学位論文要旨



No 120207
著者(漢字) 下野,綾子
著者(英字)
著者(カナ) シモノ,アヤコ
標題(和) 亜高山帯草原におけるユキワリソウの土壌シードバンクの時空間的動態と地上個体群との相互作用
標題(洋) Spatiotemporal dynamics of soil seed banks and interactions with aboveground populations of Primula modesta in subalpine grasslands
報告番号 120207
報告番号 甲20207
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2890号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 教授 岸野,洋久
 東京大学 助教授 恒川,篤史
 東京大学 助教授 加藤,和弘
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

 現在、生息・生育地の破壊、外来種の蔓延、乱獲・過剰採集、環境汚染などの人為的環境改変により、生物多様性の急速な低下が進行しつつある。それは今後の気候変動によってさらに加速されることが危惧されており、その実態把握と対策は環境保全のための重要な課題として認識されている。特に高山帯においては、温暖化が種・個体群や植生に大きな影響を与えると予想されており、適切な監視システムの構築が喫緊の課題となっている。そのような監視には、代表的な種を取り上げ、個体群の動態を物理的環境因子の変化とあわせて定期的に調査することが有効であると考えられる。

 しかし、植物個体群については、そのような監視の基礎となる個体群動態のデータを十分な精度で取得し、予測につなげることは必ずしも容易ではない。個体群を構成する個体の多くが土壌シードバンクとして地下に存在するからである。一般に、土壌シードバンクは個体群の維持においてきわめて重要な役割を果たしていると考えられているが、土壌中の種子を追跡することが困難なため、その動態を地上個体群との相互作用を含めて定量的に評価した例はごく限られている。またそれもほとんどが人為的に播種した種子の動態を追跡したものであり、土壌シードバンクへの種子加入の時空間的パターンが捨象されているため、必ずしも自然の動態を反映するものではない。土壌シードバンク動態の把握のためには、加入から実生発生までの全プロセスを、できるかぎり自然の状態で定量化する必要がある。

 本研究では、今後の山岳環境の変化が高山植物に及ぼす影響を監視する対象種として、高山植物ユキワリソウ(サクラソウ科サクラソウ属)を想定し、その基礎的な個体群動態のモデル化に向けて、土壌シードバンク動態の時空間的変動を含む定量化を試みた。すなわち、現地における生活史特性の定量的把握、発芽実験、最新のDNA解析技術を用いた種子の空間構造の解析など、多様な手法を活用し、種子生産から実生の定着にいたる土壌シードバンクの時空間的動態と地上個体群との相互作用を明らかにした。

 ユキワリソウは中部の山岳を中心に比較的普通にみられる異型花柱性の多年生草本である。確率的な要因の影響を受けやすい希少種とは異なり、普通種の個体群動態には、環境変化の影響がより明瞭に反映すると考えられる。また地表面に無性芽を形成する小型のロゼット型植物であり、個体の認識や動態の追跡が比較的容易である。

 調査は長野県浅間山の亜高山帯で行った。生育環境の要因を広く評価できるよう対照的な2つのタイプの生育場所―(1)平坦で植被のまばらな湿地草原(湿地)および(2)南西斜面に面する植被の高い高茎草原(草地)―を選定した。

2.土壌シードバンクの加入を決定する種子生産

 本章では土壌シードバンクへの加入の時空間的パターンを把握するために、種子生産の年変動および空間的変動を4年間にわたって調査した。また、種子生産を制限する内的(個体サイズ)および外的要因(ポリネーター、気候条件、食害、病害など)とその影響を調査した。

 2001年5月に両調査地に0.5×0.5mのコドラートを10個設置し、出現したすべての個体の位置を地図化し、サイズ指標として休眠芽の直径を計測した。開花の有無および着花数は個体サイズに強く依存していた。雪解けが早く生育期間の長い草地の個体群は湿地に比べて平均的な個体サイズが大きく、個体あたりの着花数、花あたりの胚珠数が有意に多かった。

 2000-2003年の種子生産は、早い雪解けによる凍害が疑われた2002年の湿地を除いて、結果率(60-80%)および結実率(S/O比:40-60%)は概して高かった。

 開花期には、ビロードツリアブおよびネウスオドリバエによる比較的頻繁な訪花が認められ、人工授粉と放任授粉の花との間で種子生産に有意差が認めらなかったことから、種子生産に対する花粉制限は生じていないと判断された。

 開花個体の空間パターンの年変動は比較的小さく、湿地および草地の直下の土壌シードバンクへの加入はそれぞれ2000-6000m-2および5000-10000m-2であり、土壌シードバンクは開花個体の位置に依存してパッチ状に分布することが推測された。

3.実生の出現と休眠・発芽特性

 本章では種子の時空間的動態を強く支配する内的要因である生理的な休眠・発芽特性を把握した。あわせて現地における実生の出現パターンを調査し、発芽季節、発芽セーフサイト、発芽・実生定着に及ぼす親個体や環境の効果について検討した。

 2000および2001年に生産された種子を8-9月に採集し、室温保存又は冷湿保存した後、一定温度および12時間交代の変温条件(明期/暗期:12h/12hおよび暗期:24h)で発芽実験を行い、発芽特性を把握した。また2001および2002年に現地における実生の出現時期、出現数、出現場所を調査した。

 種子は冷湿処理により発芽率、発芽速度ともに高まり、春発芽に適した休眠・発芽特性をもつことが示された。それに相応し、現地における実生の出現は5月下旬から6月中旬にピークを示した。2年間の出現実生数は、湿地で200-400m-2、草地で10-30m-2であり、土壌シードバンクへの加入量が同等であるにも関わらず出現実生数に大きな違いが見られた。出現実生のミクロレベルでの空間的不均一性には開花個体の位置とリター量が大きく影響していた。暗条件下で種子はほとんど発芽しないことから、植被が発達している草地で実生が少なかったことの一因は、リターの量が多く、光条件の良い発芽セーフサイトが少ないことであると考えられた。

4.土壌シードバンクの時間的動態

 本章では土壌シードバンクと地上個体群との間の1年間のフロー(土壌シードバンクのうち実生として出現する割合、永続的シードバンクとして翌年に持ち越される割合、生産種子のうち土壌シードバンク中に取り込まれる割合)を明らかにした。

 2002年4月の実生出現前に両調査地に2.5×5.5mのコドラートを設け、このコドラートを0.5mの格子状に分割し,その交点40点から直径5cm・深さ5cmの円柱形の土壌を採集し、実生発生法により土壌中の生存種子を調査した。新たな実生出現が見られなくなる2002年8月(種子散布前)と2003年の4月に同様の調査を繰返した。あわせてコドラート内の出現実生数を調査した。また、前年の開花ラメット数から散布された種子量を推定した。

 2002年の4月に採取した土壌には湿地では約2700m-2、草地では1300m-2の生存種子が含まれていた。湿地では生産種子のほとんどが土壌中にとりこまれ、そのうちの約28%が永続的シードバンクに、約13%が翌春実生として発生すると推定された。それに対して草地では生産種子の20%のみが土壌中にとりこまれ、そのうちの66%が永続的シードバンクにとどまり、0.2%が実生になると推定された。

5.マイクロサテライトマーカーの開発

 本研究では土壌シードバンクの空間構造を把握するために、多型性の高い遺伝マーカーであるマイクロサテライトマーカーの開発行った。

 磁性粒子を用いてマイクロサテライトを濃縮し、マイクロサテライト濃縮ゲノミックDNAライブラリーを構築した。マイクロサテライトを含むDNA断片のシークエンスに基づいて、相補的なPCRプライマー組を設計した。開発された11座のマイクロサテライトマーカーを使用して浅間山のユキワリソウ31-35個体の遺伝子型を決定した。1遺伝座あたりの対立遺伝子数Naは3-14、ヘテロ接合度の観察値Hoは0.161-0.828で、1座を除きハーディーワインベルグ平衡を仮定して算出した期待値との有意なずれは見られなかった。

6.土壌シードバンクの空間的動態

 本章では、土壌シードバンクの空間的構造を地上の成熟個体の分布と関連づけて理解するために、土壌の深さ別に採集した土壌シードバンクと開花個体を対象にマイクロサテライトマーカー10座の遺伝子型を決定し、個体間距離に応じた遺伝子頻度の相関の強さの指数としてMoran's Iを算出した。

 表層0-1cmから採集した土壌シードバンク(SSB)と開花個体との間の空間的遺伝構造は、近傍の個体間で正の相関が見られたのに対し、深層1-5cmから採集した土壌シードバンク(DSB)と開花個体との間には、明瞭な空間的遺伝構造は見られなかった。このことからSSBは前年の散布種子が多くを占める一時的シードバンクとしての性格が強く、DSBは複数世代の散布種子を蓄積した永続的要素を反映するものであることが示唆された。

 出現実生は開花個体の近傍20cmに集中分布しており、生残の過程で出現時よりも集中度が増す傾向が認められた。これは、定着セーフサイトの空間的不均一性に起因するものであり、実生の生存率は降雨時に水が溜まる窪地で有意に低かった。空間的遺伝構造の形成には、地上個体群の種子散布とセーフサイトへの集中をもたらす実生の定着の過程が寄与していると考えられた。

7.本研究の意義

 本研究は、土壌シードバンクの時空間的動態を、経験的データによって予測に十分な精度で把握した初めての研究である。これまで植物の個体群動態における土壌シードバンクの生態学的および進化学的な役割の重要性は認識されていたが、その実態は必ずしも十分に把握されていなかった。本研究の成果を活用することで、地上および地下個体群を統合した個体群動態モデルの構築が可能となる。それは、今後の高山環境変化の監視と影響予測という実践的課題に大きく貢献するだけでなく、植物の生活史の進化を研究するための手段としても有用であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 高山帯・亜高山帯においては、今後、温暖化が種・個体群や植生への影響を介して生物多様性に大きな影響を与えることが予想されており、適切な監視システムの構築が求められている。山岳環境を代表する生物種を取り上げ、個体群動態を物理的環境の変化とあわせて定期的に把握・評価することは、そのための有効なアプローチの一つとなるであろう。監視の対象種として特に適していると考えられるのは、ロゼット型の草本植物のうち、現在でもまだ多くの山塊に普通種として残されている種である。

 申請者は、そのような観点から、サクラソウ科サクラソウ属の多年生植物ユキワリソウを取り上げ、監視の基礎となる個体群動態を経験的なデータにもとづいて詳細に検討し、そのモデル化に向け、これまで植物一般についても十分な知見がなかった「地下の個体群」ともいうべき土壌シードバンクの動態、ならびに地上個体群との相互作用の時空間的変動を含めた定量的把握を試みた。すなわち、現地における生活史各段階におけるパフォーマンスとそれに及ぼす環境要因の定量的な把握、発芽実験、最新のDNA解析技術を用いた種子の空間構造の解析など、多様な研究手法を駆使し、種子生産から実生の定着にいたる種子の時空間的動態を明らかにした。

 調査は長野県浅間山の亜高山帯の火山性草原で行われた。対照的な生育環境で特徴づけられる2つの生育場所―(1)平坦で植被のまばらな湿地草原(湿地)および(2)南西斜面に面する植被の高い高茎草原(草地)―を調査地として選び、4年間にわたる野外調査によって生活史、環境、個体群動態に関する詳細なデータを取得した。また、現地から採集した土壌や種子を用い、その動態や過程に係わる量的特性を実験により把握した。

 申請者はまず,土壌シードバンクへの加入(シードレイン)の時空間的パターンを把握するために、種子生産の年変動およびそれに及ぼす内的(個体サイズ)ならびに外的要因(ポリネーター、気候条件、食害、病害など)を調査した。ここでの種子生産に対する外的要因の効果は小さく、種子生産には目立った年変動は認められなかった。種子生産は花数を介して開花個体のサイズに強く依存しており、シードレインは、開花個体のサイズとその空間分布にもとづいて予測が可能なことが判明した。また、開花個体サイズや空間分布の年変動も小さく、湿地および草地の直下の土壌シードバンクへの毎年の種子加入はそれぞれ2000-6000m-2および5000-10000m-2と安定していること、また種子は特別の分散機構をもたないためシードレインは開花個体の位置に依存したパッチ構造をもつことが推測された。

 次に、環境因子の時空間変動パターンを反映した種子の動態および発芽を通じた地上個体群への加入を支配する内的要因として、生理的な休眠・発芽特性を発芽試験によって把握した。同時に現地における実生出現の時空間的パターンを調査し、実際の発芽季節や発芽セーフサイト、さらには発芽・実生定着に及ぼす親個体やリターの効果などについて検討した。種子は強い光要求性をもち、冷湿処理により発芽率、発芽速度ともに高まることから、春にリターギャップで発芽するように適応していることが示され、現地でもそれに相応した実生出現パターンが観察された。なお、2年間の出現実生数は、湿地では200-400m-2、草地では10-30m-2であり、シードレインが同等であるにも関わらず出現実生数には大きな違いが見られた。

 さらに申請者は、季節ごとに採集した土壌に含まれる種子を実生出現法によって量的に把握し、シードレインの見積もりとも合わせて、土壌シードバンクと地上個体群との間の1年間のフロー(土壌シードバンクのうち実生として出現する割合、永続的シードバンクとして翌年に持ち越される割合、生産種子のうち土壌シードバンク中に取り込まれる割合)を見積もった。2002年の4月に採取した土壌には湿地では約2700m-2、草地では約1300m-2の生存種子が含まれていた。湿地では生産種子のほとんどが土壌中にとりこまれ、そのうちの約28%が永続的シードバンクに、約13%が翌春実生として発生するものと推定された。それに対して草地では生産種子の20%のみが土壌中にとりこまれ、そのうちの66%が永続的シードバンクにとどまり、わずか0.2%が実生になると推定されることから、水流などで種子が系外に移出してしまう効果が大きいことが推測された。

 以降、比較的定常的な動態が認められた湿原のみを対象として、土壌シードバンクと地上個体群との遺伝的空間的関連を分析した。分析に必要な多型性の高い遺伝マーカーであるマイクロサテライトマーカーも申請者自らが開発した。土壌の深さ別に採集した土壌シードバンクと開花個体を対象にマイクロサテライトマーカー10座の遺伝子型を決定し、個体間距離に応じた遺伝子頻度の相関の強さの指数としてMoran'sIを算出した。表層0-1cmから採集した土壌シードバンク(SSB)と開花個体との間には、近傍での正の相関で特徴づけられる空間的遺伝構造が認められたのに対して、深層1-5cmから採集した土壌シードバンク(DSB)と開花個体との間には明瞭な空間的遺伝構造は認められなかった。SSBは前年の散布種子が多くを占める一時的シードバンクを反映し、DSBは複数世代の散布種子を蓄積した永続的要素を反映するものであることが示唆された。出現実生は開花個体の近傍20cmに集中分布しており、その生残の過程で出現時よりもいっそう集中度が増す傾向が認められた。これは、定着セーフサイトの空間的不均一性に起因するものであり、地上個体群における開花個体のパッチ状分布を促す。一時的土壌シードバンクの空間的遺伝構造の形成にはシードレインを介してこれらの過程が寄与し、種子が土壌中にとどまるうちにその構造が弱められ、永続的土壌シードバンクは明瞭な構造をもたなくなるものと考えられる。

 本研究は、多様な研究手法を組み合わせることで地上および地下個体群を統合した植物個体群動態モデルの構築への道を開いた。それは、今後の高山環境変化の監視と影響予測という実践的課題に大きく貢献するだけでなく、個体群動態におけるその重要性にもかかわらず、これまで十分に研究がなされなかった土壌シードバンク動態および地上個体群との相互作用の分析手法の確立に大きく寄与するものである。この論文で提案されたアプローチは、今後、空間的及び遺伝的な事象も考慮した植物個体群動態のモデル化のための手法として広く用いられ、植物生態学のさまざまな研究領域の発展に寄与するものと思われる。したがって、本研究は、学術面、応用面の両面できわめて大きな成果をあげたといえる。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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