学位論文要旨



No 120146
著者(漢字) 染谷,慎一
著者(英字)
著者(カナ) ソメヤ,シンイチ
標題(和) DNAマイクロアレイを用いたマウス蝸牛の加齢性難聴に関する研究
標題(洋) Studies on Age-related Hearing Loss in Mouse Cochlea using DNA Microarrays
報告番号 120146
報告番号 甲20146
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2829号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 山岨,達也
 東京大学 助教授 宮脇,長人
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 加齢性難聴とは両側耳にほぼ対称に生じる、加齢に伴う進行的な感音性難聴(内耳・聴神経機能障害による難聴)である。老化により生じる難聴は、組織学的な障害部位に応じて三つに大別することができる。感覚細胞性難聴は、内耳の末梢感覚器である蝸牛の毛細胞障害が主な原因であり、神経性難聴は、蝸牛の螺旋神経節細胞の障害が主な原因である。また血管条性難聴は蝸牛の血管条萎縮が主であると考えられている。米国では65歳〜75歳までの人口の約35%が加齢性難聴を発症していると推定されており、近年この65歳以上の高齢者人口は増加傾向にある。加齢による聴力低下をもたらす因子としては動脈硬化、高血圧、職場騒音、薬剤、環境化学物質、高脂肪食、ストレス、遺伝子などが考えられている。しかしながら、加齢性難聴の分子レベルでの発症機構は不明であり、加齢による聴力低下に対する有効な予防法や治療法もない。

 本研究ではこの加齢性難聴の発症機構を明らかにすることを目的とし、マウス蝸牛組織を用いた加齢性難聴の遺伝子発現プロファイル解析を行い、ミトコンドリアDNA(mtDNA)変異の加齢性難聴発症機構への関与について検討した。さらに加齢性難聴の新たな予防法を提案することを目的とし、加齢性難聴の発症・進行に対する摂取カロリー制限の抑制効果について調べた。最後に加齢性難聴の発症機構と摂取カロリー制限による加齢性難聴の抑制機構について考察した。

2.DBA/2Jマウス蝸牛を用いた加齢性難聴の遺伝子発現プロファイル解析

 DBA/2J系統のマウスは、4-5月齢で加齢による進行性難聴を発症する加齢性難聴モデルとして広く研究されている。そこでこのDBA/2Jマウスを2群に分けコントロールマウスを7週齢(C7群、3匹)、加齢性難聴マウスを36週齢(A36群、3匹)とし、両群の蝸牛組織を用いて加齢性難聴の遺伝子発現プロファイル解析を行った。ABR(Auditory brainstem response)法による聴力測定の結果、C7群では平均約55-66dBSPLの閾値であったが、A36群では平均94-100dBSPLと著明に閾値が上昇し加齢による高度な難聴が出現した。また組織学的にはC7群の病的組織変化は軽度であったが、A36群では基底回転のコルチ器に著明な変性が、有毛細胞および螺旋神経節細胞に著明な消失が見られ、ABRの結果を支持する所見であった。22,626の遺伝子およびESTを搭載するDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現プロファイル解析の結果、A36群の蝸牛では聴力関連遺伝子の発現低下や、ミトコンドリア機能低下、アポトーシス関連遺伝子では、P53依存性アポトーシスに関与しているとされるBak1、Scotinなどの発現誘導が示された。また蝸牛における加齢性難聴とは、神経伝達、イオン輸送、筋肉収縮、構造調整、DNA合成、DNA修復、タンパク質合成などの機能低下と、ストレス反応、炎症反応、免疫反応、タンパク質分解などの増加に特徴づけられることが示された。

 以上の研究成果を総合的に検討した結果、ミトコンドリア機能低下とP53依存性アポトーシスの加齢性難聴発症機構への関与が示唆された。

3.mtDNA変異の加齢性難聴発症機構への関与

 Polgノックインマウス(POLGマウス)は、DNAポリメラーゼガンマ(Polg)のエキソヌクレアーゼ領域(Proofreading活性領域)に特定の点変異を導入することにより作製されたトランスジェニックマウスである。このトランスジェニックマウスではmtDNAの修復機能を失ったDNAポリメラーゼが発現されるために、mtDNAの変異が加齢に伴い加速的に増加し早老症など様々な老化関連疾患を示す事が報告されている。そこでmtDNA変異の加齢性難聴発症機構への関与を調べるために、このPOLGマウスを用いてABR測定、組織観察、遺伝子発現プロファイル解析を行った。さらにアポトーシスの加齢性難聴発症機構への関与を調べるためにTUNEL法によるアポトーシス検出を行った。POLGマウスは4群に分け、野生型マウスを2月齢(W2群、5匹)と9月齢(W9群、5匹)、変異型マウスを2月齢(M2群、5匹)と9月齢(M9群、5匹)とし、W9群とM9群の蝸牛組織を用いて遺伝子発現プロファイル解析を行った。ABR測定の結果、W2群では平均約11-23dBSPLの閾値、W9群では平均約13-22dBSPLの閾値、M2群では平均約15-22dBSPLの閾値と、3群共に正常の聴力を示したが、M9群では平均41-52dBSPLと著明に閾値が上昇し、加齢による中等度の難聴が出現した。また組織学的にはM2群とW9群の病的組織変化は軽度であったが、M9群では基底回転のコルチ器に著明な変性、螺旋神経節細胞の著明な消失、有毛細胞の軽度の消失が見られ、ABRの結果を支持する所見であった。45,037の遺伝子およびESTを搭載するDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現プロファイル解析の結果、M9群の蝸牛では聴力関連遺伝子の発現低下や、ミトコンドリア機能低下、アポトーシス関連遺伝子では、P53依存性アポトーシスに関与しているとされるPten、Tnfrsflaなどの発現誘導が示された。アポトーシスについて検討した結果、W2群ではアポトーシスは検出されなかったが、M2群の螺旋神経節細胞においてはTUNEL陽性細胞が検出され、アポトーシスの加齢性難聴発症機構への関与が示唆された。以上の結果を総合的に検討した結果、mtDNAの変異が加齢性難聴の発症機構に関与していることが示唆された。

 mtDNAの損傷はP53依存性アポトーシスを誘導する。したがってDBA/2JマウスとPOLGマウスの結果は、mtDNA変異の蓄積がP53依存性アポトーシスを誘導し、その結果蝸牛において有毛細胞や螺旋神経節細胞の消失が起こり、加齢に伴い加齢性難聴が発現することを示唆する。

4.摂取カロリー制限による加齢性難聴発症の抑制効果

 カロリー制限は哺乳類の老化を抑制する唯一の方法として知られており、その老化関連疾患の抑制効果や哺乳類の寿命延長効果について数多くの報告がされている。そこで加齢性難聴の発症・進行に対する摂取カロリー制限の抑制効果について調べるために、摂取カロリー制限マウス(C57BL/6)を用いてABR測定、組織観察、遺伝子発現プロファイル解析を行った。マウスは2群に分けコントロールマウスを15月齢(C15群、84kcal/week of control diet,6匹)、摂取カロリー制限マウスを15月齢(CR15群、63kcal/week of restricted diet,6匹)とし、両群の蝸牛組織を用いて遺伝子発現プロファイル解析を行った。ABR測定の結果、C15群では平均約42-59dBSPLの閾値で加齢による中等度の難聴が出現したが、CR15群では平均14-23dBSPLの正常の閾値を示し、カロリー制限による加齢性難聴発症の抑制効果が明らかとなった。組織学的にはC15群では基底回転のコルチ器に著明な変性、螺旋神経節細胞および有毛細胞の著明な消失が見られたが、CR15群では病的組織変化は見られず、ABRの結果を支持する所見であった。45,037の遺伝子およびESTを搭載するDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現プロファイル解析の結果、CR15群の蝸牛では寿命制御関連遺伝子であるSirt1の発現増加、聴力関連遺伝子の発現増加、エネルギー代謝の増加、アポトーシス関連遺伝子ではP53依存性アポトーシスに関与しているとされるIl6やMdm2などの発現低下が示された。以上の結果から、カロリー制限が15月齢までは加齢性難聴の発現を抑制することが明らかとなった。

 カロリー制限は数多くの種の寿命を延長するが、酵母ではSIR2遺伝子がカロリー制限の寿命延長機構に関与していることが知られている。哺乳類SIR2オルソローグであるSirt1は細胞生存機構に関与し、Sirt1タンパク質はP53依存性アポトーシスを抑制する。したがってこれらの結果は、カロリー制限によるSirt1の誘導がP53依存性アポトーシス抑制を導き、その結果加齢性難聴の発症が遅延されることを示唆する。さらに、摂取カロリーの制限がヒト加齢性難聴の予防法となりえる可能性が示された。

5.総括

 加齢による聴力低下をもたらす因子としては騒音、高脂肪食、ストレス、遺伝子などが考えられるが、加齢性難聴の発症機構については不明である。そこで、以上の結果に基づいて加齢性難聴の発症機構モデルを以下に提案したい。

 蝸牛におけるmtDNA変異は、DNAポリメラーゼガンマ(Polg)のエキソヌクレアーゼ領域の特定の点変異などが開始因子となり起こる。mtDNA変異は加齢と共に蓄積するが、このmtDNA障害がP53活性化を誘導する。この活性化されたP53がBakタンパク質などアポトーシス促進因子を活性化させることでアポトーシスが誘導される。その結果、蝸牛において有毛細胞や螺旋神経節細胞の消失が起き、これらの細胞消失が加齢に伴い一定の閾値に達すると難聴が出現する。

 さらに摂取カロリー制限による加齢性難聴の抑制機構モデルを以下に提案したい。カロリー制限によりエネルギー代謝が増加することでNAD+/NADH比が上昇する。この代謝変動が、NAD依存性脱アセチル化酵素であるSirt1タンパク質を誘導し、その結果Sirt1が、mtDNA障害によりアセチル化を受け転写因子として活性化されたP53を脱アセチル化することにより、P53依存性アポトーシスを抑制する。このP53の抑制により蝸牛における有毛細胞や螺旋神経節細胞の変性・消失が防がれ加齢性難聴の発症・進行が遅延される。

 最後に今後の研究展開について考察したい。カロリー制限は酵母の寿命を延長するが、この寿命延長過程にはSir2タンパク質が必要となる。赤ワインに含まれるポリフェノールとして知られるレスベラトールは、このSir2タンパク質を活性化することでカロリー制限がない条件下でも酵母の寿命延長効果を示す。したがって、哺乳類においてSirt1タンパク質を活性化させるポリフェノールはヒトの加齢性難聴抑制剤候補となりえる可能性がある。我々の研究グループでは現在までに柿や白茶から数個の候補ポリフェノールを同定し報告している。今後、これらのポリフェノールや新たな候補物質の加齢性難聴の抑制効果を検討する研究をおこない、本研究の最終目標である抗加齢性難聴剤(抗老人性難聴剤)という新たなる機能性食品の研究開発に取り組みたい。

6.References1) Suzuki, T. et al. Comparative study of catechin composition in five Japanese persimmons (Diospyros kaki). Food Chemistry (in press)2) Someya, S. et al. Gene expression profile of AHL in mouse cochlea. PNAS (to be submitted)3) Prolla, T. et al. Accelerated aging associated with mitochondrial mutations is due to increased apoptosis" Sciences (to be submitted)4) Someya, S. et al. Calorie restriction retards the progression of presbycusis by induction of Sirt1 in mice.(to be submitted)
審査要旨 要旨を表示する

 本論文では、加齢性難聴の遺伝子発現プロファイル解析等を行い、その発症機構および抑制機構について述べている。本論文は第一章のIntroduction、第六章のDiscussionを含む全六章からなる。

 第一章のIntroductionでは、加齢性難聴が両側耳にほぼ対称に生じる、加齢に伴う進行的な感音性難聴(内耳・聴神経機能障害による難聴)であることを説明し、その組織学的な障害部位について説明している。また、この疾患を発症している人口は増加傾向にあるが、加齢性難聴の分子レベルでの発症機構は不明であり、加齢による聴力低下に対する有効な予防法や治療法もなく、本論文は加齢性難聴の発症機構・抑制機構に関する始めての報告であると述べ、今後の加齢性難聴の予防法・治療法の確立に大いに役立つものと説明している。

 第三章では、DBA/2Jマウス蝸牛を用いた加齢性難聴の遺伝子発現プロファイル解析結果等について述べている。ABR(Auditory brainstem response)法による聴力測定の結果では、36週齢群で平均94-100dBSPLと著明に閾値が上昇し加齢による高度な難聴が出現したことを説明している。また組織学的にも36週齢群では基底回転のコルチ器に著明な変性が、有毛細胞および螺旋神経節細胞に著明な消失が見られ、ABRの結果を支持する所見であったことを述べている。遺伝子発現プロファイル解析の結果では、36週齢群の蝸牛で聴力関連遺伝子の発現低下や、ミトコンドリア機能低下、アポトーシス関連遺伝子では、P53依存性アポトーシスに関与しているとされるBak1、Scotinなどの発現誘導が示されたことを述べ、ミトコンドリア機能低下とアポトーシスの加齢性難聴発症機構への関与を示している。

 第四章では、mtDNA変異(D257A)の加齢性難聴発症機構への関与について述べている。ABR測定の結果では、9月齢D257A群で平均41-52dBSPLと著明に閾値が上昇し、加齢による中等度の難聴が出現したことを説明している。また組織学的には9月齢D257A群で基底回転のコルチ器に著明な変性、螺旋神経節細胞の著明な消失、有毛細胞の軽度の消失が見られ、ABRの結果を支持する所見であったことを説明している。2月齢D257A群の螺旋神経節細胞においてはTUNEL陽性細胞が検出され、アポトーシスの加齢性難聴発症機構への関与が示されたことを述べている。遺伝子発現プロファイル解析の結果では、9月齢D257A群の蝸牛で聴力関連遺伝子の発現低下や、ミトコンドリア機能低下、アポトーシス関連遺伝子では、P53依存性アポトーシスに関与しているとされるPten、Tnfrsflaなどの発現誘導が示されたことを説明し、mtDNAの変異が加齢性難聴の発症機構に関与していることを示している。

 第五章では、摂取カロリー制限(CR)による加齢性難聴発症の抑制効果について述べている。ABR測定の結果は、通常食を与えた群で顕著な聴力低下が起こる15月齢においてもCR群では平均14-23dBSPLの正常の閾値を示し、カロリー制限による加齢性難聴発症の抑制効果が明らかとなったことを述べている。また、組織学的にもCR群では病的組織変化は見られず、ABRの結果を支持する所見であったことを述べている。遺伝子発現プロファイル解析の結果では、CR群の蝸牛で聴力関連遺伝子の発現増加、エネルギー代謝関連遺伝子であるSirt1の発現増加、アポトーシス関連遺伝子ではP53依存性アポトーシスに関与しているとされるIl6 やMdm2などの発現低下が示され、カロリー制限が15月齢までは加齢性難聴の発現を抑制することが明らかとなった。これらの結果は摂取カロリーの制限がヒト加齢性難聴の予防法となりえる可能性を示している。

 以上のように、本研究で得られた知見は、学術上貢献するところ少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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