学位論文要旨



No 120206
著者(漢字) 鈴木,千夏
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,チカ
標題(和) 分子生化学的手法による土壌機能の評価法に関する研究
標題(洋)
報告番号 120206
報告番号 甲20206
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2889号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農学国際専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小柳津,広志
 東京大学 教授 谷田貝,光克
 東京大学 教授 妹尾,啓史
 東京大学 助教授 横田,明
 東京大学 助教授 中元,朋実
内容要旨 要旨を表示する

 土壌生物性を評価する試みは、B/F値、バイオマス、微生物数の測定、土壌呼吸、各種酵素活性、ミミズ、線虫の計数などにより行われてきた。しかし、土壌診断が普及し、一般的になった現在でも、診断基準となりうる決定的な手法は確立されていない。土壌生物、特に土壌微生物は、農業生態系のなかで非常に重要な役割を果たしており、これを無視して土壌を診断、管理していくことは、不可能であるといってよく、生物性を正確に把握することの出来る、新たな手法の開発が急務となっている。土壌微生物の多様性が、農業生態系の生産性、安定性をコントロールしている重要な因子の1つであるだろうことは、多くの研究者により示唆されている。しかし、従来の手法による多様性の測定には限界があり、生態系内での微生物の果たす機能と多様性の間に、明確な関係を見出すことは出来ていない。そこで、本研究では、土壌微生物の多様性、生態系内での機能、その両方にかかわりを持つkeystone speciesを土壌微生物相の中から抽出し、土壌診断に応用することを目的に、研究を開始した。

作物収量に関わるkeystone speciesの抽出

 ランダムに選んだ土壌を用いて作物収量に関わるkeystone speciesを抽出するためには、莫大な数の分析を要する。これに見合うだけのサンプルを収集、分析することは非常に難しいと考えられたため、本研究では、生産量に明らかな違いがあること、同じ作物を同時期に栽培していること、なるべく多くの種類の作物を栽培していることの三つの条件を満たす茨城県農業総合センター 有機物連用試験ほ場、長野県中信農業試験場内、有機物連用試験ほ場の土壌を用いて解析を行った。

 茨城県農業総合センター内の有機物連用試験ほ場は16区に別れており、それぞれ異なる施肥管理が24年間行われてきた。処理区間の物理性、化学性を比較すると、有機物の施肥により物理性が改善され、化学性が向上していることが確認された。また、化学性向上の効果を使用有機物ごとに比較すると、C/N比が高く、養分含量の少ないわら堆肥よりも、養分を豊富に含む下水汚泥や堆きゅう肥を用いた場合の方がその効果は高く表れていた。FAME解析、T-RFLP解析により、微生物相の解析を行い、施肥法の違いが微生物相に与える影響を比較すると、有機物の施肥よりも化学肥料の施肥、特に窒素肥料の施肥が、微生物相に大きな影響を与えていることが明らかとなった。

 長野県中信農業試験場内の有機物連用試験ほ場は、65年間、連用試験を続けている。非常に長期にわたる連用試験のため、土壌本来の養分含量は著しく低下していた。このため、物理性、化学性では、施肥による影響と同様に、栽培作物の影響を強く受けていることが確認された。また、微生物性をFAME解析、T-RFLP解析により分析すると、有機物含量の低い土壌では、fungiの割合が高くなること、バクテリア相には化学肥料の施肥による影響が強く表れていることが明らかとなった。

 茨城県農業総合センター、長野県中信農業試験場、それぞれの土壌で、土壌物理性、化学性、微生物性、収量と、すべてのパラメーターを用いて主成分分析(PCA)を行った。得られた固有ベクトルをプロットすると、どちらの土壌を用いた場合にも、収量の近くに作物生育に重要であると考えられる土壌物理性、化学性の因子が集まっていたことから、収量のプロットの周辺には、作物収量に強い影響を与えている因子が集まっていると判断した。そこで、収量の周辺に位置していた10個のFAMEsと10個のT-RFsを、作物収量に関わるkeystone speciesとして抽出した。茨城県農業総合センターでは、13:0 2OH、19:0 anteiso、21:0 iso 3OH、16:0 iso 3OH、16:1 w7c alcohol、15:0 iso F、14:0 anteiso、13:0 iso 3OH、SF1、18:3 w6,9,12cのFAMEsと、457bp、459bp、460bp、469bp、480bp、481bp、482bp、483bp、484bp、486bpのT-RFsが抽出され、長野県中信農業試験場の土壌からは、10:0、10:0 2OH、11:0 anteiso、11:0 iso 3OH、13:0 2OH、14:1 w5c、16:0 N alcohol、16:1 2OH、19:0 anteiso、SF 6のFAMEsと、423bp、424bp、436bp、452bp、456bp、471bp、481bp、482bp、488bp、493bpのT-RFsが抽出された。抽出されたFAMEsには、特定の菌に特異的に含まれているものが存在しており、これを比較すると、どちらの土壌からも、様々な種類の菌由来のFAMEが含まれていることが確認された。また、抽出されたT-RFsについて、クローン解析の結果を利用して系統解析を行うと、抽出されたT-RFsも、多岐に渡った菌群に由来していることが明らかになった。抽出されたFAMEsとT-RFsを比較すると、同様の菌群に由来しているだろうと考えられるものも含まれていた。どちらの土壌を用いた場合にも、抽出されたkeystone speciesは多岐にわたった微生物に由来しており、作物にポジティブに作用すると考えられている菌のみでなく、ネガティブに作用するであろう菌、新たな菌群を形成するものなど、現段階で働きの明らかでない菌も数多く含まれていた。収量に関わる因子として、このように様々な菌に由来する因子が抽出されてきた事実は非常に興味深く、土壌微生物相の複雑さ、微生物の持つ能力の多様性とその重要性を再認識させられる。また、茨城県農業総合センター、長野県中信農業試験場のどちらの土壌においても抽出されてきた13:0 2OH、19:0 anteiso、481bpT-RF、482bpT-RFは、非常に普遍性の高い因子であると考えられる。13:0 2OHは、Streptococcus bovisに特異的に、19:0 anteisoは、一部のBacillus thuringiensisとStaphylococcusに特異的に含まれる脂肪酸である。また、481bp、482bpのT-RFは、どちらもγ-proteobacteriaに属している。どちらの土壌からもγ-proteobacteriaに属するPseudomonas species、またはXanthomonas speciesに特異的に含まれる脂肪酸が抽出されていることから、Pseudomonas speciesやXanthomonas species、Bacillus thuringiensisやStreptococcus bovisは、土壌タイプ、栽培作物によらず、普遍的に収量に影響を与えている菌群である可能性が示唆された。

土壌評価におけるKeystone speciesの有用性

 抽出されたkeystone speciesを、土壌診断を行う際の微生物性の評価指標として応用することが可能かどうか、農業生産法人 茨城白菜栽培組合 連用試験ほ場をサンプルとして評価した。サンプルとして使用させていただいた茨城白菜栽培組合の土壌は、化学肥料2年連用区(CF)、有機物2年連用区(M-2)、有機物9年連用区(M-9)に分かれている。各処理区間の物理性、化学性を比較すると、土壌物理性の評価指標であるbulk densityは、M-2<CFとなり、有機物施肥による物理性の改善効果が確認された。また、化学性について比較すると、そのほとんどがCF<M-2<M-9であったが、唯一無機態窒素量のみ、M-9区が最も少ない値を示した。M-9区は、有機物の施肥が行われた直後にサンプリングを行っていることから、有機物の分解に伴い、無機態窒素量が一時的に減少しているのだろう事が示唆された。微生物性について比較を行うと、CF区、M-2区では微生物相は未だ移行段階にあること、M-9区ではバクテリア相が単純化していることが明らかとなった。

 これらの土壌の土壌評価を、soil qualityを用いて行った。微生物性の評価指標に、FAME解析で算出されたB/F値を用いて解析すると、soil qualityの値はM-2<CF<M-9となり、長野県中信農業試験場の土壌を用いて抽出されたkeystone speciesを用いて解析すると、M-9<M-2<CFとなった。Keystone speciesを指標として土壌評価を行うと、従来の評価指標であるB/F値では指摘することのできなかった、M-9区のバクテリア相に潜む問題点を、土壌評価に反映させることが出来た。このことから、上記の手法で抽出されたkeystone speciesは土壌微生物性の評価指標として、有用であると判断することが出来た。

総括

 本研究では、作物収量に関わりの深い微生物性のkeystone speciesを抽出する方法を開発することができ、更に、抽出されたkeystone speciesの微生物性の評価指標としての有用性を確認することに成功した。このような方法で抽出されたkeystone speciesは、収量と相関を持つこと、さらに、バクテリア相、糸状菌相を、培養できない微生物まで含めた、幅広い範囲で反映させることが出来ることから、土壌微生物性の新しい評価指標としての可能性に期待がかかる。今後、さらに多くのデータを蓄積し、普遍性の高いkeystone speciesを決定することで、新たな評価指標として使用されることを期待したい。

審査要旨 要旨を表示する

 土壌生物性を評価する試みは、B/F値、バイオマス、微生物数の測定、土壌呼吸、各種酵素活性、ミミズ、線虫の計数などにより行われてきた。しかし、土壌診断が普及し、一般的になった現在でも、診断基準となりうる決定的な手法は確立されていない。土壌生物、特に土壌微生物は、農業生態系のなかで非常に重要な役割を果たしており、これを無視して土壌を診断、管理していくことは、不可能であるといってよく、生物性を正確に把握する新たな手法の開発が急務となっている。本論文は、土壌機能を評価するための土壌微生物性の評価法を分子生化学的手法を中心に検討したもので4章で構成されている。

 序論に続く第2章では、作物収量に関わるkeystone speciesの抽出を試みた。ランダムに選んだ土壌を用いて作物収量に関わるkeystone speciesを抽出するためには、莫大な数の分析を要する。これに見合うだけのサンプルを収集、分析することは非常に難しいと考えられたため、この研究では、生産量に明らかな違いがあること、同じ作物を同時期に栽培していること、なるべく多くの種類の作物を栽培していることの三つの条件を満たす茨城県農業総合センター 有機物連用試験ほ場、長野県中信農業試験場内、有機物連用試験ほ場の土壌を用いて解析を行った。茨城県農業総合センター内の有機物連用試験ほ場は16区に別れており、それぞれ異なる施肥管理が24年間行われてきた。処理区間の物理性、化学性を比較すると、有機物の施肥により物理性が改善され、化学性が向上していることが確認された。また、化学性向上の効果を使用有機物ごとに比較すると、C/N比が高く、養分含量の少ないわら堆肥よりも、養分を豊富に含む下水汚泥や堆きゅう肥を用いた場合の方がその効果は高かった。FAME(脂肪酸組成)解析、T-RFLP解析により、微生物相の解析を行い、施肥法の違いが微生物相に与える影響を比較すると、有機物の施肥よりも化学肥料の施肥、特に窒素肥料の施肥が、微生物相に大きな影響を与えていることが明らかとなった。有機物含量の低い土壌では、fungiの割合が高くなること、バクテリア相には化学肥料の施肥による影響が強く表れていることが明らかとなった。

 茨城県農業総合センター、長野県中信農業試験場、それぞれの土壌で、土壌物理性、化学性、微生物性、収量と、すべてのパラメーターを用いて主成分分析(PCA)を行った。得られた固有ベクトルをプロットすると、どちらの土壌を用いた場合にも、収量の近くに作物生育に重要であると考えられる土壌物理性、化学性の因子が集まっていたことから、収量のプロットの周辺には、作物収量に強い影響を与えている因子が集まっていると判断した。そこで、収量の周辺に位置していた10個のFAMEsと10個のT-RFsを、作物収量に関わるkeystone speciesとして抽出した。抽出されたFAMEsには、特定の菌に特異的に含まれているものが存在しており、これを比較すると、どちらの土壌からも、様々な種類の菌由来のFAMEが含まれていることが確認された。また、抽出されたT-RFsについて、クローン解析の結果を利用して系統解析を行うと、抽出されたT-RFsも、多岐に渡った菌群に由来していることが明らかになった。抽出されたFAMEsとT-RFsを比較すると、同様の菌群に由来しているだろうと考えられるものも含まれていた。どちらの土壌を用いた場合にも、抽出されたkeystone speciesは多岐にわたった微生物に由来しており、作物にポジティブに作用すると考えられている菌のみでなく、ネガティブに作用するであろう菌、新たな菌群を形成するものなど、現段階で働きの明らかでない菌も数多く含まれていた。収量に関わる因子として、このように様々な菌に由来する因子が抽出されてきた事実は非常に興味深く、土壌微生物相の複雑さ、微生物の持つ能力の多様性とその重要性が明らかとなった。また、茨城県農業総合センター、長野県中信農業試験場のどちらの土壌においても抽出されてきた13:0 2OH、19:0 anteiso、481bpT-RF、482bpT-RFは、非常に普遍性の高い因子であると考えられる。13:0 2OHは、Streptococcus bovisに特異的に、19:0 anteisoは、一部のBacillus thuringiensisとStaphylococcusに特異的に含まれる脂肪酸である。また、481bp、482bpのT-RFは、どちらもγ-proteobacteriaに属している。どちらの土壌からもγ-proteobacteriaに属するPseudomonas species、またはXanthomonas speciesに特異的に含まれる脂肪酸が抽出されていることから、Pseudomonas speciesやXanthomonas species、Bacillus thuringiensisやStreptococcus bovisは、土壌タイプ、栽培作物によらず、普遍的に収量に影響を与えている菌群である可能性が示唆された。

 第3章では、土壌評価におけるKeystone speciesの有用性を検討した。抽出されたkeystone speciesを、土壌診断を行う際の微生物性の評価指標として応用することが可能かどうか、農業生産法人 茨城白菜栽培組合 連用試験ほ場をサンプルとして評価した。サンプルとして使用した土壌は、化学肥料2年連用区(CF)、有機物2年連用区(M-2)、有機物9年連用区(M-9)に分かれている。各処理区間の物理性、化学性を比較すると、土壌物理性の評価指標であるbulk densityは、M-2<CFとなり、有機物施肥による物理性の改善効果が確認された。また、化学性について比較すると、そのほとんどがCF<M-2<M-9であったが、唯一無機態窒素量のみ、M-9区が最も少ない値を示した。M-9区は、有機物の施肥が行われた直後にサンプリングを行っていることから、有機物の分解に伴い、無機態窒素量が一時的に減少しているのだろう事が示唆された。微生物性について比較を行うと、CF区、M-2区では微生物相は未だ移行段階にあること、M-9区ではバクテリア相が単純化していることが明らかとなった。これらの土壌の土壌評価を、soil qualityを用いて行った。微生物性の評価指標に、FAME解析で算出されたB/F値を用いて解析すると、soil qualityの値はM-2<CF<M-9となり、長野県中信農業試験場の土壌を用いて抽出されたkeystone speciesを用いて解析すると、M-9<M-2<CFとなった。Keystone speciesを指標として土壌評価を行うと、従来の評価指標であるB/F値では指摘することのできなかった、M-9区のバクテリア相に潜む問題点を、土壌評価に反映させることが出来た。このことから、上記の手法で抽出されたkeystone speciesは土壌微生物性の評価指標として、有用であると判断することが出来た。

 以上、本論文は土壌微生物性を分子生化学的手法を用いて評価する手法を開発したものであり、審査委員一同は学術上、応用上価値あるものと認め、博士(農学)の学位論文として十分な内容を含むものと認めた。

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