学位論文要旨



No 120344
著者(漢字) 木村,育美
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,イクミ
標題(和) 健常ならびに高機能広汎性発達障害小児の顔と視線認知機構に関する、脳磁図検査を用いた生理学的研究
標題(洋) Magnetoencephalographic study on the mechanisms of face and gaze perception in children with and without autism spectrum disorders.
報告番号 120344
報告番号 甲20344
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2493号
研究科 医学系研究科
専攻 生殖・発達・加齢医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 助教授 上妻,志郎
 東京大学 助教授 百瀬,敏光
 東京大学 助教授 水口,雅
 東京大学 講師 寺本,信嗣
内容要旨 要旨を表示する

[研究の背景]

 広汎性発達性障害とは自閉的な特徴をもった発達障害の疾患群の総称であり、相互的な社会関係あるいはコミュニケーション能力における質的異常、反復・常同的な行動、限定された興味や活動性のパターンなどの基本的特徴をもつ。この疾患群の中核となるのが自閉症およびその類縁のAsperger症候群であり、両者をまとめて自閉症スペクトラム障害(autism spectrum disorders, 以下ASD)と呼ばれる。ASDの成人および小児においては古くより顔の認知の障害、とくに表情と視線認知の障害が指摘され、彼らの非言語的コミュニケーション能力の異常との関連が想定されている。しかし健常成人の顔・視線認知に関する研究は脳機能画像を含めかなり蓄積されているものの小児の顔・視線認知に関する生理学的研究は概して少なく、またその殆どが事象関連電位の解析に限られるため顔・視線認知機構の一般発達過程に関しては多くの部分が未解明であり、発達障害小児の顔・視線認知に関する生理学的研究はさらに僅かにしかなされていない。ASD患者における顔・視線認知障害の生理学的解明の一助とすることを目的に、本研究では、脳波記録と同じく非侵襲的で時間分解能に優れる上に、より優れた空間分解能を備えた脳磁図(MEG)検査を健常小児・成人と高機能ASD小児・成人に適応することにより、顔・視線認知における主要脳反応の一般発達過程の把握とASD小児・成人にみられる特性の抽出を試みた。

[方法]

 8歳〜13歳の健常小児18名、9歳〜14歳の高機能ASD小児9名、20歳〜34歳の健常成人10名、20歳〜32歳の高機能ASD成人3名を対象に、東京大学医学部附属病院臨床検査部脳磁場計測室において実験I: 表情認知課題、実験II:視線認知課題ならびに図形認知課題、とともに全頭型脳磁場計測装置VectorView (Elekta-Neuromag, Finland) による脳磁場および同時脳波記録を施行した。本研究は当院倫理委員会の承認をうけており、計測に先立ち全ての被験者に(小児の場合はその両親ともに)十分な説明を行い書面による同意をえた。実験Iでは1, 中立の顔、2, 笑った顔、3, 不機嫌な(怒ったもしくは悲しい)顔の3通りの表情各8種類、計24種類の成人の顔写真をランダムに磁気遮断室内のスクリーンに投射し被験者には2, 笑った顔 をtargetとして計数を指示した。実験IIの視線認知課題では正面向きの女性の顔写真で1, 視線が正面向き、2, 視線が左向き、の2条件のものと3, 花の写真を用いtargetとして3, 花の計数を指示、図形認知課題では、視線認知課題に用いた2通りの視線条件の女性の顔写真をそれぞれ等輝度のモザイク図形に変換したもの(1, 2, )と3, 建物の写真を用い、targetとして3, 建物の計数を指示した。健常被験者の半数においては視線認知課題の次に図形認知課題、残り半数はその逆の順番で施行した。ASDの被験者は視線認知課題を図形認知課題より先に施行した。脳波電極は国際方式10/20法に従い、T5, T6, Ozの位置からの記録と眼球電図の記録を行った。全ての計測終了後、実験Iで用いた各顔写真につきどのような表情と認識したかの確認を行った。

[解析]

 解析はoff-lineで、実験I、実験IIともに、non-target刺激に対するMEG/EEG各々の加算平均波形dataを解析対象とした。MEGの計測dataは刺激呈示後300 ms間の反応に着目し、1)(1)後頭部20チャネル(2)左後側頭部18チャネル(3)右後側頭部18チャネルの3領域について各々のroot mean squaresの計算により各領域の主要反応peak潜時・振幅の同定、2)Single to three dipole modelにより1)で求めた主要反応peakの電流源(ECD=等価電流双極子)推定、3) 3D-MRI画像に2)のECDを重ねることにより電流源の位置推定、の順で解析を行った。

[結果]

全ての被験者において各課題でのtarget計数はほぼ正確になされた(正答率92%以上)。表情判断に関して健常児ではいずれの表情にも7/8以上の正答が得られたがASD児では不機嫌な顔の正答率が相対的に低く平均4/8程度であった。

 健常成人被験者において、表情認知課題と視線認知課題では、顔・視線認知の際の主要反応として知られるEEGのN170(刺激呈示後約170msの陰性電位)ならびに対応したMEG反応(N170m)が右後側頭部領域優位に明瞭に記録され、先行して低振幅のP1(刺激呈示後約120msの陽性電位)と対応するMEGのP1mも認めたが、図形認知課題では各反応は不明瞭で、これらは過去の知見と合致した結果であった。健常小児被験者においても同様に後側頭部領域中心にEEGでのP1, N170および対応したMEG反応P1m, N170mを認めたが(小児の後側頭部P1/P1m、N170/N170mの平均peak潜時はそれぞれ140ms、210ms前後)、成人と比べてP1/P1mは高振幅、N170/N170mは幅広く鈍い形状で成人よりも低振幅であった。健常8歳児4名中2名には潜時170msの時点でP1mの極性反転による鋭い磁場反応成分も認め、これは視線認知課題において特に明瞭であったが同時記録のEEGでは観察されなかった。さらに、健常およびASD小児ともに9歳児を中心に表情・視線認知課題では2峰性のN170が観察された。ASD群の波形に関し、P1/P1mについては健常群とほぼ同様に認められたがN170/N170mは健常群に比べ全般に不明瞭で、表情判断の成績が不良の者では特にその傾向が著しかったものの、比較的良好の者でも不明瞭の傾向を認めた。

 実験I(表情認知課題)で後頭部の潜時100msでの健常小児の初期脳磁場反応(M100)の振幅は、"不機嫌な顔"に対して中立の顔に対する反応よりも有意に大きく、健常成人でも同様の傾向を認めた。一方ASDの小児・成人では表情判断成績が比較的良好であった者においてもこのM100反応の増大は認められなかった。さらに実験IIの視線認知課題で右後側頭部の健常小児のP1m反応振幅及び電流源のdipole momentは、それた視線の顔に対して正面向きの視線の顔に対する反応と比べ有意に大きかったが、健常成人およびASD小児と成人においては視線方向による右P1m反応の差異は認められなかった。本課題でN170/N170m反応に関してはいずれの被験者グループにおいても視線方向による有意差は認められなかった。

 電流源推定の結果、後側頭部の潜時100ms付近の脳磁場反応の電流源は小児成人とも烏距溝〜舌状回内側叉はその上方(視覚野V1〜V2領域)、成人の後側頭部P1mの電流源もいずれの課題でもV1周辺の後頭部視覚野付近、一方小児の後側頭部P1mの電流源は表情あるいは視線認知課題では後頭側頭溝〜下側頭回〜下側頭溝(ITS)を含む後頭側頭部境界領域に位置する例が多く、特に視線認知課題での健常小児の右P1m反応の電流源はおよそ75%がITS周辺に位置し、8歳小児の170msでの右P1m極性反転成分の電流源もITS付近に求められた。図形認知課題での健常小児のP1m主要電流源位置は後頭部もしくは後側頭部で一貫しなかった。N170m反応に関し健常成人では表情認知課題・視線認知課題の両方において、主要な顔認知反応部位とされる右紡錘状回(FG)の電流源が一貫して認められたが、健常小児の表情・視線認知課題でのN170mの主要電流源は上側頭溝(STS)近傍に認められた。9歳児の2峰性N170に関し最初のpeakに対応した磁場反応は後側頭部腹側の電流源に由来したが、半数以上の例で2峰目のpeakの振幅がより高く、対応する磁場反応の電流源がSTS近傍に推定された。ASD群においてはIQや表情判断の成績に関わらず電流源の位置に個人間・個人内差異が大きく、反応部位が一定しなかった。

[考察]

 健常小児の視線認知における右後側頭部の磁場反応P1mは主に下側頭溝周辺(MT/V5野)の電流源に由来したことから、健常小児特に年少児においてはMT/V5野の活動が視線方向の早期認知に重要な役割をもつことが推察される。またFGは顔の比較的固定した構造の認識に関係すると考えられているのに対しSTSは視線・表情など社会生活を営む上で重要なシグナルの認知に関わるとされる領域であり、小児のN170m電流源がSTS優位に存在した結果から、顔の構造認知に重要なFG領域よりも視線・表情認知に重要なSTS領域が健常小児では先行して発達していることも示唆された。さらにASD小児および成人において対照群と異なり表情の違いによる後頭部初期反応の差異がみられなかった結果に関しては、表情に対する自発的な注意あるいは認識、もしくは注視の程度差によること以外に、自閉症でしばしば障害が指摘されている扁桃体(後頭部視覚野領域とSTS領域に直接投射線維をもつ)自体の機能不全と関連する可能性も考えられるであろう。

[結論]

本研究では、健常およびASD小児の顔・視線認知反応に対し脳磁図検査を用いることにより、脳反応部位の時間的変化の解析と潜時100ms〜140msの時点での両群の差異の抽出が可能であった。今後さらに生理学的解明を進めASDの小児・成人の方々へのよりよい理解と診療につなげることが望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はヒトの社会生活での非言語的コミュニケーションにおいて重要な役割を果たしている表情や視線の認知能力の発達過程と、その障害が想定される広汎性発達障害(ASD)の患者における脳反応の健常群との差異を明らかにするため、健常ならびに高機能広汎性発達障害(high function ASD)の小児と成人を対象に、表情認知の課題および視線認知の課題の施行を命じて同時に脳の磁場反応を計測する実験を行い、主要な脳の初期反応に関し一般小児と成人、またASD群と健常群の比較解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 表情認知の課題において、潜時約100msでの健常小児の後頭部脳磁場反応は健常成人と同様、"不機嫌な表情の顔"に対し"中立の表情の顔"に対するときと比べ有意な増大を示した。一方、ASDの小児および成人の被験者では、計測後に別に施行した表情判断テストで良好に解答した者においても、表情の違いに対する後頭部初期脳磁場反応の差異は認められなかった。Dipole 解析の結果、この後頭部磁場反応の電流源は一次視覚野(V1)周辺に求められ、健常成人と小児ではV1というごく早期の脳反応段階の時点で既に表情認知作業がなされていることが示された。V1は扁桃体からの直接投射線維を受けているがASD患者では過去に扁桃体の病理異常の指摘がありこれらの知見との関連も示唆された。

2. 視線認知の課題において、潜時約140msでの健常小児の右後側頭部脳磁場反応は"視線が左にそれた顔"に対し"視線が正面向きの顔"に対するときと比べ有意な増大を示した。一方、健常成人ならびにASDの小児と成人被験者では、視線方向による右後側頭部初期脳磁場反応の差異は認められなかった。Dipole解析の結果この右後側頭部脳磁場反応の電流源は下側頭溝周辺(MT/V5野)に求められ、健常小児では、成人で一般に顔や視線認知の特異的反応(N170)がみられる170msよりも早い140msの時点で、成人と異なり既に視線方向の識別作業がなされていること、これに右のMT/V5の活動が貢献していること、ASD小児ではこのautomaticな機構が十分でないことが示された。

3. ASD群では上記2点のほか、全般に1) 加算平均磁場波形が健常群と比べ不明瞭、2) 主要反応の電流源位置の個人内再現性が不良、3) 電流源位置の個人間ばらつきも健常群に比べ大きい、などの特徴が認められ表情判断テストのperformanceが低い例にはより顕著であったが、performanceやIQが十分良好の例でも同様の傾向が認められた。これらの特徴は、ASD群においては各脳活動部位でのsynchronizationが不良であること、また表情や視線認知の際の脳の反応部位が確立されていないことを示すものであり、過去のfMRIやPETによる成人の研究での、通常の脳反応部位の活動が弱く散らばりが多いというASD患者の脳反応に関する知見と、合致する結果であった。

 以上、本論文は表情・視線認知の際の脳初期反応における、健常小児と成人の相違、またASD群と健常群の反応特性の相違を明らかにした。本研究は脳磁場計測という時間空間分解能ともに優れた非侵襲的手段を世界で初めて健常ならびにASDの小児に適用したものであり、従来殆どが未解明であった小児の表情・視線認知機構の発達過程およびASD患者での認知機構の生理学的解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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