学位論文要旨



No 120177
著者(漢字) 大久保,綾子
著者(英字)
著者(カナ) オオクボ,アヤコ
標題(和) 海洋のトリウム同位体とその海洋生物地球化学研究への応用
標題(洋) Thorium isotopes in sea water and their applications to marine biogeochemical studies
報告番号 120177
報告番号 甲20177
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2860号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蒲生,俊敬
 東京大学 教授 植松,光夫
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 武田,重信
 東京大学 講師 小畑,元
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 天然放射性核種を海洋物質循環の研究に用いる最大の利点は,放射性各種の濃度を測定することにより,海水の移流や拡散,粒子の沈降などの速度情報を得られる点にある.海洋における生物地球化学的サイクルの中でも粒子の沈降と分解再生の過程については,Th同位体を用いた研究が盛んに行なわれてきた.天然放射性核種の一つであるThは,海水中では,Th(OH)4として存在していると考えられており[Turner et al., 1981],粒子に吸着されやすい性質がある.このために生じる,親核種の234Uと娘核種の230Th(半減期7.52 x 104年)の放射非平衡からThの除去フラックスが計算され,海洋の沈降粒子に関する速度情報が得られる.これまでの研究から,海水中の230Thは,表層から深層にかけて濃度が単調に増加するということが知られており,その鉛直分布はリバーシブルスキャベンジングモデルで記述されてきた[Nozaki et al., 1981;Bacon and Anderson, 1982].このモデル計算から得られる粒子の沈降速度や海水-粒子間の元素の交換速度は,Th同位体に関する速度情報であるが,その他の元素についても,海水-粒子間の分配係数を考慮すれば,モデルによる解析が適用可能である[Nozaki and Alibo, 2003].

 本研究では,230Th鉛直分布の解析から,海水中でのTh同位体の除去機構について議論し,その速度情報を得ることを目的としている.まず,代表的な外洋域として,生物生産性が低く,比較的安定した鉛直水塊構造を持つことが知られている太平洋中緯度域を調査海域に選んだ.また,Th同位体の除去要因として,沈降粒子による除去以外に,海水中から海底面への直接的な除去(bottom scavenging)も予測された.そこで,この効果が高いと考えられる半閉鎖性海域(アンダマン海およびスル海)について調査を行ない,Th同位体の鉛直分布に対するbottom scavengingの影響を検討した.

 一方で,Th同位体の粒子吸着性が高いことに注目し,沈降粒子フラックスの推定も行なった.調査海域の東部インド洋については,ベンガル湾を除くと,セジメントトラップを用いた沈降粒子フラックスの測定は行なわれておらず,今回の結果は,この海域の沈降粒子フラックスに関する初めての報告になる.

1.太平洋中緯度域におけるTh同位体の鉛直分布

 東京大学白鳳丸KH-00-3次研究航海(2000年6月-7月)で得られた,BO-4(16oN,160oW,Depth:5597m),BO-5(19oN,175oW,Depth:5480m)における230Thの鉛直分布を,過去の文献値(CE-5:[Nozaki et al., 1985])と共に示す(Fig.1).

 太平洋西部の測点であるBO-6とBO-7 (150oE-168oE)については,比較したCE-5と同様の230Th鉛直分布であった.

 一方で,BO-4およびBO-5については,300m以深でCE-5よりも濃度が高い傾向を示した.表層の生物生産の分布が示すように[Berger et al., 1987],この海域は生物生産性が低い海域である.したがって,230Th濃度の高い理由は,Thの除去速度が低いためであると考えられた.リバーシブルスキャベンジングモデルをBO-4,5に適用したところ,平均的な沈降速度はいずれの測点についても300m/yという値が算出された.これは,これまでの太平洋についての報告値の中でも最小の値である.また,モデルの予測値と実測値を比較したところ,BO-4,については予測値と実測値はほぼ一致したが,BO-5では,4000m以深で実測値がモデルよりも著しく低い値を示した.この理由としては,1)低い230Th濃度をもつ海水の流入 2)粒子の水平輸送とその沈降に伴う230Thの除去 3)bottom scavenging の影響が考えられた.

2.半閉鎖性海域におけるTh同位体の鉛直分布

 半閉鎖性海域のアンダマン海,スル海,および南シナ海の深層における230Thの平均値は,それぞれ0.63dpm/m3(アンダマン海),0.5dpm/m3(スル海),0.73dpm/m3(南シナ海)であった.これらの値は,外洋域について報告された230Th濃度よりも著しく低く,スキャベンジングモデルによって想定されていない要因が強く影響していると考えられる.

 アンダマン海はシルによってベンガル湾から隔てられており,ベンガル湾の水深1000m付近の海水がアンダマン海の深層に流入していることが希土類元素パターンの解析から報告されている[Nozaki and Alibo,2003].また,アンダマン海の溶存酸素濃度の鉛直分布は,1000m以深において一定値をとっており,その値はベンガル湾の1000mの濃度に等しい.このことから,アンダマン海の深層水は,有機物の分解に伴う溶存酸素の消費が濃度分布に現れるよりも速く入れ替わっていることが予測された.一方で,アンダマン海のような半閉鎖性海域では,外洋域に比べて海盆内の海水に対する海底の比表面積が大きい.このため,Thの除去過程としては,放射壊変と粒子除去の他に,海水中から堆積物表面への直接的な除去(bottom scavenging)の影響を考慮する必要がある.アンダマン海については,この影響を,210Pb/226Ra比から検討した.その結果,アンダマン海深層水とベンガル湾から流入してくる海水の間で210Pb/226Ra比が一致したことから,アンダマン海の深層水は,bottom scavengingの影響が210Pb/226Ra比に現れるよりも速く入れ替わっていると結論づけられた.そこで,アンダマン海の230Th鉛直分布に,海水の交換の影響を考慮したスキャベンジングミキシングモデルを適用したところ,深層水の更新時間は,6年以下と極めて短いことがわかった(Fig.2).一方で,スル海および南シナ海の深層水中で230Th濃度が低かった理由については,海水の交換では説明がつかず,海水が海盆内に滞留している間に,Thが深層で除去されていると考えられた.

3.234U-230Thおよび228Ra-228Th放射非平衡を利用した東部インド洋における粒子フラックスの推定

 海洋表層の植物プランクトンによる生物生産では,海水中の溶存無機炭素を炭素源として有機物を合成しているが,この有機物を主成分として生成された沈降粒子は,大きなもので>100m/dayの速度をもって海底に沈降・除去されていく.このように表層での生物生産を起点とした海洋における炭素循環過程は,地質学的時間スケールに渡って大気中CO2を海底に隔離するCO2吸収過程であるとして注目されてきた.この沈降粒子フラックスの測定について,最近ではセジメントトラップ実験と平行して,粒子との反応性が高い元素であるトリウムをトレーサーとした研究が行われるようになった.本研究では,粒子との反応性の高いトリウムの中でも,半減期の長い230Th(半減期7.52 x 104年)及び228Th(半減期1.9年)をトレーサーとして用いて,東部インド洋における平均的な沈降粒子フラックスを見積もり,この海域の生物・物質循環過程との関連を検討した.白鳳丸KH-96-5次研究航海(1996年12月-1997年2月)で得られたデータを解析した結果,沈降粒子フラックスは,南大洋に近い測点のPA-4とベンガル湾のPA-9で高く,亜熱帯域のPA-7とアンダマン海のPA-10では低い値であった(Fig.3).

ベンガル湾については,セジメントトラップ実験による沈降粒子フラックスが求められており[Ittekot et al., 1991],比較した結果,本研究の結果とよく一致することが明らかになった.また,ベンガル湾で行われた15Nの取り込み実験による新生産量の見積もり[Kumar et al.,2004]とも整合性のある結果が得られた.本航海の同測点について報告された新生産量[Nozaki and Yamamoto,2001]と,有光層内の沈降粒子フラックスの積算値の相関は高く(r2=0.87,Fig.4),いずれの測点においても,沈降粒子の大部分が生物起源粒子であると考えられた.PA-4,PA-5については,ケイ酸塩濃度が,600mまで枯渇していたことと,堆積物が珪質軟泥であったことから,沈降粒子の主成分は生物起源オパールであると考えられた.珪藻が優占する海域では,粒子束も大きいが,沈降過程におけるオパールの溶解も著しいことが報告されている[Francois et al.,2002].今回の結果についても,PA-4とPA-5では200m付近での粒子フラックスの急激な減少が見られたが,400m以深の粒子フラックスの平均値(PA-4:49mg/m2/day,PA-5:33mg/m2/day)は,亜熱帯域の値(PA-7:10mg/m2/day)に比べて高い値であった.表層での生物生産が高い海域では,温度躍層以深でも高い沈降粒子フラックスとして対応していることが明らかになった.

Fig.1 Vertical profiles of 230Th in the Pacific Ocean.

Fig.2 Scavenging-mixing model derived 230Th profiles in the Andaman Sea (PA-10) with renewal time variation.

Fig.3 Vertical profiles of particle flux in eastern Indian Ocean.

Fig.4 The relationship between new production and integrated particle flux in euphotic zone.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,海水中にごくわずか含まれているトリウム同位体の濃度分布を正確に求めることによって,海洋表層から深層に向かう物質輸送,特に生物起源の沈降粒子への吸着・脱着過程に支配される元素の挙動の解明を大きく前進させた点が高く評価される。本研究を成功に導いた大きな要因の一つは,海水中の放射性核種の特性をうまく活用したことにある。天然の放射性同位体を海洋の物質循環の研究に用いることの利点は,放射性核種の濃度を測定することによって,海洋の様々な現象に時間軸を与えられることである。トリウムは天然放射性核種の一つで,粒子に吸着されやすい性質を持っている。親核種から生成するトリウムが海水から除去されるために,親核種とトリウムとの間には放射平衡が成立していない。このようなトリウムの挙動の詳細な解明は,粒子吸着性の強い他の化学元素にも適用が可能で,最終的には海洋の炭素循環の解明に大きく資するものである。

 本論文は4つの章からなる。第1章には,本研究の目的・意義・過去の研究例・データ解析の基礎理論などがまとめられている。第2章は本研究で用いられた海水試料採取方法と化学分析方法が詳しく記載されている。本研究は,調査海域と研究目的により独立性の強い3つの研究から構成されるが,第3章にそれらの研究成果が3つの節(3.1節,3.2節,および3.3節)として記載され,議論されている。第3章の内容については以下に詳しく述べる通りである。なお,最後の第4章に本論文全体の結論が要約されている。

 3.1節では,まず代表的な外洋域として,生物生産性が低く安定した鉛直水塊構造を持つ太平洋中緯度域の調査研究結果が記述されている。トリウム-230濃度が深さとともに直線的に増加する傾向のあることが再確認され,トリウムが沈降粒子への吸着と脱着を繰り返しながら海底に向かって移動すること,表層の生物生産性の低さがトリウム除去過程を不活発にしていることが明らかとなった。

 次に3.2節においては,上記とは対照的な海域として,海底面と海水の接触頻度が高くトリウムの除去が活発に起こると予測される半閉鎖性海域(アンダマン海,スールー海,南シナ海など西太平洋からインド洋にかけて点在する縁海)を研究ターゲットとしている。これらの海域のトリウム濃度は太平洋中緯度域に比べて明らかに低く,粒子によるトリウム除去が活発であることが立証された。特にアンダマン海については,海水から堆積物表面への直接的な除去(bottom scavenging)が重要な役割を果たしていることをモデル解析によって詳細に検討し,ベンガル湾から流入する海水によるアンダマン海深層水の更新時間がわずか6年以下であることを初めて明らかにした。

 さらに3.3節においては,インド洋東部海域において,トリウム-230分布データと短寿命のトリウム-228データを合わせてモデル解析し,海洋表層の生物過程由来の沈降粒子フラックスの鉛直変化を数値化することに成功した。このフラックス計算値は,かつてベンガル湾において実施されたセジメントトラップ実験による実測値や,15N取り込み実験から見積もられた新生産量ともよく一致しており,東部インド洋全域をカバーする沈降粒子フラックスとしては世界で初めてという価値あるものである。

 海水中のトリウム-230の測定には海水約200リットルを必要とする。特殊な大量採水器を研究船上で整備し,調査海域において適切に使用しなければならない。本申請者は,東京大学海洋研究所の研究船白鳳丸の長期航海に3回にわたって参加,大量採水器の操作に習熟し,自ら必要な海水試料をサンプリングし分析を行った。海洋観測と分析化学という観点から見ても,申請者はきわめて高度な技術を習得して活用する能力に長けていると判定される。

 なお,本論文の主体である第3章は,野崎義行(故人)・小畑元・山本恵祥・南秀樹との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析および考察を行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上のように,本研究は海洋における沈降粒子による物質除去過程をトリウムの放射性同位体分布をもとに定量的に解明する画期的なもので,今後,海洋の生物ポンプのメカニズム解明や,海洋の炭素循環の将来を予測する上で,きわめて重要な貢献をなすものと高く評価できる。よって論文提出者に博士(農学)の学位を授与できるものと認める。

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