学位論文要旨



No 120324
著者(漢字) 齊藤,麻里子
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,マリコ
標題(和) 化学物質過敏症患者の日常生活中の症状プロフィール
標題(洋) Symptom Profile of Multiple Chemical Sensitivity in Actual Life
報告番号 120324
報告番号 甲20324
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2473号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 山崎,喜比古
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 五十嵐,隆
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 助教授 滝澤,始
内容要旨 要旨を表示する

【目的】

 化学物質過敏症(Multiple Chemical Sensitivity; MCS)は、1987年にCullenによって、特定できる環境内の化学物質への暴露後に発症する後天性疾患として提唱された。現在、最も広く使用されている1999 consensus criteriaでは

1)症状は化学物質に繰り返し暴露することで再現する

2)その状態は慢性に経過する

3)低濃度の暴露で起こる

4)症状は刺激物質が除去されることによって改善する

5)互いに関連のない複数の化学物質によって反応が起きる

6)症状は複数の臓器に及ぶ

となっている。

 これらのMCS患者の特徴は、通常the Environmental Exposure and Sensitivity Inventory (EESI)などの質問紙や被験者の記憶に基づいた診察室での問診によって評価されている。しかし、ヒトは無限の記憶力を持つわけではなく、記憶は時間とともに衰え、いくつかの回想における認知過程で記憶に顕著なバイアスがかかる。一方、MCS患者は発症に心理社会的ストレスが関与しており、EESIにおいて感情状態に関する問題があると回答し、精神疾患の合併率も高いと報告されているにもかかわらず、クリーンルーム内や自宅では身体症状と比べて精神症状を訴えることは少ない。このことから、日常生活中での実際の症状の程度と、それを化学物質に暴露されていない状況で思い出した症状の程度には乖離があるものと考えられる。しかし、MCS患者において、極めて微量な複数の化学物質の暴露により、複数の臓器にわたって多彩な症状を引き起こし、化学物質を回避することによって症状が回復するという定義自体を日常生活中で確認した研究はない。

 近年、自然な状態で起きた現象を捉え、追想やコンプライアンスの問題を避け、妥当性の高めたcomputerized Ecological Momentary Assessment (EMA)が開発された。

 また、吸入誘発試験は低濃度の化学物質に実際に反応するかどうかを検討するのに用いられているが、少数の化学物質しか評価することが出来ず、日常生活中で症状を引き起こす物質を評価できているとは限らない。この問題を解決するため、Shinoharaらは1週間の総暴露量と症状出現時の暴露量を測定できるactive sampling (AS法) and passive sampling (PS法) methods (AS-PS法)を開発した。

 一方、MCSでは同じ領域の疾患とされている慢性疲労症候群や線維筋痛症と同様に自律神経機能不全を伴うといわれている。しかし、先行研究では暴露試験中などの限られた状況下での自律神経機能しか評価していない。さらに、先行研究では心拍数や血圧が用いられており、近年、自律神経機能を評価する際に広く用いられるようになった心拍変動を用いた研究はない。

 本研究では、日常生活中での症状を記録するためにEMAの手法を、環境中の化学物質の暴露を測定するためにAS-PS法を、日常生活中での自律神経機能の評価には心拍変動を用いて、いつ、どこで、何に対してどの程度、患者はMCSの定義に適合するような精神症状や身体症状を呈し、自律神経機能に異常を来たすかどうかを明らかにする。

【対象と方法】

 1999 consensus criteriaによりMCSと診断された患者群18名と健常者12名のコントロール群を対象とした。患者群の14名とコントロール群の12名が1週間の身体症状と精神症状の化学物質の暴露の測定を遂行できた。また、心拍変動については患者群の16名とコントロール群の11名で測定を遂行できた。

 The Mini International Neuropsychiatric Interview (M.I.N.I.)を用いて構造化面接を行い、精神疾患の合併の有無について評価した。

 この面接の後、被験者は腕時計型小型コンピュータの電子日記を渡され、使用方法について説明を受け、練習を行った。被験者には1週間の間、1日24時間この電子日記を身につけるよう依頼した。MCS患者群は午前と午後にそれぞれ1回ずつ、無作為な間隔でビープ音が鳴ったとき(random prompts)と過敏症状を自覚したとき(patient-initiated symptom prompts)に電子日記の質問に回答してもらった。一方、コントロール群は1日4〜5回、無作為な間隔でビープ音が鳴ったときに電子日記の質問に回答してもらった。電子日記の質問項目は場所、行動、17項目の身体症状と9項目の感情状態で構成されている。

 さらに患者群にはアクティブサンプラーとパッシブサンプラーも1週間持ち歩いてもらい、過敏症状が生じている間アクティブサンプラーのつながったポンプのスイッチを入れることで、1週間の総暴露量と症状出現時の暴露量を測定した。コントロール群ではパッシブサンプラーのみ持ち歩くよう依頼した。

 また両群に1週間、RR間隔を測定できるホルター型心電図計を装着するように依頼した。

 MCSの症状プロフィールの検定には線形混合モデルを用いた。また、評価項目が身体症状17項目、感情状態4項目と多いため、Bonferroniの補正を行った。

 ガスサンプリングについては以下を満たす物質を症状を誘発する可能性のある物質とみなした。

CAS×(100 − RSDAS) > CPS×(100 + RSDPS)

この式においてCASはAS法の測定濃度、RSDASはAS法の標準偏差の相対比(relative standard deviation; RSD、標準偏差を平均値で割り、100を乗じたもの)CPSはPS法の測定濃度、RSDPSはPS法の標準偏差の相対比である。

 心拍変動については覚醒している6時間と睡眠中の3時間を選んで粗視化スペクトル解析を行った。粗視化スペクトル解析ではまず、R-R間隔のデータを一列に並べ、等間隔の標本について線形回帰を用いて線形トレンドを除去し、高調波成分とフラクタル成分に分解した。高調波成分についてはLF領域とHF領域のパワーを積算した。フラクタル成分については2つのパラメータによって評価した。1つ目は心拍変動のパワーにおけるフラクタル成分の割合(%Fractal)、2つ目はlogパワーとlog周波数をプロットして線形回帰を行って得たスペクトル指数βである。両群の比較については反復測定分散分析を行った。

【結果】

 患者群の14名中11名でDSM-IVのI軸の精神疾患を合併していたが、コントロール群では合併は認められなかった。AS-PS法にて患者群の14名中11名で数種類の症状を引き起こす可能性のある化学物質を特定できた。特定できなかったうちの2人は測定期間中に症状を起こすようなエピソードがなかったが、PS法で測定した化学物質暴露量はコントロール群よりも低かった。もう1人は症状は出現したが、症状を引き起こす可能性のある化学物質は特定できなかったため、解析から除外した。17の身体症状のうち11の症状と感情状態の4症状が症状出現時(patient-initiated symptom prompts)に有意に悪化していた。一方、身体症状、感情状態ともにMCS患者群の無症状時(random prompts)とコントロール群とでは有意差を認めた項目はなかった。心拍変動ではスペクトル指数βにおいてMCS患者群とコントロール群の群間での主効果に有意差が認められた。これはMCS患者群のR-R間隔がコントロール群と比較して複雑さが少ないことを意味する。

【考察】

 本研究はわれわれの知りうる限り、EMAを用いてMCS患者の化学物質の暴露のある日常生活中での症状について明らかにした初めての研究である。MCS患者では身体症状と感情状態が症状出現時に有意に悪化したが、一方で身体症状、感情状態ともにMCS患者群の無症状時とコントロール群とでは有意差を認めた項目はなかった。これらのことから低濃度の複数の化学物質の暴露によって、複数の臓器に症状が生じ、化学物質が除去されることによって改善するという、この症候群の定義を支持する結果となった。EMAはMCSの急性症状を評価するのには有用であるが、パブロフの条件付けによる症状を除外することができるのは二重盲検法による暴露試験のみであるという問題がある。しかし、心拍変動のスペクトル指数βは昼夜を通してMCS患者群で有意に増加していた。心拍変動におけるβは加齢、うっ血性心不全で増加することから、MCS患者においても自律神経機能障害を来たしていると考えられた。MCS患者では睡眠時でもβが上昇していたことから、この変化は条件付けではなく生物学的な因子によって生じていると考えれた。今後、本研究で用いたEMAとAS-PS法とともに二重盲検法による暴露試験も行い、これらの手法の精度も評価していきたい。

【結論】

 MCS患者群は、化学物質に暴露されたときには多彩な身体症状と精神症状を呈するが、化学物質への暴露がない状況では自覚的には健常者と変わりがないことが示された。その一方で、MCS患者群の自律神経機能は昼間も夜間も健常者とは異なることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、化学物質過敏症(Multiple Chemical Sensitivity; MCS)患者における日常生活中での症状を記録するためにcomputerized Ecological Momentary Assessment (EMA)の手法を、環境中の化学物質の暴露を測定するためにactive sampling (AS法) and passive sampling (PS法) methods (AS-PS法)を、日常生活中での自律神経機能の評価には心拍変動を用いて、いつ、どこで、何に対してどの程度、患者はMCSの定義に適合するような精神症状や身体症状を呈し、自律神経機能に異常を来たすかどうかを検討したもので、下記の結果を得ている。

1.AS-PS法にて1週間の総暴露量と症状出現時の暴露量を測定し、患者群の14名中11名で数種類の症状を引き起こす可能性のある化学物質を特定できた。

2.EMAを用いて、患者群の症状出現時と無症状時を線型混合モデルによって、比較したところ、17の身体症状のうち11の症状と感情状態の4症状すべてが症状出現時に有意に悪化していた。

3.EMAを用いて、MCS患者群の無症状時とコントロール群とを線型混合モデルによって、比較したところ、身体症状、感情状態ともに有意差を認めた項目はなかった。

4.心拍変動ではスペクトル指数βにおいてMCS患者群とコントロール群の群間での主効果に有意差が認められた。

 以上、MCS患者群は、化学物質に暴露されたときには多彩な身体症状と精神症状を呈するが、化学物質への暴露がない状況では自覚的には健常者と変わりがないことが示された。その一方で、MCS患者群の自律神経機能は昼間も夜間も健常者とは異なることが示唆された。EMAを用いてMCS患者の化学物質の暴露のある日常生活中での症状と心拍変動について検討したのは本研究が初めてであり、日常生活中での化学物質の暴露を測定したことも本研究の特徴と言える。よって、これまで実際には確かめられていなかった低濃度の複数の化学物質の暴露によって、複数の臓器に症状が生じ、化学物質が除去されることによって改善するという、MCSの定義を検討するにあたり、本研究は重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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