学位論文要旨



No 120147
著者(漢字) 石,一智
著者(英字)
著者(カナ) イシ,カズトモ
標題(和) 麹菌Aspergillus oryzaeの核運搬機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 120147
報告番号 甲20147
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2830号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 祥雲,弘文
 東京大学 教授 正木,春彦
 東京大学 助教授 堀内,裕之
 東京大学 助教授 大西,康夫
内容要旨 要旨を表示する

 麹菌Aspergillus oryzaeは日本酒、味噌、醤油などの伝統的な発酵食品に使用される産業的に重要な糸状菌である。発酵食品を生産する際、A. oryzaeの分生子はそのスターター微生物として蒸し米などの食品原材料上に加えられ、発芽し菌糸成長を始める。成長した菌糸は様々な加水分解酵素を菌体外に分泌することで発酵食品生産に役立っている。分生子の発芽率は品質に影響を及ぼすことから、分生子の発芽能およびその保存安定性は発酵食品生産における重要な因子である。分生子は栄養源の枯渇などが引き金となり気中の分生子柄(Stalk、Vsicle、Phialide)の先端に無性的に形成される細胞である。分生子形成は基底菌糸から発達し、空気中にStalk、Vesicle、Phialide、分生子の順番で進行する。麹菌を除く多くのAspergillus属糸状菌においては基底菌糸からVesicleまでつながる1つの細胞は多核であるが、Phialideから分生子は単核であることが知られている。一方、A. oryzaeではPhialideから分生子まで一部は単核であるが、多くは多核の状態を維持する。即ち、A. oryzaeは1つの分生子から形成されたコロニー由来の分生子集団に約70%の多核分生子と約30%の単核分生子を含む。多核分生子の存在は古くから観察されていたものの、その形成機構に関する詳細に関しては現在に至るまでほとんど理解されていない。

 麹菌はなぜその生活環を通じて多核の状態を維持し続けるのだろうか。この現象を理解するために、本研究では分生子形成時における核運搬過程に焦点を当てて解析を進めた。また、A. oryzaeや、鰹節製造に用いられるA. glaucusのように産業に使用されているAspergillus属糸状菌は多核分生子を有することが知られているが、この性質が単核という性質と比べたときにどのような差異を有しており、この差異は生物学的さらには産業的にどのような意味を有しているのかについての示唆を得ることも本研究の目的とした。

多核分生子は母細胞であるPhialideからの核移動で作られる

 A. oryzaeの多核分生子の形成過程を調べるため、分生子形成過程における核運搬過程の追跡を試みた。これまで、空気中で進行する分生子形成時における核動態を糸状菌の生細胞において追跡した例はないことから、まず観察手法の確立を試みた。A. nidulansは単核分生子を形成するAspergillus属糸状菌であり、透過型電子顕微鏡やDAPI染色と蛍光顕微鏡を用いた解析によりその分生子形成時における核動態がよく研究されている。そこで、まずA. nidulansをモデルとした解析を行った。ヒストンH2B-EGFPの発現により核が可視化されたA. nidulans株をスライドガラス培養し、これを共焦点レーザー顕微鏡によって経時的に観察することで分生子形成過程における核運搬過程を追跡した。その結果、A. nidulansでは、Stalk、Vesicle、Phialide、分生子の順に核が1つずつ運搬され、単核の分生子が形成されることがわかった。この一連の核動態は透過型電子顕微鏡観察により報告されている動態と同じであったことより、分生子形成時における核運搬過程を追跡する方法を確立できたと判断した。

 次に同様の方法によりA. oryzaeにおける多核分生子形成機構を調べた。その結果、A. nidulansとは異なり、A. oryzaeにおいては複数個の核がVesicleとPhialide間で移動することがわかった。さらに、Phialideと分生子間でも複数個の核の移動が観察された。また、分生子内で核分裂は観察されなかった。したがって、A. oryzaeの多核分生子は分生子内での核分裂により形成されるのではなく、Phialideから分生子間において複数個の核が運搬されることにより形成されることがわかった。なお、上述のようにA. oryzaeにおいても単核分生子は形成されるが、これは多核分生子と同じPhialideから生じ、A. nidulansの単核分生子と同様に1個の核が分生子へ運びこまれることで形成された。

多核分生子は単核分生子よりも早く発芽する

 A. nidulansの単核分生子は核分裂したのち発芽することが知られている。一方、A. oryzaeの分生子の発芽時における核動態を経時的に調べたところ、培養5時間で3核の分生子の80.2%が発芽したのに対して、2核では35.3%、単核では4.5%が発芽した。このことから、多核分生子は単核分生子よりも早く発芽することがわかった。これは、多くの単核分生子がA. nidulansと同様に核分裂後に発芽管を伸長させるのに対して、多核分生子は核分裂することなく発芽するためであると考えられる。一般に日本酒や味噌製造で使用されるA. oryzae株は穀物から分離された株よりも多核の割合が高いことが知られている。一方、発酵食品生産は開放系で行われることより、他の微生物が製造過程で混入する危険性がある。これらを考慮すると、多核のA. oryzaeが醸造産業で使用されてきた理由の一つは、多核分生子が単核分生子よりも早く発芽するため、多核分生子を多く作る株が選択されたためであると考えられる。

多核の分生子は単核の分生子よりも変異処理に強い

 多核分生子は単核分生子よりも1細胞内のゲノムのコピー数が多いことより、直接DNAに損傷を与える物理的または化学的処理に対して生存率が高くなると考えられる。この可能性を検討するため、核数分布の異なる5種のA. oryzae株由来の分生子に紫外線照射し、その生存率を測定した。その結果、分生子内の核数が多い株ほど生存率が高く、低い株ほど生存率が低いことがわかった。しかし、この結果は異なる遺伝的背景を持つ株どうしを比較したものであり、核数以外の因子が生存率に関与した可能性を否定できない。そこで一つの株由来の分生子集団から単核が多く濃縮された分生子集団とそうでない分生子集団を分離し、それらにおける紫外線照射後の生存率を調べた。その結果、単核が濃縮された分生子集団は濃縮されていない集団よりも生存率が低いことがわかり、分生子内の核数は紫外線照射後の生存率に影響を与えることが示された。以上より、多核分生子は醸造産業で使用されるA. oryzaeの分生子保存中の遺伝的安定性に寄与していると考えられた。

単核分生子を多く形成するA. oryzae変異株の取得

 上述のように多核分生子の形成には核運搬機構が関与する。この分子機構を解析するために、分生子内の核数分布が変化する変異株の取得を試みた。ヒストンH2B-EGFPにより核が可視化されたA. oryzae NHG10株に対して変異処理を行い、分生子をFACSによってその核数毎に分ける方法を用いて単核分生子を多く形成するuni10株を分離した。NHG10株の単核分生子を形成する割合は約30%であるのに対して、uni10株における単核分生子の割合は約80%であった。この表現型より変異形質をmun(multinucleate conidium defect)と命名した。その後さらに同様の性質を持つ変異株を8株分離した。これらの変異株はuni10株と差異が認められないことより、解析には主にuni10株を用いた。uni10株はNHG10株と比べて分生子形成や発芽には影響が認められなかった。しかし蛍光顕微鏡を用いて核を観察したところ、uni10株はNHG10株と比べて核が大きいことがわかった。そこでPropidium IodideによりDNAを染色することで核当りのDNA含量を測定したところ、uni10株由来の分生子の核あたりのDNA量はNHG10株のそれよりも2倍程度多いことが示された。このことより、uni10株は2倍体であることが示唆された。しかし、菌糸由来のプロトプラストにおける核当りのDNA含量を測定したところ、NHG10株とuni10株に差異は認められなかった。

mun形質を相補あるいは抑圧する遺伝子のスクリーニング

 mun形質の優劣を判別するため、野生株との細胞融合実験を行った。その結果、細胞融合株は単核ではなく、多核の分生子を多く形成することがわかり、mun変異は劣性変異であることが示唆された。続いてmun形質を相補あるいは抑圧する遺伝子を取得するため、A. oryzae RIB40ゲノムのFosmidライブラリーとco-transformation用ベクターを用いて形質転換した。スクリーニングは変異株の探索と同様に、GFP蛍光を指標にFACSで形質転換体から多核分生子を分離することで行った。約2000の形質転換体より、親株と同様に多核分生子を多く形成する株を2株取得した。これらの株からFosmidを脱落させる実験を行ったところ、取得した2株のうち1株は単核分生子を多く形成する変異株の表現型を示し、脱落したFosmid中にmun形質を野生型に回復させる遺伝子が含まれることが示唆された。現在、mun遺伝子の探索を鋭意進めている。

 本研究により、A. oryzaeの多核分生子は分生子内での核分裂により形成されるのではなく、Phialideから分生子間において複数個の核が運搬されることにより形成されることがわかった。また、多核分生子は単核分生子よりも早く発芽した。加えて、多核分生子は単核分生子よりも紫外線に対して高い生存率を有していた。これらのことは多核分生子を形成するA. oryzaeが醸造産業で使用されてきた理由の一つであると考えられる。また、核の運搬による多核分生子が形成する機構を解析するために、分生子内の核数分布が変化する変異株とその相補株を取得した。今後、相補遺伝子の解析からA. oryzaeにおける多核分生子形成の分子機構に対する理解が深まるものと期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 糸状菌の分生子は栄養源の枯渇などが引き金となり気中の分生子柄(Stalk、Vesicle、Phialide)の先端に無性的に形成される細胞である。Aspergillus nidulansなど多くのAspergillus属糸状菌においては基底菌糸からVesicleまでつながる1つの細胞は多核であるが、Phialideから分生子は単核であることが知られている。一方、A. oryzaeではPhialideから分生子まで一部は単核であるが、多くは多核の状態を維持する。多核分生子の存在は古くから観察されていたものの、その形成機構の詳細は現在に至るまでほとんど理解されていない。本論文は麹菌A. oryzaeにおける多核分生子の形成機構とその存在意義について論じたものであり、4章よりなる。

 第1章ではA. oryzaeの多核分生子形成時における核運搬過程の追跡を試みた。まずA. nidulansをモデルとして観察手法の確立を試みたところ、A. nidulansでは、Stalk、Vesicle、Phialide、分生子の順に核が1つずつ運搬されることで単核の分生子が形成されることがわかった。次に同様の方法によりA. oryzaeにおける多核分生子形成機構を調べた。その結果、A. nidulansとは異なり、A. oryzaeにおいては複数個の核がVesicleとPhialide間で移動することがわかった。さらに、Phialideと分生子間でも複数個の核の移動が観察された。また、分生子内で核分裂は観察されなかった。したがって、A. oryzaeの多核分生子は分生子内での核分裂により形成されるのではなく、Phialideから分生子間において複数個の核が運搬されることにより形成されることがわかった。

 第2章では多核分生子の存在意義についての解析を行った。A. oryzaeの分生子発芽時における核動態を経時的に調べたところ、多核分生子は単核分生子よりも早く発芽することがわかった。さらに核数分布の異なる5種のA. oryzae株由来の分生子に紫外線照射し、その生存率を測定したところ、分生子内の核数が多い株ほど生存率が高く、低い株ほど生存率が低かった。また、一つの株由来の分生子集団から単核が多く濃縮された分生子集団とそうでない分生子集団を分離し、それらにおける紫外線照射後の生存率を調べた場合でも、単核が濃縮された分生子集団は濃縮されていない集団よりも生存率が低いことがわかった。以上より、多核分生子は醸造産業で使用されるA. oryzaeの分生子保存中の遺伝的安定性に寄与していると考えられた。

 続いて第3章では、分生子内の核数分布が変化する変異株の取得を試みた。ヒストンH2B-EGFPにより核が可視化されたA. oryzae NHG10株に対して変異処理を行い、単核分生子を多く形成するuni10株を分離した。この表現型より変異形質をmun(multinucleate conidium defect)と命名した。uni10株はNHG10株と比べて分生子形成や発芽には影響が認められなかったが、核が大きく、核当りのDNA含量がNHG10株よりも2倍程度多いことがわかった。このことより、uni10株は2倍体であることが示唆された。しかし、菌糸由来のプロトプラストにおける核当りのDNA含量を測定したところ、NHG10株とuni10株に差異は認められなかった。

 第4章では、mun形質を相補あるいは抑圧する遺伝子のスクリーニングを行った。mun変異が劣性変異であることを示したのち、mun形質を相補あるいは抑圧する遺伝子のスクリーニングを行った。約2,000の形質転換体より、親株と同様に多核分生子を多く形成する株を取得した。この株からFosmidを脱落させたところ、単核分生子を多く形成する変異株の表現型を示し、脱落したFosmid中にmun形質を野生型に回復させる遺伝子が含まれることが示唆された。

 以上、本論文はA. oryzaeの多核分生子がPhialideから分生子間において複数個の核が運搬されることにより形成されること、多核分生子は単核分生子よりも早く発芽し、紫外線に対して高い生存率を有することを示した。また、多核分生子が形成される機構を解析するために、分生子内の核数分布が変化する変異株を単離し、その相補遺伝子の取得を行った。これらの知見は産業上有用であるA. oryzaeの基礎的理解に不可欠なものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク