学位論文要旨



No 120174
著者(漢字) 深澤,博達
著者(英字)
著者(カナ) フカザワ,ヒロタツ
標題(和) エゾアワビの成熟と卵質に関する研究
標題(洋)
報告番号 120174
報告番号 甲20174
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2857号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 河村,知彦
 東京大学 教授 塚本,勝巳
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 教授 渡邊,良朗
 水産総合研究センター 北海道区水産研究所所長 浮,永久
内容要旨 要旨を表示する

 エゾアワビHaliotis duscus hannaiの成熟の進行は、主に水温と餌料条件に影響を受ける。生殖巣の発達は7.6℃を超える水温の積算値(成熟有効積算水温:EAT)に比例し、EATが500℃・daysを超えると成熟個体が出現する。東北地方における産卵期は7〜11月とされているが、実際に放卵・放精が可能になる時期は、水温経過や餌料環境に依存するものと考えられる。エゾアワビの放卵・放精は、台風の通過などによる大規模な時化の発生に同期することがわかっている。したがって、水温経過や餌料環境に加えて、産卵期における時化の発生時期や発生回数によっても産卵時の生殖巣の状態が異なり、配偶子の量や質に違いが生じる可能性がある。エゾアワビの生殖巣の発達は人為的な水温管理によって制御することが可能であるが、EATの経過に伴う生殖細胞の詳細な成熟過程については明らかにされておらず、放出される配偶子の質に関する研究例はほとんどない。配偶子の質的変化が、受精率や胚の初期発育ばかりでなく幼体の成長にまで影響を及ぼすことが多くの生物で示唆されているが、その実証例は非常に少なく、アワビ類については全く検討されていない。

 エゾアワビ浮遊幼生は、通常数日間の浮遊期間の後に基質を選んで着底・変態する。しかし、好適な着底基質(着底・変態誘起物質)に遭遇しなかった場合には浮遊期間を延長する。浮遊幼生は摂餌を行わず、卵黄を主な栄養源とすると考えられている。したがって、幼生が浮遊していられる期間は、卵黄の量や成分によって変化する可能性がある。着底・変態した初期稚貝は全く餌がなくても周口殻を形成してある程度は成長できる。また、浮遊期間が長いほど変態後の飢餓耐性が低くなるため、卵黄は変態後もしばらくは主要な栄養源になるものと考えられている。変態後の初期稚貝の無給餌での生存日数は、受精から同時間後に変態した場合でも、種苗生産ロットによって異なることが報告されており、母貝に由来する卵黄の量や質に違いがあることが示唆されている。

 本研究では、浮遊幼生が変態せずに生存できる期間(最長幼生期間)と初期稚貝の無給餌生存期間を指標にして、産卵時までにエゾアワビ母貝が経験するEAT、産卵回数および餌料条件の違いが幼体に影響を及ぼすかどうかを検討した。それがどのような卵の質的な変化によるものかを明らかにするため、EATの経過および産卵経験に伴う卵巣の成熟過程と産み出された卵の卵黄体積および含有成分を調べ、幼体に影響を及ぼす要因を抽出した。また、卵黄以外の栄養源として、環境水中の溶存態有機物や金属が浮遊幼生や変態直後の初期稚貝に利用されているかどうかを調べた。

母貝の飼育履歴が浮遊幼生、初期稚貝に及ぼす影響

 母貝が産卵までに経験するEAT(実験1)、産卵回数(実験2)および餌料条件(実験3)の違いが、幼体の最長幼生期間と変態後(初期稚貝)の無給餌生存期間に及ぼす影響を調べた。

 実験1:人工生産された雌貝(殻長89.2±4.6mm、体重87.7±17.7g)を同一条件の流水水槽内で飼育し、EATが850、1050、1150、1650、1900、2350℃・days時にそれぞれ3〜5個体を取り上げ、産卵誘発刺激を与えて採卵を行った。別に飼育していた雄貝の精子で受精させた結果、1050、1150、1650および2350℃・days時に産まれた卵から十分量の浮遊幼生を得た。浮遊幼生を抗生物質を含む滅菌海水中で飼育し、着底・変態誘起物質を与えずに自発的に変態するか死亡するまでの日数(最長幼生期間)を測定した。また、一定の浮遊期間後にγ-アミノ酪酸で着底・変態を誘起し、変態した初期稚貝を無給餌で飼育して生存期間を測定した。1650、2350℃・days時に生まれた幼体の最長幼生期間はそれぞれ23.9±0.4日、23.7±0.6日であり、1050、1150℃・days時に生まれた幼体(それぞれ17.9±0.5日、17.3±0.3日)に比べ有意に長かった。また初期稚貝の無給餌生存期間についても、1650、2350℃・days時に生まれた幼体の方が1050、1150℃・days時に生まれた幼体より有意に長かった。

 実験2:エゾアワビについては、これまで1産卵期に同一個体が多回産卵するかどうか明らかでなかったが、本研究で同一個体に不連続に2回の産卵を行わせることができた。EAT700℃・days時に産卵誘発刺激を与えて採卵した5個体の母貝(殻長94.1±1.9mm、体重105.7±10.0g)の飼育を継続し、EAT1500℃・days時に再び刺激を与えて採卵した。2回の産卵で得られた幼体の最長幼生期間を比較した結果、1500℃・days時の卵から生まれた幼生が700℃・days時の卵から生まれた幼生より長かった。

 実験3:3段階の異なる給餌量(飽食量、飽食量の1/2量、1/8量)で飼育した母貝(殻長78.1±2.7mm、体重61.0±7.2g)それぞれ4個体に、EATが1900℃・days時に産卵誘発刺激を与えて採卵、受精を行い、生まれた幼体の最長幼生期間と変態後の無給餌生存期間を比較した結果、母貝の給餌量による有意な差は認められなかった。

成熟の進行と卵質の変化

 EATの経過に伴う卵巣の発達過程および産卵後の卵巣の変化を組織学的に観察した。卵巣内に認められる卵母細胞は、染色仁期、無卵黄期、油球期、卵黄球前期、卵黄球後期の5期に分類される。卵黄球後期の卵母細胞が産卵刺激を受けると卵巣腔内へ排卵され、その後放卵される。EATが300℃・days時の卵巣は油球期の卵母細胞のみで占められていたが、600℃・daysを超えると卵黄球後期の細胞が優占した。産卵刺激が与えられない場合には、850℃・days前後から卵黄球後期の細胞の一部が崩壊して再吸収され始めた。卵黄球後期の細胞が再吸収によってほとんど全て消失した後に、油球期に留まっていた別の卵母細胞群の成熟が進み、再び卵巣内は卵黄球後期の細胞で占められた。卵母細胞の崩壊が進む以前に産卵刺激を受けて卵黄球後期の細胞がほとんど全て放卵(第1次成熟卵)された場合には、速やかに別の卵母細胞の成熟が進み、400℃・daysほど経過すると卵巣は再び卵黄球後期の細胞に満たされ、産卵可能になった(第2次成熟卵)。産卵が小規模で、卵黄球後期の細胞の一部が放卵されなかった場合には、その後再び産卵刺激が与えられれば残りの卵母細胞が放卵されるが、産卵刺激がない場合にはやがて崩壊、再吸収が進んだ。2回目に成熟した卵母細胞群が放卵されるか再吸収された後には、その後水温を保って飼育を継続しても卵巣は発達しなかった。

 この結果から、実験1の850、1050、1150、1650℃・daysおよび実験2のEAT700℃・days時に得られた卵は第1次成熟卵、実験1の1900、2350℃・days、実験2の1500℃・days、および実験3の1900℃・days時に得られた卵は第2次成熟卵と考えられた。ただし、実験1の1650℃・days時に得られた卵は小規模な産卵の後に生み残された第1次成熟卵と判断された。これら3実験で得られた未受精卵の卵黄体積と脂質、蛋白質、糖質の含有率を測定し、それぞれ実験区間で比較を行った結果、実験1と2で第2次成熟卵の脂質および蛋白質含有率が第1次成熟卵のものより有意に高かった。卵黄体積には実験区による明確な違いは認められなかった。また、糖質の含有率は全ての卵群において検出感度以下であった。

 実験1で求めた最長幼生期間および初期稚貝の無給餌生存期間とそれぞれが由来する卵の卵黄体積および脂質と蛋白質の含有率との相関を調べたところ、最長幼生期間、初期稚貝の無給餌生存期間はともに脂質および蛋白質の含有率と有意な正の相関を示すことがわかった。

環境水中の物質が幼生、初期稚貝に及ぼす影響

 北米産のアカネアワビの浮遊幼生と変態直後の初期稚貝は、卵黄以外にも環境水中の溶存態有機物(DOM)を栄養源として利用していると考えられている。そこで、エゾアワビの最長幼生期間および初期稚貝の無給餌生存期間を、天然海水とDOMを含まない人工海水中で比較した。その結果、両期間ともに飼育海水による有意な差は認められなかったことから、DOMはエゾアワビ浮遊幼生および初期稚貝のエネルギー源としては重要でないと考えられた。

 一方、人工海水中で変態した初期稚貝は、天然海水中ではほとんどの個体が形成する周口殻を全く形成しなかったため、周口殻の形成には天然海水に含まれ人工海水には含まれない何らかの物質の取り込みが必要と考えられた。そこで人工海水に様々な有機物や金属を組み合わせて加え、周口殻を形成するかどうか調べた。周口殻の形成に必要な物質を完全に解明することはできなかったが、正常な周口殻の形成には複数の金属の錯体を環境水中から取り込む必要があると推察された。しかし、金属の必要度は由来する母貝によって異なり、同じ母貝から得た稚貝でも個体によって異なったことから、卵黄に含まれる金属の量や割合が変化するものと考えられた。

 本研究の結果、エゾアワビでは、EATの経過に伴い1産卵期に2つの異なる卵母細胞群が連続して成熟し、一定の期間内に産卵刺激が与えられれば少なくとも2回の産卵を行うことが示唆された。これに伴い、産卵時までに経験するEATと同一産卵期中における産卵経験の有無によって、卵に含まれる脂質および蛋白質の量が変化し、生まれる幼体の最長幼生期間や変態後の無給餌生存期間に影響を及ぼすことが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 エゾアワビHaliotis discus hannaiの成熟の進行は主に水温と餌料条件に影響を受け、産卵・放精にはそれらを誘発する外部刺激要因が必要である。生殖巣の発達は7.6℃を超える水温の積算値(成熟有効積算水温:EAT)に比例し、人為的な水温管理によって制御することが可能であるが、EATの増加に伴う生殖細胞の詳細な成熟過程は明らかではなく、放出される配偶子の質に関する研究例はほとんど無い。本研究は、エゾアワビの卵質が産卵時までに母貝の経験する水温履歴や同一産卵期における産卵回数、餌料環境によって変化し、それが浮遊幼生や初期稚貝に影響を及ぼすかどうかを明らかにすることを目的とした。

 第1章では、海洋動物およびアワビ類の卵質に関するこれまでの研究を総括し、卵質に係わるエゾアワビの繁殖生態、初期生態を概説するとともに、本研究の目的を明示した。

 第2章では、浮遊幼生が着底・変態せずに生存できる期間(最長浮遊期間)と変態後の初期稚貝の無給餌条件下における生存期間(無給餌生存期間)を指標にして、母貝が産卵時までに経験するEAT(実験1)、同一産卵期内における産卵経験(実験2)および給餌量(実験3)が浮遊幼生や初期稚貝に及ぼす影響を検討した。その結果、実験1では、異なるEAT時に得られた幼体(1050、1150、1650、2350℃群)の最長浮遊期間と無給餌生存期間に違いが認められ、1650℃群と2350℃群が1050℃群と1150℃群より有意に長かった。実験2では、同一の母貝が同一産卵期に少なくとも2回産卵を行うことがわかった。2回目の産卵(1500℃・days時)で得られた浮遊幼生の最長浮遊期間が1回目(700℃・days時)に比べて有意に長かった。一方、最長浮遊期間と無給餌生存期間には、母貝に対する給餌量の違い(飽食量群、1/2量群、1/8量群)による明確な差違は認められなかった(実験3)。

 第3章では、EATの増加および産卵経験に伴う卵巣の成熟過程と産み出された卵の卵黄体積および含有成分を調べ、幼体に影響を及ぼす要因を抽出した。EATが600℃・daysに増加すると、卵巣内には卵黄球後期の卵母細胞が優占し、産卵可能な状態となった。産卵誘発刺激を受けて卵黄球後期の卵母細胞がほとんど全て産卵された場合には速やかに新たな卵母細胞群の成熟が進み、水温20℃では約1ヶ月(400℃・days)で再び産卵可能な状態になった。一方、卵黄球後期の卵母細胞が一部産み残された場合には、それらはその後刺激が与えられなければやがて崩壊・再吸収された。ほとんど全ての卵母細胞が産卵されるか再吸収された後に、新たな卵母細胞群が発達することがわかった。1産卵期中に異なる2つの卵母細胞群が継続して成熟を進行させるが、その後3番目の卵母細胞群は成熟しないと考えられた。産卵期の最初と2番目に成熟した卵母細胞群に由来する卵をそれぞれ第1次成熟卵、第2次成熟卵と呼称し、第2章の3実験で得られた未受精卵の卵黄体積と蛋白質、脂質、糖質の含有率を比較した結果、第2次成熟卵の蛋白質および脂質含有率が第1次成熟卵に比べ有意に高かった。異なる給餌量群間では、蛋白質と脂質の含有率に有意差は認められなかった。幼体の最長浮遊期間および無給餌生存期間と、それぞれが由来する卵の蛋白質および脂質の含有率との間に有意な正の相関が認められた。

 第4章では、卵黄以外の栄養源と考えられている環境水中の溶存態有機物(DOM)が浮遊幼生や変態直後の初期稚貝に利用されているかどうかを調べた。浮遊幼生の最長浮遊期間および初期稚貝の無給餌生存期間を、天然海水とDOMを含まない人工海水中で比較した結果、両期間ともに飼育海水による有意差は認められなかったことから、DOMはエゾアワビ幼体のエネルギー源としては重要でないと考えられた。

 第5章の総合考察では、第2章から第4章までの結果を踏まえて、天然生息域におけるエゾアワビの成熟と産卵の過程を考察し、その結果として変化する卵質が、浮遊幼生や初期稚貝の生き残りに及ぼす影響について論議した。また、種苗生産現場において、卵質を考慮した親貝の養成手法について考察した。

 以上、本研究は、エゾアワビの成熟進行過程とそれに伴う卵質の変化を解明し、卵に含まれる脂質および蛋白質の含有率が幼体の最長浮遊期間や変態後の無給餌生存期間に影響を及ぼすことを明らかにした。配偶子の質的変化が、受精率や胚の初期発育ばかりでなく幼体の生残・成長にまで影響を及ぼすことが多くの生物で示唆されているが、その実証例は非常に少ない。本研究の結果は、エゾアワビばかりでなく、海洋動物の初期生残に及ぼす卵質の影響を考える上で重要であり、同時にアワビ類の種苗生産技術の向上にも大いに貢献するものである。よって審査委員一同は本論文が学位(農学)に値するものと判断した。

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