学位論文要旨



No 120212
著者(漢字) 冨川,順子
著者(英字)
著者(カナ) トミカワ,ジュンコ
標題(和) 栄養膜幹細胞の分化に伴う遺伝子発現のエピジェネティック制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 120212
報告番号 甲20212
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2895号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 特任教授 八木,慎太郎
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
 東京大学 助教授 田中,智
 東京大学 特任助教授 服部,中
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 個体は多様に分化した約200種類の細胞から構成されており、それらの細胞では、共通のゲノムDNAからそれぞれの細胞種に特異的な遺伝子セットが選択的に発現あるいは抑制されている。こうした細胞種特異的な発現遺伝子セットは個体発生過程における細胞分化を経て確立され、細胞分裂後もその娘細胞へと忠実に継承される。そこには細胞分裂を経ても伝達される遺伝子発現調節機構、すなわちエピジェネティック制御機構が関与している。

 エピジェネティック機構のひとつであるDNAメチル化はDNAを直接化学修飾する唯一の機構であり、哺乳類では主に5'-CG-3'配列(CpG)のシトシン残基に起こる。一般に、DNAメチル化は転写因子の結合を阻害するか、あるいはクロマチンの凝縮を誘起することで近傍に位置する遺伝子の発現抑制に関与する。近年、哺乳類細胞を用いたCpGアイランドを対象としたゲノムワイドな解析から、細胞種特異的にメチル化されるCpG配列が多数存在することが明らかになった。CpGアイランドが主に遺伝子のプロモーター領域に分布していることを考え合わせると、発生過程において形成されたDNAメチル化パターンがクロマチン構造と密接に関連し合いながら発現遺伝子セットを決定し、細胞の分化形質の規定に関わっている可能性が考えられる。したがって、分化に伴ったエピジェネティック制御を受ける遺伝子のゲノム構造等の解析は、細胞の分化に携わる分子機構を理解するための一助となると思われる。

 こうした分化に伴ったエピジェネティック変化を解析する材料として、本研究では栄養膜幹細胞(TS細胞)を用いた。栄養膜細胞は哺乳類の発生過程において最初に分化する細胞系列であり、胚盤胞の外層を構成する栄養外胚葉として出現する。その後、胎盤の形成にのみ寄与し、胚体側のいずれの体細胞あるいは生殖細胞へも分化することはない。マウス胚盤胞から樹立されたTS細胞はこの栄養膜細胞の性質をよく保持しており、培養下においてその分化を再現することも可能である。したがって、TS細胞は哺乳類の栄養膜細胞系列の分化における遺伝子発現の解析に非常に有用なツールであるといえる。

 以上を背景に、本研究ではDNAメチル化をはじめとするエピジェネティック修飾がTS細胞の分化に伴いどのように変化しているのか、いくつかの遺伝子座を対象に解析を試みた。

第1章

 Dimethylarginine dimethylaminohydrolase 1(Ddah1)、Ddah2およびCytochrome P450 1a1(Cyp1a1)の3種類の遺伝子は、それぞれTS細胞の分化状態に依存した発現パターンを示す遺伝子である。Ddah1は未分化条件TS細胞において特異的に発現し、Ddah2はDdah1と対照的に分化に伴った著しい発現増加を示した。Cyp1a1は分化状態に関わらず、TS細胞においてはほとんど発現していないが、benzo(a)pyrene(BaP)への暴露により発現が活性化された。しかし、BaPによる発現誘導は分化したTS細胞においてのみ認められ、細胞の分化に伴ってCyp1a1の発現誘導性が大きく変化することが明らかになった。こうした分化状態依存的な発現パターンを示す遺伝子群の発現制御にDNAメチル化、ヒストンアセチル化を含むエピジェネティック機構が関与する可能性を検討するため、細胞をDNAメチル化阻害剤5-aza-2'-deoxycytidine(AzaC)およびヒストン脱アセチル化酸素阻害剤Trichostatin A(TSA)で処理したところ、それぞれの遺伝子で発現抑制の解除が観察された(表1)。

このことから、種々の遺伝子座におけるDNAメチル化およびクロマチン構造はTS細胞の分化状態依存的に遺伝子の発現制御に関与している可能性が示唆された。

第2章

 第1節ではDdah2遺伝子に焦点をあて、遺伝子上流域のメチル化状態の解析を行った。その結果、Ddah2遺伝子上流域には、TS細胞の分化に伴いメチル化状態の変化するメチル化可変領域(Tissue- and stage-dependent differentially methylated region:T-DMR)が存在し、Ddah2の発現とT-DMRのメチル化とが負の相関関係を示すことが明らかになった。さらに、T-DMRではDNAメチル化と同調したヒストンH3、H4の脱アセチル化、ヒストンH3の4番目のリジン(H3K4)のメチル化およびH3K9の脱メチル化が観察され、DNAメチル化および種々のヒストン修飾をといったエピジェネティックな分子機構が、栄養膜細胞における分化依存的なDdah2遺伝子の発現を制御している可能性を強く示唆した。

 第2節では、第1節において発見されたDdah2 T-DMRでみられる急激な脱メチル化反応に注目し、能動的脱メチル化機構の関与について検討した。Aphidicolin処理によってDNA合成を阻害した条件においても、分化に伴って未処理条件と同程度の脱メチル化が観察されたことから、分化に伴って誘導されたDNA脱メチル化は、DNA複製に非依存的な反応によるものである可能性が示唆された。

第3章

 本章では、Ddah1遺伝子に焦点をあて、遺伝子上流域のメチル化状態およびヒストン修飾状態を解析した。その結果、Ddah1遺伝子上流域はTS細胞の分化状態に関わりなく常に低メチル化状態であることが明らかになった。H3K4およびH3K9のメチル化状態にも変化はなく、唯一、ヒストンのアセチル化状態に分化に伴った低下がみとめられた。このDdah1プロモーターにおけるヒストンのアセチル化状態とDdah1の発現とには正の相関関係がみとめられることや、第1章でのAzaCおよびTSAによる発現誘導実験の結果から、Ddah1遺伝子の発現は、DNAメチル化に依存しない、ヒストンのアセチル化状態に基づいたクロマチン構造の変化により制御されている可能性が示唆された。

第4章

 本章ではCyp1a1遺伝子に焦点をあて、第1章でみられた、TS細胞における分化状態依存的なBaPによるCyp1a1の発現誘導に対するエピジェネティック制御機構の関与について検討した。Cyp1a1遺伝子上流域のメチル化状態を解析したところ、TS細胞の分化に伴ってメチル化状態の変化するT-DMRが発見された。しかし、Cyp1a1 T-DMRのメチル化とCyp1a1の誘導的発現との間には正の相関性があり、BaPによる活性化が可能な分化後の方がより抑制された状態であることが明らかになった。さらに、Cyp1a1 T-DMRにおけるヒストンの修飾状態を解析したところ、TS細胞の分化に伴い、H3K4メチル化の低下およびH3K9メチル化の亢進がみられた。また、未分化、分化状態を通じてH3、H4はともに低アセチル化状態であったことから、Cyp1a1 T-DMRにおけるDNAメチル化および一連のヒストン修飾は、TS細胞の分化に伴ってともに発現抑制型の修飾状態へと移行することが明らかになった。これはBaPに対する反応から考えると相反した傾向にあり、未分化状態のTS細胞において特異的にCyp1a1の発現を抑える機構の存在が示唆された。Cyp1a1の発現はArylhydrocarbon receptor(AhR)およびAhR nuclear translocator(Arnt)を介して活性化される。そこでTS細胞でのこれらの発現状態を解析したところ、Arntが分化状態に関わらず一様に発現しているのに対し、AhRは2つのタイプが異なる発現パターンを示した。一方はArntと同様に低レベルながら一様に発現しており、もう一方の発現は分化に伴って増加していた。両者は同じタンパクコード領域を有することから、TS細胞内では分化に伴い機能的AhR量が増加すると考えられる。したがって、増加したAhRにより外来因子に対する感受性が増し、Cyp1a1の発現誘導に影響した可能性が考えられた。

総括

 TS細胞の分化に伴い、ゲノム上の遺伝子領域でクロマチン構造が大きく変化していることが示唆された。その変化は遺伝子ごとに多様性があるものの、こうした局所的なエピジェネティック修飾の変化が多くのゲノム領域において起こることによって細胞種固有のクロマチン構造を構築し、細胞種特異的な発現遺伝子決定の基盤として細胞の分化方向の規定に影響しているものと考えられる。

 一般に、より未分化な細胞ほどゲノム全体でのメチル化量は低く、分化の進行とともにメチル化量は増加すると考えられてきた。しかし、本研究から、各遺伝子領域において細胞の分化に伴って起こるDNAメチル化の変化は決して一様なものではなく、正負両方向性のものであることが示された。すなわち、細胞の分化能は単純にゲノム全体のメチル化量に依存したものではなく、遺伝子領域ごとにより複雑な制御が行われていると考えられる。Ddah2 T-DMRの形成において能動的脱メチル化機構の関与が示唆されたこともこれを支持する。

 本研究ではさらに、DNAメチル化とヒストンメチル化との間には関連性がみとめられた。Ddah2およびCyp1a1において、AzaC処理によりメチル化状態が緩和されるのに伴って遺伝子発現が活性化されたことは、DNAメチル化のヒストンメチル化に対する優位性を示唆していると考えられる。傾向として、メチル化されたゲノム領域ではヒストンの脱アセチル化、H3K9のメチル化が誘起され、H3K4のメチル化は阻害されていた。以上のことから、DNAメチル化はヒストン修飾パターンを形成する標識として機能している可能性が示唆された。したがって、DNAメチル化が種々のヒストン修飾に影響することによってクロマチン構造の変化を誘起し、さらにこれらの変化が種々の遺伝子発現に影響している可能性が考えられた。

表1 AzaCおよびTSA処理による遺伝子発現の変化

審査要旨 要旨を表示する

 哺乳類の個体を構成する約200種類の細胞は、ゲノムDNAの塩基配列は共通しているにも関わらず、細胞の種類に特徴的な遺伝子群の発現が抑制されている。発現が許される(あるいは抑制される)遺伝子セットは個体発生過程における細胞分化を経て確立され、細胞分裂後もその娘細胞へと忠実に継承される。DNAメチル化は正常細胞で見られる唯一の化学修飾である。また、DNAメチル化とクロマチン構造変化は関連しており、遺伝子の発現が抑制される方向に働くことが多い。DNAメチル化は哺乳類では主に5'-CG-3'配列(CpG)のシトシン残基に起こる。クロマチン構造はヒストンの修飾により制御されている。

 哺乳類胚の発生において最初に分化する細胞系列は、胚盤胞の外層を構成する栄養外胚葉として出現する。その後、胎盤の形成にのみ寄与し、胚体側のいずれの体細胞あるいは生殖細胞へも分化することはない。マウス胚盤胞から樹立された栄養膜幹細胞(TS細胞)はこの栄養膜細胞の性質をよく保持しており、培養下においてその分化を再現することも可能である。したがって、哺乳類の発生のエピジェネティックスを研究する最も興味深い細胞の一つである。本研究ではTS細胞の分化に伴うエピジェネティック制御を研究したもので、以下の4章よりなる。

 第1章では、3種類の遺伝子〔Dimethylarginine dimethylaminohydrolase 1(Ddah1)、Ddah2およびCytochrome P450 1a1(Cypla1)〕が、それぞれTS細胞の分化状態に依存した発現パターンを示すことを示している。すなわち、Ddah1は未分化のTS細胞に特異的に発現し、逆に、Ddah2は分化に伴い発現は増加した。一方、Cypla1は分化状態に関わらずほとんど発現していないが、benzo(a)pyrene(BaP)への暴露により分化したTS細胞においてのみ発現が誘導された。TS細胞をDNAメチル化阻害剤5-aza-2'-deoxycytidine(AzaC)あるいはヒストン脱アセチル化酸素阻害剤Trichostatin A(TSA)で処理したところ、それぞれの遺伝子は発現抑制の解除が観察された。しかし、抑制解除の程度は大きく異なり、エピジェネティック制御機構が、遺伝子領域に必ずしも同一でないことが示唆された。

 第2章では、Ddah2遺伝子上流域のメチル化状態が解析された。その結果、Ddah2遺伝子上流域にはメチル化可変領域(Tissue- and stage-dependent differentially methylated region:T-DMR)が存在すること、分化に伴いT-DMRは脱メチル化することが明らかになり、Ddah2遺伝子発現制御にDNAメチル化が関与していることが示唆された。しかも、Ddah2遺伝子のT-DMRのメチル化低下と同調して、ヒストンH3、H4のアセチル化、ヒストンH3の4番目のリジン(H3K4)のメチル化およびH3K9の脱メチル化が起きていることが明らかになった。さらに興味深いことに、Ddah2 T-DMRでみられる脱メチル化は急激で(分化開始後48時間以内に起こる)に注目し、Aphidicolin処理によるDNA合成阻害時での解析を行い、能動的脱メチル化機構の関与が示唆された。

 第3章では、Ddah1遺伝子に焦点をあて、遺伝子上流域のメチル化状態およびヒストン修飾状態が解析された。Ddah1遺伝子上流域はTS細胞の分化状態に関わりなく常に非メチル化状態であること、H3K4およびH3K9のメチル化状態にも変化はないことが明らかになった。ところが、ヒストンのアセチル化状態は分化に伴い明らかに低下していることが明らかになった。Ddah1遺伝子発現は、DNAメチル化に依存せず、ヒストンのアセチル化状態に基づいたクロマチン構造の変化により制御されていることが明らかになった。

 第4章ではCypla1遺伝子上流域のメチル化状態が解析された。その結果、TS細胞の分化に伴ってメチル化状態の変化するT-DMRが発見されたが、BaPによるCypla1の発現誘導が見られる分化後のTS細胞では、Cypla1 T-DMRのメチル化は亢進していた。またこの時、H3K4メチル化は低下し、H3K9メチル化は亢進していた。しかも、分化状態を通じてヒストンはH3、H4ともに低アセチル化状態であった。Cypla1 T-DMRにおけるDNAメチル化および一連のヒストン修飾は、TS細胞の分化に伴ってともにクロマチン凝縮の方向に変化するが、Cypla1遺伝子発現の誘導はエピジェネティック系による直接の影響を受けないのである。さて、Cypla1の発現はArylhydrocarbon receptor(AhR)およびAhR nuclear translocator(Arnt)を介して活性化される。TS細胞では、Arntは分化状態に関わらず低い一定の発現を示した。興味深いことに、AhRの2つのタイプ(AhRIおよびAhRII)のうち、AhRIIは低レベルながら一様に発現しており、AhRI発現は分化に伴って増加していることが明らかになった。したがって、AhRIがエピジェネティック系で制御されている可能性が示唆された。

 本研究から、TS細胞の分化に伴い遺伝子領域でクロマチン構造が大きく変化していることが示された。また、エピジェネティックス変化の生物学的意義は遺伝子領域において異なり、正負両方向性の場合もあることが示された。すなわち、細胞の分化能は単純にゲノム全体のメチル化量に依存したものではなく、遺伝子領域ごとにより複雑な制御が行われていると結論できる。さらに、能動的脱メチル化がDdah2 T-DMRで起きていることが示唆されたことはDNAメチル化制御機能の基礎として重要な知見である。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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