学位論文要旨



No 120210
著者(漢字) 服部,奈緒子
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,ナオコ
標題(和) 分化多能性のエピジェネティックス : DNAメチル化によるマウスOct-4遺伝子の発現制御
標題(洋) Epigenetics of Pluripotency : DNA Methylation Controls Mouse Oct-4 Gene Expression
報告番号 120210
報告番号 甲20210
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2893号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
 東京大学 助教授 田中,智
 東京大学 特任助教授 服部,中
内容要旨 要旨を表示する

序論

 初期胚を構成する細胞は、様々な種類の細胞や組織に分化することのできる能力「分化多能性」を保有している。In vitroにおいて、多能性を有する株化幹細胞であるembryonic stem cell(ES細胞)およびembryonic germ cell(EG細胞)が樹立された。これらの細胞の分化多能性はOct-4などのマスター因子によって特徴づけられている。Oct-4は未受精卵、初期胚、始原生殖細胞、ES細胞およびEG細胞で発現しており、全能性や多能性を有する細胞種において特異的な発現を示す。この様な発現パターンやノックアウトマウスの研究から、Oct-4は細胞の多分化能の確立および維持に重要であると考えられている。現在までに、Oct-4遺伝子の発現を制御している転写因子は数多く知られているが、Oct-4遺伝子の細胞種および時期特異的な発現を規定している機構は未だ解明されていない。

 エピジェネティックスとは「DNAの塩基配列の変化を伴わずに有糸分裂や減数分裂後も継承される遺伝子機能の変化を研究する学問領域」のことであり、その主要な分子機構としてDNAメチル化およびピストン修飾が知られている。DNAのメチル化は、哺乳類の細胞において主にCpG配列のシトシン残基に起こり、細胞種および組織特異的な遺伝子発現制御、細胞分化、腫瘍形成など様々な生命現象に関与している。一方、コアヒストンタンパク質N末端のヒストンテイルは、アセチル化やメチル化などの修飾を受け、クロマチンの構造変換を介した遺伝子発現制御を担っている。最近、ゲノムDNA上には非常に多くのDNAメチル化可変領域が存在し、細胞によって特有のDNAメチル化プロファイルを形成していることが明らかとなった。また、DNAメチル化とヒストン修飾の相互作用の研究は、エピジェネティックス分野において、近年最も興味深いもののひとつである。

 本研究では、Oct-4遺伝子の発現がエピジェネティック機構によって制御されているのではないかという仮説のもと、Oct-4遺伝子上流域のDNAメチル化およびヒストン修飾の状態を解析した。

第1章

 マウスOct-4遺伝子は、胚盤胞期胚内部細胞塊由来のES細胞では発現しているが、栄養膜細胞由来のtrophoblast stem cell(TS細胞)、繊維芽細胞系であるNIH/3T3細胞および成体肝臓では発現していない。Oct-4遺伝子発現へのエピジェネティック制御の関与を調べるために、DNAメチル基転移酵素の阻害剤である5-aza-2'-deoxycitidine(5-aza-dC)およびヒストン脱アセチル化酵素の阻害剤であるtricostatin A(TSA)の添加実験を行った。TS細胞では、5-aza-dCまたはTSA単独処理によってOct-4発現が誘導された。一方、NIH/3T3細胞ではそれらの単独処理では発現は検出されず、混合処理によって微量のOct-4発現が誘導された。これらの結果から、Oct-4遺伝子の発現はエピジェネティック機構によって制御されている可能性が示され、また、そのエピジェネティック制御の組合せは細胞の種類によって異なることが推測された。

 ES細胞、TS細胞および成体肝臓におけるOct-4遺伝子上流域のDNAメチル化状態を解析した結果、ES細胞では低メチル化状態、TS細胞と肝臓では高メチル化状態であった。さらにレポーターアッセイから、Oct-4遺伝子上流域の転写活性化能はin vitro CpGメチル化によって抑制されることがわかった。次にDNAメチル基転移酵素1の変異マウス胚を用いてOct-4発現を解析したところ、胎盤において異所的な発現が検出され、このときOct-4遺伝子上流域のDNAは脱メチル化されていることが明らかとなった。これらの結果から、Oct-4遺伝子発現はin vitro、in vivoにおいてDNAメチル化によって制御されていることが示された。

 TSA添加実験から、TS細胞におけるOct-4遺伝子発現制御へのヒストンアセチル化の関与が示唆されたので、クロマチン免疫沈降法を用いてヒストンアセチル化状態を解析した。その結果、Oct-4遺伝子上流域のヒストンは、ES細胞において高度にアセチル化されており、一方TS細胞においてはアセチル化されていないことが示された。このことから、TS細胞におけるOct-4遺伝子の発現抑制は、DNAメチル化とヒストン脱アセチル化の相互作用によるクロマチン凝縮が原因であることがわかった。

 本章から、Oct-4遺伝子の細胞種および時期特異的な発現は、DNAメチル化とクロマチン構造の変化というエピジェネティック機構によって制御されていることが明らかとなった。また、Oct-4遺伝子の発現制御には細胞の種類によって異なるヒストン修飾の組合せが関与していることが示唆された。

第2章

 ヒストン修飾にはアセチル化やメチル化などが知られており、遺伝子発現のエピジェネティック制御機構として機能している。ヒストンアセチル化とヒストンH3-リシン(K)4のメチル化は遺伝子発現の活性化に関与し、ヒストン脱アセチル化とH3-K9およびK27のメチル化は不活性化に関与している。第1章の結果から、Oct-4遺伝子の発現制御には細胞の種類によって異なるエピジェネティック機構の組合せが関与していると考えられた。そこで本章では、ES細胞を培養下で分化誘導させた場合のOct-4遺伝子領域におけるDNAメチル化と上記のヒストン修飾状態の変化を解析した。

 Oct-4の発現は体細胞では抑制されている。しかし興味深いことに、ES細胞の培養系からleukemia inhibitory factorとフィーダー細胞を除去するのみで分化を誘導させた場合、ES細胞におけるOct-4の発現は抑制されることなく維持されることが明らかとなった。一方、レチノイン酸(RA)を添加した場合、ES細胞の分化誘導に伴いOct-4の発現抑制が観察された。すなわち、RA処理による一定方向への分化誘導時のみで、Oct-4の発現が抑制されるのである。RAで48時間あるいは72時間処理したES細胞からRAを除去し、さらに72時間培養したところ、48時間RA処理においてはOct-4の発現が回復するが、72時間処理では回復が観察されなかった。このことから、72時間RA処理によってOct-4の発現抑制は不可逆的となり、Oct-4遺伝子領域のクロマチンを凝縮させるエピジェネティック状態が確立したと考えられた。

 24時間から72時間RA処理したES細胞、およびRA未処理で同期間培養したES細胞におけるDNAメチル化状態を解析したところ、RA処理の場合のみで処理時間に伴ったメチル化状態の上昇がみられた。クロマチン免疫沈降法を用いてOct-4遺伝子領域におけるヒストン修飾の状態を解析したところ、RA処理においてのみ、ヒストン脱アセチル化およびH3-K4脱メチル化が検出された。特にRA処理72時間のES細胞では、完全なヒストン脱アセチル化およびH3-K4脱メチル化が観察された。一方、予想に反して、未処理ES細胞と同様にRA処理ES細胞においてもH3-K9およびK27のメチル化状態の変化は見られず、これらのヒストン修飾はRA処理によるOct-4発現の抑制に関与していないことが示された。この結果は、H3-K9・K27メチル化酵素であるG9aの欠損ES細胞においても、RA添加によるOct-4発現の抑制が観察されたことからも支持された。このことから、RA処理によってOct-4遺伝子上流域のDNAメチル化、ヒストン脱アセチル化、H3-K4脱メチル化が誘導された結果、クロマチンが凝縮し、Oct-4の発現が抑制されたことが明らかとなった。

 興味深いことに、NIH/3T3細胞のみでOct-4遺伝子上流域のH3-K27の高メチル化状態が観察された。ヒストン脱アセチル化およびH3-K4脱メチル化はTS細胞とNIH/3T3細胞においても観察されたが、H3-K9のメチル化は検出されなかった。

 このことから、Oct-4遺伝子発現制御において、RA処理ES細胞とTS細胞では、DNAメチル化、ヒストン脱アセチル化、H3-K4脱メチル化というエピジェネティック機構が関与しており、NIH/3T3細胞ではさらにH3-K27のメチル化が関与していることが示された。本章から、Oct-4遺伝子上流域におけるヒストン修飾状態の組合せは細胞の種類によって異なっていることが明らかとなった。

総括

 本研究から、マウスOct-4遺伝子の発現が、DNAメチル化とヒストン修飾からなるエピジェネティック機構によって制御されていることがはじめて明らかとなった。さらに、そのエピジェネティック機構の組合せが細胞の種類によって異なっているという極めて興味深い結果が得られた。つまり、未分化ES細胞ではDNAは低メチル化状態であり、Oct-4遺伝子領域は弛緩したクロマチン構造を有するが、RAにより分化の方向付けが成されると、DNA高メチル化と抑制的なヒストン修飾によりクロマチンは凝縮し、Oct-4の発現は完全に阻止されるのである。同様に、分化した体細胞でもOct-4遺伝子は不活性化されており、DNAも高メチル化状態であるが、ヒストン修飾状態がさらに変化してくるのである。

 従来、ヒストン修飾による遺伝子発現制御機構は、ヒストンアセチル化やH3-K4メチル化によって生じたクロマチン構造の弛緩が遺伝子の活性化を誘導し、逆にヒストン脱アセチル化やH3-K9・K27メチル化によるクロマチン構造の凝縮が遺伝子を不活性化すると考えられてきた。しかし、マウスOct-4遺伝子の発現抑制は、胚発生の最初に生じた分化細胞と後期で生じた分化細胞、RAにより誘導された分化細胞において、それぞれ異なる組み合わせのヒストン修飾と、共通のDNAメチル化というエピジェネティック機構によって制御されているのである。本研究は、細胞の分化多能性へのエピジェネティックスの関与を明らかにしたばかりでなく、細胞の分化に新しい概念を与えるものである。

審査要旨 要旨を表示する

 初期胚の分化多能性は初期胚特有の遺伝子発現(群)により特徴づけられている。Oct-4は未受精卵、初期胚、始原生殖細胞、ES細胞およびEG細胞で発現しており、分化多能性の発揮・維持に重要な転写因子である。現在までに、Oct-4遺伝子の発現を制御している転写因子は数多く知られているが、Oct-4遺伝子の細胞・発生時期特異的な発現制御機構は解明されていない。エピジェネティックスとは「DNAの塩基配列の変化を伴わずに有糸分裂や減数分裂後も継承される遺伝子機能の変化を研究する学問領域」を意味し、主要な分子機構としてDNAメチル化およびヒストン修飾が考えられている。本研究は、Oct-4遺伝子発現のエピジェネティック機構について研究したもので、以下の2章より構成されている。

 第1章では、Oct-4遺伝子が、はたしてエピジェネティック制御を受けているのか否かを解析している。マウスOct-4遺伝子は胚性幹細胞(ES細胞)では発現しているが、栄養膜細胞由来の栄養膜幹細胞(TS細胞)、NIH/3T3細胞および肝臓では発現していない。ES細胞、TS細胞および成体肝臓におけるOct-4遺伝子上流域のDNAメチル化状態を解析した結果、ES細胞では低メチル化状態、TS細胞と肝臓では高メチル化状態であった。さらにレポーターアッセイから、Oct-4遺伝子上流域の転写活性化能はin vitro CpGメチル化によって抑制されることがわかった。したがって、Oct-4遺伝子発現はDNAメチル化によって制御されていることが明らかになった。この発見は、DNAメチル基転移酵素の阻害剤である5-aza-2'-deoxycitidine (5-aza-dC)およびヒストン脱アセチル化酵素の阻害剤であるtricostatin A(TSA)の添加実験からも確認された。すなわち、TS細胞では、5-aza-dCまたはTSA単独処理によってOct-4発現が誘導された。クロマチン免疫沈降法を用いてES細胞およびTS細胞のヒストンアセチル化状態を解析した結果、Oct-4遺伝子上流域のヒストンは、ES細胞において高度にアセチル化されており、一方TS細胞においてはアセチル化されていないことが示された。このことから、TS細胞におけるOct-4遺伝子の発現抑制は、DNAメチル化とヒストン脱アセチル化の相互作用によるクロマチン凝縮が原因であることがわかった。

 一方、NIH/3T3細胞では5-aza-dCあるいはTSA単独処理では発現抑制は解除されず、両者の併用処理によってのみOct-4発現が誘導された。この結果は、Oct-4遺伝子の発現はエピジェネティック機構によって制御されていることを支持し、ヒストン修飾は細胞の種類によって多段階であり、抑制の程度は異なることが推測された。

 第2章では、Oct-4遺伝子領域のヒストン修飾について、ES細胞の分化誘導系およびTS細胞、NIH/3T3細胞におけるヒストン修飾を解析している。ヒストンメチル化修飾は、ヒストンH3の4番目のリシン(H3K4)のメチル化と9番目のリシン(H3K9)および27番目のリシン(H3K27)に起こることが知られている。H3K4メチル化は遺伝子発現の活性化に働き、ヒストン脱アセチル化とH3K9およびH3K27のメチル化は不活性化に関与しているとされている。レチノイン酸(RA)存在下で分化を誘導しOct-4の発現抑制が観察された状態では、ヒストンが脱アセチル化かつH3K4が低メチル化状態になっていることが明らかになった。しかし、興味深いことに、H3K9およびH3K27のメチル化状態は低く、分化前後で変化しないことが明らかになった。一方、NIH/3T3細胞では、Oct-4遺伝子のH3K27は高メチル化状態であり、他の細胞(分化処理後のES細胞、TS細胞)と大きく異なっていることが発見された。

 これらの結果は、細胞の種類によりクロマチン側の制御機構が異なることを意味する。また、これらの細胞ではいずれもDNAは高メチル化となるので、様々なクロマチン修飾の変化はゲノムワイドのDNAメチル化を指標として捕らえることが可能であることを示唆している。

 本研究から、マウスOct-4遺伝子の発現が、DNAメチル化とヒストン修飾からなるエピジェネティック機構によって制御されていることがはじめて明らかとなった。さらに、そのエピジェネティック機構の組合せが細胞の種類によって異なっているという極めて興味深い結果が得られた。本研究成果は、Oct-4遺伝子領域の解析を通じて細胞の分化多能性へのエピジェネティック制御系の関与を明らかにしたもので基礎生物学として重要であるばかりでなく、発生生殖学や再生医療を目指した応用研究にも重要な知見となった。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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