学位論文要旨



No 120145
著者(漢字) 石,濱海
著者(英字)
著者(カナ) セキ,ピンハイ
標題(和) 印環細胞がんの分泌系におけるGab1タンパク質の役割
標題(洋) Role of Gab1 in secretion systems of signet ring cell carcinomas
報告番号 120145
報告番号 甲20145
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2828号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 佐藤,隆一郎
 東京大学 講師 舘川,宏之
内容要旨 要旨を表示する

序論

 印環細胞癌は低分化型腺癌の一種である。腺癌はその組織形態の違いにより、高分化型腺癌と低分化型腺癌に分類される。高分化型腺癌に対し、印環細胞癌は脱分化した癌で、細胞極性、細胞接着能が失われており、足場非依存的に増殖する場合が多く、浸潤転移能の高い、より悪性の癌である。印環細胞癌は外科手術による治療は困難であり、化学療法も確立されていないため、実際上治療法のない癌といえる。印環細胞癌の特徴としては細胞同士の相互作用の欠失と分泌系の亢進が知られている。当研究室の研究結果により、印環細胞癌において、receptor tyrosine kinaseであるErbB2/3が恒常的に活性化していることが示されている。さらに、その下流シグナル経路としてp38MAPK pathwayが印環細胞癌の細胞同士の相互作用を制御することも分かっている。しかし、分泌系の亢進についてはまだ分かっていなかった。

 本研究は印環細胞癌の分泌系の亢進の解明を目的として開始された。その結果、印環細胞癌においてGab1が分泌系の制御に重要な役割を果していることが明らかになった。

1.Gab1がNUGC4細胞のムチン分泌系を制御する

 印環細胞癌細胞株NUGC4をPI3-kinaseの阻害剤であるLY294002で処理すると、一部印環細胞癌としての性質が抑制される。形態はやや平たくなり、ムチンなどの分泌系の亢進が抑えられる。p38MAPKの阻害剤であるSB203580で処理した場合は細胞の平坦化は起こるが、分泌系の亢進が抑えられない。これにより、印環細胞癌の分泌系の亢進はPI3K-p38MAPK以外のシグナル伝達経路に制御されることが考えられる。印環細胞癌の分泌系の亢進に関わる分子を探すために、PI3-kinaseの結合蛋白質を検索した。PI3-kinaseのp85 subunitを認識する抗体を用いて免疫沈降と銀染色を行った結果、印環細胞癌細胞NUGC4から、PI3-kinaseと結合するGab1(Grb2-associated binder 1)蛋白質が検出された。さらに、NUGC4細胞において、Gab1が恒常的にチロシンリン酸化されていることが分かった。Gab family蛋白質は哺乳類のGab1,Gab2,Gab3,ショウジョウバエのDOSと線虫のSoc1からなるadaptor protein familyである。Gab1蛋白質はN末端にPH domainを、真中にproline-rich domainを、C末端に多数のチロシンリン酸化部位を有している。Gab1蛋白質はPI3-kinaseやSHP2などのシグナル分子と結合して、EGF,NGF,IGF,IL6などのサイトカイン、増殖因子の誘導するシグナル伝達に役割を果たしることが報告されている。NUGC4以外の印環細胞癌株についても調べたことろ、HSC39細胞では同様にGab1がPI3-kinaseと結合し、恒常的にチロシンリン酸化されていた。一方、KATOIII細胞ではGab1がチロシンリン酸化されていなかったが、Gab2がリン酸化され、PI3-kinaseと結合していた。これらの結果は、印環細胞癌のシグナル伝達において、Gabファミリーが何らかの機能を果しているを示している。Gab1の機能を解析するために、pSUPER RNAi systemを用いて、Gab1発現をknock downさせたNUGC4細胞のGab1 RNAi細胞株(Gab1_i細胞)を作成した。この細胞株は野生型と比べて、形態変化が見られなかったが、ムチン蛋白質であるMuc1とMuc4を指標に分泌系を調べた結果、分泌亢進が著しく抑えられていた。また、Gab1 RNAiの標的遺伝子配列を置換し、RNAiからknock downされないようにしたGab1遺伝子とGab1 RNAi発現ベクターを共発現させた細胞株(Gab1_m_i細胞)では、内在性のGab1発現がRNAiによりknock downされても、変異遺伝子によりGab1が発現するため、RNAiによるムチン分泌の抑制が起こらなかった。また、同様にして発現させたPI3-kinaseと結合できない変異Gab1遺伝子は分泌を回復させることができなかった。これらの結果により、Gab1が印環細胞癌細胞NUGC4の分泌系を制御することが示唆された。

2.ErbB2/3・Gab1のシグナル伝達

 NUGC4細胞ではreceptor tyrosine kinaseの一つErbB3が恒常的にチロシンリン酸化されており、ErbB2/3のシグナル経路が活性化している、またGab1も恒常的にチロシンリン酸化されていることが分かっていたため、ErbB2/3によってGab1がリン酸化されるのではないかと考え、これを検討した。293細胞にErbB2,ErbB3とGab1の遺伝子を過剰発現させた。活性型のErbB2を発現させた場合は野生型のErbB2と比べて、ErbB3及びGab1のチロシンリン酸化の亢進が見られ、ErbB2/3-Gab1のシグナル経路があることが示唆された。この結果はErbB2/3のリガンドであるHeregulinで野生型のErbB2/3を刺激した場合も同様であった。また、Gab1がErbB3のチロシンリン酸化依存的に結合すること、この時Gab1-PI3-kinaseの結合が亢進することが分かった。これらの結果が過剰発現系でなくても正しいことは乳がんのMCF7細胞を用いてheregulin刺激実験を行うことにより確認した。これらの結果により、Gab1が細胞外よりの刺激に対してErbB2/3複合体のErbB3と結合しErbB2/3複合体によりチロシンリン酸化されることが示された。

3.Gab1の作用点の解析

 新たに合成された膜タンパク質は一般に、小胞体(ER)、ゴルジ体を経てトランスゴルジ網(TGN)へと輸送される。TGNへ到達した膜タンパク質はそこで選別を受け、異なる輸送小胞に積み込まれることにより細胞膜、エンドソーム、リソソームなどのオルガネラへ輸送されることになる。ムチンはO-型糖タンパク質で、ゴルジ体で糖鎖(最後はシアル酸)を付加されてから細胞膜へ輸送されることが知られている。Muc1の糖鎖付加はGalNAc→Galβ1,3GalNAc→SAα2,3Galβ1,3GalNAcというプロセシングが分かっている。Gab1のムチン分泌の制御を調べるために、糖鎖を特異的に認識結合、架橋形成するタンパク質であるレクチンを用いて免疫染色を行った。レクチンPNAとMAL2はそれぞれMuc1のシアル酸付加前と付加後の糖鎖Galβ1,3GalNAcとSAα2,3Galβ1,3GalNAcを認識する。MAL2の染色の結果、野生型NUGC4細胞はムチンがシアル酸付加されてから細胞膜へ輸送されるが、Gabl_i細胞ではムチンがシアル酸付加されるにも関わらず細胞内に留まって細胞膜には輸送されないことが分かった。PNAでは両者とも同様に細胞内が染色された。これらの結果により、Gab1がTGNにおいて分泌系を制御することが示唆された。次に、Gab1の局在を検討した。TGNタンパク質であるTGN38とGab1免疫染色により、NUGC4細胞ではGab1とTGN38が共局在が見られた。また、MCF7細胞にheregulin刺激を加えると、Gab1がTGNへの移行が観察された。これらの結果により、Gab1は活性化に伴ってTGNに移行し分泌系を制御することが示唆された。NUGC4細胞ではGab1が恒常的に活性化されているために刺激によらずTGNに局在したものと思われる。

まとめ

 本研究によって、初めてアダプタータンパク質であるGab1が細胞の分泌系を制御することが見出された。Gab1が活性化したErbB2/3 heterodimerにチロシンリン酸化され、この活性化されたGab1がPI3-kinaseと結合し、TGNへ移行して、分泌系を制御する。本研究で得られた新たな知見は印環細胞癌の治療及び細胞の分泌系の制御の解明に大きく寄与することが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 印環細胞癌は低分化型腺癌の一種である。腺癌はその組織形態の違いにより、高分化型腺癌と低分化型腺癌に分類される。高分化型腺癌に対し、印環細胞癌は脱分化した癌で、細胞極性、細胞接着能が失われており、足場非依存的に増殖する場合が多く、浸潤転移能の高い、より悪性の癌である。印環細胞癌は外科手術による治療は困難であり、化学療法も確立されていないため、実際上治療法のない癌といえる。印環細胞癌の特徴としては細胞同士の相互作用の欠失と分泌系の亢進が知られている。これまでの研究結果により、印環細胞癌において、receptor tyrosine kinaseであるErbB2/3が恒常的に活性化していることが示されている。さらに、その下流シグナル経路としてp38MAPK pathwayが印環細胞癌の細胞同士の相互作用を制御することも分かっている。しかし、分泌系の亢進についてはまだ分かっていなかった。本研究は印環細胞癌の分泌系の亢進の解明を目的としておこなわれた。

 序論で、これまでの背景をおべたの後、第一章ではGab1がNUGC4細胞のムチン分泌系を制御することを述べている。これまで、印環細胞癌細胞株ではPI3-kinase-p38MAPKカスケードが活性化されていることが示されていたが、p38MAPKを阻害しても分泌系の亢進が抑えられない。これにより、印環細胞癌の分泌系の亢進はPI3K-p38MAPK以外のシグナル伝達経路に制御されることが考えられた。これを明らかにするために、PI3-kinaseの結合蛋白質を検索した。PI3-kinaseのp85 subunitを認識する抗体を用いて免疫沈降と銀染色を行った結果、印環細胞癌細胞NUGC4から、PI3-kinaseと結合するGab1(Grb2-associated binder 1)蛋白質が検出された。さらに、NUGC4細胞において、Gab1が恒常的にチロシンリン酸化されていることが分かった。NUGC4以外の印環細胞癌株についても調べたことろ、HSC39細胞では同様にGab1がPI3-kinaseと結合し、恒常的にチロシンリン酸化されていた。一方、KATOIII細胞ではGab1がチロシンリン酸化されていなかったが、Gab2がリン酸化され、PI3-kinaseと結合していた。これらの結果は、印環細胞癌のシグナル伝達において、Gabファミリーが何らかの機能を果しているを示している。Gab1の機能を解析するために、pSUPER RNAi systemを用いて、Gab1発現をknock downさせたNUGC4細胞のGab1 RNAi細胞株(Gab1_i細胞)を作成した。この細胞株は野生型と比べて、形態変化が見られなかったが、ムチン蛋白質であるMuc1とMuc4を指標に分泌系を調べた結果、分泌亢進が著しく抑えられていた。この結果により、Gab1が印環細胞癌細胞NUGC4の分泌系を制御することが示唆された。

 第二章ではErbB2/3-Gab1のシグナル伝達について解析している。293細胞にErbB2, ErbB3とGab1の遺伝子を過剰発現させた。活性型のErbB2を発現させた場合は野生型のErbB2と比べて、ErbB3及びGab1のチロシンリン酸化の亢進が見られ、ErbB2/3-Gab1のシグナル経路があることが示唆された。この結果はErbB2/3のリガンドであるHeregulinで野生型のErbB2/3を刺激した場合も同様であった。これらの結果が過剰発現系でなくても正しいことは乳がんのMCF7細胞を用いてheregulin刺激実験を行うことにより確認した。これらの結果により、Gab1が細胞外からの刺激に対してErbB2/3 複合体のErbB3と結合しErbB2/3複合体によりチロシンリン酸化されることが示された。

第三章ではGab1がいかに膜タンパク質の輸送に関与しているかを解析している。Gab1のムチン分泌の制御を調べるために、糖鎖を特異的に認識結合、架橋形成するタンパク質であるレクチンを用いて免疫染色を行った。レクチンMAL2はMuc1のシアル酸付加後の糖鎖Galβ1,3GalNAcとSAα2,3Galβ1,3GalNAcを認識する。MAL2の染色の結果、野生型NUGC4細胞はムチンがシアル酸付加されてから細胞膜へ輸送されるが、Gab1_i細胞ではムチンがシアル酸付加されるにも関わらず細胞内に留まって細胞膜には輸送されないことが分かった。これらの結果により、Gab1がトランスゴルジネットワーク(TGN)において分泌系を制御することが示唆された。次に、Gab1の局在を検討した。TGNタンパク質であるTGN38とGab1免疫染色により、NUGC4細胞ではGab1とTGN38が共局在が見られた。また、MCF7細胞にheregulin刺激を加えると、Gab1がTGNへの移行が観察された。これらの結果により、Gab1は活性化に伴ってTGNに移行し分泌系を制御することが示唆された。NUGC4細胞ではGab1が恒常的に活性化されているために刺激によらずTGNに局在したものと思われた。

 以上、要するに本研究は、アダプタータンパク質であるGab1が細胞の分泌系を制御することを初めて見出し、これまで不明であったPI3-kinaseの小胞輸送への関与を具体的なものとした。本研究は印環細胞がんの生化学的知見を供給するとともに、その治療法の開発へのシーズをも供給したものであり、学術上応用上貢献するところが大である。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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