学位論文要旨



No 120228
著者(漢字) 馬場,健司
著者(英字)
著者(カナ) ババ,ケンジ
標題(和) ネコ免疫不全ウイルス感染症の遺伝子治療に関する基盤的研究
標題(洋) Fundamental Studies on the Gene Therapy for the Control of Feline Immunodeficiency Virus Infection
報告番号 120228
報告番号 甲20228
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2911号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 助教授 松本,直章
 東京大学 助教授 大野,耕一
内容要旨 要旨を表示する

 ネコ免疫不全ウイルス(Feline immunodeficiency virus,FIV)はヒト免疫不全ウイルス(Human immunodeficiency virus,HIV)と同様にレトロウイルス科レンチウイルス属に分類され、ネコに感染した場合ヒトにおけるHIV感染症と類似した免疫不全症候群を引き起こすことが知られている。その病態および臨床的特徴の類似点からFIV感染症はHIV感染症の有用な動物モデルとしても重要な感染症である。免疫反応によって排除されず、持続感染の状態で宿主に対して致死的な病原性を示すウイルス感染症においては、その治療法を画期的に進歩させるための方法として遺伝子治療の開発が期待される。そこで本論文では、FIV感染症に対する遺伝子治療の開発に向けた基盤を確立するため、以下のような一連の研究を行った。第1章ではネコ腎由来線維芽細胞株においてFIV特異的small interfering RNA (siRNA)によるFIV増殖抑制効果を検討した。第2章ではレトロウイルスベクターを用いてFIV特異的short hairpin RNA (shRNA)をネコTリンパ系細胞株に導入し、そのFIV増殖に対する効果を検討した。さらに第3章ではin situ遺伝子導入法の有用性を検討するため、shRNA発現レトロウイルスベクターをネコの骨髄腔内に投与し、投与後の体内における導入遺伝子の検出を行った。

 第1章 FIV特異的siRNAによるFIV増殖抑制効果

 RNA干渉(RNA interference,RNAi)はさまざまな種に共通した転写後遺伝子発現制御機構である。二本鎖RNAは21〜23塩基からなるsiRNAに分解され、RNA分解酵素と複合体を形成してmRNAを配列特異的に分解することが知られている。そこで第1章では、FIV特異的siRNAを作製し、そのFIV増殖抑制効果を検討した。FIV Petaluma株のgag遺伝子に相同性を有する4種類のsiRNAをFIV持続感染線維芽細胞株(CRFK/FIV)に導入した結果、いずれのsiRNAを導入した場合にもFIV mRNA量の減少および逆転写酵素活性の低下が認められ、FIVの増殖を特異的に抑制することが示された。さらに、4種類のsiRNAの中で最も高い増殖抑制効果を示したsiRNAについて詳細に検討した結果、そのsiRNAは用量依存的なFIV増殖抑制効果を示したが、増殖抑制効果は一過性であり、48時間後以降にはFIVの増殖が徐々に回復することが示された。そこで、安定してsiRNAを発現する細胞を得るため、FIV特異的shRNAを発現するプラスミドベクターをCRFK/FIV細胞に安定導入し、FIVの増殖を検討した結果、導入1ヶ月後においてもFIVの増殖は著しく抑制されており、持続的なFIV増殖抑制効果を得られることが明らかとなった。本研究の結果、RNAiを用いた遺伝子発現制御技術をFIV感染症に対する遺伝子治療法として利用できる可能性が示された。

 第2章 ネコTリンパ系細胞株におけるFIV特異的shRNA導入によるFIV増殖抑制効果

 FIVは生体内において主にTリンパ球に感染して増殖することから、Tリンパ球を抗ウイルス遺伝子治療の標的とすることが必要と考えられた。そこで第2章では、レトロウイルスベクターを用いてネコTリンパ系細胞株にFIV特異的shRNAを安定導入し、そのFIV増殖抑制効果を検討した。マウス白血病ウイルス(Murine leukemia virus,MLV)由来レトロウイルスベクターにFIV gag遺伝子特異的なshRNA発現カセットを組み込んでベクターゲノムを作製し、ネコ細胞への感染を可能にするためにエンベロープとして水疱性口内炎ウイルスエンベロープ(Vesicular stomatitis virus G protein,VSV-G)を用いたシュードタイプレトロウイルスベクターを作製した。まず、FIVをすでに産生している細胞における増殖抑制効果を検討するため、本レトロウイルスベクターをFIV持続感染Tリンパ系細胞株(FL4)に感染させ、FIV特異的shRNA安定導入細胞を得た。このFIV特異的shRNA安定導入細胞においては、FIV mRNAの発現量が著しく減少しており、FIV p24蛋白の発現量の減少および培養上清中の逆転写酵素活性の低下も確認された。これらの結果から、FIV産生Tリンパ系細胞にレトロウイルスベクターによってFIV特異的shRNAを安定に導入することにより、明らかなFIV増殖抑制効果が得られることが示された。次にFIV感染に対して抵抗性を示すTリンパ系細胞を作製するため、本研究で作製したレトロウイルスベクターを用いてFIV非感染Tリンパ系細胞株(Mya-1)にFIV特異的shRNAを安定導入した後、FIV Sendai-1株およびFIV Shizuoka株を接種することによりFIV感染に対する抵抗性を検討した。しかしながら、FIV特異的shRNA安定導入細胞におけるこれらFIV株の増殖曲線と陰性対照shRNA導入細胞におけるウイルスの増殖曲線との間に有意な差が認められず、新たなFIV感染に対して抵抗性を示すTリンパ系細胞を作製することはできなかった。その原因として、本細胞株ではshRNAの発現量が不十分であった可能性、および導入shRNAの塩基配列と完全な相同性を持たないウイルスが存在した可能性が考えられた。本研究により、FIV感染症に対する治療的遺伝子導入法の有効性が示されたが、予防的遺伝子導入法の確立のためには発現効率やウイルス遺伝子の多様性に対する対応などについてさらなる検討が必要と考えられた。

 第3章 ネコにおけるレトロウイルスベクターの骨髄腔内直接投与による実験的遺伝子導入法の検討

 ネコにおける遺伝子治療開発における問題点の一つとして生体への有効な遺伝子導入法が確立されていないことがあげられる。FIV感染症に対する遺伝子治療の開発においては、造血幹細胞が、その多能性および自己複製能から、遺伝子導入の最適な標的細胞であると考えられる。ネコの造血幹細胞を分離・純化するシステムはこれまでに確立されていないが、マウス、ヒツジおよびサルの系においてはin situ遺伝子導入法により造血幹細胞への遺伝子導入が可能であることが報告されている。そこで、第3章では、実験用ネコの骨髄腔内にレトロウイルスベクターの直接投与を行い、ネコ体内における導入遺伝子の検出を行った。レトロウイルスベクターとして蛍光マーカーであるZsGreen発現カセットを有するVSV-GシュードタイプMLVベクターを用いた。3頭のネコの左右の大腿骨髄腔内に上記のレトロウイルスベクターを投与し、3、7、14および28日後に末梢血を採取した。また、投与後7日目および14日目に骨髄穿刺により骨髄細胞を採取した。さらに、投与後28日にこれらのネコを殺処分し、骨髄およびリンパ系組織を含めた各種組織を採取した。これらの検体から高分子DNAを抽出し、PCR法によりベクター遺伝子の検出を行った。末梢血中のベクター遺伝子は、3日目には3頭全頭に、7日目には3頭中2頭において検出されたが、14日目および28日目にはいずれのネコにおいても検出されなかった。骨髄中のベクター遺伝子は、7日目および28日目とも3頭中2頭において検出された。組織中のベクター遺伝子は、脾臓、肝臓および小腸においては3頭中2頭に、リンパ節、肺および骨格筋においては3頭中1頭において検出された。これらの結果より、骨髄腔内へのレトロウイルスベクターの接種により、そのベクター遺伝子に由来するプロウイルスを有する細胞が接種後少なくとも28日目まで体内に存在していたことが示された。さらに、骨髄以外にも脾臓およびリンパ節においてベクター遺伝子が検出されたことから、造血幹細胞にも遺伝子導入された可能性が示唆された。投与7日目および14日目に採取した末梢血および骨髄細胞において蛍光マーカーであるZsGreenの発現をフローサイトメトリーにより検討したが、検出可能な蛍光を示す細胞はいずれの検体においても認められなかったことから、導入された遺伝子の発現が不十分であることが示された。本章の結果から、レトロウイルスベクターの骨髄腔内直接投与により、ネコ生体内の細胞への遺伝子導入が可能であることが明らかとなったが、その導入・発現効率に問題があることが示され、今後はレンチウイルスベクター等を用いることにより、遺伝子導入法の改良を行う必要があるものと考えられた。

 本研究では、FIV感染症に対する遺伝子治療法の開発を目的とし、その基盤的研究を行った。第1章および第2章では、抗FIV遺伝子治療法として、RNAiによる遺伝子発現制御技術の応用に関してその有用性を示し、第3章ではin situ遺伝子導入法の可能性を示唆することができた。小動物臨床における遺伝子治療の開発はまだ始まったばかりである。現在のところ、人医領域においても感染症に対する遺伝子治療は臨床応用にまで至っていない。本研究は、ヒトおよび動物における感染症に対する遺伝子治療法の開発に有用な知見を提供するものと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 ネコ免疫不全ウイルス(Feline immunodeficiency virus,FIV)はレトロウイルス科レンチウイルス属に分類され、ネコに感染した場合、免疫不全症候群を引き起こすことが知られている。免疫反応によって排除されず、持続感染の状態で宿主に対して致死的な病原性を示すウイルス感染症においては、その治療法として遺伝子治療の開発が期待される。そこで本論文では、FIV感染症の遺伝子治療の開発に向けた基盤を確立するため、以下のような一連の研究を行った。

 第1章 FIV特異的small interfering RNA (siRNA)によるFIV増殖抑制効果

 RNA干渉(RNA interference,RNAi)はさまざまな種に共通した転写後遺伝子発現制御機構である。siRNAはRNA分解酵素と複合体を形成してmRNAを配列特異的に分解することが知られている。そこで第1章では、FIV特異的siRNAを作製し、そのFIV増殖抑制効果を検討した。FIV Petaluma株のgag遺伝子に相同性を有する4種類のsiRNAをFIV持続感染線維芽細胞株(CRFK/FIV)に導入した結果、いずれのsiRNAを導入した場合にも、FIVの増殖は特異的に抑制された。さらに、その増殖抑制効果について詳細に検討した結果、siRNAは用量依存的にFIVの増殖を抑制すること、およびその効果は一過性であることが示された。そこで、FIV特異的short hairpin RNA (shRNA)を発現するプラスミドベクターをCRFK/FIV細胞に安定導入し、FIVの増殖を検討した結果、導入1ヶ月後においてもFIVの増殖は著しく抑制されており、持続的なFIV増殖抑制効果を得られることが明らかとなった。本研究の結果、RNAiを用いた遺伝子発現制御技術をFIV感染症に対する遺伝子治療法として利用できる可能性が示された。

 第2章 ネコTリンパ系細胞株におけるFIV特異的shRNA導入によるFIV増殖抑制効果

 FIVは生体内において主にTリンパ球に感染して増殖することから、Tリンパ球を抗ウイルス遺伝子治療の標的とすることが必要と考えられる。そこで第2章では、レトロウイルスベクターを用いてネコTリンパ系細胞株にFIV特異的shRNAを安定導入し、そのFIV増殖抑制効果を検討した。FIV持続感染Tリンパ系細胞株(FL4)にFIV gag遺伝子特異的なshRNAを発現するレトロウイルスベクターを感染させ、FIV特異的shRNA安定導入細胞を得た。このFIV特異的shRNA安定導入細胞においては、FIVの増殖が著しく低下していた。この結果から、FIV産生Tリンパ系細胞にFIV特異的shRNAを安定に導入することにより、明らかなFIV増殖抑制効果が得られることが示された。次に、FIV非感染Tリンパ系細胞株(Mya-1)に本レトロウイルスベクターを感染させた後、FIV感染に対する抵抗性を検討した。しかし、FIV特異的shRNA安定導入細胞におけるFIVの増殖抑制は認められず、新たなFIV感染に対して抵抗性を示すTリンパ系細胞を作製することはできなかった。本研究により、FIV感染症に対する治療的遺伝子導入法の有効性が示されたが、予防的遺伝子導入法の確立のためにはさらなる検討が必要と考えられた。

 第3章 ネコにおけるレトロウイルスベクターの骨髄腔内直接投与による実験的遺伝子導入法の検討

 FIV感染症の遺伝子治療の開発においては、造血幹細胞が、その多能性および自己複製能から、遺伝子導入の最適な標的細胞であると考えられる。そこで、第3章では、実験用ネコの骨髄腔内にレトロウイルスベクターを投与し、ネコ体内における導入遺伝子の検出を行った。末梢血中のベクター遺伝子は、投与3日目には3頭全頭に、7日目には3頭中2頭において検出された。骨髄中のベクター遺伝子は、投与7日目および28日目とも3頭中2頭において検出された。投与28日目における組織中のベクター遺伝子は、脾臓、肝臓および小腸においては3頭中2頭に、リンパ節、肺および骨格筋においては3頭中1頭において検出された。さらに、投与7日目および14日目に採取した末梢血および骨髄細胞において蛍光マーカーであるZsGreenの発現を検討したが、検出可能な蛍光を示す細胞はいずれの検体においても認められなかった。本章の結果から、レトロウイルスベクターの骨髄腔内直接投与により、ネコ生体内の細胞への遺伝子導入が可能であることが明らかとなったが、その導入・発現効率に問題があることが示され、今後は遺伝子導入法の改良を行う必要があるものと考えられた。

 以上、 FIV 感染症の遺伝子治療の開発に向けて一連の検討を行った本論文は、学問的に、また応用上価値ある論文であり、審査員一同は博士(獣医学)の学位論文に値するものと認めた。

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