学位論文要旨



No 120292
著者(漢字) 畠山,修司
著者(英字)
著者(カナ) ハタケヤマ,シュウジ
標題(和) ノイラミニダーゼ阻害薬耐性ヒトインフルエンザウイルスの生物学的・遺伝学的解析
標題(洋) Biologic and Genetic Analyses of Human Influenza Viruses Resistant to a Neuraminidase Inhibitor
報告番号 120292
報告番号 甲20292
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2441号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 助教授 中村,哲也
 東京大学 講師 大石,展也
 東京大学 講師 森屋,恭爾
内容要旨 要旨を表示する

 A型およびB型インフルエンザウイルスは、8本に分節したマイナス鎖RNAをもつ。遺伝子は変異しやすく抗原性を少しずつ変化させるため毎年繰り返し流行し、分節しているがゆえに遺伝子の再集合による新型インフルエンザウイルスが誕生し得る。ウイルス表面にはヘムアグルチニン(HA)およびノイラミニダーゼ(NA)糖蛋白質がスパイク状に存在し、それぞれがインフルエンザウイルスの感染増殖にあたって重要な役割を担う。HAは最も重要な防御抗原であると同時に、宿主細胞表面に存在するシアル酸をもつ糖鎖をレセプターと認識し結合することにより、ウイルスの侵入機転に関わる。一方、NAはシアリダーゼ活性を有し、シアル酸残基とウイルスHAとの結合を切断する。すなわち、細胞内で複製増殖した子孫ウイルスが細胞外に遊離することを可能とする。インフルエンザウイルスの効率的な複製は、レセプター結合に関わるHA活性と、レセプター結合の切断に関わるNA活性のバランスにより規定される。ノイラミニダーゼ阻害薬は、NAの活性部位を阻害することによりウイルス増殖を抑制する。このNAの活性部位はA型およびB型インフルエンザウイルスのいずれの亜型においても高度に保持されており、薬剤の標的として都合がよい。

 一方、インフルエンザウイルスが認識するレセプターは、そのウイルスが分離される宿主動物によって異なる。例えば、ヒトインフルエンザウイルスはシアル酸がガラクトースにα2,6結合した形の糖鎖(SAα2,6Gal)を、鳥インフルエンザウイルスはシアル酸がガラクトースにα2,3結合した形の糖鎖(SAα2,3Gal)をより強く認識して結合する。このレセプター特異性は、インフルエンザウイルスにみられる宿主領域の制限に関わるメカニズムである。

 効果的なインフルエンザ治療薬であるノイラミニダーゼ阻害薬が開発され、その使用頻度が増すにつれ、ノイラミニダーゼ阻害薬耐性ウイルスの出現が懸念される。この薬剤は、ワクチンと共にインフルエンザの流行を制御するために利用価値が高く、また、パンデミックウイルスの出現後、ワクチン供給が可能となるまでの間には特に必要不可欠のものとなる。従って、耐性ウイルスの出現や伝播に関する世界的な監視を行い、さらには耐性ウイルスの生物学的および分子生物学的特徴を十分に検討することが重要である。しかし、現在、ノイラミニダーゼ阻害薬耐性を適切に評価することのできる実験室細胞はない。ヒトインフルエンザウイルス臨床分離株は、そのシアリダーゼ活性がノイラミニダーゼ阻害薬に対して感受性を示すにもかかわらず、MDCK細胞などの実験室細胞を用いたアッセイにおいてはウイルスの増殖が薬剤により抑制されない。そのため薬剤耐性の判断は、シアリダーゼ活性を測定する酵素法あるいは耐性を規定する遺伝子変異の同定によってなされているのが現状であるが、サーベイランスのようなマススクリーニングには不向きな手法であることなど、これらの検査法もいくつかの問題を抱える。ヒトインフルエンザウイルス臨床分離株がMDCK細胞において薬剤による増殖抑制を受けない原因には、ヒトインフルエンザウイルスのレセプター特異性と、MDCK細胞表面に発現しているレセプターとの関係にミスマッチが存在する可能性がある。すなわち、MDCK細胞ではヒト気道上皮に比較して、ヒトインフルエンザウイルスがより特異的に認識し結合するSAα2,6Galの発現量が少ないため、ウイルスの増殖複製がノイラミニダーゼにさほど依存せず、その結果、ノイラミニダーゼ阻害薬による影響を受けにくいことが考えられる。

 本論文では、ヒトβ-Galactoside α2,6-sialyltransferase I (ST6Gal I)遺伝子をMDCK細胞に導入することにより細胞表面にSAα2,6Galを過剰発現させた細胞系を作製し、それをヒト気道上皮細胞のレセプター環境により近い細胞モデルとして用いヒトインフルエンザウイルスの動態および薬剤感受性に対する表現型を評価した。ST6Gal I発現細胞におけるヒトインフルエンザウイルス臨床分離株の増殖はMDCK細胞と比較して著しく良く、その差は最大数百倍にも至った。また、臨床検体からのウイルス分離率もST6Gal I発現細胞において明らかに高く、よりウイルス含有量の少ない検体からもウイルス分離が可能であった。さらに、ヒトインフルエンザウイルス臨床分離株はいずれも、ST6Gal I発現細胞においてのみオセルタミビルによる増殖抑制が観察され、そのIC50はシアリダーゼ酵素法による結果と相関がみられた。これらの事実は、MDCK細胞におけるレセプター環境がヒト気道上皮細胞と異なる(具体的にはヒトインフルエンザウイルスに特異的なSAα2,6Galの発現量がMDCK細胞においてより少ない)ことを示しており、このことが培養細胞系においてはヒトインフルエンザウイルスの本来もつ増殖能が修飾され表現型が適切に反映されない理由の一つであると考えられた。すなわち、レセプター環境の違いがヒトインフルエンザウイルスの増殖複製に大きな影響を与えることを、in vitroで改めて示したものであるといえる。ST6Gal I発現細胞は、臨床分離株をよりよく増殖させ、分離率を増し、かつノイラミニダーゼ阻害薬感受性を適切に判断することのできる点で、意義がある。

 また、NA R292K変異を有する臨床分離オセルタミビル耐性ヒトA型インフルエンザウイルスがST6Gal I発現細胞において形成するプラックは、オセルタミビル投与前の野生株と比較して著しく小さく、発育にはより長時間を要した。MDCK細胞では変異株と野生株によるプラックの形態的差異はみられなかった。このR292K変異株のNA活性値は、野生株と比較して6-20倍程度低下していた。これらの事実は、ST6Gal I発現細胞のごとくSAα2,6Galが優位に発現するレセプター環境では、NA活性の減弱したR292K変異株の増殖能が劣る可能性があることを示している。これは、現時点で報告されている動物モデルでの結果と合致する。

 現在のところ、ノイラミニダーゼ阻害薬耐性インフルエンザウイルスの増殖能、伝播能に関する知見は十分ではない。耐性ウイルスのヒトに対する病原性やヒトからヒトへと伝播する能力が減弱しているか否かの問題は、耐性獲得機序を明らかにすることとあわせ、今後さらなる検討が必要な重要な点である。オセルタミビル耐性ウイルスは以前考えられていたよりも高頻度に生じることが明らかにされている。従って、これらの知見は、平時のみならずパンデミックの際の緊急使用を含めた、オセルタミビルの投与ストラテジーにも影響を及ぼす。繰り返し流行するインフルエンザをより効果的に制御し、さらに新型インフルエンザのパンデミックに備えるためにも、新たなワクチンや抗インフルエンザウイルス薬の開発などを含め、インフルエンザウイルスとヒトとの間に存在する複雑な分子生物学的メカニズムの解明に向け努力を続けていく必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はヒトインフルエンザウイルス、特にノイラミニダーゼ(NA)阻害薬耐性インフルエンザウイルスの生物学的特性を明らかにするため、SAα2,6Galを過剰発現させた細胞系を用い、ヒトインフルエンザウイルスの増殖能およびNA阻害薬に対する表現型の解明を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.ヒトβ-Galactoside α2,6-sialyltransferase I (ST6Gal I)遺伝子をMDCK細胞に導入することにより、細胞表面にSAα2,6Galを過剰発現させた細胞系を作製した。ヒトインフルエンザウイルスの感染および増殖に重要なレセプター環境がヒトの気道細胞により近い細胞モデルとして本細胞系を用い、ヒトインフルエンザウイルス臨床分離株の増殖能などが評価され、ST6Gal I発現細胞におけるヒトインフルエンザウイルス臨床分離株の増殖はMDCK細胞と比較して著しく良好であり、また臨床検体からのウイルス分離率も明らかに高いことが示された。

2.ST6Gal I発現細胞では、ヒトインフルエンザウイルス臨床分離株はオセルタミビルによる増殖抑制を的確に受けることが示された。これは、MDCK細胞では困難であった、NA阻害薬に対するヒトインフルエンザウイルスの感受性を、細胞を用いた系で判定することを可能にしたものである。

3.NA R292K変異を有する臨床分離オセルタミビル耐性ヒトA型インフルエンザウイルスがST6Gal I発現細胞において形成するプラックは、野生株と比較して著しく小さく、発育にはより長時間を要することが確認された。ST6Gal I発現細胞のようなSAα2,6Galが優位に発現するレセプター環境では、NA活性の低下したR292K変異株の増殖能は減弱している可能性が示された。

以上、本論文はレセプター環境の違いがヒトインフルエンザウイルスの増殖複製に大きな影響を与えることを示したものであり、また、臨床分離株をよく増殖させ、NA阻害薬に対する感受性を適切に判断することのできる細胞系が確立された。本研究は、ヒトインフルエンザウイルスおよびNA阻害薬耐性インフルエンザウイルスの生物学的特性の解明に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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