学位論文要旨



No 120240
著者(漢字) 高橋,雄二
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ユウジ
標題(和) 哺乳類嗅覚系における「匂い地図」の機能解析
標題(洋) Functional Analysis of Odor Maps in the Mammalian Olfactory System
報告番号 120240
報告番号 甲20240
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2389号
研究科 医学系研究科
専攻 機能生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 真鍋,俊也
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 講師 辻本,哲宏
内容要旨 要旨を表示する

 視覚や体性感覚皮質では、知覚される外界の空間位置情報が脳における感覚地図上でも保存され、空間的に表現される。しかし、嗅覚系は空間位置情報を持たない様々な化学物質(匂い分子)により媒介される。従って、匂い分子構造がどのように脳内で空間的に表現されるのかは、嗅覚研究において大きな問題での1つである。

 個々の嗅細胞は、1000種類の匂い分子受容体の中から特定の1種類のみを発現しており、同種の匂い分子受容体を発現する嗅細胞はその軸索を嗅球上の特定の少数個の糸球へと収束させる。従って、嗅球上の糸球の空間配置は「匂い分子受容体地図」であると言える。個々の匂い分子は、この嗅球「匂い分子受容体地図」上で活性化された糸球群の組み合わせとして表現される。それでは約1000種類の匂い分子受容体を表現している糸球群は、嗅球上でどのように空間的に配置されているのだろうか。

 嗅球「匂い分子受容体地図」の構成原理を理解する為には、個々の糸球の匂い応答特性(匂い分子受容範囲)と嗅球上での空間配置との関係を同一個体において詳細に解析する必要がある。そこで、構造を体系的に変化させた70種類以上の匂い分子群と内因性信号の光学測定法を用い、同一個体で100以上の糸球について匂い分子受容範囲とその嗅球上での空間位置を決定した。その結果、嗅球背側面と背外側面においては、共通の匂い分子受容範囲をもつ糸球群が、空間的に近傍に集合配置され、Molecular feature clusterを形成している事が明らかとなった(図1)。

 更に、個々の糸球を活性化する芳香族匂い分子群の三次元分子構造を重ね合わせ、其々の糸球の活性化に重要なcharacteristic molecular featuresを推測した。その結果、糸球を活性化するcharacteristic molecular featuresが嗅球背側面と背外側面では漸進的に、体系的に変化し表現される事を見出した(図2)。

 また、嗅球「匂い分子受容体地図」の機能的重要性について検証するために、匂い分子構造と、知覚される「匂いの質」と、これら匂い分子が活性化する糸球の空間パターンとの関係について詳細な解析を行った。その結果、特定のmolecular feature cluster内の糸球群を活性化する匂い分子は、共通の「匂いの質」を持つ傾向が見られる事から、嗅球上では「匂いの質」が空間的に表現されている可能性が示唆された(図3)。

 嗅覚は様々な動物行動において重要な役割を果たす感覚系である。本研究では、腐敗した食べ物の匂いという、可食・不可食の判断にとって重要な匂い情報が、どのように嗅球「匂い分子受容体地図」上で表現され処理されるのかについて検討した。腐敗や劣化した食物から発せられる異臭の主な原因は、アミノ酸の分解産物であるアミンや、脂質の酸化によって生じる脂肪酸やアルデヒドであり、「脂臭さ、魚臭さ」という共通の「匂いの質」を持つ。これらの匂い分子群が嗅球「匂い分子受容体地図」上でどのように表現されるのか、光学測定法と細胞外単一細胞記録法を用い解析した。そして、アミン/脂肪酸/アルデヒドのいずれにも応答する糸球群と嗅球ニューロン(僧帽/房飾細胞)が、嗅球背側面の吻内側部に集合配置されている事を見出した(図4)。この結果は、アミン/脂肪酸/アルデヒド応答糸球群が、「脂臭さ、魚臭さ」という腐敗した食物の匂いの知覚に重要な役割を果たす可能性を示唆している。

 また、料理では肉や魚の「脂臭さ、魚臭さ」をマスキングする目的で様々なスパイスが用いられる事から、この異臭のマスキングに嗅球局所回路内での側抑制が重要であるという仮説を立て実験的検証を行った。その結果、アミン応答cluster内の僧帽細胞から細胞外単一細胞記録を行い、アミン/脂肪酸/アルデヒドに応答する僧帽細胞の応答が、これらスパイスの匂いで抑制される事を見出した(図5)。この事は、匂いのマスキングが少なくとも部分的には嗅球内の側抑制によりおこる事を示唆している。

 以上の結果は、嗅球「匂い分子受容体地図」では、匂い分子のcharacteristic molecular featuresが体系的に、漸進的に表現されており、これら糸球の空間配置が、様々な混合臭を認識するための情報処理に重要である事を示している。

図1)嗅球上のMolecular feature clustersの空間配置

 嗅球背側と背外側面では、類似した匂い分子受容範囲をもつ糸球群が集合配置され、Molecular feature clustersを形成する。Cluster Aは嗅球背内側面に位置し、嗅球背外側面には吻側から尾側へとClusters B、C、Dが配置される。Clusters E、F、Gは嗅球外側面の背側部に配置される。

図2) 嗅球背外側面におけるCharacteristic molecular featuresの空間地図

 破線の円は個々の糸球を示す。Characteristic molecular featuresの重要な分子構造と考えられる部位は色で示す。青色はMethoxy [-O-CH3]またはEthoxy group[-O-CH2-CH3]から成るMolecular featuresを、黄色はHydroxyl group[-OH]から成るMolecular featuresを示す。赤色はHydroxyl groupとAlkoxyl group[-O-R]がベンゼン環の周りにオルトの位置に配置されたMolecular featuresを、桃色はHydroxyl groupとCarbonyl group[-O=C]がオルトの位置に配置されたMolecular featuresを示す。

図3) 匂い分子構造と、匂いの質とMolecular feature clustersとの関係を示した模式図

 共通の匂いの質を持つ匂い分子群は、嗅球「匂い分子地図」上で特定のMolecular feature cluster内の糸球群を活性化する傾向がある。

図4) 嗅球吻内側部の糸球Clusterは脂肪酸、アルデヒドとアミンに応答する。

 嗅球背側面におけるアミン応答糸球群の空間配置を示す。赤、青、橙色の円はそれぞれ、脂肪酸応答、アルデヒド応答、アミン応答糸球を表す。アミン応答糸球群は、脂肪酸/アルデヒド応答糸球群の中に位置している。

図5) スパイスの匂いによるアミン応答Mitral cellの抑制

 Mitral cellのスパイク発火活動を示したヒストグラム。ヘキシルアミン刺激により誘導されたスパイク発火活動が、Fennelとその主要な構成物質であるtrans-Anethole刺激により一時的に抑制される。上からスパイクヒストグラム、スパイク応答、呼吸リズムを示す。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、哺乳類嗅覚情報処理機構において重要な役割を演じていると考えられる、嗅球上の感覚地図である「匂い地図」がどのように空間的に構成されているのか、また「匂い地図」がどのような機能的重要性を持つのかについて明らかにする為に、内因性信号の光学測定法とin vivo電気生理学的手法を用いてラット嗅球の機能解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.構造を体系的に変化させた72種類の匂い分子パネルと、内因性信号の光学測定法を用い、ラット嗅球背側面と背外側面の100以上の糸球において、その匂い応答特性(匂い分子受容範囲)を決定した。個々の糸球の匂い分子受容範囲とその嗅球上での空間位置との関係を詳細に解析する事により、共通の匂い分子受容範囲を持つ糸球群が、空間的に近傍に配置され、Molecular feature clusterを形成している事が示された。

2.本研究で定義した7つのMolecular feature clustersの持つ匂い応答特性と、その嗅球上での相対的な位置関係は、異なった動物間でも保存されている事が示された。

3. 個々の糸球を活性化する芳香族匂い分子群の三次元分子構造を重ね合わせる事で、それぞれの糸球の活性化に重要なCharacteristic molecular featuresを推定した。その結果、嗅球背側面と背外側面では、糸球を活性化するCharacteristic molecular featuresが漸進的に、体系的に変化し表現される事が示された。

4.嗅球「匂い地図」の機能的重要性について調べる為、匂い分子構造と、知覚される「匂いの質」と、これらの匂い分子が活性化する糸球群の嗅球「匂い地図」上での空間パターンとの関連について詳細な解析を行ったところ、特定のMolecular feature cluster内の糸球群を活性化する匂い分子群は、共通の「匂いの質」を持つ傾向がある事が示された。従って、嗅球上では「匂いの質」が空間的に表現されている可能性が示された。

5.嗅覚は様々な動物行動において重要な役割を果たす感覚系である事から、腐敗した食物から発せられる異臭の主な原因であるアミン類、脂肪酸類やアルデヒド類が、嗅球「匂い地図」上でどのように表現されるのかについて、光学測定法と細胞外単一細胞記録法を用いて解析し、アミン/脂肪酸/アルデヒドのいずれにも応答する糸球群と嗅球ニューロンである僧帽/房飾細胞が、嗅球背側面の吻内側に集合配置されている事を示した。従って、アミン/脂肪酸/アルデヒド応答糸球群が、「脂臭さ、魚臭さ」という腐敗した食物の匂いの知覚に重要な役割を果たす可能性が示された。

6.料理では魚や肉の「脂臭さ、魚臭さ」をマスキングする目的で様々なスパイスが用いられる事から、スパイスによるこの「脂臭さ、魚臭さ」のマスキングには嗅球局所回路内での側抑制が重要であるという仮説を立て、光学測定法と細胞外単一細胞記録法による実験的検証を行った。スパイス応答糸球群は、アミン応答糸球Clusterの外側部に隣接し配置されており、さらにアミン応答糸球Cluster内の僧帽細胞の応答が、これらスパイスの匂いにより抑制される事を示した。従って、匂いのマスキングの少なくとも一部が、嗅球内での側抑制により成される事が示された。

 以上、本論文はラットの嗅球における感覚地図である「匂い地図」上では、1000種類の匂い分子受容体が、活性化する匂い分子の持つCharacteristic molecular featuresに応じて、体系的に空間的に表現されている事を明らかにした。また、これら「匂い地図」の空間的な配置が、我々が日常接する匂い分子の混合の情報処理に重要な役割を果たす事を明らかにした。本研究は、嗅覚情報処理に重要な、嗅球「匂い地図」の構成原理とその機能的重要性の解明に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる。

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