学位論文要旨



No 120254
著者(漢字) 前田,寧子
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,ヤスコ
標題(和) インフルエンザウイルスベクターを用いた多価ワクチンの開発
標題(洋) Development of Live Attenuated,Bivalent Vaccines using lnfluenza A virus as a Vaccine Vector
報告番号 120254
報告番号 甲20254
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2403号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 笹川,千尋
 東京大学 教授 北村,俊雄
 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 斎藤,泉
 東京大学 教授 岩本,愛吉
内容要旨 要旨を表示する

 長い間、ウイルスは生命体を脅かす未知なる病原体であった。しかし、近年の目覚しい科学の発展は、様々なウイルスの正体を明らかにしてきた。生命体を苦しめてきた幾つかのウイルスは、現在では人工的な作出が可能になり、時代はウイルスとの戦いを続けながら、ウイルスの積極的な利用へと移りつつある。

 インフルエンザは世界中で猛威を振るい、人類が克服を目指しているウイルス感染症の1つである。毎年冬に流行して、多くの高齢者の死亡原因となるばかりか、近年、世界各地で発生している高病原性トリインフルエンザのように家禽や豚・馬などの家畜でも大流行を起こして多大な経済的被害を与える、人獣共通感染症である。

 様々な動物で流行するインフルエンザはオルソミクソウイルス科のA型インフルエンザウイルスが原因である。ウイルス感染症の克服には疫学的調査に加えて、ウイルスの増殖機構の詳細を解明することが重要であり、ウイルスを効率的に人工合成する技術は強力な研究手段となる。8分節に分かれたマイナスー本鎖RNAをゲノムとして持つA型インフルエンザウイルスの人工合成法(リバース・ジェネティクス法)の開発は困難を極めたが、1999年、他のDNAウイルスやプラス一本鎖RNAウイルスの人工合成法に遅れながら、インフルエンザウイルスのリバース・ジェネティクス法がついに確立された(Neumann et al.,1999,Proc Natl Acad Sci USA,96:9345-9350)。このリバース・ジェネティクス法はI型RNAポリメラーゼを用いてウイルスRNA(vRNA)を合成するプラスミドとウイルス蛋白質を発現するプラスミドを培養細胞に同時に導入することで、効率よく人工的にインフルエンザウイルスを作出する実験系である(図1)。この実験系によって自由自在に変異を導入した組み換えインフルエンザウイルスを、簡単に作出することが可能になった。

 A型インフルエンザウイルスはヒトでは主として呼吸器上皮細胞で増殖し、時に重篤な肺炎を引き起こして命を奪う。一方で、本ウイルスは宿主の液性免疫ならびに細胞性免疫の両者を刺激して、強力な粘膜免疫と免疫記憶を誘導する。そのため、ベクターを弱毒化し、安定に外来遺伝子を発現することができれば、本ウイルスは多くの病原体に対して有効なウイルスベクターになると考えられる。

 そこで、本研究ではリバース・ジェネティクス法を駆使し、インフルエンザウイルスを基にしたワクチンベクターの開発を試みた。まず、ワクチンベクターにおいて外来遺伝子産物の発現調節が可能かどうかを調べるために、Kozak配列の影響を検討した。続いて、インフルエンザウイルスの感染防御には必須ではない蛋白質を異なる病原性ウイルスの感染防御蛋白質で置換した組み換えインフルエンザウイルスを作製し、インフルエンザウイルスの多価生ワクチンベクターとして可能性をマウスモデルで検証した。

1)A型インフルエンザウイルスの蛋白質発現調節におけるKozak配列の意義

 インフルエンザウイルスをワクチンベクターとして用いる場合、外来遺伝子産物の発現量が重要となってくる。そこで、インフルエンザウイルスの蛋白質発現機構について調べた。

 インフルエンザウイルスに感染した細胞では11種類のウイルス蛋白質が合成される。それらウイルス蛋白質の発現量はそれぞれ異なるが、その発現量を調節するメカニズムはよく分かっていない。一方、真核細胞では蛋白質発現調節メカニズムのひとつとして翻訳開始コドン(AUG)が効率よく機能するために最適なAUGの前後配列(Kozak配列)が知られ、蛋白質発現プラスミドベクターでは目的蛋白質の発現効率を高めるためにこの配列が汎用されている。ところが、インフルエンザウイルスの遺伝子では、Kozakの最適配列を持つものと持たないものがある。そこで、本ウイルスの蛋白質の発現調節にKozak配列が影響するか否かを調べた。

 インフルエンザvRNAはそれぞれコード領域と非コード領域からなる。各ゲノムRNAのコード領域をレポーター蛋白質遺伝子に置換したモデルvRNAを用いて、Kozak配列がウイルス蛋白質産生にどのように影響を与えるかを調べた。モデルRNAと、このRNAの転写に必要なウイルス蛋白質(核蛋白質[NP]、PA、PB1、そしてPB2)のみ存在している条件では、レポーター蛋白質の発現はKozak配列の影響を強く受けた。ところが、開始コドン近隣に変異を持つ組換えウイルスを人工的に作製し、親株と比較したところ、培養細胞においても、マウスにおいても、顕著な違いは見られなかった。したがって、Kozak最適配列の有無は、インフルエンザウイルスベクターにおける蛋白質の発現、ならびにウイルスの増殖と病原性に影響を与えないことが明らかとなった。しかし、以上の成績から、インフルエンザウイルスの蛋白質の発現調節にはKozak配列による翻訳開始調節以外のメカニズムが関与していることが示唆された。

2)インフルエンザウイルスを基にした多価生ワクチンの開発

 感染症の予防には病原体の進入門戸における防御が重要であり、粘膜面を進入門戸とする多くの病原体に対しては粘膜免疫を誘導するワクチンが効果的である。インフルエンザ及びパラインフルエンザはヒトにおける重要なウイルス性呼吸器疾患であるが、前者に対しては現行の不活化ワクチンよりも弱毒生ワクチンが感染防御に有効である。一方、後者に対しては、不活化ワクチンは症状を重篤化する作用があるので、そのような副作用を誘導しない弱毒生ワクチンの開発が望まれている。そこでインフルエンザウイルスをベクターとしてインフルエンザとパラインフルエンザの両方に対して同時に効果を示す多価生ワクチンの開発を試みた。

 インフルエンザ、パラインフルエンザウイルスともに、感染防御に重要な抗原は表面糖蛋白質(前者では主としてHA、後者ではFとHN)である。本研究では、リバース・ジェネティクス法を用いて、インフルエンザウイルスのNA(感染防御抗原としてはHAに劣る)をパラインフルエンザウイルスのHNで置換し、感染細胞においてインフルエンザウイルスのHAとパラインフルエンザウイルスのHNの両抗原を安定的に発現する組み換えウイルスをリバース・ジェネティクス法によって作出した。組み換えウイルスの性状を調べたところ、この組み換えウイルスは発育鶏卵において親株と同様に効率よく増殖し、感染細胞においてHAとHNの両抗原を発現した。また、発育鶏卵で10代継代を重ねても増殖効率に変化は見られず、HAとHNの両抗原の発現も安定していた。しかし、マウスでは、親株が致死的なのに対して、組み換えウイルスでは弱毒化していた。さらに、組み換えウイルスを経鼻接種したマウスでは、両ウイルスに対して有意な抗体価の上昇が見られ、さらに、これらのマウスを、致死量のインフルエンザあるいはパラインフルエンザウイルスで攻撃したところ、いずれのウイルスに対しても100%の生存率を示した。これらの結果はこの組み換えウイルスが2つの異なるウイルス感染症に対して有効な弱毒生ワクチンであることを示している。

 以上の結果は、インフルエンザウイルスの多価生ワクチンベクターとしての可能性を世界に先駆けて証明したものである。ウイルス蛋白質の発現機構を解明することは、ウイルスをベクターとして使用する際に重要であるばかりでなく、抗ウイルス薬開発のためのターゲットの同定にもつながる。インフルエンザウイルスの蛋白質合成におけるKozak配列の役割は、長年、インフルエンザウイルスの謎の1つであった。本研究では、これまで作成が困難であった非コード領域に変異を持つ組み換えインフルエンザウイルスをリバース・ジェネティクス法によって作出し、ウイルス増殖過程におけるコザック配列の意義を検証した。結果として、Kozak配列の重要性は認められなかったが、長年の疑問を解決した。

 多くのウイルス感染症において、自然感染に倣って投与される生ワクチンが効果的である。また、ワクチン投与に関する時間的・経済的負担を軽くするため、一度に複数の感染症に対して免疫を付与する混合(多価)ワクチンの需要は高い。しかし、MMR(三種混合ワクチン;はしか、風疹、おたふく風邪)以外の生ワクチンの投与では、ウイルス同士の緩衝作用が懸念されるため、1ヶ月以上の間隔をあけて単品投与することが基本となっている。米国では、弱毒A型インフルエンザウイルス2株(H1N1,H3N2)と弱毒B型インフルエンザウイルスを混合したインフルエンザ生ワクチンが、すでに認可されている。これら3株のNAをヒトパラインフルエンザタイプ1,3のHNならびにRespiratory Syncytial virusのGまたはFに置き換えることで呼吸器感染症混合多価ワクチンとすることも可能であろう。

図1リバース・ジェネティクス法

ウイルスRNAを合成するプラスミドとウイルス蛋白質を合成するプラスミドを細胞に同時に導入する。細胞内で合成されたウイルスRNAと蛋白質はウイルス粒子を形成して、培養上清中に放出される。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究ではA型インフルエンザウイルスの人工合成法(リバース・ジェネティクス法)を駆使してインフルエンザウイルスを基にしたワクチンベクターの開発を試みた。

1.ウイルスをワクチンベクターとして利用する場合、免疫賦与効果と安全性を高めるためにも外来遺伝子産物(目的病原体の抗原)の発現量をコントロールすることが望まれる。そこで、インフルエンザウイルスの蛋白質発現量抑制調節に翻訳開始コドンAUGの3つ前の塩基(すなわち、Kozak配列の重要性)が関与しているか調べた。その結果、細胞内にインフルエンザウイルスのゲノムの転写と複製の最小単位であるRNPの構成因子のみが存在する場合には、蛋白質の発現量調整に翻訳開始コドンの3つ前の塩基は重要であるが、実際のインフルエンザウイルスの増殖においては蛋白質の発現量にも病原性にも翻訳開始コドンの3つ前の塩基は大きな影響を及ぼさなかった。このことは、A型インフルエンザウイルスの蛋白質発現調節ではKozakの法則以外のメカニズムが存在していることが示唆している。すなわち、A型インフルエンザウイルスをワクチンベクターとして利用する場合には、蛋白質発現量の抑制調節にKozak配列が応用できないことが示された。

2.インフルエンザウイルスを基にした多価生ワクチンベクターの可能性をマウスモデルで検証するために、パラインフルエンザウイルスのHN抗原を持つ組み換えインフルエンザウイルスを作製した。この組み換えインフルエンザウイルスは感染細胞においてパラインフルエンザとインフルエンザの両ウイルスの感染防御抗原を発現した。また、パラインフルエンザウイルスのHN抗原は細胞表面に発現し、組み換えインフルエンザウイルス粒子にも取り込まれていることが確認された。続いて、組み換えインフルエンザウイルスが生ワクチンの4つの基本条件、1)適当な媒体でよく増える、2)遺伝的に安定している、3)弱毒化している、4)防御免疫を賦与できる、を満たしているか否かを検討した。その結果、組み換えインフルエンザウイルスは発育鶏卵で親株のインフルエンザウイルスと同様に良く増殖し、発育鶏卵で継代しても遺伝的に安定であることがわかった。また、親株のインフルエンザウイルスがマウスに致死的であるのに対して、組み換えインフルエンザウイルスは弱毒化していた。さらに、この組み換えインフルエンザウイルスは、インフルエンザおよびパラインフルエンザウイルスの致死的な攻撃に抵抗する防御免疫を賦与した。以上の結果から、本研究で作製した組み換えインフルエンザウイルスは生ワクチンの基本条件4つを満たしており、インフルエンザウイルスを基にした多価生ワクチンベクターの可能性がマウスモデルにおいて証明された。

 以上、本論文はインフルエンザウイルスの増殖においてはKozakの法則以外の蛋白質発現調節メカニズムが存在する可能性を示唆し、インフルエンザウイルスの多価生ワクチンベクターとしての可能性をマウスモデルで証明した。インフルエンザウイルスは宿主において強力な粘膜免疫(局所免疫)と全身性免疫を誘導するため、弱毒化して安定的に外来遺伝子を発現することが出来れば、多くの病原体に対して有効な生ワクチンベクターになると考えられる。本研究では組み換えインフルエンザウイルスを作製し、この仮説が正しいことを、初めて実証した。

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