学位論文要旨



No 120227
著者(漢字) 橋爪,千恵
著者(英字)
著者(カナ) ハシヅメ,チエ
標題(和) 気質関連遺伝子の多型マーカーを用いた犬の行動特性予測に関する研究
標題(洋)
報告番号 120227
報告番号 甲20227
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2910号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 人の精神医学分野では、脳内神経伝達物質の動態が個人の性格傾向に影響を及ぼすことが明らかにされつつある。中でもセロトニンが損害回避傾向に、ドーパミンが新奇探求傾向に、またノルエピネフリンが報酬依存傾向に関わるというCloningerの仮説を発端に、脳内モノアミンに関する研究が盛んに行なわれている。こうした研究分野では、塩基配列の一部が個体によって異なる「遺伝子多型」を個性のマーカーとして用いようとする研究が進んでおり、ドーパミンD4受容体(DRD4)遺伝子多型と新奇探求性、あるいはセロトニントランスポーター遺伝子多型と不安傾向などに関連があるという報告が相次いでいる。人では双生児研究や家族研究などと関連して遺伝学的研究を大規模に実施することが可能である一方、社会的・文化的要因の性格形成に対する影響が大きいことなどもあって、これまでに一貫した結果が得られていないのが現状である。

 犬は最も早い時期に家畜化された動物であり、人の様々な需要に応えるため育種選抜を受け、様々な品種が作られてきた。犬の行動特性もまた遺伝的要因と環境的要因の相互作用によって形成されると考えられるが、犬種ごとに特徴的な強い遺伝的支配を受けることも知られており、また盲導犬を対象とした調査では不安傾向など特定の行動特性が遺伝する傾向にあることが示されている。しかしながら、これまでに行われた調査研究のほとんどは観察評価を中心とした記述統計学的研究の枠を超えるものではない。

 本研究は、個性の基盤となるメカニズムを探る行動遺伝学的研究のモデル動物として犬を取り上げ、気質に関わる遺伝子多型と行動特性との関連を解析する事により、犬の気質およびその個体差の生物学的背景について理解を深めることを目的としたものである。本論文は6章から構成され、第1章において本研究の背景と目的を論じた後、第2章から第5章では本研究で実施した調査と実験について記述し、最後の第6章において本研究で得られた成果をもとに総合的な考察を行った。

 まず第2章においては、行動関連遺伝子の候補としてカテコラミン生合成経路に関与する遺伝子に着目し、モノアミン酸化酵素(MAO)およびドーパミンβ水酸化酵素(DBH)の塩基配列を決定し、これらの遺伝子における多型部位を検索した。MAO遺伝子については、Northern Blot 解析を行い脳内における遺伝子の発現分布様式についても検討したところ、2種のサブタイプは共に、情動に関与すると考えられている中脳辺縁系において発現が認められた。さらに、MAOサブタイプA(MAOA)遺伝子の全翻訳領域(ORF)およびプロモーター領域、MAOサブタイプB(MAOB)遺伝子のORF、およびDBH遺伝子のORFの塩基配列について、遺伝的背景の異なる複数のビーグル犬から採取した遺伝子配列を比較することによって多型部位を検索した。MAOA遺伝子については多型部位が認められなかったが、MAOB遺伝子ではアミノ酸置換を伴う一塩基多型(SNP)が1箇所、DBH遺伝子では2箇所のアミノ酸置換を伴うSNPがそれぞれ認められた。これらアミノ酸置換を伴うSNPの出現頻度について犬種差の有無を検討するため、国内11獣医科病院の協力を得て、各病院に来院した5犬種(ラブラドールレトリバー、ゴールデンレトリバー、マルチーズ、ミニチュアシュナウザー、シバイヌ)それぞれ20頭以上から採材したゲノムDNAを解析した。その結果、多型出現頻度は、5犬種全体ではMAOB遺伝子T199C多型については、Cアレルが40.1%、DBH遺伝子C789A多型についてはAアレルが38.9%、また同A1819G多型はシバイヌにおいてのみGアレルが認められ、その頻度は59.0%であった。これら全ての多型について犬種差が認められたことから、こうした遺伝子多型が犬種特徴に何らかの影響を及ぼしている可能性が示唆された。

 次の第3章においては、遺伝的環境や飼育環境が比較的均一であり、かつ一定の基準をもって行動評価が実施されている盲導犬候補個体を研究対象として選択し、米国・カリフォルニア盲導犬訓練協会の協力を得て、同協会で繁殖・育成中の盲導犬候補個体の血液サンプルと遺伝情報、そして盲導犬訓練士による各個体の行動評価記録を入手した。試料を供与された犬の内訳は、盲導犬適性審査に最終的に合格した合格群84頭(42%)、不合格群78頭(40%)および白内障や股関節異形成などの疾患により訓練を中止した脱落群35頭(18%)であったが、このうちデータが完備していたラブラドールレトリバー82頭(合格群42頭、不合格群40頭)について詳細な解析を行った。行動評価としては、訓練期間を通じ毎週記録された訓練士の評価コメントをもとに、攻撃性や不安傾向等について各個体のデータを数値化した。こうして数値化した行動評価データをもとに、主成分分析を行って合否判定に関与する要因を検索した。その結果、5つの主成分が抽出され、そのうち攻撃的な行動に関連する主成分が合否判定に影響を及ぼしていることが明らかとなった。このことから訓練士は一般に攻撃的な行動が盲導犬としての適性を著しく損なうと評価していることが示唆された。

 続く第4章においては、第3章において行動評価を行った盲導犬候補個体群について遺伝子多型の出現頻度を検討した。解析した遺伝子多型は、第2章で同定したMAOB遺伝子およびDBH遺伝子の一塩基多型に加え、DRD4遺伝子exon1の塩基配列挿入・欠失多型、exon3の反復配列多型、および統合失調症との関連が示唆されているドーパミンD2受容体(DRD2)遺伝子の塩基配列挿入・欠失多型の計4遺伝子における5遺伝子マーカーである。それぞれの多型の出現頻度は、MAOB遺伝子T199C多型については、Cアレルが11.7%、DBH遺伝子C789A多型についてはAアレルが42.0%、DRD4 exon1遺伝子多型についてはLアレルが38.3%、DRD4遺伝子反復配列多型についてはSアレルが12.5%、およびDRD2遺伝子多型についてはNアレルが9.9%であった。このことから、この5遺伝子マーカーは検索した個体群に普遍的に存在していることが明らかとなった。また、DRD4 exon1多型と、主成分2の主成分得点に有意な相関が認められ、遺伝子型がLLである個体がSSおよびSLである個体に比べ攻撃的反応性が高いことが明らかとなった。第3章では盲導犬不適格となる個体は主成分2の主成分得点が高い傾向にあることが示されたため、DRD4 exon1多型が盲導犬適性審査の結果に関与する可能性が考えられた。

 第5章では、犬の行動特性に複数の遺伝子多型の相互作用が影響しているのか、さらには盲導犬としての適性が複数の遺伝子多型の相互作用によって説明可能であるのかについて検討する目的で、第4章で解析を行った4遺伝子5種の遺伝子多型を説明変数とし、第3章で集計・算出した主成分得点を目的変数とした重回帰分析を行い、遺伝子多型と行動特性の関連を調査した。その結果、複数の遺伝子多型のみの相互作用では犬の行動特性に及ぼす影響について分析できなかったが、訓練士の第一印象などの他の説明変数を補うことで、主成分2「攻撃的反応性」について、修正済み重相関係数が0.597、分散分析によるP値0.001以下、F値5.863となる重回帰式が導き出された。このことから、盲導犬の合否判定においては攻撃性が重視されていること、その攻撃性は初回訓練時に既に認められていることが明らかとなった。また、遺伝子マーカーと性別を用いた盲導犬適性審査合否判別分析では、66.3%の判別的中率を得ることができた。

 以上、本研究ではまず犬のMAOB遺伝子およびDBH遺伝子の塩基配列を決定するとともにこれら遺伝子上の多型部位を同定し、遺伝子多型の発現頻度が犬種によって異なること、あるいは特定の犬種にのみ発現していることを明らかにした。次に、遺伝子多型が犬種特異的な行動特性に及ぼす影響について検討する目的で、盲導犬候補個体群を対象とした行動解析と遺伝子マーカーを用いた適性予測解析を行った。その結果、盲導犬の適性として攻撃性が少ないことが重要視されていることが見出された。本研究で得られた知見は遺伝子マーカーを犬の行動特性の予測に適用するための基盤となることが期待され、今後こうした研究が進展すれば、ヒトを含む動物の個性形成のメカニズムという基礎生物学的課題に対する理解が深まるだけでなく、多大な投資を要する補助犬の育成効率の改善にもつながるであろうし、また家庭犬においても個性に応じた飼育訓練方法を開発し問題行動の発生を予防するといった応用面でも少なからぬ恩恵がもたらされるであろうと予測される。

審査要旨 要旨を表示する

 犬は最も早い時期に家畜化された動物であり、人の様々な需要に応えるため育種選抜を受け様々な品種が作られてきた。犬の行動特性もまた遺伝的要因と環境的要因の相互作用によって形成されると考えられるが、犬種ごとに特徴的な強い遺伝的支配を受けることも知られており、また不安傾向など特定の行動特性が遺伝する傾向にあることが示されている。本研究は、個性の基盤となるメカニズムを探る行動遺伝学的研究のモデル動物として犬を取り上げ、気質に関わる遺伝子多型と行動特性との関連を解析する事により、犬の気質およびその個体差の生物学的背景について理解を深めることを目的としたものである。本論文は6章から構成され、第1章において本研究の背景と目的が論じられた後、第2章から第5章では本研究で実施した調査と実験について記述され、最後の第6章において本研究で得られた成果をもとに総合的な考察が行われている。

 まず第2章においては、行動関連遺伝子の候補としてカテコラミン生合成経路に関与する遺伝子に着目し、モノアミン酸化酵素(MAO)およびドーパミンβ水酸化酵素(DBH)の塩基配列を決定した。MAO遺伝子についてはNorthern Blot 解析を行い脳内における遺伝子の発現分布様式についても検討したところ、2種のサブタイプは共に、情動に関与すると考えられている中脳辺縁系において発現が認められた。MAOサブタイプA(MAOA)遺伝子の全翻訳領域(ORF)およびプロモーター領域、MAOサブタイプB(MAOB)遺伝子のORF、およびDBH遺伝子のORFの塩基配列について、多型部位を検索した結果、MAOB遺伝子ではアミノ酸置換を伴う一塩基多型(SNP)が1箇所、DBH遺伝子では2箇所のアミノ酸置換を伴うSNPがそれぞれ認められた。これらアミノ酸置換を伴うSNPの出現頻度について犬種差を検討したところ、全ての多型について供試した5犬種の間で差が見出された。

 次の第3章においては、遺伝的環境や飼育環境が比較的均一であり、かつ一定の基準をもって行動評価が実施されている盲導犬候補個体を研究対象として選択し、米国・カリフォルニア盲導犬訓練協会の協力を得て、盲導犬候補個体の血液サンプルと遺伝情報、そして訓練士による各個体の行動評価記録を入手した。データが完備していたラブラドールレトリバー82頭(合格群42頭、不合格群40頭)について詳細な解析を行ったが、行動評価としては、訓練期間を通じ毎週記録された訓練士の評価コメントをもとに、攻撃性や不安傾向等について各個体のデータを数値化した。こうして数値化した行動評価データをもとに、主成分分析を行って合否判定に関与する要因を検索した。その結果、5つの主成分が抽出され、そのうち攻撃的な行動に関連する主成分が合否判定に影響を及ぼしていることが明らかとなった。

 続く第4章においては、第3章において行動評価を行った盲導犬候補個体群について遺伝子多型の出現頻度を検討した。解析した遺伝子多型は、第2章で同定したMAOB遺伝子およびDBH遺伝子の一塩基多型に加え、DRD4遺伝子exon1の塩基配列挿入・欠失多型、exon3の反復配列多型、および統合失調症との関連が示唆されているドーパミンD2受容体(DRD2)遺伝子の塩基配列挿入・欠失多型の計4遺伝子における5遺伝子マーカーであり、この5遺伝子マーカーは検索した個体群に普遍的に存在していることが明らかとなった。また、DRD4 exon1多型と、主成分2の主成分得点に有意な相関が認められ、遺伝子型がLLである個体がSSおよびSLである個体に比べ攻撃的反応性が高いことが明らかとなった。

 第5章では、第4章で解析を行った4遺伝子5種の遺伝子多型を説明変数とし、第3章で集計・算出した主成分得点を目的変数とした重回帰分析を行い、遺伝子多型と行動特性の関連を調査した。その結果、訓練士の第一印象などの他の説明変数を補うことで、主成分2の「攻撃的反応性」について、修正済み重相関係数が0.597、分散分析によるP値0.001以下、F値5.863となる重回帰式が導き出され、また遺伝子マーカーと性別を用いた盲導犬適性審査合否判別分析では、66.3%の判別的中率を得ることができた。

 以上、本研究ではまず犬のMAOB遺伝子およびDBH遺伝子の多型部位を同定し、遺伝子多型の発現頻度が犬種によって異なることを明らかにした。次に、盲導犬候補個体群を対象とした行動解析と遺伝子マーカーを用いた適性予測解析を行い、遺伝子マーカーを犬の行動特性の予測に適用するための基盤となる知見が得られた。こうした研究の成果は、多大な投資を要する補助犬育成の効率改善に役立つだけでなく、ヒトを含む動物の個性形成のメカニズムという基礎生物学的課題に対する理解につながることも期待されるなど、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対し博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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