学位論文要旨



No 120194
著者(漢字) 野一色,泰友
著者(英字)
著者(カナ) ノイシキ,ヤストモ
標題(和) βキチンの錯体形成挙動の解明と構造解析
標題(洋)
報告番号 120194
報告番号 甲20194
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2877号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 教授 飯塚,堯介
 東京大学 教授 太田,正光
 東京大学 教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 和田,昌久
内容要旨 要旨を表示する

 キチンにはαキチンとβキチンの2種類の結晶構造が存在する。βキチンはフィブリル形態を保ったままで水やアルコールなどの極性分子を取り込み、結晶性の錯体を形成するという興味深い性質を持つ。キチンは生体適合性・生分解性が高いため人工皮膚や創傷被覆剤、食品などに利用されているが、βキチンの錯体形成能を有効に利用することが出来れば現存のαキチンを用いた材料より有用で高付加価値なものが得られる可能性が有る。また、高次構造を保持したままで起こるβキチンの錯体形成挙動は新たな機能性固体材料への応用を期待させる。しかし、分子の取り込み及び脱離条件、ゲストとなる分子種、結晶構造など、錯体に関する基本的な事柄の多くが未だ明らかになっていない。これらの基礎的情報の獲得はβキチンの有効利用や新たな用途の開拓において極めて重要となる。珪藻から得られるβキチンは非常に高結晶性であり、結晶構造解析に大きな利点となる。本研究ではこの高結晶性の試料を用いてβキチンの錯体形成挙動及び構造の解明のために以下のI.)-V.)の実験を行った。

I.)セルロースはエチレンジアミン、アルキルアミンやアンモニア、ヒドラジンなどのアミン分子を取り込み結晶性の錯体を形成することが知られている。この錯体ではセルロース糖残基が重なってできる分子シートの間に分子を取り込むとされており、βキチン水和物及びアルコール錯体と非常によく似ている。そのため、キチンの場合も同様にアミン分子を取り込む可能性がある。そこで、繊維X線回折測定や加熱下でのX線回折測定、熱重量測定を行い、βキチンと直鎖アルキルアミンとの錯体形成挙動、結晶構造の変化やゲスト-ホスト間の量的関係を調べた。

 βキチン無水物をアミン液体に直接浸漬すると第一級モノアミン分子はアルキル鎖の炭素数3から9、第一級ジアミン分子は2から10までの分子が取り込まれ、錯体を形成した。これらの錯体は水で洗浄し、乾燥すると元のβキチンに戻った。錯体におけるキチン分子シートの間隔はゲスト分子のアルキル鎖に比例して増加した。シート間隔の増加様式から各錯体はTypeI、TypeIIの2種類に分類することができた。モノアミン錯体はすべてTypeII、ジアミン錯体は乾燥状態ではすべてTypeIとなったが、幾つかのジアミン錯体は湿潤状態でTypeIIになった。両者の熱安定性は異なり、TypeII錯体ではゲスト分子は自身の沸点付近で脱離したが、TypeI錯体はゲストの沸点よりかなり高温においても安定であった。熱重量測定の結果及び単位格子の体積増加から計算すると、ゲスト分子数はTypeIIがキトビオース単位当たり2分子、TypeIが1分子と考えられる。更にシート間隔の増加様式からTypeIIはゲスト分子がキチン分子シートに対してほぼ垂直に伸びきって配列しており、TypeIはキチン分子鎖に対して斜めに配列していると推測される。

 また、第二級アミンもβキチンに取り込まれ、錯体を形成した。更に、2重結合を持つアミンやポリアミンなども錯体を形成したが、第三級アミンは取り込まれなかった。

II.)βキチンの錯体形成挙動とゲスト分子の構造との関係を調べた。更にここで得られる知見をもとにアミン以外の分子に対してもβキチンへの挿入を試みた。特に、今まではゲストの化合物として室温で純液体のものしか扱っておらず固体の化合物を取り込ませる方法はなかったため、ここでは高融点の固体化合物をβキチン結晶内へ挿入する方法を検討した。

 まず、芳香族ジアミン(フェニレンジアミン)のo-、m-、p-異性体のそれぞれの融解液にβキチン無水物を浸漬した。次に第一級、第二級、第三級ヘキシルアミンを等モル量混合し、そこにβキチン無水物を浸漬した。また、モノアミンとジアミン及びアルキル鎖の長さの異なるモノアミンの混合液を同様に調製し、そこにβキチン無水物を浸漬した。各々の混合液中で得られた試料をX線回折測定に供し、錯体形成挙動を調べた。更に、メタノールでこれらの試料からゲスト分子を抽出し、ガスクロマトグラフィによって抽出液の組成比を調べた。

 βキチンはp-フェニレンジアミンとのみ錯体を形成し、o-及びm-とは錯体を形成しなかった。また、数種の化合物を等モル量で混合した液体中では第一級アミンが第二級や第三級アミンより多く、ジアミンがモノアミンより、長鎖が短鎖より多くといった様に特定の分子が優先的に取り込まれた。従ってβキチンの分子取り込みにおいてはゲスト分子に対して選択性が存在すると考えられる。

 この選択性を利用し、高融点化合物を溶解させた溶液にβキチンを浸漬することによって溶質分子をβキチンに挿入することを試みた。p-フェニレンジアミン、グルコースなどの固体物質をキチンと比較的相互作用の弱い溶媒に溶解させた溶液にβキチン無水物あるいは水和物を浸漬してからX線回折を行い、錯体形成挙動を調べたところ、p-フェニレンジアミン、アクリルアミド、p-アミノ安息香酸やグルコースとの錯体が形成したことを確認できた。

III.)αキチンのアミン分子との錯体形成挙動を調べ、βキチンの錯体形成挙動と比較した。まず、αキチンを直鎖アルキルアミン液体に浸漬してからX線回折測定を行い結晶構造の変化を調べた。更に、加熱下でのX線回折測定や重量測定を行い、ホスト-ゲスト分子間の量的関係を調べた。

 βキチンと比べ、αキチンは結晶膨潤しにくかったが、αキチンもアミンと錯体を形成した。同種のゲストとの錯体のシート間隔はβキチンの錯体の値と非常に近く、このことから両キチン錯体におけるゲスト分子の配列様式の類似性が示唆された。

IV.)キチンに取り込まれた分子は配位の秩序や特定の官能基との相互作用が期待できるため、キチン結晶場内で反応を起こすと通常とは異なる構造を持つ生成物が得られる可能性が有る。また、錯体中のゲスト分子の配位や配列に関して有益な情報が得られる可能性も有る。そこで、無水コハク酸をβキチンに取り込ませ、ゲスト-ホスト間の反応によってβキチンの誘導体化を試みた。

 βキチン-無水コハク酸錯体を調製し、これを無水コハク酸融解液中で125-150℃に保持した。得られた反応物の構造変化をX線回折、FT-IR、電子顕微鏡観察、元素分析によって調べた。

 無水コハク酸錯体を経由してβキチンをフィブリル形態を維持したままカルボキシル化することが出来た。このカルボキシル化反応は2段階で進行し、置換度、結晶構造、アルカリ溶解性及び錯体形成能が異なる2種類の反応生成物が得られた。反応生成物は比較的結晶性が高かったため、置換は位置選択的に起きていると推測される。

V.)βキチン無水物の結晶構造はGardnerとBlackwell*によって既に報告されているが、彼らの構造ではアセトアミド基において立体化学的な矛盾点がある。βキチン無水物の結晶構造は水和物や他の錯体の構造を考える上で重要であるため、構造を再計算し精査した。

 シンクロトロン放射光を用いてX線回折測定を行いβキチン無水物の高分解能回折データを得た。ここから強度を抽出し、直接法プログラムSHELX-97を用いて精密化計算を行った。得られた回折のうち、d>1Aの回折を用いてβキチン無水物の原子座標を求めた。

 単位格子は単斜晶、空間群P21でパラメータはa=0.4820(3)nm,b=0.9247(4)nm,c=1.0390(7)nm,γ=97.21(7)oの一本鎖、parallel-up構造となり、既に報告されていた単位格子とほぼ同じであった。計算は282個の回折点に対して行い、R1及びRw2はそれぞれ0.2095、0.4427となった。また、F>4σ(F)の回折は90個あり、これに対するR14σは0.1473となった。6位のヒドロキシメチル基のコンフォメーションはほぼgauche-gaucheであり、これはO6のオミットマップからも確かめられた。GardnerとBlackwellによって既に報告されていたβキチン無水物のモデルではN原子の座標が誤っていたが、ここで得られた構造ではそれを訂正し、立体化学的に矛盾のない構造を得ることができた。N原子以外はGardnerとBlackwellのモデルとほぼ同様の構造であった。水素結合様式も彼らの提案する"シート内水素結合モデル"と同様に、O3…O5の分子内水素結合に加えて、a軸に沿ってアミド間(O7…N)とアミドのカルボニルとO6間(O7…O6)に分子鎖間水素結合が存在してac面に平行な分子シートを形成している一方、シート間には水素結合がなかった。ここで得られた構造はIRや固体13C-NMR、電子線回折などの他の実験データとも矛盾しない。また、βキチンが容易に水で結晶膨潤することもうまく説明できる。

* Gardner, K. H.; Blackwell, J. (1975) Refinement of Structure of β-Chitin. Biopolym. 14, 1581-1595.
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 キチンにはαキチンとβキチンの2種類の結晶形がある。βキチンは水やアルコールなどの極性分子を取り込み、結晶性の錯体を形成するという興味深い性質を持つ。この性質を利用すれば従来のαキチンを用いた場合より有用な高付加価値材料が得られる可能性が有る。しかし、錯体形成については分子の取り込みおよび脱離条件、取り込まれる分子種、錯体の結晶構造など、基本的な事柄の多くが未だわかっていない。これらの基礎的情報の獲得はβキチンの有効利用や新たな用途の開拓において極めて重要となる。βは非常に高結晶性であり、結晶構造解析に大きな利点となる。申請者は珪藻から得られる高結晶性のβキチン試料を用いて錯体形成挙動および構造解明に取組んだ。

 βキチンの包接錯体形成は脂肪族アルコールについて発見されたが、多糖分子と親和性の強い有機化合物としてアミン類が知られている。そこでまず直鎖脂肪族の末端モノアミン及び末端ジアミンの錯体形成挙動を調べた。一級モノアミン分子はC3-C9まで、一級ジアミン分子はC2-C10までがβキチンに取り込まれ錯体を形成した。これらの錯体は水で洗浄し、乾燥すると元のβキチンに戻った。エチレンジアミンなどの幾つかのジアミンがゲストの錯体は湿潤状態と乾燥状態で異なる回折パターンを示した。錯体におけるキチン分子シートの間隔はゲスト分子のアルキル鎖に比例して増加した。シート間隔の増加様式からTypeI、TypeIIの2種類の錯体に分類することができた。モノアミンはすべてTypeIIになり、ジアミンは乾燥状態ではすべてTypeI、幾つかのジアミンは湿潤状態ではTypeIIになった。両者の熱安定性は異なり、TypeII錯体ではゲスト分子は自身の沸点付近で脱離したが、TypeI錯体はゲストの沸点よりかなり高温においても安定であった。熱重量測定および単位格子の体積増加から計算したゲスト分子数はTypeIIがキトビオース単位当たり2分子、TypeIが1分子となった。

 二級アミンもキチンに取り込まれ、錯体を形成した。また、2重結合を持つアミンやポリアミンなども錯体を形成するが、三級アミンは取り込まれなかった。しかし様々な知見から見て、アミンはカルボン酸、アルコール、エーテルなどよりもβキチン錯体を形成しやすいことが分かった。

 次に芳香族化合物として、フェニレンジアミンのo-、m-、p-異性体のそれぞれの融解液にβキチン無水物を浸漬した。その結果βキチンはp-フェニレンジアミンとのみ錯体を形成し、o-体およびm-体とは錯体を形成しなかった。これは類似の化合物であっても、βキチン結晶の中でキチン分子との相互作用が高度の立体規制を受けることを示している。

 次に各種脂肪族アミンの構造の影響を調べた結果、βキチンへの取り込まれやすさは

 一級>二級>>三級;ジアミン>モノアミン;長鎖>短鎖

 という選択性があることを明らかにした。

 上記のような選択性を利用して、高融点化合物を溶解させた溶液にβキチンを浸漬し、溶質をβキチンに取り込ませることを試み、アクリルアミド、p-アミノ安息香酸、グルコースとの錯体を得た。この知見により、βキチンに対するゲスト分子種の可能性が大幅に拡大された。

 次にβキチンの錯体形成を新規な複合材料調製に利用することを意図して、カルボン酸無水物を取り込ませて加熱したところ、無水コハク酸が錯体を経由してキチンをエステル化した。このカルボキシル化反応は2段階で進行し、置換度、結晶構造、アルカリ溶解性および錯体形成能が異なる2種類の反応生成物が得られた。反応生成物は比較的結晶性が高かったため、置換は位置選択的に起きていると推測される。

 これまでαキチンについては結晶性錯体の形成は報告されていなかったが、申請者はβキチンについての知見に基づき、αキチンとアミン類の錯体形成を調べた結果、末端ジアミン類はαキチンとも錯体を作ることが分かった。これは容易に入手できるαキチンについても、新たな材料的応用の可能性を拓くものである。

 最後に申請者はβキチンの錯体形成とそれを介した結晶場反応を追求するための基礎データとして、無水βキチンの結晶構造解析を行った。この解析は以前にBlackwellらによって行われていたが、申請者はシンクロトロン放射光を用いて精密な回折測定を行い、βキチンの構造を次のように決定した。

 単位格子は空間群P21、単斜晶。1本鎖構造。

 格子定数a=0.4820(3)nm,b=0.9247(4)nm,c=1.0390(7)nm,γ=97.21(7)o、

 この単位格子はBlackwellが報告している単位格子と大略同じであるが、アセトアミド基の窒素原子の位置がより妥当な位置に修正された。

 以上、申請者は、以上を総合して本論文はβキチンを中心として、多糖-低分子化合物間の相互作用に基づく特異な結晶性錯体形成について多数の重要な知見を得、今後の基礎研究及び高度な応用の可能性を開拓したものであり、学位授与の要件を満たすと判定される。また本論文内容の大部分は既に専門学術誌に発表されている。したがって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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