学位論文要旨



No 120186
著者(漢字) 若林,剛志
著者(英字)
著者(カナ) ワカバヤシ,タカシ
標題(和) カンボジア農村家計の社会経済行動に関する計量経済学的研究
標題(洋)
報告番号 120186
報告番号 甲20186
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2869号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 助教授 木南,章
 東京大学 助教授 万木,孝雄
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は,カンボジアにおける農村調査のデータをもとに,カンボジアの農村家計の社会経済行動について経済的側面と社会的側面に分けて,計量経済学的手法を用いて考察を行ったものである.

 カンボジアは,経済発展の初期段階にある国である.このような国において,農村家計の行動を解き明かすのに,経済的側面と社会的側面は相互に関連しており,この2つは車の両輪であると考えられる.

 カンボジアの農業生産構造は,他国に比し伝統的で簡潔であり,カンボジアの農村においては,所得稼得のための就業機会は比較的少なく,村落への依存度は高い.そのため,いくつかのことが際だって確認された.

 第1に,自家消費を軸とした農家の主体均衡的な経済行動である.カンボジア農家の行動の根底にあるのは稲作であり,農家は稲作において,どのようにすれば暮らし向きがよくなるのかを十分に考慮して行動していることが確認された.

 しかし,経済的には,家族が暮らしていくための主食である米の生産,すなわち自家消費に拘束されている部分がある.彼らは自家消費分の生産に対し,大きなインセンティブを持っている.そもそもこれは,土地賦存量,インフラの未整備などからくる土地生産性の低さを媒介とした貧困問題から生じているものであるが,この原因には,農産物市場の不完全性とも関係する部分がある.もし同種の米について,売買のどちらにおいても価格差を生じないのであれば,中間投入財多投のインセンティブはなくなる.現に過去4年間の調査の全てにおいて,米の単収は,小規模層の方が高いけれども所得率は低いことが判明した.このことは,小規模層において,資源配分を変化させ,非効率な生産体制を生み出していることをあらわしている.

 カンボジアの農家はまた,契約栽培において契約栽培の方が有利であるにかかわらず,それに特化する農家が1世帯も存在しなかった.この契約栽培の米の品種は,カンボジア人にとって消費対象品種ではない.彼らの意識の中には,第一に自家消費の確保という点が念頭にあり,それが経済行動に影響を与えていることをこの経済行動からも読み取ることができる.だからといってカンボジアの農家が経済理論とかけ離れた行動を取っている訳ではない.彼らの行動はかなり経済理論と整合するものであると考えられる.

 第2に,社会関係資本と密接に関係する村落レベルでの協調行動についてである.カンボジアのように伝統的農業に従事し,労働集約的な生産を行っている地域では,村落の共同体的機能がより強く働いているのであろうか.筆者は,農村とそこに住むものの社会経済行動の間には重要な関係があるという点に注意を払ってきた.

 通常,市場が不完全または存在しない場合,共同体的組織がそれを補完する機能を持っている.本稿で示したリスクシェアリングがその典型例である.カンボジアにおいては,村落レベルでの効率的なリスクシェアリングの可能性は否定できない.モラルエコノミーの機能が村落などの共同体的組織を中心に働き,生存維持の為の消費の平準化が行われている可能性がある.但し,現在のところ,自作農であることが大きい.自己の所有地を担保として,信用へのアクセスが比較的容易になされるからである.

 カンボジア人は個人主義的であると漠然と言われる.この点については,本稿の中で確かに個人主義的傾向が強いことを明らかにした.しかし,特に南部の農村住民は,村落を単位とした交換労働を農繁期に組織し,協調的に行動している.これはカンボジア農民の社会化された行動のひとつであり,個人主義的ながらもこのような協調行動を生じさせるものは何かについて明らかにした.

 協調行動は,大きな学問的流れの中で,規範論,構造論,合理的選択,ゲーム論などによって説明されてきた.本稿での結果から,満足感という潜在変数が最も大きな影響を持っていることが明らかになった.これは過去に享受してきた効用が,現在の行動を決定するということを述べている.

 更にこれは,過去の経験が不確実性を少なくさせ,今協調的に行動することで得られる期待効用が高いということも示している.この結果からゲーム論的な視点がかなり当てはまるものと考えられる.ゲーム論が批判にさらされにくいのは,繰り返しがあるという点である.それが自己強化的に協調行動を生み出す可能性を持っている.

 また,協調行動を構成する個別事象で,かつ本稿で使用した変数の中で,最も重要と考えられるのは交換労働である.交換労働は農民の経済行動でもあり,社会的な側面をもつ協調行動でもある.これに対し,彼らは価値を見いだしているが,その要因は何かについても考察した.その理由は簡潔であるが,根は深い.カンボジア農民の意見を総合すれば,交換労働を評価する理由のひとつとして取引費用が存在している.そこには本稿の潜在的基礎となっている貧困の問題も関わっており,例えば現金支出を抑えたいが為に労働のバーター取引を行っている部分がある.

 そして,彼らは彼らの村に対してそれなりに愛着を持っており,村の結束の重要性についても認識している.村は,自然村の性格を持ち,行政とは一線を画した自治的な村落である.法も整備されておらず,何かが起きれば自分たちで対処しなければならない.確かに,近くの親類など個人が有すネットワークを使用している部分もある.しかし,彼らの基礎は村での生活にある.すなわち村落への依存度が高いのである.それ故協調行動への関心が高く,協調行動を取引費用の軽減措置として認識しているのである.

 また,交換労働のような経済的行動に分類される協調行動に従事する理由は,何も単一のサービスを需要するからではない.あるひとつの協調行動はフィードバック機能をもっており,協調行動をとることから様々な波及効果が生じ,様々な社会経済行動に影響を与えていることを明らかにした.

 これらを通じたカンボジア農村家計の社会経済行動から以下のような関係が抽出できる.カンボジアの農村内で行われている社会経済行動のうち,経済的側面に分類されるものの経済合理性の追求は限定的なものである.それは,資源制約による部分だけでなく,各主体の意思決定に対する完全合理性も強い仮定であり,不完全なものとならざるを得ないということである.

 農業生産行動において,カンボジアの農家は主体均衡的な行動をとっている.それは,自家消費があるという点で経済合理的であるが,契約栽培の締結においては,契約を締結した方が収益性が改善するにもかかわらず,必ずしもそのような行動はとっていなかった.リスクを負うか否かは,各主体の経済行動でもあるが,それは意思決定でもある.意思決定を行うに際しては,カンボジア人のもつ意識・規範などが重要になってくる.特に自家消費のように,生存に直結するものであるならばなおさらである.

 また,生産要素の投入という点で,カンボジアのような伝統的な農法を採用している地域では,労働に依存する割合が大きい.その労働に関しては,農繁期を中心に協調的に交換労働を行い,かつそれが機能している.

 したがって,主体均衡を中心とした小農的な経済行動を抽出しても,その背景にある農民の意識・規範などに接近しなければ,十分に説明できない部分もあるという点が本稿によって示されたことになる.本稿では,農村居住民の社会性や共同性といったものを彼らの意識でとらえている.それと同時に,このような意識・規範を基礎として,例えば交換労働については,その経済価値を計測している.この点は,本稿の特色のひとつとなっている.

 総括すると,農家を中心とした農村家計の経済行動は,そこで行われている協調行動と関係が深い.また,農村家計の経済行動は,規範的な意識とも相互に関係している.協調行動と規範的な意識も同様である.例えば,交換労働は経済行動と社会的な協調行動の2つの要素を含むものである.交換労働の背景として,それを生じさせるものに満足感のようなものが影響を与えていたが,規範や信頼関係も同様に影響を与えていた.

 生活という面に目を向けると,リスクシェアリングという相互扶助的な協調関係は,モラルエコノミーの文脈で述べられているように,道徳的規範が重要であり,それが社会秩序の形成に大きな役割を持っていることになる.

 個と集団に関する意識について,確かにカンボジア人は個人主義的であるという傾向が見られた.しかし,村への依存度が高く,交換労働などの協調行動が実在している.

 農村家計の社会経済行動において,当然のことながら各農村家計による個別対応も多く存在するが,村落という社会から影響を受け,また村落内で協調的に何かをフィードバックするという関係が見いだせる.

 カンボジアにおいて,村落を中心とした協調行動は,不完全な市場に対する補完的役割を示してきたといえるであろう.それは,防犯や生活環境の維持という公共財的なものの供給という部分だけでなく,生活の上での満足度を含めた総合的なサービスとしての機能を果たしており,農村家計の行動は,経済的側面とともに社会的側面も十分に考慮しなければならないのである.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、カンボジア農村家計の社会経済行動について経済的側面と社会的側面の両面から、計量経済学的手法を用いて分析を行ったものである。カンボジアの農業生産構造は他国に比べて伝統的な部分が強く残されており、農村部では所得稼得のための就業機会は少なく、村落への依存度も高い。そのような状況の中で、実態調査によって得られた様々なデータの分析を通して、以下のような点が明らかにされた。

 第1に、自家消費を軸とした農家の主体均衡的な経済行動について分析が行われ、カンボジア農家の行動は稲作によって強く影響されていることが確認された。農家は家族が暮らしていくための主食である米の生産、すなわち自家消費に規定されている部分が大きい。それは、農地賦存量の少なさやインフラの未整備などからくる農業生産の低さが要因となっている側面もあるが、農産物市場の不完全性とも深く関係していた。もし同種の米について、売買のどちらにおいても価格差があまり大きくなければ、小規模農家層において中間投入財を多投し、自家消費米を確保するというインセンティブは発生しない。しかし過去4年間の調査において、米の単収は小規模層の方が高いと同時に稲作の所得率は低いことが判明した。このことから、小規模層は米生産の最適な資源配分を変化させて、購入する米を減らすために非効率な単収の増加を生み出している、という結果が示された。

 第2は、社会関係資本と密接に関係する村落レベルでの協調行動についてである。カンボジアのように伝統的で労働集約的な農業生産が行われている地域では、村落の共同体的機能が強く働いており、その機能と居住者による社会経済行動との間に重要な関係があるという点について、検証が行われた。通常、市場が不完全または存在しない場合には、共同体的組織がそれを補完する機能を持っており、リスクシェアリングはその典型例である。カンボジアにおいては、モラルエコノミーの機能が村落などの共同体的組織を中心に働き、生存維持のための消費平準化が行われている可能性が示唆された。ただしそこでは、農家の大半が自作農であることが大きく、自己の所有地を担保として信用へのアクセスが比較的容易であるという条件も重要であった。

 第3に、社会経済行動を構成する個別的な事象において、協調行動を規定する最も重要な変数は交換労働であることが明らかになった。交換労働は農民による経済的な行動であり、かつ社会的な側面をもつ協調行動でもある。彼らが交換労働を重視している要因としては、それが取引費用を軽減する手段として認識されている、という論点が導き出された。例えば農民は、現金支出を抑えるために労働のバーター取引を行っている部分がある。またひとつの協調行動はフィードバック機能をもっており、そこから波及効果が発生して、様々な社会経済行動に影響を与えていることも示唆された。

 以上の結果をまとめると、カンボジアの農村家計における社会経済行動は、不完全な市場に対する補完的役割を担っていると共に、規範的な意識とも相互に関係しているということになる。例えば、交換労働は経済行動と社会的な協調行動の2つの側面を含むものであり、交換労働に対して経済的効用が影響を与えると共に、満足感や信頼関係といった社会的な要素も同様に影響を及ぼしていた。また農村における社会経済行動は、防犯や生活環境の維持という公共財的なものの供給という役割だけでなく、生活の上での満足度を含めた総合的なサービスとしての機能も果たしている。農村家計の行動については、経済的側面とともに社会的側面についても十分に考慮する必要があると言える。

 本研究は、従来ほとんど研究が行われていなかったカンボジアの農村経済に関して、実態調査によって得られたデータを用いて計量経済学的手法による分析を行い、農家の行動について経済的側面だけではなく、社会的側面によっても強く規定されている点を明らかにした点において、学術上の意義は大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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