学位論文要旨



No 120219
著者(漢字) 稲垣,秀晃
著者(英字)
著者(カナ) イナガキ,ヒデアキ
標題(和) ラットの社会的コミュニケーションと情動反応に関する生理行動学的研究
標題(洋)
報告番号 120219
報告番号 甲20219
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2902号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 桑原,正貴
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 情動(emotion)は歴史的にはかなり古い時代から世界各地で興味がもたれ研究されてきたが,情動の科学的研究が本格的に始まったのは19世紀の終わり頃からであり,しかもその主な研究対象はヒトであった.しかしながら,近年における精神医学の発達とそれに伴う抗不安薬や抗精神病薬の開発の必要性が高まったことや,分子あるいは遺伝子レベルを含めた神経生理学に関する数多くの知見が蓄積されるに伴い,実験動物,特に動物実験に汎用され生物学的基礎データが豊富なラットを用いた不安や恐怖などの情動研究の有用性が注目されるようになった.このように,ラットの情動研究は20世紀の終わり頃からようやく盛んになった比較的新しい研究分野であるため,その歴史はまだ浅く不明な点が多々存在し解明していかなければならない問題が多く残されている.まず,ヒトにおいて有用性が示されている自律神経系活動の反応を基準とした情動の分類については,ラットにおいてはほとんど研究が進んでいない.さらに,情動の機能に関する研究では,緊急反応などの個体における機能について論じたもの以外は皆無であり,ラットの情動に関する集団における機能についてはほとんどわかっていない.そこで本研究では,ラットに数種類の情動状態を喚起し,テレメトリー法と心拍変動のパワースペクトル解析を用いて心臓に対する自律神経系活動(以下,「心臓自律神経活動」と呼ぶ)の変化を調べ,各情動状態に対応した特定の自律神経系活動の変化により情動状態の分類が可能かどうかを検討した.また,情動のコミュニケーション機能に着目し,離乳後の社会的コミュニケーションがラットの情動反応に及ぼす影響を,心臓自律神経活動の変化や超音波の発生を中心に評価し,社会的コミュニケーションと情動反応との関連性について検討した.そして,情動とそれに伴って生じる自律神経系活動や行動の変化といった情動反応が,ラットを含めた動物のコミュニケーションにおいて果たす役割について考察することを最終目的とした.

 第2章において,ラットに報酬とストレスを用いた古典的条件付けを行うことによりそれぞれに対する「予期情動」と「反応情動」を喚起し,これら4つの情動状態における心臓自律神経活動の変化を,テレメトリー法と心拍変動のパワースペクトル解析を用いて調べた.その結果,4種類の情動状態にそれぞれ特異的な変化が認められた.報酬の古典的条件付けによって喚起されるラットの情動状態はヒトにおける「正の情動」に類似し,報酬に対する予期情動は「期待:hope」に,報酬摂取による反応情動は「喜び:happiness」に,それぞれ相当することが示唆された.また,ストレスの古典的条件付けによって喚起されるラットの情動状態はヒトにおける「負の情動」に類似し,ストレスに対する予期情動は「不安:anxiety or conditioned fear」に,ストレス曝露による反応情動は「恐怖:fear」に,それぞれ相当することが示唆された.したがって,本実験で用いた方法は,ラットの情動状態を分類して評価することが可能である有用な方法のひとつであると考えられた.

 22kHz callsは,典型的なストレス反応であると同時に,ラットのコミュニケーション手段としても重要な役割を担っている.そこで第3章では,離乳後に単独飼育を行った雄ラットと複数飼育を行った雄ラットにストレスを加えたときの22kHz callsの発生を比較し,社会的コミュニケーションの欠如がストレス反応としての22kHz callsの発生に及ぼす影響について検討した.さらに,同じく典型的なストレス反応として知られるfreezing反応と排糞数についても同様に比較検討した.離乳後単独飼育を行った個体は離乳後ペアで飼育した個体に比べて,22kHz callsの発生が著しく少なくほとんど認められなかった.それに対して,freezing時間と排糞数については両者の間に有意な差は認められなかった.さらに,離乳直後から長期間にわたってペアで飼育した2匹の雄ラットの間には社会的順位が成立し,3種類のストレス反応はすべて社会的劣位個体の方が社会的優位個体よりも多い傾向にあった.したがって,離乳後における同種間の社会的コミュニケーションは,雄ラットの情動反応に様々な影響を及ぼす可能性が示唆された.

 第4章では,成熟雄ラットに対して報酬として作用する発情前期雌ラットを,離乳後に単独飼育を行った成熟雄ラットと複数飼育を行った成熟雄ラットに提示し,雄ラットの心臓自律神経活動の変化と50kHz超音波の発生を比較することにより,社会的コミュニケーションの欠如が及ぼす影響について検討した.単独飼育個体における心臓自律神経活動の変化は「報酬に対する予期情動」と一致していたことから,その後の報酬に備えて準備している情動状態と類似していたことが示唆されたのに対し,ペアで飼育した個体では「報酬摂取による反応情動」と一致していたことから,実際に報酬に反応したときの情動状態と類似していたことが示唆された.このような自律神経系活動の変化が生じるまでの時間を比べると,単独飼育個体では発情前期雌ラット提示後しばらく時間を要したのに対し,ペアで飼育した個体では提示直後から自律神経系活動に変化が観察された.したがって,単独飼育個体とペアで飼育した個体とでは発情前期雌ラットが報酬であるという認識に違いはないものの,認識の程度には差が認められ,ペアで飼育した個体の方が単独飼育個体よりも的確かつ迅速な認識を発情前期雌ラットに対して有していたことが示唆された.ラットが性行動を円滑に行うための重要な要素のひとつに超音波を介した情報交換があるが,発情前期雌ラットを提示した場合の50kHz超音波の発生について比較すると,単独飼育個体はペアで飼育した個体よりも有意に少なかった.したがって,離乳後単独飼育を行った雄ラットは50kHz超音波を介した雌ラットとの情報交換能力が劣っており,発情前期雌ラットが報酬であるという認識が低下していたことが心臓自律神経活動の変化に生じた差異の主な原因のひとつであると考えられた.以上のように,離乳後の雄ラット間の社会的コミュニケーションは,まったく経験のない発情前期雌ラットを報酬として認識する際に認められる情動反応にも影響を及ぼすものと考えられた.

 以上の結果から,まずラットの情動状態は心臓自律神経活動の変化によって分類可能であり情動状態に特異的な変化が認められることが明らかになった.そして,離乳後における社会的コミュニケーションの欠如が,ラットのとくに同種間コミュニケーションと深い関連性を有する情動反応を低下させることが明らかとなった.情動は緊急反応として知られるように単に個体に有利に働くためだけに存在するものではなく,「共感」と「伝播」によるコミュニケーションとしての機能があると考えられている.本研究で得られた結果は,ラットの情動にも同様の機能が存在することを示唆している.すなわち,ラットの社会集団における情動の重要な機能として,ある個体(送り手)に「内における共有」である情動状態(各情動状態に共通した自律神経系の反応などに代表される)が内的に生じたとき,それを反映した「外における共有」である行動の変化や超音波などのメッセージが外的に表出され,それらを媒介とした伝達によって受け手が送り手の内的状態を認識して共有することでより適切に対応することが可能となり,結果的に集団の生存率を高めることに役立っているのではないかと推察された.動物における情動状態やそのコミュニケーション手段としての能力を考察することは様々な分野に応用可能であると考えられるが,特に,数多くの課題を残している「ヒトと動物の適切な関係」を考える上で必要となる精度の高い動物福祉を確立する際の重要な基準のひとつに成り得ると考えられた.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、動物の不安や期待といった「情動」の性状および個体間の「コミュニケーション」と情動との相互関連性を生理学的、行動学的な観点から明らかにする目的で行われたものである。

 第1章において、本研究の背景および目的について述べられた。すなわち、ラットに数種類の情動状態を喚起し、テレメトリー法と心拍変動のパワースペクトル解析を用いて心臓に対する自律神経系活動(以下、「心臓自律神経活動」と呼ぶ)の変化を調べ、各情動状態に対応した特定の自律神経系活動の変化により情動状態の類型化が可能かどうか、また、情動のコミュニケーション機能に着目し、離乳後の社会的コミュニケーションがラットの情動反応に及ぼす影響を、心臓自律神経活動の変化および超音波の発生を中心に評価し、社会的コミュニケーションと情動反応との関連性について検討し、動物のコミュニケーションにおいて果たす役割について考察することを目的とすることが述べられた。

 第2章において、ラットに「報酬」と「ストレス」を用いた古典的条件付けを行うことによりそれぞれに対する「予期情動」と「反応情動」を喚起し、これら4つの情動状態における心臓自律神経活動の変化を、テレメトリー法と心拍変動のパワースペクトル解析を用いて調べている。その結果、4種類の情動状態にそれぞれ特異的な変化が認められた。報酬の古典的条件付けによって喚起されるラットの情動状態はヒトにおける「正の情動」に類似し、報酬に対する予期情動は「期待」に、報酬摂取による反応情動は「喜び」に、それぞれ相当することが示唆された。また、ストレスの古典的条件付けによって喚起されるラットの情動状態はヒトにおける「負の情動」に類似し、ストレスに対する予期情動は「不安」に、ストレス曝露による反応情動は「恐怖」に、それぞれ相当することが示唆された。したがって、本実験で用いた方法は、ラットの情動状態を分類して評価することが可能である有用な方法のひとつであると考えられた。

 第3章では、典型的なストレス反応の表出であると同時に、ラットのコミュニケーション手段としても重要な役割を担っている22 kHz callsを指標として、離乳後に単独飼育を行った雄ラットと複数飼育を行った雄ラットにストレスを加えたときの22 kHz callsの発生を比較し、社会的コミュニケーションの欠如がストレス反応としての22 kHz callsの発生に及ぼす影響について検討した。さらに、同じく典型的なストレス反応として知られるfreezing反応と排糞数についても同様に比較検討した。その結果、離乳後単独飼育を行った個体は離乳後ペアで飼育した個体に比べて、22 kHz callsの発生が著しく少なくほとんど認められなかった。それに対して、freezing時間と排糞数については両者の間に有意な差は認められなかった。さらに、離乳直後から長期間にわたってペアで飼育した2匹の雄ラットの間には社会的順位が成立し、3種類のストレス反応はすべて社会的劣位個体の方が社会的優位個体よりも多い傾向にあった。したがって、離乳後における同種間の社会的コミュニケーションは、雄ラットの情動反応に様々な影響を及ぼす可能性が示唆された。

 第4章では、成熟雄ラットに対して報酬として作用する発情前期雌ラットを、離乳後に単独飼育を行った成熟雄ラットと複数飼育を行った成熟雄ラットに提示し、雄ラットの心臓自律神経活動の変化と50 kHz 超音波の発生を比較することにより、社会的コミュニケーションの欠如が及ぼす影響について検討した。その結果、単独飼育個体における心臓自律神経活動の変化は「報酬に対する予期情動」と一致したことから、その後の報酬に備えて準備している情動状態と類似し、ペアで飼育した個体では「報酬摂取による反応情動」と一致することが明らかになった。一方、このような自律神経系活動の変化が生じるまでの時間を比べると、単独飼育個体では発情前期雌ラット提示後しばらく時間を要したのに対し、ペアで飼育した個体では提示直後から自律神経系活動に変化が観察された。したがって、単独飼育個体とペアで飼育した個体とでは発情前期雌ラットが報酬であるという認識に違いはないものの、認識の程度には差が認められ、ペアで飼育した個体の方が単独飼育個体よりも的確かつ迅速な認識を発情前期雌ラットに対して有していたことが示唆された。さらに、発情前期雌ラットを提示した場合の50 kHz超音波の発生について比較すると、単独飼育個体はペアで飼育した個体よりも有意に少なかった。したがって、離乳後単独飼育を行った雄ラットは50 kHz超音波を介した雌ラットとの情報交換能力が劣っており、発情前期雌ラットが報酬であるという認識が低下していたことが心臓自律神経活動の変化に生じた差異の主な原因のひとつであると考えられた。これらの成績から、離乳後の雄ラット間の社会的コミュニケーションは、まったく経験のない発情前期雌ラットを報酬として認識する際に認められる情動反応にも影響を及ぼすものと考えられた。

 以上を要するに、本研究はラットの情動を自律神経機能および超音波発信の指標をもとに類型化することを可能にしたとともに、個体間の社会的コミュニケーションが情動表出に重要な役割を担っていることを客観的に明らかにしたものであり、獣医学分野ならびに医学分野における学問の発展に寄与するところが大である。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)を授与するにふさわしいものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク