学位論文要旨



No 120235
著者(漢字) 荒川,志穂
著者(英字)
著者(カナ) アラカワ,シホ
標題(和) PI3K阻害剤による処理は足場消失時と同様の機構でCdc6タンパク質の発現抑制をもたらす
標題(洋) Treatment with a PI3 kinase inhibitor shuts down Cdc6 expression via the same mechanism as used upon anchorage deprivation
報告番号 120235
報告番号 甲20235
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2384号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 教授 児玉,龍彦
 東京大学 教授 鶴尾,隆
 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 客員教授 服部,成介
内容要旨 要旨を表示する

 ほ乳類の成体体細胞は、血球系の細胞を除き通常浮遊条件下では増殖できない。しかしながら、がん化に伴い足場非依存的増殖能を獲得し、浮遊条件下でも増殖可能となる。この能力は腫瘍形成および転移能とよく相関することから、発がん機構の根底をなすと古くから考えられている。非がん細胞が増殖に足場を要求するのは、細胞周期のなかでG1-S遷移期のみである。したがって、足場シグナルによる細胞のG1-S期遷移制御の解明は、発がんの根底機構を解明する上で必要不可欠といえる。

 増殖刺激に伴い、細胞がS期を開始するには、G1期サイクリン依存性キナーゼであるCdk4/6およびCdk2が必要である。Cdk4/6の主たる標的因子はRbタンパク質で、リン酸化によって失活し、かわりにE2F-DP転写因子複合体が活性化され、複製開始点の活性化に必須なcdc6を含むいくつかのS期の開始と進行に必須な遺伝子の発現を促す。Cdk2は、Cdk4/6に協力しRbの不活化を促すと共に、複製開始に関わる因子のリン酸化を通じて、S期開始を促進する。

 浮遊条件下で培養しG1期に停止した繊維芽細胞では、Cdk2、Cdk4/6の不活化のみならず、複製開始に必須なCdc6タンパク質の発現が完全に遮断されることが、最近当研究室よって明らかにされた。この制御は、Rb非依存性転写抑制と、これまで知られていたユビキチン・プロテアゾームとは異なるパパイン族のタンパク分解酵素による分解の二つの機構によってもたらされている。このようなCdc6の発現制御は、これまでその存在がまったく知られていない。そこで本研究では、Cdc6の発現を制御するシグナル経路の解明を目指した。その結果、ホスファチジルイノシトール3-キナーゼ(PI3K)-mTORのシグナル経路がCdc6の転写活性化と分解抑制に必要不可欠であることを見出した。

 ラット腎臓由来の正常繊維芽細胞であるNRK-49FはEGFとTGF-βの共存下では可逆的に足場非依存性増殖を行う。この細胞を研究対象としてG1-S期の遷移制御機構の解明を行った。PI3Kの阻害剤であるLY294002(LY)で処理すると、NRKはG1期に停止し、特徴的な事には、Cdc6タンパク質の発現が消失する。この現象は EGF+TGF-β(ET)刺激によって回復するが、PI3Kの活性阻害そのものを解除したためではない。

 次に、このCdc6の発現消失がいかなる機構でもたらされているかを検討した。通常の細胞周期の中ではCdc6の発現は、主にRb依存的な転写抑制の解除とユビキチン・プロテアソーム系によるタンパク質分解によって制御されていることが知られている。LY処理によるG1停止時のCdc6発現消失は転写抑制によってももたらされているが(図1A)、CMVプロモーターを用いてCdc6を恒常的に発現させてもLY処理によってCdc6の消失は起こる事から(図1B)強力なタンパク質分解系が働いている事がわかった。また、このCdc6分解は、ALLN(パパイン族タンパク質分解酵素の阻害剤)で処理した場合に最も効率よく抑制された(図1B)。このように、足場消失によるG1期停止時のCdc6分解制御のメカニズムと類似していた。また、Balb/c3T3およびC3H10T1/2細胞においても同様の結果が得られた。したがって、LY処理によるCdc6タンパクの分解機構は細胞種に依らない現象であるものと考えられた(図1C,D)。

 足場消失によってCdc6の発現消失がもたらされる事は前述の通りであるが、これまでの当研究室の解析により、パパイン族タンパク質分解酵素の中でも、リソソームのカテプシンLもしくはその類似体によってCdc6が分解されることが明らかになった(神野ら私信)。これに基づき、Cdc6恒常発現株にLYを作用させ、カテプシンL特異的阻害剤を投与したところ、Cdc6の分解が効率よく抑制された(図1E)。したがって、足場消失時と同様に、LY処理によるCdc6分解はカテプシンLによってもたらされているものではないかと考えられた。更にこれを裏付けるため、in situでのカテプシンL及びカテプシンBの活性を測定した。その結果、LY処理により細胞質内カテプシンLの活性は上昇し、特に核周辺にドット状の染色として観察された。これはリソソームから放出されるカテプシンを捉えたものと推測される。また、このカテプシンLの活性は、Cdc6の発現を起こすET刺激によって抑制された。すなわち、Cdc6の発現パターンと完全な逆相関が見られた。一方、カテプシンBではLY処理に依って活性が上昇するものの、ET刺激によって活性の抑制は見られなかった。

 これらの事からLY処理によって抑制を受けるシグナル経路と足場消失によって抑制をうけるシグナル経路およびその下流のCdc6発現の制御機構は同一である可能性が極めて高いと考えられた。

 LYは、元来PI3Kの特異的阻害剤として開発されたが、同じ濃度で、PI3Kの下流の因子でありなおかつPI3K超族の一員であるmammalian target of rapamycin(mTOR)の活性を阻害することが報告されている。このことは、LYの効果がmTORを抑制することによって発揮されている可能性を示している。そこで次に、mTORがCdc6の分解制御に関与しているか否か及び、PI3KシグナルがCdc6の分解制御に必須であるか否か、更に、そうであればmTORを介しているか否かを検討した。mTORの特異的阻害剤であるrapamycin (RM)で処理すると増殖抑制が起こり(図2A)、このときCdc6タンパク質は消失する(図 2B)。また、PI3Kの特異的阻害剤であるwortmannin (WM)で処理してもCdc6のタンパク消失は認められた(図2B)。Cdc6恒常発現株においても同様にRMおよびWMによってCdc6の発現が消失し、ALLNもしくはETの共存によってCdc6の発現消失は復帰した(図2C)。さらにin situ でのカテプシンL活性を測定したところ、RMとWM処理した場合においていずれも細胞質のカテプシンLの活性は上昇し、ALLNもしくはETの共存によって抑制された(図 3)。

 よって、LY処理とWMもしくはRMの処理がもたらすCdc6の分解は同じ制御系によるものであり、足場消失時のCdc6の分解制御と一致するものと考えられる。すなわち、PI3K 及びmTORシグナルは、足場シグナルによる発現制御と同じ機構を介してCdc6の発現に必要不可欠な役割を果たしていることが明らかになった。

 次に、PI3KはmTORを介してCdc6の発現制御に関与しているのか、もしくは独立で関与しているのかを検討した。通常のシグナル経路ではPI3KとmTORの中間に位置すると考えられているAKTの恒常活性型を、アデノウイルスを用いて過剰発現させ、LY、WMおよびRMで処理した。もしもPI3Kシグナルが専らmTOR を介してCdc6の発現制御を行っているならば、RMの効果を抑制できない一方、WMの効果は完全に抑制できるはずである。更に、LYの効果も全く抑制できないはずである。図4に示す通り、WMで処理した場合のみCdc6の分解を復帰できたことより、PI3KはmTORを介してCdc6の発現を制御していると結論付けられた。

 これより、PI3K-mTORのシグナル経路がCdc6の分解を抑制しており、足場消失時のCdc6分解は、このシグナル経路の遮断によって引き起こされていると考えることができる。しかし、足場のシグナルによる制御ポイントはmTORの下流であるはずである。なぜなら、足場消失によりAKTのリン酸化およびS6Kのリン酸化レベルはわずかな減少を伴うが、維持されており、またET刺激によってもその活性は顕著な上昇をもたらさないからである。しかし、ET刺激を加えるとLY処理によってPI3K,mTOR両者が不活化されているにもかかわらずCdc6の発現がみられた。

 これらのことより、足場シグナルと発がんシグナルと細胞周期のS期進行制御の接点が明らかとなり、図5のモデルが考えられた。足場存在下では通常PI3K-mTORシグナル経路を介して、リソソームからのカテプシンL放出が抑制されている。しかし、足場消失時にはmTORより下流のシグナル経路の遮断がおこり、リソソームからのカテプシンL(および同類のカテプシン)が放出され、Cdc6の分解が起こる。ETによる発がん刺激の制御点はその足場消失のブロックポイントの下流に位置し、これはカテプシンLによるCdc6分解を抑制するものと考えられる。

図1 LY処理によるCdc6発現消失は転写制御とタンパク質分解の両者による。

(A)LY処理によりCdc6のmRNAレベルは低下する。(B)Cdc6恒常発現株においてもLY処理によりCdc6は消失する。しかしパパインファミリータンパク分解酵素の阻害剤であるALLNによってこれは復帰する。Balb/c3T3およびC3H10T1/2細胞においても同様の結果がえられた(C,D)。(E)パパインファミリーに属するカテプシンLの阻害剤(CL-lll)はLYによるCdc6タンパク分解を抑制する。

図2 wortmannin(WM)とrapamycin(RM)はともにCdc6の発現を消失させる。

(A) RMを添加する(●)とコントロール(○)に比べて増殖抑制が起こる。(B) WMとRMで処理するとどちらもCdc6タンパクの消失が認められた。(C) RMによるCdc6の分解はALLNおよびETによって回復する。

図3 WMもしくはRM処理によっても細胞質内カテプシンL活性は上昇する。

(A)蛍光基質はペプチドトランスポーターを介して細胞内に取り込まれ、WMやRM、ETの処理によって影響を受けない。(B)WMもしくはRMの処理によってもLYと同様に細胞質内のカテプシンL活性は上昇する。ALLNもしくはETの添加によってこの活性は抑制される

図4 mTORはPI3Kの下流でCdc6の発現制御に関与している。

アデノウイルスを用いて恒常活性型のAKT(gag-fused AKT)を発現させ、LY、WM、およびRMで処理した。LYおよびRMで処理した場合にはCdc6の発現は消失し、WMで処理した場合のみ復帰した。

図5 足場消失はmTORの下流に作用し、Cdc6の分解抑制を解除する。一方、ETの発がん刺激による制御ポイントはそれよりも下流に位置し、これによってCdc6の分解は抑制される。

審査要旨 要旨を表示する

1. PI3Kの阻害剤であるLY294002(LY)で処理すると、NRKはG1期に停止し、特徴的にCdc6タンパク質の発現が消失した。この現象は EGF+TGF-β(ET)刺激によって回復したが、PI3Kの活性阻害そのものを解除したためではなかった。このLY処理によるG1停止時のCdc6の発現消失が、いかなる機構でもたらされているかを検討したところ、通常の細胞周期中とは異なることが明らかになった。LY処理によるG1停止時のCdc6発現消失は転写抑制によってももたらされているが、CMVプロモーターを用いてCdc6を恒常的に発現させてもLY処理によってCdc6の消失は起こる事から強力なタンパク質分解系が働いている事が示された。また、このCdc6分解は、ALLNで処理した場合に最も効率よく抑制されたことから、パパイン族タンパク質分解酵素によってもたらされていることが明らかとなり、足場消失時と同様のメカニズムである可能性が示唆された。

2. Cdc6分解をもたらす酵素はパパイン族タンパク質分解酵素の中のどの酵素であるのかを更に詳細に検討した。カテプシンL特異的阻害剤によって、LY処理によるCdc6分解は抑制された。また、in situでのカテプシンL活性測定によっても、LY処理による細胞質内カテプシンLの活性が認められた。さらに、ALLNやET刺激によってカテプシンLの活性は消失し、このことはCdc6分解と相関があった。これらより、Cdc6分解をもたらす酵素はカテプシンLもしくはその類似体であることがわかり、LY処理によって抑制を受けるシグナル経路と足場消失によって抑制をうけるシグナル経路およびその下流のCdc6発現の制御機構は同一である可能性が極めて高いと考えられた。

3. Cdc6分解を制御するシグナルをさらに詳細に解析を行った。LY294002はPI3Kの他にmTORも抑制することから、この因子の関与を、特異的インヒビターであるrapamycin処理で検討したところ、Cdc6タンパク質分解ならびにin situでのカテプシンL活性の両者ともに抑制された。従って、カテプシンLによるCdc6分解にはmTORが関与していることが明らかになった。また、AKTの恒常活性型を、アデノウイルスを用いて過剰発現させてLY294002、rapamycin、wortmanninで処理したところ、wortmanninのみがCdc6分解を抑制出来たことから、PI3K-mTORのシグナル経路がCdc6分解を制御していることが示された。

4. 足場消失時のPI3K-mTORのシグナル経路の活性化状態を検討したところ、AKTならびにS6Kのリン酸化は維持されており、足場消失によって遮断されるシグナル経路はmTORより下流であることが示された。また、ET刺激を加えるとLY処理によってPI3K,mTOR両者が不活化されているにもかかわらずCdc6の発現がみられた。これらのことから、次のモデルが考えられた。足場存在下では通常PI3K-mTORシグナル経路を介して、リソソームからのカテプシンL放出が抑制されている。しかし、足場消失時にはmTORより下流のシグナル経路の遮断がおこり、リソソームからのカテプシンL(および同類のカテプシン)が放出され、Cdc6の分解が起こる。ETによる発がん刺激の制御点はその足場消失のブロックポイントの下流に位置し、これはカテプシンLによるCdc6分解を抑制するものと考えられる。

 以上、本論文は足場シグナルと発がんシグナルと細胞周期のS期進行制御の接点を明らかにした。本研究は、発がんの根底機構を解明する上で非常に重要な、足場シグナルによる細胞のG1-S期遷移制御様式の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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