学位論文要旨



No 120327
著者(漢字) 中村,博志
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヒロシ
標題(和) ヒト末梢血T細胞における低酸素誘導性転写因子HIF-1の発現制御機構とその意義に関する研究
標題(洋)
報告番号 120327
報告番号 甲20327
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2476号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 講師 大野,実
 東京大学 講師 本倉,徹
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

 生体内の酸素分圧は絶えず広いレンジで変動している。リンパ球などの免疫担当細胞は生体内を幅広く循環する過程で様々な環境酸素濃度に暴露される。特にリンパ球の機能発現の場である炎症組織や腫瘍組織の酸素分圧は著しく低下していることが知られている。したがって、Tリンパ球などの免疫担当細胞においては環境酸素濃度の変動に対する適応はきわめて重要なプロセスであるが、その詳細は不明である。

 低酸素で活性化される転写因子 HIF-1は、basic helix-loop-helix (bHLH)-Per-Arnt-Sim (PAS)型蛋白であるHIF-1αとβサブユニットからなるヘテロ二量体であり、細胞の低酸素環境への適応に重要な多くの遺伝子の発現を転写レベルで制御している。HIF-1活性の低酸素誘導性はHIF-1αサブユニットが担っている。VHL病(von Hippel Lindau disease)の原因遺伝子産物であるpVHLは酸素存在下においてHIF-1αの酸素依存性分解領域ODD(oxygen dependent degradation domain)の水酸化された特定のプロリン残基を介してHIF-1αと結合し、HIF-1αタンパク質をユビキチン化、プロテアソーム依存性タンパク質分解を促進する。低酸素分圧下ではプロリンの水酸化が抑制され、pVHLとHIF-1αとの結合が阻害されるため、HIF-1αタンパク質は安定化する。

 我々はヒト炎症組織中に浸潤しているT細胞がHIF-1αタンパク質を発現していることを見出した。また、ヒト末梢血T細胞では、HIF-1αタンパク質の発現には低酸素単独では不十分で抗CD3抗体刺激の共存が必要であることを明らかにした。しかしながら、ヒト末梢血T細胞におけるHIF-1の発現制御機構、およびT細胞機能制御における意義の多くは不明である。そこで、本研究はこれらを明らかにすることを目的とした。

【材料・方法/結果】

 最初に、ヒト末梢血T細胞におけるHIF-1αタンパク質発現制御機構の解析を試みた。ウエスタンブロット法による検討からプロテアソーム阻害薬MG132単独による処理ではHIF-1αタンパク質発現が認められず、抗CD3抗体刺激が必要であること、メタボリックラベリング法による検討からMG132と抗CD3抗体刺激の共存下でHIF-1αが検出されることから、抗CD3抗体刺激はHIF-1αの合成を促進させることが示唆された。 HIF-1α mRNAは抗CD3抗体、および低酸素いずれの刺激でも変化しないことがノザンブロット法による検討から示唆された。したがって、抗CD3抗体刺激依存性のHIF-1αタンパク質発現は翻訳の促進によることが示唆された。さらに、ポリゾーム解析法により低酸素刺激はHIF-1αの翻訳を抑制し、抗CD3抗体刺激はHIF-1αの翻訳を促進することが明らかとなった。また、低酸素と抗CD3抗体刺激の共存下ではHIF-1αの翻訳は促進されることが明らかとなった。

 各種シグナル伝達経路阻害薬を用いた検討から、ヒト末梢血T細胞における抗CD3抗体刺激依存性のHIF-1αタンパク質発現にはPI3K/mTOR経路が関与する可能性が示唆された。また、mTORの阻害薬ラパマイシンはHIF-1α mRNAレベルは変化させず、MG132共存下においてもHIF-1αタンパク質発現を抑制したことから、HIF-1αの翻訳を抑制することが強く示唆された。続いて、ラパマイシンによるHIF-1α翻訳制御がHIF-1標的遺伝子発現に与える影響をRT-PCR法で検討した。その結果、HIF-1標的遺伝子の発現はHIF-1αタンパク質の発現と相関していた。恒常的活性型HIF-1αを安定発現したJurkat T細胞を用いた解析から、ラパマイシンはHIF-1αの合成阻害により、HIF-1標的遺伝子発現を抑制することが明らかとなった。以上の結果をあわせて、T細胞において低酸素はHIF-1αの分解を抑制し、抗CD3抗体刺激はPI3K/mTOR経路依存性にHIF-1αの翻訳を促進させ、HIF-1タンパク質およびHIF-1標的遺伝子の発現を誘導することが示唆された。

 末梢血T細胞における、mTORの下流の翻訳制御因子の発現、リン酸化状態をウエスタンブロット法により検討した結果、低酸素条件下において、S6K1のリン酸化状態とHIF-1αタンパク質の発現が相関した。同様の傾向はJurkat細胞でも認められた。そこで、Jurkat 細胞におけるS6K1のHIF-1αタンパク質発現に与える影響を検討する目的で、S6K1をsiRNAによりノックダウンし、HIF-1αタンパクをウエスタンブロット法により検出した。その結果、ノックダウンにより、HIF-1αタンパク質の発現は抑制された。かかる現象はHeLa細胞でも同様であった。さらに、S6K1 ノックアウトマウスの脾臓細胞におけるHIF-1αタンパクは野生型に比べ、著しく低下していた。以上の結果からS6K1およびそのリン酸化がHIF-1αタンパク質の発現を正に制御していることが示唆された。

 最後にT細胞機能に対するHIF-1発現の意義を解析した。ヒト末梢血T細胞においてグルコーストランスポーター、PGK-1などの解糖系酵素の発現をHIF-1αが制御することから、T細胞におけるエネルギー産生にHIF-1αが意義を有するとの仮説をたて検討した。恒常的活性型HIF-1α安定発現Jurkat細胞、およびドミナントネガティブHIF-1α安定発現Jurkat細胞を用いた解析から、ミトコンドリアの電子伝達系阻害薬存在下においてHIF-1αは細胞内ATPの維持に寄与する可能性が示された。実際に、低酸素条件下において抗CD3抗体刺激はヒト末梢血T細胞の細胞内ATPおよび乳酸産生を増加し、その増加はラパマイシンにより抑制された。以上の結果より、低酸素条件下のT細胞においてTCRを介したシグナル依存性にHIF-1αの翻訳が促進され、解糖系の活性化によりATP産生に至ることが示唆された。したがって、末梢血T細胞において、HIF-1αの発現は解糖系を介するエネルギー産生などを通して、その機能維持に深く関わっている可能性が考えられた。

【考察】

 本研究では、ヒト末梢血T細胞においてHIF-1αタンパク質の発現はTCRを介したシグナル依存性の翻訳の促進と、低酸素によるHIF-1αの分解の抑制が必要であることを明らかにした。翻訳のされやすさはmRNAの種類によりに差があることが知られている。すなわち、一部のmRNAはmitogenやラパマイシンにより著しく翻訳速度が変化する。このような翻訳制御を受けるmRNAとしてN末端にポリミジン構造を有する5'TOP mRNAがあり、その翻訳はS6K1に制御されることが報告されている。一方、HIF-1αは5'TOP mRNAには含まれないものの、5'TOP 同様の翻訳制御を受けていることが示された。一方、mRNA特異的なRNA結合タンパク質がその翻訳を制御しえることも報告されており、HIF-1αの翻訳制御の詳細なメカニズムの解明は今後の課題である。

 T細胞においてラパマイシンはHIF-1αのタンパク質発現を抑制し、解糖系酵素を含むHIF-1標的遺伝子の発現を低下させた。かかるHIF-1標的遺伝子の発現低下によりATP産生が抑制されたと考えられた。活性化に伴う、機能発現にはATPが必須であることから、ラパマイシンの免疫抑制作用の一部にHIF-1の抑制が関与する可能性がある。一方、ラパマイシンは抗腫瘍効果を示すが、この効果の一部にHIF-1標的遺伝子発現に対する作用が関与することが報告されている。すなわち、mTOR/S6K1/HIF-1を標的とした薬剤は抗腫瘍効果を有する免疫抑制薬となりえる。

 mTORはアミノ酸やエネルギーのセンサーであることが示されている。アミノ酸やグルコース濃度が低い状態ではS6K1は脱リン酸化される。本研究ではこのような条件下でT細胞のHIF-1αタンパク質発現が選択的に低下することが明らかとなった。すなわち、T細胞は生体内を循環する過程で、酸素分圧の変化だけでなく、栄養状態の変化を感知し、HIF-1αの発現に反映させ細胞内の恒常性やエネルギーバランスの調節を行っている可能性が考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、生体の低酸素適応に重要な役割を演じていると考えられる低酸素誘導性の転写因子HIF-1の、ヒト末梢血T細胞における発現の分子機構および細胞生物学的意義の解明を試みたものであり、以下の結果を得ている。

1. ヒト末梢血T細胞におけるHIF-1αタンパク発現には低酸素刺激と抗CD3抗体刺激の共存が必須であることがウエスタンブロット法で示された。メタボリックラベリング法を行ったところ、プロテアゾーム阻害薬MG132と抗CD3抗体刺激の共存下でHIF-1αが検出され、抗CD3抗体刺激はHIF-1αの合成を促進させることが示された。HIF-1α mRNAは抗CD3抗体、および低酸素いずれの刺激でも変化しないことがノザンブロット法により示された。低酸素分圧下のT細胞において、抗CD3抗体刺激によってHIF-1αの翻訳が亢進することがポリゾーム解析法により示された。

2. ヒト末梢血T細胞における抗CD3抗体刺激依存性のHIF-1αタンパク質発現にはPI3K/mTOR経路が関与することが各種シグナル伝達経路阻害薬を用いたウエスタンブロット法により示された。mTORの阻害薬ラパマイシンはHIF-1α mRNAの量は変化させず、MG132存在下においてHIF-1αタンパクの発現を抑制することがRT-PCR法およびウエスタンブロット法により示された。ラパマイシンはHIF-1標的遺伝子発現を抑制することがRT-PCR法により示された。恒常的活性型HIF-1αを安定発現したJurkat細胞のHIF-1転写活性はラパマイシンによる影響を受けないことがレポーターアッセイ法により示された。

3. ヒト末梢血T細胞およびJurkat細胞において、低酸素分圧下ではS6K1のリン酸化状態とHIF-1αタンパク発現量が相関することがウエスタンブロット法により示された。siRNAをtransfectしたJurkat細胞ではHIF-1αタンパク発現が低下することがウエスタンブロット法により示された。S6K1 ノックアウトマウスの脾臓細胞においてHIF-1αタンパク発現は野生型に比べ低下していることがウエスタンブロット法により示された。

4. 電子伝達系阻害下において恒常的活性型HIF-1α安定発現Jurkat細胞、およびドミナントネガティブHIF-1α安定発現Jurkat細胞のATP産生、乳酸産生を測定したところ、いずれも恒常的活性型HIF-1α安定発現Jurkat細胞で野生型と比較して高値であった。ヒト末梢血T細胞のATP産生を測定したところ、低酸素分圧下においてラパマイシンは抗CD3抗体刺激T細胞のATP産生を抑制することが示された。

 以上、本論文はヒト末梢血T細胞において、HIF-1αタンパク発現にはmTOR/S6K1の活性化による翻訳の亢進と低酸素刺激による安定化が必要であることを明らかにした。かかるHIF-1の発現がヒト末梢血T細胞における糖代謝の制御に重要な意義を有することが示された。本研究は、これまで未知に等しかった、ヒト末梢血T細胞におけるHIF-1を介した免疫応答の解明に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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