学位論文要旨



No 120233
著者(漢字) 朴,鎭晟
著者(英字)
著者(カナ) パク,ジンソン
標題(和) 瞬目条件反射学習に伴うマウス小脳深部核における遺伝子発現解析
標題(洋) Transcriptional Characteristics in the Mouse Deep Cerebellar Nuclei Associated with the Delayed-Type Eyeblink Conditioning
報告番号 120233
報告番号 甲20233
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2916号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 客員教授 糸原,重美
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
 東京大学 助教授 久和,茂
内容要旨 要旨を表示する

 小脳は歩行や運動の協調性を制御するのみならず、さまざまな運動学習に関与している。小脳は解剖学的に大きく小脳皮質と小脳深部核からなるが、小脳深部核は小脳の中心部に位置する神経核であり、小脳外部から直接入力された情報と小脳皮質を経由した情報はそこで統合・処理され、再び小脳外部へ出力される。瞬目条件反射学習(eyeblink conditioning: EB)は、条件刺激(音)と非条件刺激(マウスの場合、眼瞼への電気刺激)の連続対提示により、条件刺激だけで条件反応(瞬き)を誘発させる、体表的な小脳依存的運動学習系である。EBの学習・記憶の機構に関する議論は、小脳皮質の役割を主張する説と小脳深部核の重要性を強調する説に大別される。小脳皮質はEBの学習に重要な役割を果たし、記憶の成分の一つである条件反応のタイミングを保存していることが示唆されている。EBの学習・記憶における小脳皮質でのプルキンエ細胞シナプスの可塑性の重要性については、遺伝学的手法によっても多くの支持する結果が報告されている。一方、小脳深部核の局所障害実験の結果は、小脳深部核がEBの記憶の形成や固定化に必須な役割を果たしている可能性を示唆している。しかし、解剖学的な位置に加えて微小な部位であるため、生化学的もしくは分子生物的な研究対象とするには困難であり、これまでEBにおける小脳深部核の役割を支持する分子レベルの知見は皆無に等しい。このような背景から、私は分子生物学的に小脳深部核のtranscriptomeを分析し、EBに伴って発現レベルが変動する遺伝子を探索・解析することによって、小脳深部核における可塑性の分子メカニズムにアプローチすることとした。

 第1章では、学習に伴って発現量が変動する遺伝子を網羅的に探索するため、GeneChip microarray解析を行った。EBの学習・記憶の過程は学習初期と後期に分けられ、学習初期に蓄えられた感情(恐怖)記憶が、学習後期に形成される運動学習の効率を向上させる役割を果たすとの仮説[2段階学習論(two stage theory)]が提唱されている。そこで、私は学習初期および後期の個体からRNAを抽出する事とした。79匹のマウスを陰性対照群、3日及び7日学習群、3日及び7日非学習群の計5群に分け、学習群には条件刺激(音)と無条件刺激(電気刺激)を対提示、非学習群にはランダム提示を指定した日数間繰り返し与えた。その後、各個体から小脳深部核の内、前中位核を中心とした領域を注意深く採取し、群別にプールした組織片からRNAを抽出、マイクロアレイ 解析に供した。

 マイクロアレイの結果を3日学習群と陰性対象群との差あるいは7日学習群と7日非学習群との差がAffymetrix社のMicroarray suit 5.0による解析でsignal log ratioが0.5以上、Affyによる解析でfold changeが1.3以上を示した遺伝子を可塑性候補遺伝子として選抜した。3日学習群と陰性対照群の比較で選抜された候補遺伝子について、その機能と発現パターンによりそれぞれグルーピングしたところ、機能に基づいたグルーピングでは多数の遺伝子が転写因子やシグナル伝達因子に分類された。ここで選抜された遺伝子には学習特異的もしくは刺激特異的変化を示したものが含まれていると期待されるが、すでに何らかの学習システムへの関与が報告されている遺伝子が多く含まれ、本実験結果の有効性が確認された。

 第2章では、第1章で選抜された候補遺伝子の発現変動を、定量的リアルタイムreverse transcription-polymerase chain reaction (RT-PCR)法を用いて、さらに厳密に検討した。経時的な発現変化を調べるため、1日学習群・非学習群、3日学習群・非学習群、7日学習群・非学習群、および4日学習消去群を作製した。1、3、7日群には、第1章と同様に条件刺激と無条件刺激を指定した日数間提示した。4日学習消去群には7日間の学習後に4日間、条件刺激のみ提示して、条件反射を消去した。計54匹のマウスの小脳を凍結切片にし、レーザーマイクロダイセクションシステムで前中位核のみを回収してリアルタイムRT-PCRを行った。検討した遺伝子14種の内、2個の遺伝子を除いたすべての遺伝子において、第一次選抜の基準であるマイクロアレイ解析と一致した結果が得られた。各遺伝子はその発現パターンによって5つのグループに分けられた。SGK(serum/glucocorticoid regulated kinase)、 IκBα(inhibitory kappa B alpha),PER1(period1),PLEKHF1(pleckstrin homology domain containing family F1)からなるグループは、1日トレーニングでの発現がもっとも高く、条件反応が成立していくにつれてその発現が低下するが、7日目まで学習群は非学習群に比べて高い発現を保った。一方、VAMP1(vesicle-associated membrane protein 1)の発現パターンは学習初期(1日および3日)には変化がないが、7日学習群では非条件刺激を提示した眼瞼と同側の前中位核サンプル特異的に発現の上昇が観察された。これらの結果はマイクロアレイで選抜された遺伝子が、EBの学習・記憶の成立において、各々学習段階特異性を持つことを示唆している。

 第3章では、マイクロアレイ及びリアルタイムRT-PCRで確認された遺伝子について小脳での分布と発現量を同時に調べる目的で切片上ハイブリッド形成法を行った。マイクロアレイ実験と同じ学習条件でトレーニングした80匹のマウスから小脳を取り出し凍結切片化した。SGK,IκBα,PER1,PLEKHF1,VAMP1のcDNAをクローニングし、 [α33P]-UTPで標識したセンスおよびアンチセンスプローブを作製して、小脳切片にハイブリダイズさせた。センスのプローブではシグナルが検出されず、アンチセンスプローブでは遺伝子特異的なハイブリダイゼーションパターンが得られた。SGKやIκBαのシグナルは神経細胞に限らず白質でも観察された。mRNAシグナルの定量により、これらの遺伝子は小脳中位核および白質ともに学習群での発現が非学習群に比べ高いことが明らかになった。PER1とPLEKHF1は顆粒細胞で強い発現が見られたが、小脳深部核や脳幹等にも弱い発現が認められ、その発現は非学習群に比べ学習群で高いことが観察された。VAMP1は前中位核を含む小脳深部核と顆粒細胞やその他の神経核に強く発現しており、巨視的にはEBによる発現変動が見られなかった。しかし、デンシトメトリにより詳細にVAMP1 mRNAシグナルを定量した所、前中位核の一部であり眼輪筋に投射する神経回路が集中しているdorsolateral humpにおいて、学習後期における同側特異的なシグナル上昇が確認された。

 SGKやIκBαはEBの学習・記憶過程の初期段階で多く発現され、恐怖学習の獲得に働き、後期に獲得される運動学習の効率を高める役割を果たす一方、後期の運動学習そのものにも関与することが示唆される。

 VAMP1はプレシナプス分子であり、その発現増加は軸索終末におけるシナプスの形成を伴うと推定される。したがって、EBでは運動学習の成立に伴って、同側の前中位核と軸索投射先である対側赤核との間での神経伝達が促進される可能性が示唆される。この結果は、EBによって同側前中位核特異的な可塑性が獲得されることを示唆し、すでに報告された電子顕微鏡によるシナプス密度変化の観察とともに、EBの学習・記憶が小脳前中位核に保存されるとする仮説を強く支持する。

 本研究は、これまでほとんど明らかにされていないEBにおける小脳深部核の働きについて、分子レベルでそのメカニズムを解明しようとしたものである。EBの学習・記憶の過程において、学習初期に高レベルで両側性かつ刺激依存的に発現し、その後低下する遺伝子群が存在する一方、EB後期の運動学習成立に伴って発現が同側特異的に上昇する遺伝子が存在する事実は、EBの学習・記憶において、小脳深部(中位)核における遺伝子転写制御を伴った可塑性が関与する事を示唆し、それが2段階学習機構によって形成されるとの仮説を支持する。

審査要旨 要旨を表示する

 瞬目条件反射学習(eyeblink conditioning: EB)は、条件刺激(CS,音)と非条件刺激(US,眼瞼への電気刺激)の連続対提示により、CSだけで条件反応(CR,瞬き)を誘発させる、体表的な小脳依存的運動学習系である。EBの学習・記憶の機構に関する議論は、小脳皮質説と小脳深部核説に大別されるが、遺伝学的手法により研究が進んでいる小脳皮質に対し、これまでEBにおける小脳深部核の役割を支持する分子レベルの知見は皆無に等しい。しかし、解剖核的や薬理学的な研究により小脳深部核がEBの記憶・記憶に必須であると考えられ、私は分子生物学的に小脳深部核のtranscriptomeを分析し、EBに伴って発現レベルが変動する遺伝子を探索・解析することによって、小脳深部核におけるEBの分子機構にアプローチすることとした。

 第1章では、学習に伴って発現量が変動する遺伝子を網羅的に探索するため、GeneChip microarray解析を行った。EBは学習初期の恐怖記憶が学習後期に形成される運動学習の獲得を促進する役割を果たすとの2段階学習論に該当するため、私は学習初期および後期の個体からRNAを抽出する事とした。79匹のマウスを陰性対照群、3日及び7日学習群、3日及び7日非学習群の計5群に分け、学習群にはCSとUSを対提示、非学習群にはランダム提示を指定した日数間繰り返し与えた。その後、各個体から前中位核を中心とした領域を採取し、マイクロアレイ 解析を行った。

 マイクロアレイの結果から3日学習群と陰性対象群との差が大きい遺伝子87個を可塑性候補遺伝子として選抜し、その機能よりグルーピングしたところ、多数の遺伝子が転写因子やシグナル伝達因子に分類された。ここで選抜された遺伝子の中に、すでに何らかの学習システムへの関与が報告されている遺伝子が多く含まれ、本実験結果の有効性が確認された。

 第2章では、選抜された候補遺伝子の発現変動を、定量的リアルタイム RT-PCR法を用いて、さらに厳密に検討したが、経時的な発現変化を調べるため、3日・7日群に1日群と4日学習消去群を加えてEBを行った。計54匹のマウスの小脳からレーザーマイクロダイセクションシステムで前中位核のみを回収し、リアルタイムRT-PCRを行ったが、検討した遺伝子の内、78.6%がマイクロアレイ解析と一致した結果を示した。SGK(serum/glucocorticoid regulated kinase)、 IκBα(inhibitory kappa B alpha),PER1(period1),PLEKHF1(pleckstrin homology domain containing family F1)は、1日トレーニングでの発現がもっとも高く、その後発現が低下するが、学習群は非学習群より高い発現を保った。一方、VAMP1(vesicle-associated membrane protein 1)の発現は7日学習群のみでEBと同側の前中位核特異的に発現の上昇が観察された。

 第3章では、第1,2章で確認された遺伝子について切片上ハイブリッド形成法を行った。EBトレーニングされた80匹のマウスから取り出した小脳を凍結切片化し、33Pで標識したプローブを用いてハイブリダイズを行った。SGK,IκBα,PLEKHF1,PER1の発現は神経細胞やグリアで観察されており、mRNAシグナルの定量により、これらの遺伝子は非学習群より習群で高く発現していることが明らかになった。VAMP1は神経細胞に強く発現しており、前中位核の一部であるdorsolateral humpにおいて、学習後期における同側特異的なシグナル上昇が確認された。

 SGK,IκBα,PLEKHF1,PER1はその発現パタンーによりEBの学習初期の恐怖学習の獲得と後期の運動学習そのものにも関与することが示唆される。VAMP1はプレシナプス分子であるため、VAMP1の発現上昇はEB運動学習の成立に伴って、同側の前中位核と軸索投射先である対側赤核との間での神経伝達が促進される、すなわちEBによって同側前中位核特異的な可塑性が獲得されることが示唆される。

 本研究は、これまでほとんど明らかにされていないEBにおける小脳深部核の働きについて、その分子メカニズムを解明しようとしたものである。EBの学習・記憶の過程において、学習初期に高レベルで両側性に発現し、その後低下する遺伝子群が存在する一方、EB後期の運動学習成立に伴って発現が同側特異的に上昇する遺伝子が存在する事実は、EBの学習・記憶において、小脳深部(中位)核における遺伝子転写制御を伴った可塑性が関与する事を示唆し、それが2段階学習機構によって形成されるとの仮説を支持する。以上の結果は、獣医学における神経科学上、重要な知見を加えるものである。従って審査委員一同は博士(獣医学)の資格を充分に有すると判断した。

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