学位論文要旨



No 120139
著者(漢字) 大池,秀明
著者(英字)
著者(カナ) オオイケ,ヒデアキ
標題(和) ホスホリパーゼA2の味細胞特異的発現とその機能の解析
標題(洋)
報告番号 120139
報告番号 甲20139
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2822号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 松本,一朗
内容要旨 要旨を表示する

 脊椎動物の味覚受容組織である味蕾は40-120個程度の細胞によって構成されている。その細胞のいくつかが実際に味を感じる「味細胞」であり、味神経へと情報を伝達している。近年、苦味や甘味の受容体および、下流の細胞内情報伝達分子のいくつかが同定され、味細胞における味受容機構の解明が急速に進んでいる。しかしながら、受容した味物質の情報をどのように味神経に伝えるのかなど、味細胞内シグナリング経路の途中には不明な点も多く、全容が理解されるには至っていない。

 細胞内の情報伝達系において脂質メディエーターは非常に重要な役割を果たす。嗅覚系化学感覚器官である嗅上皮や鋤鼻器の単離細胞において、アラキドン酸はイオンチャンネルの活性制御や細胞内Ca2+濃度上昇を引き起こす。また、単離味蕾細胞においても、シス不飽和脂肪酸が遅延整流性 K+チャンネルの活性を阻害することが報告されている。さらに、アラキドン酸やその産生酵素であるホスホリパーゼA2(PLA2)の阻害剤がスナネズミの味神経応答に影響を及ぼすことから、アラキドン酸等の不飽和脂肪酸が味覚シグナリングの制御に関与している可能性が示唆された。

 当研究室では、数年前から、味蕾細胞の機能を特徴付ける分子の探索を行っており、その過程でPLA2のIIA型(PLA2-IIA)が味蕾内で強く特異的に発現していることを見出している。そこで、味蕾中にPLA2を起点とし、アラキドン酸を中心とした脂質セカンドメッセンジャーシグナリング系が存在すると想定し、本研究を開始した。

1.味蕾に発現するPLA2分子種の特定

 PLA2は哺乳類で20種類程度の分子種が報告されている。そこでまず、味蕾で発現しているPLA2の分子種を特定するため、ラットで報告のある13分子種について、ラット有郭・葉状乳頭上皮由来cDNAを用いてRT-PCRを行った。その結果、IB型を除く全ての分子種でcDNA断片の増幅が確認された。続いて、より詳細な発現状況を、有郭乳頭切片に対するin situ ハイブリダイゼーションにより解析したところ、IIA型のみが味蕾の一部の細胞に有意なシグナルを示した。また、味蕾におけるこのタンパク質の発現を、免疫染色によって確認した。

2.PLA2-IIAの味蕾における発現解析

 PLA2-IIAの免疫染色シグナルは味蕾中の一部の細胞に斑点状で観察されるという特異性があることから、この分子を発現している細胞の特性や細胞内での局在を明らかにすることで、機能を解明する足がかりとなると考え、より詳細な免疫組織学的解析を実施した。

 PLA2-IIAは分泌性のタンパク質であり、味蕾細胞内での斑点状の染色シグナルは、分泌経路の途上に位置するゴルジ体での局在を反映していると推測された。そこで、ゴルジ体マーカーであるGM130およびβ-COPと免疫二重染色を行ったところ、これらのシグナルとよく重なり、分泌経路上に多く存在していることが明らかとなった。

 次に、PLA2-IIAを発現する細胞の特性について調べた。味蕾中には、実際に味を受容する味細胞のほかにも、支持細胞や前駆細胞など機能の異なるいくつかの細胞種が存在していることが知られている。さらに、味細胞も味種ごとに異なる受容細胞が存在することが明らかになりつつあり、少なくとも、甘・旨味受容細胞と、苦味受容細胞に分類することが可能である。まず、PLA2-IIAを発現する細胞と味細胞の関係を調べるため、味細胞マーカーであるホスホリパーゼC β2 (PLCβ2)と免疫二重染色を行った。この結果PLA2-IIAはPLCβ2発現細胞(味細胞)の一部の細胞集団に発現していることが明らかになった。続いて、この発現が味種依存的であるかを調べるため、味細胞の中でも苦味細胞特異的に発現しているGタンパク質、gustducinとの関係を調べた。両者の発現は一部の細胞では重なり合ったが、互いに独立した関係であった。以上の結果よりPLA2-IIAは甘・旨・苦味という特定の味種には依存せずに、味細胞の一部に発現することが明らかになった。

 味細胞で受容した味の情報は、味神経を介して中枢へと伝達されており、電子顕微鏡による観察から、味蕾中の約10%の細胞が味神経とシナプスを形成していることが知られている。しかしこれは、味細胞マーカーであるPLCβ2の発現細胞と比べてかなり少ないことから、味細胞の一部のみしか味神経とシナプスを形成していないと考えられた。そこで、味神経の一部のみに発現するPLA2-IIAとシナプス形成細胞との関係を調べるため、味蕾中のシナプス形成細胞で特異的に発現しているSNAP-25との免疫二重染色を行った。その結果、PLA2-IIAとSNAP-25のシグナルはよく一致した。以上の結果から、味細胞の一部のみがシナプスを形成しており、その細胞にのみPLA2-IIAが発現していると判明した。

 味蕾細胞は上皮から分化し、10日前後で新しい細胞へと入れ替っていくことから、味蕾中には、分化してからの時間が異なる細胞が混在している。PLA2-IIAの発現およびシナプス形成細胞が味細胞の一部に限られているということは、これらが味細胞の分化段階に依存している可能性が考えられた。そこで、発現の開始時期を解析するため、まず、味蕾の初期形成過程である新生児ラットの有郭乳頭切片の免疫染色を行った。味蕾細胞に豊富な細胞骨格であるcytokeratin 8や、味細胞内のシグナル伝達分子であるgustducinやIP3R3は生後2日目より染色シグナルが検出されたのに対し、PLA2-IIAやシナプスマーカーであるSNAP-25は生後6日目あたりまでシグナルが確認できず、これらの分子はある程度成熟した味細胞でないと発現しないことが示唆された。続いて、成体ラット味蕾細胞においても発現開始時期を解析するため、BrdU追跡実験を行った。その結果、味蕾細胞にPLA2-IIA が発現し始めたのは、gustducinの発現よりも2日ほど遅い、4日目以降であり、より成熟化した味細胞に特異的であることが明らかとなった。

 以上のことから、味細胞ではgustducinなどの味覚シグナリング分子が先行して発現し、2日ほど成熟が進んだところでシナプスが形成され、PLA2-IIAやSNAP-25が発現し、機能していると推察された(図)。

 PLA2-IIAは、海馬神経細胞やPC12細胞においてエキソサイトーシスを促進させることにより神経伝達物質の放出に関与していることが報告されている。味細胞における発現は、シナプスを形成している細胞に限られていることから、同様の機能を果たしている可能性もある。

3.アラキドン酸と味蕾細胞内Ca2+濃度変化の解析

 PLA2の代謝産物であるアラキドン酸は、鋤鼻神経細胞において細胞内Ca2+濃度上昇を引き起こすことや、味神経応答に影響を及ぼすことから、味細胞においても、アラキドン酸が細胞内Ca2+濃度上昇を引き起こすかは興味深い。また、味細胞内でのCa2+濃度上昇は神経伝達物質を放出する重要な過程と考えられることから、単離味蕾細胞を用いたCa2+イメージングを行い、アラキドン酸が与える影響を解析した。

 ラット有郭乳頭味蕾細胞を単離し、Ca2+指示薬であるFura-2により、細胞内のCa2+濃度をイメージングした。その結果、100 μMのアラキドン酸刺激により、細胞内Ca2+濃度上昇を起こす細胞が多く存在した。イメージング後の細胞を固定し、免疫染色を行ったところ、PLA2-IIA陽性細胞もこれに含まれていた。次に、細胞内で産生されるアラキドン酸によってもCa2+濃度上昇が引き起こされるかを調べるため、アラキドン酸代謝酵素であるリポキシゲナーゼ(LOX)をNDGAで阻害したところ、細胞内のCa2+濃度が上昇した。これは、LOXを阻害したことにより細胞内にアラキドン酸が蓄積し、それによりCa2+濃度が上昇したと解釈できる。アラキドン酸は様々なイオンチャンネルの活性を制御することから、味蕾細胞においても、Ca2+透過性のチャンネルや、脱分極を引き起こすチャンネルの活性に影響を与えた結果、Ca2+濃度上昇が引き起こされたものと考えられる。以上の結果から、PLA2-IIAがアラキドン酸の産生を介して細胞内Ca2+濃度を上昇させる可能性が示唆された。今後は、味物質による味細胞のカルシウム応答がPLA2-IIA阻害剤やアラキドン酸によって制御されるか否かを検討したい。

 本研究は、味蕾中にPLA2を起点とした脂質セカンドメッセンジャーシグナリング経路を想定し、免疫組織学的解析により、PLA2-IIAがシナプスを形成している成熟した味細胞で特異的に発現することを見出した。この過程で、味細胞では味シグナリング分子が先行して発現し、成熟が進んでからシナプスを形成するという新たな知見も得た。PLA2-IIAの機能については、この酵素の産生物質であるアラキドン酸によって、味細胞内のCa2+濃度が上昇することを示し、味細胞カルシウムシグナリングに関わる可能性を提示した。

 今後、味蕾内でのPLA2-IIAの活性化因子やアラキドン酸の作用機構を明らかにし、実際に味シグナリングや、他の現象にどのように関わっているのかを評価する必要がある。具体的には、Ca2+イメージングにより、阻害剤の影響を解析することや、培養細胞系を用いてPLA2-IIAの活性化因子やアラキドン酸の標的分子を明らかにし、さらには味蕾特異的にPLA2-IIA遺伝子を制御した動物を作出し、解析することが有効であると考える。本研究で得られた知見が、未だ明かされていない味シグナリングの、全容解明の基礎になると期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 脊椎動物の味覚受容組織である味蕾は数十個の細胞によって構成され、その一部が実際に味を感じる味細胞である。味細胞内シグナリング経路は、未だ全容が理解されるには至っていない。一般に、細胞内情報伝達系においてアラキドン酸(AA)は重要な役割を果たす。単離味蕾細胞において、K+チャンネルの活性を阻害することや、その産生酵素であるホスホリパーゼA2(PLA2)の阻害剤がスナネズミの味神経応答に影響を及ぼすことから、PLA2およびAAが味シグナリングの制御に関与している可能性が示唆された。

 本論文は、味蕾に発現するPLA2分子種を特定し、IIA型(PLA2-IIA)が味シグナリングに関わる分子種である可能性が高いことを示した。また、AAが味細胞に与える影響を解析し、PLA2が味シグナリングに及ぼす機能を考察した。本論文は3つの章から構成されている。

1.味蕾に発現するPLA2分子種の特定

 PLA2は哺乳類で16分子種が報告されている。ラットで既知の13分子種について、有郭・葉状乳頭上皮由来cDNAよりRT-PCRを行った。その結果、IB型を除く全ての分子種で発現が確認された。より詳細な発現状況を、in situ ハイブリダイゼーションにより解析し、IIA型のみが味蕾の一部の細胞に強く発現することを示した。

2.PLA2-IIAの味蕾における発現解析

 PLA2-IIAの細胞内局在を解析するため、ゴルジ体マーカー、GM130との免疫二重染色を行った。シグナルはよく重なり、分泌経路上に多く存在していることを明らかにした。

 続いて、PLA2-IIAを発現する細胞の特性について調べた。味細胞マーカーであるホスホリパーゼC β2 (PLCβ2)との免疫二重染色を行い、PLA2-IIAは味細胞の一部の細胞集団に発現することを明らかにした。続いて、苦味細胞特異的に発現しているgustducinとの関係を調べた。両者の発現は一部の細胞のみで重なり合い、PLA2-IIAは特定の味種に依存しないことを明らかにした。味細胞で受容した味情報は、シナプスを介して味神経へ伝達されると考えられている。そこで、シナプス形成細胞マーカー、SNAP-25との免疫二重染色を行った。PLA2-IIAとSNAP-25のシグナルはよく一致しており、味細胞の一部がシナプスを形成し、その細胞にのみPLA2-IIAが発現していることを明らかにした。

 味蕾細胞は10日前後で新しい細胞へと入れ替っていくことから、味蕾中には、分裂後の細胞齢が異なる細胞が混在している。そこで、PLA2-IIAの発現開始時期を解析するため、味蕾の初期発生過程である新生児ラット有郭乳頭切片の免疫染色を行った。gustducinは生後2日目より染色シグナルが検出されたのに対し、PLA2-IIAやSNAP-25は生後8日目までシグナルが確認できなかった。また、成体ラット味蕾細胞における、BrdU追跡実験の結果、PLA2-IIA が発現し始めたのは、4日目以降の細胞であり、gustducinよりも2日ほど遅いことが明らかとなった。このことから、味細胞ではgustducinなどのシグナリング分子が先行して発現し、2日ほど成熟が進んだところでシナプスが形成され、PLA2-IIAやSNAP-25が発現し、機能していると推察された。

3.アラキドン酸と味蕾細胞内Ca2+濃度変化の解析

 味細胞内でのCa2+濃度上昇は神経伝達物質放出に重要な過程と考えられることから、単離味蕾細胞を用いたCa2+イメージングを行い、AAが与える影響を解析した。その結果、100 μMのAA刺激により、細胞内Ca2+濃度上昇を起こす細胞が多く存在した。イメージング後の細胞を固定し、免疫染色を行ったところ、PLA2-IIA陽性細胞もこれに含まれていた。AA代謝酵素であるリポキシゲナーゼ(LOX)をNDGAで阻害したところ、PLA2-IIA陽性細胞内Ca2+濃度が上昇した。これは、LOXを阻害したことにより細胞内にAAが蓄積し、それによりCa2+濃度が上昇したと解釈できる。AAは様々なイオンチャンネルの活性を制御することから、味細胞においても、Ca2+透過性のチャンネルや、脱分極を引き起こすチャンネルの活性に影響を与えた結果、Ca2+濃度上昇が引き起こされたと考えられる。以上の結果から、PLA2-IIAがAAの産生を介して細胞内Ca2+濃度を上昇させる可能性が示唆された。

 以上、本研究は、味シグナリングに関与する可能性の高いPLA2分子種を特定し、詳細な発現解析と生理的機能解析により、その役割を明らかにするとともに、味細胞の成熟とシナプス形成に関する新たな知見も提示し、学術上、応用上価値が高い。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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