学位論文要旨



No 120213
著者(漢字) 野々部,領子
著者(英字)
著者(カナ) ノノベ,エリコ
標題(和) ミルク中の過酸化水素産生機構による抗菌効果に関する研究
標題(洋) Studies on Antibacterial Effect of Hydrogen Peroxide Generating System in Milk
報告番号 120213
報告番号 甲20213
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2896号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 酒井,仙吉
 東京大学 教授 東條,英明
 東京大学 助教授 伊藤,喜久治
 東京大学 助教授 今川,和彦
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨 要旨を表示する

 乳房炎は乳牛において世界中で最も多発する疾病であり、主に乳房内での細菌の異常増殖により発症する。乳量の低下、乳製品の品質低下、廃用牛としての損失など、乳房炎による酪農家の負担は計りしれず、また抗生物質など薬剤の投与以外に有効な治療法は確立されていない。細菌による食中毒や、治療による抗生物質使用により将来的に抗生物質の効かない細菌を生み出すことからも投薬での治療法よりもむしろ根本的な解決策として「乳房炎に罹らない乳牛」を育種することが求められている。乳房炎は細菌とウシの防御機構のバランスにより感染の成立が決まるため、育種選抜の指標としては、ウシ自身の持つ防御機構に働く生理物質が有力なターゲットとなり得ると考えられる。

 ウシのミルク中には多量のlactoperoxidase(LPO)が存在し、LPOは過酸化水素(H2O2)とthiocianate(SCN-)と反応し、強力な抗菌作用を示すhypothiocyanite(OSCN-)を生成する。この一連の反応系はLP-systemと呼ばれ、ウシの乳房およびミルク中における有用な生体防御機構として注目されてきた。しかしLPOの基質のうち、SCN-はミルク中に産生されることが確認されているが、H2O2のミルク中への安定した供給源は不明である。

 近年、マウスにおいて、泌乳期特異的に乳腺で発現し、ヘビの毒腺に存在するアポキシンの塩基配列と相同性の高い新規遺伝子が単離された。アポキシンはL-アミノ酸オキシダーゼ(LAO)の一種であり、LAOは特定のアミノ酸を分解して細菌毒性をもつH2O2を発生することが知られていることから、マウスミルク中にLAOが存在することで、LP-systemに重要なH2O2を供給し、乳房炎の原因である細菌の異常増殖を防ぐ可能性が考えられる。このため本研究では、これまで明らかとされていないLP-systemに必要なミルク中へのH2O2の供給源の存在と、その生理的存在意義を明らかにすることを目的に、第一章ではこの遺伝子がLAOであることを証明し、ミルク中のLAOの実在と性状について解析を行った。第二章では乳房炎の原因菌に対するLAOとLP-systemの影響について調べ、第三章ではウシのミルク中におけるH2O2産生物質の探索を行った。

 第一章では、まず、この遺伝子がLAOでミルク中に分泌されているならば、ミルク中の遊離アミノ酸に偏りがあると考え、マウスミルクの遊離アミノ酸の濃度とその分解について調べたところ、LAOの基質となりにくいアミノ酸は高濃度で存在し、基質となりやすいアミノ酸はミルク中で分解され、殆ど存在しないことがわかった。またミルクにLAOの基質となるアミノ酸を加えたところ、LAOの反応に特徴的なH2O2が発生した。さらにこれを指標としてLAOを精製し、分子量約113kDa、二量体で存在することが明らかとなった。さらに精製したLAOのアミノ酸シークエンスを行ったところ、これまでに単離された遺伝子と完全に一致し、シグナルペプチド、基質特異性を決定することにも成功した。

 以上より、マウスミルク中に哺乳類では新規の酵素であるLAOが存在し、その性状が明らかとなった。LAOは、その触媒反応において細菌毒性を有するH2O2を発生することから、乳房乳の細菌増殖を防ぐという生理的存在意義が考えられる。またLAOはLP-systemに必要なH2O2の供給源になると考えられるが、これまでマウスミルクにおけるLPOの存在は報告されていない。

 乳房内には若干細菌が存在し、さらに乳房内は細菌の増殖に適した環境であるにもかかわらず細菌の増殖が起こらない。一方、搾乳後では低温保存しないと細菌が異常増殖する。これは搾乳後のミルクにはLAOの基質となるアミノ酸がすでに分解されて存在せず、外部からも供給されないため、細菌増殖を抑止する機構が働かないと考えられる。また、アミノ酸が血中からほとんど等しくミルクに移行することが報告されているにもかかわらず、これまで古くからミルク中の遊離アミノ酸に偏りがあることが知られていた。その正確な理由については不明であったが、LAOの発見により初めてそれを合理的に説明することができた。

 第二章では、乳房炎の病原菌とLAOとLP-systemの影響を調べることを目的として、まず、これまで報告されていないマウスミルク中のLPOの探索を行った。wheyをゲル濾過し、ヨウ化カリウム法により各フラクションのLPO活性を調べたところ、活性はウシのLPOとほぼ同じ分子量である約65kDaの位置で検出され、さらにウシのLPOに特徴的な412nmの吸収をもっていることからマウスミルクにおけるLPOの存在が明らかとなった。また、ミルク中に存在するH2O2濃度を調べたところ約230μM存在し、LPO非存在下の場合では約600μM存在したことから、この濃度差はLPOがH2O2を分解することによって生じたと考えられる。次に、世界中で最も高頻出に分離される乳房炎の原因菌:Staphylococcus aureus、Streptococcus agalactiae、Escherichia coli、Klebsiella pneumoniaeの増殖がLAOとLPOによってどのような影響を受けるかを調べたところ、Sta.aureusはLAOにより増殖が最も抑制されるがLPOを加えるとその抑制の度合いは減少した。E.coli、K.pneumoniaeはLAOにより増殖抑制され、さらにLPOを加えても抑制の度合いは変化しなかった。Str.agalactiaeはLAOの影響を全く受けなかったが、LPOを加えると増殖は抑制された。以上の結果からマウスミルクにはこれまで報告されていないLPOが存在し、LAOと共に、乳房炎の原因菌の増殖を幅広く、効率よく抑制していることが明らかとなった。

 このことから実際に乳房炎が多発するウシの乳腺においてもH2O2の産生メカニズムが存在し、H2O2自身の毒性およびLP-systemへのH2O2の供給によって、広範な細菌を対象とした抗菌作用を担っている可能性が考えられる。

 そこで、第三章では、ウシミルク中に存在するH2O2産生物質を探索し、それがどのような特性を有するかについて研究を行い、以下の結果が得られた。まず、ウシミルク中にもマウスと同様にLAOが存在するのか、アミノ酸存在・非存在下でwheyにおけるLAO活性を化学発光法によって調べたところ、アミノ酸の有無に関係なくH2O2が検出され、その濃度は約0.3μMであった。さらにwheyをゲル濾過し、各フラクションのH2O2産生活性を調べたところ、約20kDaの位置に明確なピークが存在し、この分子量はマウスLAOと異なることから、ウシミルク中にはLAOではないがH2O2の産生に関与する物質が存在することが示された。またキシレノールオレンジ、ヨウ化カリウムを用いた2つのH2O2検出系においてもH2O2は検出され、さらにLPOを加えることにより、検出されなくなることからもウシミルク中におけるH2O2産生物質の存在が明らかとなった。次に、このフラクションにおけるタンパク質の特性について調べた。このフラクションをサンプルとし、様々な温度で反応を行ったところ、4℃ではH2O2の産生が殆ど見られなかったが、15℃以上では温度と時間に依存してH2O2が発生した。またH2O2産生活性は全泌乳期を通じて存在し、泌乳初期から中期にかけて増大し、中期でピークとなり中期から後期にかけて減少した。これはミルク中のLPO活性とSCN-の量の変化と同様の変化であり、この物質がLP-systemにおいて重要な役割を担うと考えられる。また、乳房炎乳のH2O2産生活性は健常乳に比べて著しく低く、乳房炎罹患の指標となるミルク中の体細胞数に対して負の相関を示したことから、H2O2産生物質が乳房炎の罹患に大きく影響していると考えられる。さらに、このフラクションにおけるタンパク質をイオン交換によって精製したところ、各フラクションのH2O2産生活性は検出されなかったが、各フラクションにゲル濾過で得られた20kDaフラクションを加えると2つの明確なピーク:fractionI、IIが存在し、また、各フラクションにfractionIIを加えるとfractionIの位置に活性が検出された。この結果は、20kDaフラクションにH2O2産生酵素とその基質が含まれていることを示唆しており、これまでの一連の実験で20kDaフラクションのみをサンプルとし、他の物質を一切添加しなくてもH2O2が検出されたのはこのためだと考えられる。

 以上より、ウシのミルク中のH2O2産生物質の存在とその特性を明らかにした。マウスミルクにはLAOが存在し、またLPOは、哺乳類のミルク、唾液、類液中に存在することが知られていることから、細菌の侵入しやすい外分泌腺においてH2O2に関連したLP-systemなどの生体防御システムの重要性が高いことが示唆される。さらに泌乳期全般で存在し泌乳最盛期で活性が高いという時期特性から、この物質は乳房炎防御機構としてH2O2産生物質は育種選抜の指標として理想的であるといえる。しかしウシミルク中におけるH2O2量はマウスに比べて著しく低い。したがって、今後はこの物質のさらなる性状解明とその育種選抜への応用といった研究の発展が欠かせないが、本研究は「乳房炎に罹らない乳牛の育種」という乳房炎への根本的な解決に向けた、最初の重要な1歩となる発見を行ったといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 乳房炎は乳牛において世界中で最も多発する疾病であり、主に乳房内での細菌の異常増殖により発症する。乳量の低下、乳製品の品質低下、廃用牛としての損失など、乳房炎による酪農家の負担は計りしれず、また抗生物質など薬剤の投与以外に有効な治療法は確立されていない。「乳房炎に罹らない乳牛」を育種することが求められ、乳房炎は細菌とウシの防御機構のバランスにより感染の成立が決まるため、育種選抜の指標としては、ウシ自身の持つ防御機構に働く生理物質が有力なターゲットとなり得ると考えられる。

 ウシのミルク中には多量のlactoperoxidase(LPO)が存在し、LPOは過酸化水素(H2O2)とthiocianate(SCN-)と反応し、強力な抗菌作用を示すhypothiocyanite(OSCN-)を生成する。この一連の反応系はLP-systemと呼ばれ、ウシの乳房およびミルク中における有用な生体防御機構として注目されてきた。しかしLPOの基質のうち、SCN-はミルク中に産生されることが確認されているが、H2O2のミルク中への安定した供給源は不明である。

 近年、マウスにおいて泌乳期特異的に乳腺で発現するL-アミノ酸オキシダーゼ(LAO)を発見した。LAOは特定のアミノ酸を分解してH2O2を発生する。マウスミルク中にLAOが存在することで、LP-systemに重要なH2O2を供給し、乳房炎の原因である細菌の異常増殖を防ぐ可能性が考えられる。本研究では、これまで明らかとされていないLP-systemに必要なミルク中へのH2O2の供給源の存在と、その生理的存在意義を明らかにすることを目的にした。全体は三章からなり、第一章ではLAOであることを証明し、ミルク中のLAOの実在と性状について解析を行った。第二章では乳房炎の原因菌に対するLAOとLP-systemの影響について調べた。第三章ではウシのミルク中におけるH2O2産生物質の探索を行った。

 第一章では、LAOがミルク中に分泌されているならば、ミルク中の遊離アミノ酸に偏りがあると考え、マウスミルクの遊離アミノ酸の濃度とその分解について調べたところ、LAOの基質となりにくいアミノ酸は高濃度で存在し、基質となりやすいアミノ酸はミルク中で分解され、殆ど存在しなかった。またミルクに基質となるアミノ酸を加えたところ、H2O2が発生し、これを指標としてLAOを精製し、分子量約113kDa、二量体で存在することが明らかとなった。以上より、マウスミルク中に哺乳類では新規の酵素であるLAOが存在し、その性状を明らかにした。

 第二章では、乳房炎の病原菌に対するLAOとLP-systemの影響を調べることを目的とし、これまで報告されていないマウスミルク中のLPOの探索を行った。wheyをゲル濾過し、ヨウ化カリウム法によりLPO活性を調べたところ、活性はウシのLPOとほぼ同じ分子量である約65kDaの位置に存在することを明らかにした。ミルク中に存在するH2O2濃度を調べたところ約230μM存在し、LPO非存在下の場合では約600μM存在したことから、濃度差はLPOがH2O2を分解することによって生じたと考えられた。

 乳房炎の原因菌:Staphylococcus aureus、Streptococcus agalactiae、Escherichia coli、Klebsiella pneumoniaeの増殖がLAOとLPOによってどのような影響を受けるかを調べたところ、Staph.aureusはLAOにより増殖が最も抑制されるがLPOを加えるとその抑制の度合いは減少した。E.coli、K.pneumoniaeはLAOにより増殖抑制され、さらにLPOを加えても抑制の度合いは変化しなかった。Strep.agalactiaeはLAOの影響を全く受けなかったが、LPOを加えると増殖は抑制された。以上の結果から、マウスミルクにはLPOが存在し、LAOと共に乳房炎の原因菌の増殖を幅広く、効率よく抑制していることを明らかにした。

 第三章では、牛乳中にもマウスミルクと同様にLAOが存在するのか、アミノ酸の存在・非存在下でLAO活性を調べたところ、アミノ酸の有無に関係なくH2O2が発生し、LAOに相当する物質は存在しなかった。しかし約20kDaの位置に活性が認められ、H2O2の産生に関与する物質が存在することが示された。4℃ではH2O2の産生が殆ど見られなかったが15℃以上では温度と時間に依存してH2O2が発生した。またH2O2産生活性は全泌乳期を通じて存在し、泌乳初期から中期にかけて増大し、中期でピークとなり中期から後期にかけて減少した。これは牛乳中のLPO活性とSCN-濃度の変化と同様の変化であり、この物質がLP-systemにおいて重要な役割を担うと考えられた。

 牛乳においてもH2O2産生物質が存在し、その特性を明らかにした。乳房内には若干細菌が存在し、さらに乳房内は細菌の増殖に適した環境であるにもかかわらず細菌の増殖が起こらない。一方、搾乳後では低温保存しないと細菌が異常増殖する。これは搾乳後のミルクには基質となる物質がすでに分解されて存在せず、外部からも供給されないため、細菌増殖を抑止する機構が働かないと考えられる。

 本研究の結果は、乳房炎を防御するための理想的な育種選抜の指標となるH2O2能の存在を明らかにした研究になっていて、学術上応用上で重要な研究になっている。よって審査委員一同は博士(農学)に相応しいと判断した。

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