想定し,圧電バイモルフによって指先皮膚に振動刺激を与えるときの力学モデルを構築している.そして,このモデルを利用してシミュレーションを行い,広周波数帯域の振動刺激を十分な振幅で提示できるような圧電バイモルフの寸法を決定している.さらに,その寸法の決定にしたがって圧電バイモルフを実際に製作し,指先皮膚に振動刺激を与える評価実験を行い,広帯域振動刺激を提示できることを確認している.

 第5章では,音声の韻律情報を触覚で伝達することを想定し,触覚知覚特性に関する知覚実験を行っている.まず,音声ピッチ周波数を指先の振動部位に変換する方法を提案し,音声ピッチ周波数の変化による指先振動部位の移動速度の弁別閾を測定し,どの程度のピッチ変化情報が伝達しうるかを測定している.つぎに,声質情報を触感情報に変換する方法を提案し,振動周波数と振動波形の変化による触感の変化を測定している.以上の実験の結果から,本論文で提案する音声韻律情報の伝達方式が有用であることを示している.

 第6章では,本論文の結論と今後の課題,そして,他分野への応用に関する展望について述べている.まず,本論文で行った研究の結果,広帯域型の触覚ディスプレイによって音声の韻律情報を伝達する方式の有用性を実証したことを述べている.また,本論文の成果を波及させうる分野として,聴覚にとどまらない感覚代行などの情報バリアフリーの分野,バーチャルリアリティやテレイグジスタンスの分野,また,一般的に使用されるヒューマンインターフェースの分野を挙げている.

 以上のように,本論文では,ヒトの皮膚における機械特性や知覚特性における基礎的実験を通じ,触覚の質的情報を利用することで,感覚代行技術での情報伝達の効率を向上させうることを実証している.本論文の成果は,感覚代行機器の発展のみならず,誰でも利用できるような触覚インターフェースや五感情報通信といった分野に対しても応用が期待され,社会的な貢献も高い.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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