学位論文要旨



No 120187
著者(漢字) 家田,浩之
著者(英字)
著者(カナ) イエダ,ヒロユキ
標題(和) 変異荷電土壌中の溶質移動に関する研究
標題(洋)
報告番号 120187
報告番号 甲20187
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2870号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩沢,昌
 東京大学 教授 田中,忠次
 東京大学 教授 宮崎,毅
 東京大学 教授 大政,謙二
 東京大学 助教授 溝口,勝
内容要旨 要旨を表示する

1 はじめに

 近年,農耕地からの硝酸態窒素等の環境負荷物質の溶脱による地下水汚染が強く懸念されるようになり,土壌中の溶質移動が関わる問題への社会的関心が高まっている.日本の代表的な畑地土壌である黒ボク土は,溶液濃度・pH依存性の表面電荷をもつ変異荷電土壌の一種であり,溶質移動に対して変異荷電によるイオン吸着の影響が現れる.これまでの変異荷電土壌中の溶質移動に関する実験の多くは,pHおよび電解質濃度一定の条件下で行われてきた.しかし,野外のように電解質濃度の変化,およびとそれにともなうpHの変化が生じる条件における溶質移動過程は明らかでない.本研究では,変異荷電土壌としての黒ボク土を対象とし,1)溶液濃度が変化する条件における,黒ボク土中の溶質移流速度の濃度依存性を濃度置換実験により明らかにすること,2)変異荷電におけるイオン吸着の理論にもとづいて,溶液濃度依存性の溶質移流のメカニズムを明らかにすることを目的とする.

 本論文は7章より構成される.第1章では,研究の背景と意義を述べ,変異荷電土壌中の溶質移動に関する既存の研究をレビューし,研究の目的を設定する.第2章では,第4章の解析で用いる溶質移動モデルである移流分散方程式の適合性について述べる.第3章では,土壌のイオン交換反応と変異荷電の概念について整理する.第4章では,黒ボク土のカラムにおいて,さまざまな濃度のCaCl2溶液またはNaCl溶液による濃度置換実験をおこない,遅延係数の濃度依存性を求める.第5章では,同じ黒ボク土の陽イオン交換容量(CEC)・陰イオン交換容量(AEC)を溶液濃度・pHの関数として,静的な吸着平衡の条件で測定する.第6章では,求めたCEC・AECを表す実験式を用いて,溶液濃度の変化にともなうpHの変化を考慮したCEC・AECの変化と遅延係数を計算し,濃度置換実験における実測値と比較する.第7章では,結論として本研究の成果を述べる.

2 黒ボク土中における溶質の移流速度の濃度依存性

 供試土壌には,宇都宮大学農場の黒ボク土表土を用いた.供試土壌を均一に充填した垂直なカラムをCaCl2またはNaCl溶液で飽和し,同溶液による水分飽和の定常流を作成した後,カラム与える溶液濃度を切り替える濃度置換実験をおこなった.供給溶液濃度の変化による流出液中の陽イオン(Ca2+,Cl-),陰イオン(Cl-)の濃度変化は同時に生じ(Fig.1 a・b),流出液pHにも変化が生じた.水移動に対する溶質移動の遅れの大きさを表す遅延係数R(平均間隙水流速vwに対する溶質の平均移流速度vsの比(vw/vs))を,各イオンの濃度変化を示す土壌内部のEC変化より求めた(Fig.2).陽イオンと陰イオンのRは互いに等しい.Ca2+とCl-のRは1より大きく,溶液濃度が低くなるほど増加する(R=1.0〜1.3).一方,Na+とCl-のRは,1より小さく,濃度が低くなるとわずかに低下する(R=0.9〜1.0).

 土壌による溶質の吸着が生じるとき,Rは次のように表される.

 R=1+(ρ/θ)(ΔQ/ΔC) (1)

ここで,θは体積含水率(m3m-3),ρは乾燥密度(kgm-3),Cは溶液濃度(molcm-3),Qは乾土当たり溶質吸着量(molckg-1)で,単一イオン種で飽和された土壌ではCECおよびAECに相当する.Ca2+とCl-のRは1より大きくなり,吸着の影響が大きいと考えられる.両イオンのRは互いに等しいため,濃度変化にともなってCa2+とCl-の吸着量が等量的に変化したものと考えられる.土壌はCa2+,Cl-で飽和されているため,両イオンの吸着量の変化はそれぞれCECおよびAECの変化であり,変異荷電土壌の特徴であると考えられる.また,溶液濃度が低くなるほどRが大きくなることから,ΔQ/ΔCは濃度が低いほど大きいと考えられる.

 一方,R<1となる要因としては,負電荷表面からの陰イオン排除の影響が考えられる.陰イオンは,表面付近や間隙ネットワークのくぼみなどの,間隙中の流速の小さな領域から静電的に排除されるため,その平均速度vsはvwよりも大きくなるのである.NaCl溶液の濃度置換では,Rが1よりも小さいため,陰イオン排除の影響が大きいと考えられる.陽イオンの価数が小さいほど,また濃度が低いほど,負電荷表面付近の拡散電気二重層が発達し,表面からの陰イオンの排除距離が大きくなるためである.また,このときの陽イオンの移動については,従来ほとんど注目されることがなかったが,本実験ではNa+もCl-とともに移動した.このNa+の移動は溶液の電気的中性条件が保たれるために生じるものだろう.

3 溶液濃度・pHの関数としての黒ボク土のCEC・AECの測定

 濃度置換実験で用いた黒ボク土のCECとAECをWada and Okamura(1980)の方法に準じた繰り返し平衡法により測定した.乾土2g相当の風乾細土(<2mm)を,適量のHClまたはNaOHを添加した1molc/L CaCl2またはNaCl溶液で5回洗浄後,0.005〜0.2mol c/Lの同溶液25mLで5回洗浄して平衡させた.試料中の陽イオンは1M KNO3で抽出後原子吸光法により,また陰イオンは0.01M NaOHで抽出後イオンクロマトグラフィーにより定量した.乾土あたりの陽イオン(Ca2+またはNa+)抽出量・陰イオン(Cl-)抽出量から液相中存在量を差し引いたものが,それぞれCEC・AECである.Fig.3にその結果を示す.CECとAECは以下の実験式(Wada and Okamura,1980)によりpHと溶液濃度の関数として表された.

 CaCl2平衡 log Qcat=0.20pH+0.076logC+1.45 (1)

 logQan=-0.32pH+0.48logC+3.51 (2)

 NaCl平衡 logQcat=0.19pH+0.10logC+1.26 (3)

ここで,QcatとQanはそれぞれCECとAEC(mmolc/kg),Cは溶液濃度(molc/L)である.

4 CEC(C,pH)・AEC(C,pH)にもとづく遅延係数の濃度依存性の計算

 黒ボク土の濃度置換実験では,溶液濃度の変化にともないpHの変化が生じる.このような溶質移動におけるR((1)式)を計算するためには,溶液濃度の変化(ΔC)に伴うpHの変化を考慮した吸着量の変化(ΔQ)を求め.ここでの濃度置換実験のように酸・アルカリが添加されない場合には,溶液濃度の変化に伴うCECとAECの変化はほぼ等量的であり,その条件を満たすようにpHが変化すると近似できる.この場合,溶液濃度の変化に伴う吸着量の変化dQ/dCは溶液濃度のみの関数として表される.これにより,任意の初期条件(C0,pH0)からのΔCに対する吸着量の変化ΔQを求めることができる(Katou,2002).本研究では,この方法を用いて,溶質移動の遅れが観察されたCaCl2溶液の濃度置換実験におけるRを計算する.

 CaCl2濃度が0.2molcL-1の時の条件(流出液pH=5.7)を初期値として,濃度置換実験に対応するΔCに伴うΔQcatとΔQanを計算した(Fig.4).溶液濃度の低下によりCECとAECはほぼ等量的に低下するが,それに伴いpHは5.70から6.18まで上昇する.pH変化の計算結果は,濃度置換実験におけるpHの変化とほどよく一致した.溶液濃度の変化によるpH変化を無視した場合,CEC・AECの変化の計算結果は,Fig.4に示したものと大きく異なる.

 ΔQ/ΔCの計算結果を(1)式に代入して,濃度置換実験に対応するRを計算した(Fig.5).Rの計算値は,濃度置換実験における実測値をよく再現した.ただし,計算値は実測値よりも0.05〜0.10大きく,その差は高濃度ほど大きい.

5 結論

 本研究では,溶液濃度が変化する条件における,黒ボク土中における遅延係数Rの濃度依存性を濃度置換実験により明らかにした.すなわち,1)単一の陽イオン・陰イオンで飽和した黒ボク土表土中では,濃度変化にともなう陽イオン(Ca2+,Na+)と陰イオン(Cl-)は同時に移動し,両イオンのRは互いに等しい.2)Ca2+とCl-の移流は水移動よりも遅れ,両イオンのRは濃度が低くなるほど大きい(1.0<R<1.3).3)Na+とCl-の移流は水移動よりも速く,両イオンのRは濃度が低くなるほど小さくなる(0.93<R<1.0).4)溶液濃度の変化にともない流出液のpHも変化する.

 濃度置換実験で得られた黒ボク土中におけるCa2+・Cl-のRは,静的な吸着平衡条件下で求めたCEC(C,pH)・AEC(C,pH)の実験定数を用いて,溶液濃度変化にともなうpHの変化を考慮して計算した吸着等温線から説明できる.

引用文献 Katou, H. 2002. Soil Sci. Soc. Am. J. 66: 1218-1224; Wada, K., and Okamura, Y. 1980. J. Soil Sci. 31: 307-314.

Fig.1濃度置換実験におけるカラムからの流出液の濃度変化

Fig.2遅延係数の溶解濃度依存性

Fig.3黒ボク土表土のCECとAEC

Fig.4CEC(C,pH)・AEC(C,pH)から求めた吸着等温線(図中の数字は濃度変化とともに生じるpH変化の計算値を示す.)

Fig.5吸着等温線から計算した遅延係数と濃度置換実験で得られた実測値の比較

審査要旨 要旨を表示する

 肥料や農薬として農地に投入された溶質イオンは土壌水とともに根圏内を移動し、一部は不飽和土層を通過して地下水に至る。これらの溶質イオンの移動速度と根圏における滞留時間は作物による吸収効率や分解時間にかかわり、この速度を予測することは肥料の溶脱や環境負荷物質による地下水汚染を制御する上で重要である。

 我が国に広く分布する火山灰土壌は、陽イオン交換容量(CEC)と陰イオン交換容量(AEC)が溶液濃度およびpHに大きく依存する変異荷電土壌であり、溶質移動に対して変異荷電によるイオン吸着の影響が現れると考えられる.本研究は、我が国ので代表的な畑地土壌である黒ボク土を対象として、変異荷電土壌中の溶質イオンの濃度変化に伴う移流速度をカラム実験で測定し、この速度が変異荷電土壌によるイオン吸着のメカニズムによって説明され計算できることを示したものである。

1.黒ボク土中における溶質の移流速度の濃度依存性

 供試土壌として宇都宮大学農場の黒ボク土表土を充填したカラムにおいて、CaCl2とNaCl溶液による濃度置換実験をおこなった。カラムを溶液で飽和し、上から一定の溶液フラックスを与えて水分飽和の定常流を作成した後,与える溶液濃度を初期のC1から次のC2に切り替え、その後のカラム内部のイオン濃度変化を電気伝導度(EC)センサーで測定するとともに、カラム流出端のECおよび採取した流出液中の各種イオン濃度とpHを測定した。まず流出端のECと流出液のイオン濃度を比較して、ECの変化がCl-イオンの濃度変化と一致し、同時に陽イオン総量の濃度変化とも一致することを確かめた上で、土壌内部で測定したECの濃度変化曲線に対して移流・分散式の解析解を適合させて溶質イオンの移流速度(平均速度)vsを正確に求めた。水分子の移流速度(平均速度)vwを水フラックス(q)と体積含水率(θ)から計算し(vw=q/θ)、水分子に対して溶質イオンの移動の遅れを表す遅延係数R(=vs/vw)を求めた。

 様々な濃度C1、C2に対して濃度置換実験を行って、Rの濃度依存性を調べた。その結果、CaClのRは1より大きく(イオンが水分子より遅い),溶液濃度が低くなるほど増加した(R=1.0〜1.3)。一方,NaClのRは1より小さく(イオンが水分子より速い),濃度が低くなるとわずかに低下した(R=0.9〜1.0).また,両溶液とも,濃度変化にともなって流出液pHが変化した.R>1となったCaCl2溶液では,Ca2+とCl-の濃度置換前線が,濃度変化によるCEC・AECの変化を伴いながら移動した効果が大きいと考えられる。一方、R<1となったNaCl溶液では,固体表面の負電荷による静電斥力による陰イオン排除距離(拡散電気二重層)が大きいため、排除された陰イオンが間隙中の流速の大きい領域を選択的に流れ、vsがvwよりも大きくなる効果が卓越すると考えられる。

2.吸着特性CEC(C,pH)・AEC(C,pH)の測定

 濃度置換実験で用いた黒ボク土のCaCl2とNaClに対するCECとAECを平衡溶液の濃度CとpHを様々に変えてWada and Okamura(1980)の方法に準じた繰り返し平衡法により測定し、ビーカー内の静的平衡条件下での吸着特性を求めた.得られたCECとAECは何れも、溶液イオン濃度Cと水素イオン濃度に対してベキ関数型の実験式、すなわち、吸着量(CECまたはAEC)をQとして、logQ=a pH+b logC+c(a,b,cは実験定数)の形で表された。定数bについてはb>0であるが、aはCECについてa>0であるがAECについてa<0となり、変異荷電土壌に特有の、陽イオンと水素イオンとの交換を示すものとなった。

3 吸着特性もとづく遅延係数Rの計算

 濃度変化ΔCにともなう吸着量変化ΔQが生じるとき,吸着を考慮したイオンの遅延係数Rは理論的に、R=1+(ρ/θ)(ΔQ/ΔC)と表される(θは体積含水率,ρは乾燥密度,Qは単位質量の乾土あたりのイオン吸着量).濃度置換実験では,溶液濃度の変化ΔCにともなってpHの変化が生じるため,Rを計算するためには,ΔCに伴うpHの変化を考慮した吸着量の変化ΔQを求める必要がある.本研究における濃度置換実験のように、酸やアルカリが土壌に添加されない場合には,ΔCに伴うCECとAECの変化はほぼ等量的であり,その条件を満たすようにpHが変化すると近似でき、この場合,溶液濃度の変化に伴う吸着量の変ΔQ/ΔCは、溶液濃度のみを独立変数とし、吸着特性(定数a,b,c)を係数に含む一階の常微分方程式で表される(Katou,2002).吸着特性CEC(C,pH)・AEC(C,pH)から得られるこの常微分方程式を、濃度置換実験における初期条件(C0,pH0)を与えて、数値的に解いてΔQ/ΔCを求め、CaCl2溶液の濃度置換実験におけるRを計算し、実験で得たRと比較した。計算値のRは,濃度置換実験における実測値Rの濃度依存性をよく再現するとともに、濃度変化に伴うpHの変化についても、計算値と実測値はよく一致した。

 二価の陽イオンのCaCl2溶液に対しては、固体表面電荷によって陰イオンが排除される距離が小さいために、変異荷電土壌の吸着特性によって溶質イオンの移動速度が決まると考えられるが、一価のNaCl溶液については陰イオンが排除の影響の方が大きく、吸着特性でRを説明することはできないと考察した。

 以上、本研究は、変異荷電土壌の静的吸着特性を測定する土壌化学的手法と、土壌カラム内の動的な移動速度を測定し計算する土壌物理的な研究手法を組み合わせて、CaCl2の移流速度が変異荷電土壌の静的に測定してイオン吸着によって説明され計算できることを示したものであり、学術上、応用上の価値が高い。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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