学位論文要旨



No 120158
著者(漢字) 地神,貴史
著者(英字)
著者(カナ) ヂガミ,タカフミ
標題(和) Wntシグナル制御因子B9Lの機能解析
標題(洋)
報告番号 120158
報告番号 甲20158
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2841号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 教授 福井,泰久
内容要旨 要旨を表示する

 Wntシグナルは個体の発生、発癌に重要な役割を果たしていることが知られている。

なかでもシグナル経路の構成因子であるAPC(adenomatous polyposis coli)、β-cateninはヒトの大腸癌において遺伝子変異を起こしていることが発見され特に重要な役割を担っていることが明らかとなっている。両変異とも核内のβ-cateninの蓄積を引き起こし、その結果転写標的因子の発現が亢進する。近年の精力的な研究からWntシグナル経路の制御因子が数多く同定されているが、複雑に制御されている転写調節機構の全てが解明されたわけではない。本研究室ではWntシグナルを制御する様々な因子を同定し機能を解析しているがこのたび正に制御する因子を同定しB9Lと名付けた。(Adachi S, Jigami T, et al. 2004)

 B9Lは1493アミノ酸からなり、B細胞リンパ腫で活性化している癌遺伝子BCL9と全長にわたり37%の相同性を持っていた。Blastサーチによりゼブラフィッシュをはじめ、マウス、ラット、ヒトなどの脊椎動物にも相同性のある遺伝子が存在することが明らかになった。我々の培養細胞を用いた実験結果から、B9Lはβ-catenin/Tcfと相互作用し転写標的遺伝子の発現を制御することが明らかとなった。またヒトの大腸癌組織を用いたRT-PCR、免疫染色の結果、大腸癌において高度に発現の上昇が認められた。Wntシグナルの構成因子は発生過程やヒトの病気とも密接に関係しており、B9Lの生体内での機能を明らかにすることは非常に興味深く重要な知見を与えてくれることが期待された。

 本研究ではB9Lの生理的な機能を解析するため、またβ-catenin/tcfを介した転写機構が担う生体での役割を明らかにするためB9L遺伝子欠損マウスの作製および解析を行った。

1,B9L遺伝子ノックアウトマウスの作製

 マウスB9Lの塩基配列を元に作製したプローブを用いてC57BL/6マウスゲノムライブラリーをスクリーニングし、マウスB9Lゲノム断片を得た。B9Lの完全欠失を目的としスプライシングバリアントの影響を無視できるようにexon2より変異を導入することとした。ゲノム断片の部分的な塩基配列を決定し、制限酵素地図を作成した後、B9Lの発現をX-gal染色にてモニターできるよう2nd ATGの下流にLacZ遺伝子をインフレームで挿入したターゲティグベクターを構築した。TT2 ES細胞にエレクトロポレーション法により遺伝子導入し相同組み換え体を単離、同定し、得られたポジティブクローンを用いてアグリゲーション法によりキメラマウスを作出した。

2,マウス胎仔におけるB9L遺伝子の発現様式

 ヘテロマウスをX-gal染色した結果、B9LはE10.5マウス個体においてほぼユビキタスに発現していた。そこで切片を作製し詳細に観察ところ、特に背側大動脈および脊索に強いシグナルが出ていた。また、卵黄嚢においては動脈系に強く、胎盤においては脱落膜領域、ラビリンスレイヤーにシグナルが認められた。

3,B9Lノックアウトマウスの解析

 B9Lヘテロマウス同士を掛け合わせ、新生児の尻尾でタイピングを行ったところ、B9Lのホモ個体は正常に生まれてくる群では確認されなかった。そこで、胎生9日目で胎仔を取り出し卵黄嚢にてタイピングを行ったところホモ個体が確認された。これ以降10日目、11日目でホモ個体が確認できたが、11日目ではすでに退縮がかなり進んでおり、B9Lノックアウトマウスは胎生10日以降に胎生致死となることが明らかとなった。

3-1 胚体外組織における表現型の解析

 マウスの発生では胎生7日目の卵黄嚢において初期の血管形成、造血が始まる(一次造血)。この造血はその後胎仔での造血(二次造血)が営まれる胎生9日前後まで続くということが知られている。卵黄嚢では血島と呼ばれる細胞集団ができ、内側の細胞は血球へと分化し、外側の細胞が血管内皮細胞に分化し大小不同のない原始血管叢を形成する(vasculogenesis)。この均一な血管叢から発芽、分岐、融合、嵌入、退縮を繰り返すリモデリングと呼ばれる過程を経て新たな管腔が形成され全身に分布する成熟した血管システムが形成される(angiogenesis)。

 B9Lノックアウトマウスの卵黄嚢の外観は明瞭な血管が認められず蒼白であった。切片を作製しHE染色にて構造を観察したところ血管内の血球の顕著な減少が認められた。また、血管内皮細胞のマーカーであるPECAM-1(platelet endothelial cell adhesion molecule)抗体にて染色したところ血管構造の異常が認められた。

 胎盤は、胎仔が酸素やその他の栄養分を親から受け渡される重要な組織である。なかでもラビリンスレイヤーと呼ばれる母体由来の血管と胎仔の血管が共存する領域が重要な働きをし、ホモ個体で注目したところ母親由来の血管、血液は認められたものの胎仔由来の血管、血液が認められなかった。

 上記のことからB9Lは胚体外組織の血管形成において重要な機能を果たしていることが明らかになった。

3-2 胎仔における表現型の解析

 胎生9日のホモ個体は、野生型に比べると外見上特に異常は認められなかった。しかし胎生10日になると外観上では、成長の遅滞や頭部の形成不全、心臓を含む様々な部位での内出血が認められた。ホモ個体のなかには心臓において心膜が肥大化し、loop形成に異常をきたしているものも観察された。そこで、E10.5の胎仔についてもPECAM染色したところ、頭部において野生型では緻密な血管構造が認められたが、ホモ個体では経の太い粗雑な血管構造が観察され、卵黄嚢同様angiogenesisの不全が示唆された。さらに血管構造を詳細に解析するためE10.5の胎仔の毛細血管の電子顕微鏡観察を行ったところ、ホモ個体では野生型に比べ外径が太く、血管内皮細胞同士の接着面が短く接着性が脆弱であることが示唆された。これらの結果からB9Lは血管形成において重要な機能を担っていると考えられた。

 OP9ストローマ細胞の上にE9.5のマウスのP-sp領域(para-aortic splanchnopleural mesoderm)を血清、IL-6、IL-7、SCF、Epo存在下で共培養するとvascular bedと呼ばれる内皮細胞のシートができ、そこから延びる血管の構造が二次元的に再現されることが知られておりP-spアッセイと呼ばれている。そこで、B9Lの欠失によりP-spアッセイによる血管構造形成に差が見られるかどうか検討したが、ホモ個体と野生型で顕著な差は見いだされなかった。生体では、血管は内皮細胞の管腔構造の外側を平滑筋細胞が取り巻くことにより構成されているので、in vitroでの二次元的な系では差が見られなかった可能性があると考えられる。

 マウスの心臓形成は初期の円筒形のチューブ構造がloopingと呼ばれる屈曲を経て構築される。これまでにWnt1は予定心臓領域のneural crest cellで発現しており、心臓形成過程においてWntシグナルが重要な機能を担っていることが示唆されている。この現象は胎生9日前後で起こりその屈曲は10日目でも続く。そこでB9Lノックアウトマウスで心臓に着目して観察したところ、ホモ個体の中にはこのloopingに異常をきたしたものが観察された。さらに連続切片を作成しHE染色にて構造的な差異を検討したところ、心臓の肉柱(torabeculae)の形成不全を起こしている個体も確認された。また、心室の心筋層の厚さが野生型に比べ薄いことも認められた。

4,総括

 B9Lノックアウトマウスの解析から、B9Lがマウスの発生過程で卵黄嚢、胎盤、胎仔いずれにおいても重要な働きをしていること、特に血管、心臓の形成に必須のはたらきをしていることが明らかとなった。これまでに、WntのレセプターであるFzd5ノックアウトマウスや血管内皮細胞特異的にβ-cateninを欠損させたマウスが同様の表現型を示すことが報告されている。今後、B9Lノックアウトマウスをさらに詳細に解析することにより、血管形成におけるWntシグナルの役割を転写の分子機構のレベルで解明することが可能になると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 Wntシグナルは個体の発生、癌化に重要な働きをしている。これまで、Wntシグナルに関して多くの知見が蓄積され、このシグナルによって制御される様々な現象に対する理解も深まりつつある。Wntシグナルが活性化すると細胞内ではβ-cateninが蓄積し、核内へ移行して転写因子TCF/LEFと相互作用することにより転写標的遺伝子の転写制御が引き起こされる。既に申請者らはWntシグナルの新たな制御因子B9Lを同定し、β-catenin/Tcfを介した転写を制御していることを明らかにしている。転写制御機構の破綻は大腸癌などにおいて認められているがそのメカニズムについては完全には明らかとなっていない。本研究は、B9Lの生体での機能を明らかにするためノックアウトマウスの作製を行い、その表現型を明らかにしたものである。

 第一章では、B9Lに関する基礎的な知見をまとめ本論文の目的を述べた。

 第二章では、ノックアウトマウス作製について述べた。ターゲティグベクター作製時に、LacZ遺伝子をB9LのATG下流にフレームの合うように挿入しB9Lの機能が欠失するように設計した。ES細胞へのエレクトロポレーションによる遺伝子導入、G418によるスクリーニングの後、PCRおよびサザンブロットで相同組み換え体を同定した。得られたポジティブクローンを用いてアグリゲーション法によりキメラマウスの作製を行い、キメラマウスの作出に成功した。

 第三章では、B9Lヘテロマウスを用いてB9L遺伝子の発現解析を報告した。前述のストラテジーによるLacZ遺伝子の活性を指標にX-gal染色によりB9Lの発現を解析した。E10.5の卵黄嚢、胎盤、胎仔を用いて解析した結果、卵黄嚢では脈管系でシグナルが認められ、特に血管内皮細胞(EC)やその周辺のmesothelial layer、一部のendothelial cellでシグナルが認められたことを報告した。胎盤ではラビリンスレイヤーに発現が認められた。一方胎仔では、背側大動脈や心嚢膜、脊索などにシグナルが認められた。

 第四章では、B9Lノックアウトマウスの表現型の解析結果を述べた。B9Lのホモ欠損個体は胎生11日で胎生致死となった。その顕著な表現型は卵黄嚢に認められ、E10.5の野生型では血管構造、血流が認められる一方、ホモ個体では卵黄嚢表面が蒼白であり、切片の染色により血流の減少、血管形成の不全が認められた。また、胎盤ではラビリンスレイヤーにおける胎仔型血管構造の形成不全が見出され、胚体外組織でのB9Lの重要性が明らかとなった。一方胎仔では、野生型に比べ発育遅滞や心臓領域での浮腫、内出血が認められた。さらに、血管内皮細胞のマーカーである抗PECAM抗体を用いた免疫組織染色や電子顕微鏡観察により血管構造の異常を明らかにした。また、心臓の形成不全を連続切片のHE染色により明らかにし、B9Lがマウス胎仔における脈管形成や心臓の形態形成に重要な働きをしていることを明らかにした

 本研究ではWntシグナル制御因子B9Lがマウスの発生段階において胚体外組織の形態形成や、胎仔での脈管形成、心臓の形態形成に重要な働きをしていることを明らかにした。

 血管形成のメカニズムは癌などにおける腫瘍血管形成のメカニズムにも共通する事象であり、血管形成の研究の発展は、血管制御によって病態の改善を誘導する血管治療の開発にも重要な知見を与えてくれると期待される。

 以上、本論文はB9Lノックアウトマウスの作製および機能解析を行ったもので、その表現型は興味深く、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の単位論文として価値あるものと認めた。

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