学位論文要旨



No 120266
著者(漢字) 大渓,俊幸
著者(英字)
著者(カナ) オオタニ,トシユキ
標題(和) 外傷後ストレス障害に対する治療的アプローチについての研究―Eye movement desensetization and reprocessing(EMDR)についてのNIRSによる検討―
標題(洋)
報告番号 120266
報告番号 甲20266
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2415号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 助教授 高山,吉弘
 東京大学 助教授 坂井,克之
 東京大学 助教授 青木,茂樹
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 外傷後ストレス障害(PTSD)は、外傷体験後に外傷の再体験、外傷と関連した刺激の回避、情動麻痺、覚醒亢進などが持続して生活機能・社会機能に支障が見られる疾患であるが、治療については薬物療法が著効することが少ないため、さまざまな心理社会的治療が試みられている。その中で近年、眼球運動による脱感作と再処理(Eye movement desensetization and reprocessing ;EMDR)が注目されている。EMDRは、トラウマ記憶を想起しながら眼球運動を行うことにより、外傷記憶によって引き起こされる不快な感情の強さを減らし、処理の滞った記憶の再処理を行う治療法である。その治療効果については精神療法の中で最も効果的であり、薬物療法と同等の効果があると言われている(Van Ettenら,1998)。

 EMDRの作用機序については、眼球運動が関与するということからREM(Rapid Eye Movement)睡眠のメカニズムとの関連が注目されている。REM睡眠には記憶の統合機能があり、情動記憶の形成に重要な役割を果たすと考えられている。一方、PTSDの機能画像研究における前頭前野の活動性については、Positron emission tomography(PET)研究(Bremnerら,1999)やfunctional magnet resonance imaging(fMRI)研究(Shinら,2001)でトラウマ刺激中にPTSD患者は健常者に比べて内側前頭前野の活動性が低下していることが報告されているが、near-infrared spectroscopy(NIRS)を用いた研究では前頭前野の活動性が亢進(Matsuoら,2003)しており、一致した見解が得られていない。

 本研究は、情動刺激に対する前頭前野の反応およびEMDRの前頭前野に対する作用をNIRSによりリアルタイムで追跡することを目的としている。研究施行にあたっては、まず眼球運動が情動記憶想起中の前頭前野活動に影響を与えるという仮説を立て、眼球運動と記憶想起を組み合わせた、EMDR治療で行われているよりも統制された課題による前頭前野活動の横断的変化を検討した。さらに、毎週行う通常のEMDR治療の前にこの課題を行うことにより、EMDRの治療経過に伴う前頭前野活動の客観的指標を用いた縦断的検討も行った。

方法と結果

(研究1)健常者を対象とした予備的検討

 健常ボランティアを対象に、対照課題(非刺激記憶想起、トラウマ記憶想起、眼球運動をそれぞれ2回ずつ)、標的課題(記憶想起と眼球運動の同時施行を連続して10回)施行中の前頭前野に相当する部位の酸化型ヘモグロビン([oxy-Hb])値をNIRSにより測定した。眼球運動は毎秒1往復で左右に動く図形を追視するように教示した。データ解析にあたっては、2回の刺激記憶課題中のデータは加算平均してSIと定義し、連続する10回の標的課題は5組に分け、それぞれ加算平均してRE1、RE2、RE3、RE4、RE5と定義した。

 刺激記憶想起中に[oxy-Hb]が有意に増加した対象では、[oxy-Hb]の課題による有意な主効果が見られ(ε=0.85,F(4.25,229.45)=3.58,p=0.006;ANOVA corrected by Greenhouse-Geisser correction)、刺激記憶想起中と比べ記憶想起と眼球運動の同時施行課題の中盤(RE3)で[oxy-Hb]の減少傾向が見られた(t(55)=2.54,p=0.014;post hoc t test,uncorrected)が、Bonferroniの補正後は有意水準に達していなかった。

 健常ボランティアで情動記憶想起中の前頭前野の活動に眼球運動が影響を与えることや想起内容に変化が起こっていることが確認できたことから、PTSD患者におけるこうした変化の有無の確認とEMDRを繰り返すことによる前頭前野の反応の変化を追跡する(研究2)を行った。

(研究2)PTSD患者を対象としたEMDRによるPFC活動性変化の検討

 PTSDのための構造化臨床診断面接尺度であるCAPSによりCurrent PTSDと診断された患者13名を対象としてEMDR治療を行った。条件を統制するために毎回のEMDRの前に主観的なPTSD症状を評価するIES-Rを施行し、NIRSと心拍数の同時測定を行った。また、この測定の前後には主観的苦痛の尺度であるSUDsを確認した。NIRS装置と測定部位、データの解析方法はすべて(研究1)と同様とし、課題については刺激記憶にトラウマ記憶を用いた。解析は治療前、軽快時、軽快次回の3回で行った。なお、軽快時は操作的に主観的苦痛が消失したといえるSUDsスコアが0〜1になる時点とし、軽快次回はその翌週とした。

 13名中11名が治療後、CAPSでCurrent PTSD(-)となり、IES-R、SUDsともに治療による有意な主効果が見られ(IES-R:F(2,18)=17.78,p<0.001;SUDs:ε=0.61,F(1.23,11.04)=79.09,p<0.001)、治療前を基準とすると軽快時と軽快次回でBonferroniの補正後も有意な症状スコアの減少が見られた(IES-R:軽快時:t(10)=3.78,p=0.008,軽快次回:t(9)=5.52,p<0.001;SUDs:軽快時:t(10)=4.33,p=0.002,軽快次回:t(9)=26.94,p<0.001)。

 [oxy-Hb]の変化と想起内容の変化では、治療前と軽快時でともに課題による有意な主効果が見られ(治療前:ε=0.78,F(3.92,505.84)=958,p<0.001;軽快時:ε=0.60,F(2.98,396.38)=16.98,p<0.001)、治療前と軽快時のどちらでもトラウマ想起中と比べ、記憶想起と眼球運動の同時施行課題のすべて(RE1〜RE5)でBonferroniの補正後も[oxy-Hb]に有意な減少が見られた(治療前(RE1:t=4.35,p<0.001;RE2:t=3.91,p<0.001;RE3:t=5.99,p<0.001;RE4:t=6.12,p<0.001;RE5:t=4.95,p<0.001;dfはすべて130);軽快時(RE1:t=9.06,p<0.001;RE2:t=6.37,p<0.001;RE3:t=7.55,p<0.001;RE4:t=5.05,p<0.001;RE5:t=4.68,P<0.001;dfはすべて134))。

 治療によるトラウマ記憶想起中の前頭前野の[oxy-Hb]の推移については、治療による有意な主効果が見られ(F(2,206)=15.95,p<0.001)、治療前に比べ、軽快次回ではBonferroniの補正後も[oxy-Hb]の有意な減少が見られ(t(113)=6.35,p<0.001)、治療経過に伴って前頭前野の異常活動が抑えられる傾向が見られた。また、想起内容が変化するまでの標的課題の回数を比較すると、軽快時では治療前に比べて有意に少ない回数で変化し、軽快するとトラウマ想起をしても、早く想起内容が変化していた(t(10)=2.38,p=0.039)。

考察

 先行研究から情動刺激に対する前頭前野と扁桃体の関係には2つの方向性が考えられており、情動刺激による扁桃体の反応を抑制的に調整するために前頭前野が活性化する反応と、扁桃体の賦活に伴い前頭前野が活性化する反応が想定されている。PETやfMRIによる先行研究では、健常者は情動刺激により内側前頭前野が賦活されるのに対してPTSD患者は情動刺激に対する扁桃体の過剰反応と内側前頭前野の機能低下が見られ(Rauchら,2000)、健常者では前者の反応が正常に起こっているがPTSD患者では内側前頭前野による扁桃体の調整が不良であることが示唆されている。一方、NIRSによる先行研究では、トラウマ刺激によりPTSDでは前頭前野が活性化しており、情動刺激によって扁桃体が過剰に賦活され、それに伴い前頭前野の活動性も亢進する後者の反応が示唆されている。本研究では、トラウマ記憶想起を単独で行った場合に前頭前野が賦活されていたことから後者の結果と一致していた。このように測定装置により異なった結果となった原因としては、NIRSは測定範囲が前頭前野のcortical surfaceとなり、内側前頭前野が中心となる反応よりも扁桃体が過剰反応した結果前頭前野にも波及してきた活動性の亢進をとらえていた可能性が考えられる。またそのために、EMDR治療によりPTSDが改善した状態では扁桃体の過剰反応が改善した結果、前頭前野の活動性亢進も抑えられたと考えられる。これらの結果から、EMDRの作用機序としては、トラウマ記憶単独では扁桃体が賦活されて前頭前野の活動性が増加するが、トラウマ記憶想起と眼球運動を同時に行うことによりREM睡眠と同様の状態が作り出され(Stickgold,2002)、記憶の統合が起こって想起内容が情動賦活の少ない記憶に変わると扁桃体、前頭前野の血流も減少することが推測される。また、EMDRを重ねてこの状態を繰り返すことにより脱感作や認知の変化がもたらされてPTSDが改善するというモデルが想定された。

結語

 これまでEMDRによる治療効果は本人の訴えや自記式質問紙などによる主観的な症状評価によってのみ評価され、生物学的検討が不十分であったため、そのメカニズムについても疑問視されてきた。ところが、本研究でPTSD患者におけるトラウマ記憶想起中のPFCの活動性亢進が、EMDRに準じた課題を用いることにより抑制され、EMDRを重ねて治療効果が得られるとともにトラウマ記憶想起をしてもPFCの異常亢進が減少していくことがモニタリングできたことから、NIRSがEMDRの治療効果を客観的に評価する生物学的指標となりうることがはじめて示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法の一つとされる眼球運動による脱感作と再処理(Eye movement desensetization and reprocessing;EMDR)による治療効果と脳機能の変化を明らかにするため、質問紙と面接による症状評価を行うとともにnear-infrared spectroscopy(NIRS)を用いてEMDRに準じた課題施行中の前頭前野における脳酸素代謝の変化を測定したものであり、下記の結果を得ている。

1. 健常者を対象としてEMDRに準じた情動記憶想起と眼球運動を同時に行う課題を用いた予備的実験を行った結果、情動記憶想起と眼球運動を同時に行う課題によって記憶の想起内容が変化し、情動記憶想起を単独で行った場合に比べて前頭前野の脳酸素代謝が有意に変化することが示された。

2. PTSD患者を対象としてEMDR治療を施行したところ、改善群では治療前と比較するとトラウマ記憶想起に伴う苦痛の軽快に伴ってPTSD症状、不安症状の有意な改善が見られることが示された。

3. PTSD患者を対象としてトラウマ記憶想起と眼球運動を同時に行う課題を施行すると、EMDRにより改善しなかった症例では前頭前野の脳酸素代謝に一貫した傾向が見られなかったのに対して、改善群ではトラウマ記憶想起を単独で行った場合に比べて記憶想起と眼球運動を同時に行う課題により前頭前野の賦活が有意に抑えられることが示された。

4. EMDRにより改善しなかった症例では治療前から治療終了回までトラウマ記憶想起を単独で行った時の前頭前野の脳酸素代謝に一貫した変化が見られなかったのに対して、改善群では治療前と比べてトラウマ想起に伴う苦痛軽快後に前頭前野の賦活が有意に抑えられることが示された。

 以上、本論文はNIRSを用いて前頭前野における脳酸素代謝を測定することにより、トラウマ記憶想起による前頭前野の賦活がEMDRによる治療で行われる記憶想起と眼球運動の同時遂行を繰り返すことにより軽減されること、EMDRによりトラウマ記憶想起に伴う苦痛が軽快した後ではトラウマ記憶想起を単独で行っても治療前と比較して前頭前野の賦活が抑えられることを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかったEMDR施行中の脳機能の変化とEMDRによる改善に伴う脳機能の変化について生物学的指標を用いて解析することにより、EMDRの治療メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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