学位論文要旨



No 120193
著者(漢字) 小保方,隆夫
著者(英字)
著者(カナ) オボカタ,タカオ
標題(和) 紙の湿潤紙力発現機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 120193
報告番号 甲20193
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2876号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 教授 小野,拡邦
 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 助教授 竹村,彰夫
 東京大学 助教授 江前,敏晴
内容要旨 要旨を表示する

 現在、ティシュペーパー、ペーパータオル、お札、包装用紙等の湿潤紙力増強剤として最も多く使用されているのは1950年代後半に上市されたポリアミド(ポリアミン)エピクロロヒドリン樹脂(PAE)である。PAEの湿潤紙力発現機構については「反応説」と「保護説」が提唱されているが、未だ結論は得られていない。PAEは湿潤紙力増強剤として極めて優れた性能を有しているが、原料の一つとしてエピクロロヒドリンを使用しているために、エピクロロヒドリンから派生する副生成物である1,3-ジクロロ-2-プロパノールが少量残存しており、これが日本では「PRTR」法の規制の対象となっている。したがって、人にも環境にも優しい次世代の湿潤紙力増強剤を開発することが焦眉の課題となっている。新規開発商品の分子設計の方針を決めるには、紙の湿潤紙力の発現機構を解明することが不可欠であると考える。すなわち、「反応説」に立脚すれば、分子中にパルプ繊維のカルボキシル基あるいは水酸基と反応できる官能基の存在が必須要件となり、一方、「保護説」を前提とすれば、パルプ繊維と反応可能な官能基の存在は必ずしも必要ではなくなる。したがって、本研究では湿潤紙力増強剤として代表的なPAEについて、その湿潤紙力発現機構を解明することを目的として研究を行なった。

 本研究を行なうに当たり、一部の実験を除いては、原料成分および成分組成が明らかなPAEを当研究室にて自ら調製して使用した。

(結果と考察)

・PAEの化学構造:PAE水溶液からPAEを単離-精製処理することなくそのままNMR測定を行い、そのスペクトルのシグナルの正確な帰属をDEPT法およびC-HCOSY法を用いて行なった。その結果に基づいて、1H-NMRスペクトルからAZR量を定量した。PAE市販品ならびに本研究室で調製したPAE中のAZR量は基本繰り返し単位に対して70〜80%であった。また13C-NMRスペクトルからPAE分子鎖の末端に存在するカルボキシル基に着目してPAEの基本繰り返し単位の数平均重合度(DPn)を算出した。PAE市販品ならびに本研究室で調製したPAEのDPnは10〜20であった。

 PAEをキャストして作製したフィルムのFT-IRスペクトルにエステルカルボニル基に帰属される吸収が存在し、この吸収強度はフィルムを熱処理することにより増大した。したがって、このエステル結合はPAE分子末端のカルボキシル基とAZRとの分子内または分子間反応により生成したものと考えられる。

・PAEの分子量と分子形態:SEC-MALS法によりPAEの絶対分子量ならびに分子形態を測定した。PAEの重量平均分子量は市販品で100万程度であり、今まで報告されていた数千ないし数十万よりかなり大きいことが判明した。またPAEの分子形態は、比較的直線状であるカチオンポリマー、たとえばポリジメチルジアリルアンモニウムクロライド(PDADMAC)と較べると、回転半径が同一の場合PAE分子の分子量はPDADMACよりも約3倍大きいことが判明した。すなわち、PAEの分子はかなり密に詰まった状態で存在することが判った。これはPAEが架橋構造を形成していることを裏付けるものである。

・PAEのパルプへの定着:PAEのパルプに対する定着量はパルプのカルボキシル基量に依存し、また、PAE中のAZR量にも依存するので、PAEのパルプに対する定着は、主としてPAE中のAZRの第4級アンモニウム塩に由来するカチオンとパルプのカルボキシル基のアニオンとの静電的相互作用によるものと考えられる。

・PAE添加シートの湿潤引張強度:カルボキシル基量の異なるパルプにPAEを添加して作製した手抄きシートの湿潤引張強度はパルプのカルボキシル基量に依存するので、紙中に定着したPAE量の多寡により湿潤引張強度の大小が決定されると考えられたが、その後の実験により、PAEのパルプに対する定着はPAE中のAZR量に、また湿潤引張強度はPAEの分子量に支配されていることが判明した。

・PAE調製過程の反応解析:ポリアミドアミン中間体にエピクロロヒドリンを付加させた後、加温してPAEを調製する過程でサンプリングした試料について、コロイド滴定からPAEの電荷量を、1H-NMRからAZR量を、またSEC-MALSから分子量を求めた。また、その試料を添加して作製した手抄きシートについてPAEのパルプへの定着量ならびに湿潤引張強度を測定した。これらの結果を解析することにより、AZRはパルプへのPAEの定着と自己架橋反応によるPAEの分子量増大に寄与しており、また、分子量は手抄きシートの湿潤強度発現に大きな影響を及ぼしていることが判明した。

・長期間保存したPAE市販品の経時変化の解析:長期間保存したPAE市販品について1H-および13C-NMR、SEC-MALSの測定、ならびにコロイド滴定を行なった結果、PAE市販品を長期間保存するとPAE中のAZRが開環して2,3-ジヒドロキシプロピル基が生成していること、および主鎖のアミド結合が加水分解されてPAEの分子量ならびにPAEの繰り返し単位の数平均重合度が低下していることが判明した。

 PAE市販品の保存期間が1年を越えて長くなるにつれて、PAEを添加した手抄きシートへのPAEの定着量が減少し、またそのシートの湿潤引張強度が低下した。これは、PAE中のAZR量の減少とPAEの分子量の低下ならびにPAEの繰り返し単位の数平均重合度の低下に起因していると考えられる。PAEを添加した手抄きシート中のAZR量と湿潤引張強度との間にほぼ直線的関係が認められたが、この場合にはAZR量の減少と同時にPAEの分子量ならびにPAEの繰り返し単位の数平均重合度が低下しているので、湿潤強度はその影響を受けており、AZR量と湿潤強度との間には直接的な関係はないと考えられる。

・PAE添加手抄きシートの酵素処理:PAE中のAZRがパルプのカルボキシル基と反応していれば、PAE添加シートを酵素(セルラーゼ)で処理した水不溶性残渣中にPAE中のAZRとパルプのカルボキシル基と反応して生成したエステル結合部分が濃縮されるはずである。

 PAEを添加した手抄きシートを酢酸緩衝液中で酵素処理した水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにはエステルカルボニルに基づく吸収が認められた。

 一方、ポリエチレンイミン-エピクロヒドリン樹脂(PEI-epi)は分子末端にカルボキシル基が存在しないので、分子内・分子間架橋によるエステル結合が起こる可能性はない。PEI-epiを添加して作製した手抄きシートを同様に酢酸緩衝液中で酵素処理した水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにもエステルカルボニルに帰属される吸収が存在した。この結果は「反応説」を裏付ける知見かと考えられた。

 しかし、上記の結果は、酵素処理を酢酸緩衝液中で行なって得られた結果であるので、検出されたエステル結合はPAE中のAZRと酢酸イオンとの反応により生成した可能性も大きいと考えられる。

 そこで、PAEあるいはPEI-epiをキャストして作ったフィルムをそれぞれイオン交換水又は酢酸緩衝液に浸漬すると、酢酸緩衝液に浸漬した場合にはフィルムのFT-IRスペクトルに顕著にエステルカルボニルに帰属される吸収が認められた。

 次に、PAEまたはPEI-epiを添加して作製した手抄きシートの酵素処理をイオン交換水中で行なった。両者ともに酵素処理後の水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにはエステルカルボニルに基づく吸収は存在するものの、その強度は酢酸緩衝液中で樹脂添加シートを酵素処理した場合よりも小さかった。

 また、PAEあるいはPEI-epiキャストして作ったフィルムを酵素液中に浸漬すると、その水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにもエステルカルボニルに基づく吸収が認められた。

 上記の結果から、PAEまたはPEI-epiを添加した手抄きシートを酵素で処理した水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにエステルカルボニルに基づく吸収が認められても、そのエステル結合が、PAE中のAZRとパルプのカルボキシル基との反応によって形成されたものであるとは断定できないことが判明した。

・PAEの湿潤強度発現機構:上記の結果を総合して判断すると、

 PAE中のAZRの役割は、PAE添加シート作製の際にはパルプへのPAEの定着に、またPAE調製過程ならびにPAE添加シートの乾燥あるいは熱処理段階では架橋によるPAE分子量の増大に寄与することである。

 一方、PAEの分子量はPAE添加シートの湿潤強度を支配する重要な要因である。もしも、PAE中のAZRがパルプのカルボキシル基と反応して湿潤強度が発現する

という「反応説」が正しいとすれば、湿潤強度はPAE添加シート形成時のシート中に存在するAZR量に依存しなければならいはずであるが、本研究においてはそのような実験結果は得られていない。

 したがって、PAEによる紙の湿潤強度発現機構が、PAEのAZRとパルプのカルボキシル基との反応によってエステル結合が形成されることにより湿潤強度が発現するという「反応説」である可能性は小さいと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 現在、ティシュペーパー、ペーパータオル、お札、包装用紙等の湿潤紙力増強剤としてポリアミドポリアミンエピクロロヒドリン樹脂(PAE)が最も多用されている。PAEの湿潤紙力発現機構については「反応説」と「保護説」が提唱されているが、未だ結論は得られていない。また、PAEは原料の一つとしてエピクロロヒドリンを使用しているために、エピクロロヒドリン由来の副生成物である1,3-ジクロロ-2-プロパノールが少量残存しており、これが日本では「PRTR」法の規制の対象となっている。したがって、環境に優しい次世代の湿潤紙力増強剤を開発することが焦眉の課題となっている。そこで本論文では、湿潤紙力増強剤として代表的なPAEについて、その湿潤紙力発現機構を解明することを目的とした。

 まず、PAE水溶液からPAEを単離処理することなくそのままNMR測定を行い、そのスペクトルのシグナルの正確な帰属を行なった。その結果に基づいて、1H-NMRスペクトルからPAE中に含まれる特異的反応性基であるアゼティジニウム基(AZR)量の定量法を確立した。本AZR基定量法を市販および自作のPAEに適用したところ、PAEの基本繰り返し単位に対して70〜80%のAZR基量であった。また、13C-NMRスペクトルからPAEの基本繰り返し単位の数平均重合度(DPn)を算出した。市販および自作のPAEのDPnは10〜20であった。

 PAEの分子量と分子形態については、SEC-MALS法により評価した。PAEの重量平均分子量は市販品で100万程度であり、これまで報告された数千ないし数十万よりかなり大きいことが判明した。また、PAEの分子形態は、比較的直線状であるカチオンポリマーと較べると、回転半径が同一の場合にPAE分子の分子量は約3倍大きいことが判明した。すなわち、PAEの分子はかなり密に詰まった状態で存在する。これはPAEが分子内で高度な架橋構造を形成していることを裏付けるものである。

 カチオン性のPAEのパルプへの定着量は、パルプ中のアニオン性基であるカルボキシル基量に依存することから、パルプ懸濁液中でのPAEのパルプ繊維に対する定着は、主としてPAE中のAZR基の第4級アンモニウム塩に由来するカチオンとパルプのカルボキシル基のアニオンとの静電的相互作用によるものと考えられる。

 PAE調製過程でのPAEの構造解析、分子量変化を解析するため、ポリアミドアミン中間体にエピクロロヒドリンを付加させた後、PAEを調製する各段階でサンプリングした試料について、コロイド滴定からPAEの電荷量を、1H-NMRからAZR量を、またSEC-MALS分析から分子量を求めた。更に、それらのサンプリング試料を添加して作製した手抄きシートについてPAEのパルプへの定着量ならびに湿潤強度を測定した。これらの結果から、PAE中のAZR基はパルプへのPAEの定着と自己架橋反応によるPAEの分子量増大に寄与しており、また、PAEの分子量は手抄きシートの湿潤強度発現と強い相関があることが判明した。

 長期間保存したPAE市販品の、AZR基量および分子量の経時変化を検討した結果、PAE中のAZR基が経時と共に開環して2,3-ジヒドロキシプロピル基が生成していること、および主鎖のアミド結合が加水分解されてPAEの分子量ならびにPAEの繰り返し単位の数平均重合度が著しく低下していること、それらの変質によってパルプへの定着量も低下し、結果的に湿潤紙力が著しく低下する機構が判明した。

 続いて、PAE添加シートの湿潤紙力発現機構を解明するため、PAE処理シートのセルラーゼ処理を行った。PAE中のAZR基がパルプ中のカルボキシル基とエステル結合を形成してシートの湿潤紙力が発現するのであれば、PAE添加シートをセルラーゼで処理した水不溶性残渣中にPAE中のAZRとパルプのカルボキシル基間で形成されたエステル結合部分が濃縮されるはずである。PAE添加手すきシートをイオン交換水中でセルラーゼ処理したところ、水不溶性残渣のFT-IRスペクトルにはエステルに基づく吸収が僅かに確認された。しかし、PAE自身にも分子鎖末端にカルボキシル基を有しているため、エステル基が検出されたとしても、PAE分子内あるいは分子間で形成されたエステル結合か、PAEとパルプのカルボキシル基間で形成されたエステル結合かは判断できなかった。

 種々の条件で検討した分析結果を総合して判断すると、PAE中のAZRの役割は、PAE添加シート作製の際にはパルプへのPAEの定着に、またPAE調製過程ならびにPAE添加シートの乾燥あるいは熱処理段階では架橋によるPAE分子量の増大に寄与することが明らかになった。一方、PAEの分子量はPAE添加シートの湿潤強度を支配する重要な要因であった。

 以上の様に本研究の結果は、最も代表的な湿潤紙力剤であるPAEの化学構造解析、分子量評価方法を確立し、PAEによる紙の湿潤紙力発現機構について基礎的な知見を得ることができた。これらの成果は、今後期待される次世代型の環境にやさしい湿潤紙力剤の分子設計、開発に重要な示唆を与えることは明らかである。従って、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク