学位論文要旨



No 120354
著者(漢字) 酒向,晃弘
著者(英字)
著者(カナ) サコウ,アキヒロ
標題(和) 胃癌腹膜播種に対する腹膜中皮細胞を標的とした遺伝子治療の総合的検討
標題(洋)
報告番号 120354
報告番号 甲20354
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2503号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 助教授 川邊,隆夫
 東京大学 助教授 宮田,哲郎
 東京大学 講師 下山,省二
内容要旨 要旨を表示する

 早期診断や手術手技の向上、化学療法の発達などにより、全胃癌患者の予後は近年著しく改善した。中でも、早期胃癌手術患者の10年生存率は95%を越え、現在では縮小手術やEMR(内視鏡的粘膜切除術)など機能温存への方向に向かっている。一方、進行癌においては、根治手術がなされた症例においても、46-75%の患者に再発を認める。特に腹膜播種性転移は再発形式の30-40%を占めているにもかかわらず、主な治療法である化学療法の効果も十分とはいえず、再発確認後の平均生存期間は約6ヶ月と極めて悪い。近年、癌細胞を標的とした遺伝子治療について様々な実験的検討がなされており、消化器癌に対する応用も期待されている。しかし、殺細胞効果を期待したものは、局所投与において、その効果が認められるが、腹膜播種においては、播種巣に特異的、効率的に導入することは困難であり、臨床応用は未だ難しい段階であると考えられる。

 腹膜播種は、漿膜より遊離した癌細胞が腹膜に着床、増殖することにより成立する。腹膜の腹腔側表面は、単層の腹膜中皮細胞から成っており、遊離癌細胞は、まず、この中皮細胞に接着し、腹膜下に浸潤、増大する。固形癌の増殖は、腫瘍血管新生を伴うが、播種巣においても同様に腹膜下組織より新生血管を誘導して増殖する。腫瘍血管新生因子の中でも、血管内皮細胞増殖因子(以下VEGF)は、その受容体が血管内皮細胞に極めて特異的に発現しており、血管新生因子の中心として多くの研究がなされてきた。VEGFは様々な腫瘍でその発現が確認されており、腫瘍の発現するVEGFや腫瘍内の血管密度は予後因子となることが報告された。また、消化器癌、卵巣癌などの悪性腹水中には高濃度のVEGFが存在しており、腹膜播種進展に大きく関わっていると思われている。

 一方、線維芽細胞や血管平滑筋細胞、腹膜中皮細胞など宿主の細胞からもVEGFは産生されており、宿主由来のVEGFも腫瘍増大に関与している可能性は否定できない。特に、腹膜中皮細胞は、様々なサイトカインを分泌し、腹腔内の病態を制御する中心的な役割を演じていると考えられている。だが、宿主由来VEGFと腫瘍由来VEGFを定量化する事は困難であり、実際に宿主由来VEGFがどれ程腫瘍増大に寄与しているのかは不明である。

 現在行われている腹膜播種の治療の中心は化学療法であるが、その問題点としてdrug deliveryの悪さが指摘されている。これを克服すべく、腹腔内投与等も試みられているが、抗腫瘍効果のある濃度と作用時間を維持する事が困難である。そこで、我々は、腹膜中皮細胞になんらかの抗腫瘍効果のある物質を遺伝子導入する事が可能であれば、drug deliveryの点からは極めて理想的な治療法と成り得ると考えた。

 本研究は、腹膜播種において、腫瘍血管新生因子の1つVEGFに着目し、腹膜中皮細胞の役割と、それを標的とした新たな腹膜播種治療の可能性について検討したものである。

 第1章では、腹膜中皮細胞を分離培養し、VEGF産生量を各種癌細胞と比較検討し、他の血管新生因子の1つであるFGF-2(basic-FGF)による増強作用の有無を確認した。またマウス腹膜播種モデルにおける高頻度ヒト胃癌腹膜播種細胞株を作成し、この腹水中に含まれるVEGFをマウス型VEGF(宿主由来)とヒト型VEGF(癌由来)をそれぞれ測定することで宿主由来VEGFの割合を定量した。

 この結果、腹膜中皮細胞は癌細胞株とほぼ同様のVEGF産生量をもち、FGF-2によってそのmRNA発現量が増強されることがわかった。また、宿主由来のVEGFは癌細胞接種3週後の悪性腹水中に12.8%存在し、6週間後の悪性腹水中に5.0%存在し、その割合は播種成立の初期においてより高いと考えられた。播種増大における新生血管の誘導は、VEGFの観点からすると、特に播種成立後初期において、癌細胞だけでなく宿主である腹膜中皮細胞の分泌するVEGFも重大な役割を演じている可能性が示唆された。

 第2章では、標的細胞として宿主の腹膜中皮細胞を用いる検討をした。腹膜表面は腹膜中皮細胞から成っており、腹腔という1つの閉鎖腔を形成している。そのため腹腔投与するだけで、容易に遺伝子導入が可能であると考えられる。抗血管新生療法は、殺細胞効果がないため宿主細胞に導入可能であり、腫瘍周囲の環境を変えることで、抗腫瘍効果を期待できる。VEGFとその受容体は、病的血管阻害の重要な標的として考えられており、VEGFとの強い結合力を利用した可溶性のVEGF受容体であるsoluble Flt-1(sFlt-1)は、抗腫瘍効果のあることがわかっている。これまでにも、腹膜播種モデルにおいて、腹腔内投与でsFlt-1を遺伝子導入し、腹膜播種抑制する報告は見られた。それら報告の中では、癌細胞に遺伝子導入されていると考えられているが、腹膜中皮細胞に導入されている可能性も否定できない。そこで、本研究では、癌細胞ではなく、腹膜のみに遺伝子導入する方法で抗腫瘍効果の有無を検討した。

 まず、in vitroで腹膜中皮細胞と癌細胞のアデノウイルスに対する感染効率を比較した。次に、in vivoにおける発現経過を評価した。最後に、sFlt-1発現アデノウイルスベクターにて宿主腹膜に遺伝子導入した後に、播種を形成させ抗腫瘍効果を検討した。

 この結果、腹膜中皮細胞はin vitroでは癌細胞に比し感染効率が高く、また、ヌードマウスへの1回投与にて約8週間、腹腔内にsFlt-1を確認できた。播種モデルにおいては、全ての腹膜播種数に有意差は無いものの、有意に1mm以上の腹膜播種数を抑制し、その生存率を延長させた。

 腹腔内への1回投与において、8週間という長期間のsFlt-1発現がみられた。本研究で用いたアデノウイルスは非増殖型であり、これにより到達したゲノムDNAは、細胞分裂とともに減少していくが、腹膜中皮細胞は癌細胞に比べはるかに細胞周期が遅いため、このように長期間の発現が得られたと考えられる。また腹膜播種の全個数には有意な抑制は認められなかったが、これは、sFlt-1はあくまで抗血管新生作用であり、腹膜への癌細胞の接着は抑制しないためと考えられる。今回の1mm以上の腫瘍増大を抑制できたことは、抗血管新生療法として十分に効果のあるものであったと考えられた。

 本法は腹膜という「土壌」を遺伝子改変することで、そこに蒔かれた「種(癌細胞)」を効率的に制御するという新しい癌治療戦略の有効性を示唆するものと考える。腹膜を標的とする事は、腫瘍特異性である必要がなく、腫瘍に比べ発現期間も長いこと、また、腹腔内投与にて導入可能であることなどの点でより臨床応用しやすいと考えられる。導入効率が高くより安全なベクターの開発、抗癌剤との併用による効果の増強が今後の検討課題として挙げられよう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、腹膜播種治療において、血管新生因子の1つVEGFに着目し、腹膜中皮細胞の役割と、それを標的とした新たな遺伝子治療の可能性について検討したものであり、下記の結果を得ている。

1.ヒト大網より我々が分離培養した細胞は、フローサイトメトリー解析では、細胞集団が均一であり、cytokeratin、calretinin陽性で、von Willebrand factor陰性であり他の細胞の混入が極めて少なく、形態学的にも敷石状を呈しており腹膜中皮細胞であることが示された。

2.ヒト胃癌細胞株8種、ヒト大腸癌細胞株4種、ヒト卵巣癌細胞株2種、ヒト膵臓癌細胞株2種との、ELISAによるVEGF分泌量の比較では、培養腹膜中皮細胞は癌細胞と同等のVEGF分泌量を持つ事が示された。

3.培養腹膜中皮細胞にFGF-2を添加することにより、ELISA、Northern blotting解析で、VEGF発現量が増加することが示された。

4.培養腹膜中皮細胞が発現するVEGFのisoformはRT-PCR解析から、VEGF121、VEGF165が主に発現しており、VEGF189はわずかに発現するのみ、VEGF206は全く発現していない事が示された。

5.ヒト胃癌細胞株を用いた腹膜播種モデルから得られた悪性腹水中の宿主由来VEGFと癌由来VEGFをELISA解析した検討から、癌細胞接種3週後の悪性腹水中に、宿主由来のVEGFは12.8%存在し、6週間後の悪性腹水中には5.0%存在する事が示された。したがって、宿主由来のVEGFは播種成立の初期においてより高いと考えられた。

6.β-galactosidase発現非増殖型アデノウイルス(以下Ad-LacZ)を用いた、in vitroでのX-gal染色による感染効率の検討では、腹膜中皮細胞は胃癌細胞株2種に比べ、10倍以上も感染効率がよい事が示された。また、マウス腹腔内に単回投与されたAd-LacZは、X-gal染色により、iv vivoで少なくとも4週間にわたり発現している事が示された。

7.s-Flt1発現アデノウイルス(以下Ad-sFlt-1)をマウス腹腔内に単回投与した検討では、ELISAにより、少なくとも8週間、洗浄腹水中にsFlt-1が存在する事が示された。したがって、アデノウイルスベクターを用いた腹膜中皮細胞への遺伝子導入は、手技的にも容易で、また、標的となる細胞の細胞周期が正常なため、長期発現が期待できると考えられた。

8.Ad-sFlt1、Ad-LacZ、PBSを腹腔内に単回投与した3日後に、癌細胞を腹腔内接種するモデルにおいて、腹膜播種の総数では有意差が無かったものの、sFlt-1群は、有意に1mm以上の腹膜播種形成を抑制し、その予後を延長させることが示された。腫瘍は1-2mm以上に発育する際に、血管新生が必要となってくると考えられており、今回の結果は、腹膜中皮細胞を標的とした抗血管新生療法として充分に効果があったと考えられた。

 以上、本論分は、マウス腹膜播種モデルを用いて、宿主である腹膜が、遺伝子治療の標的と成りうる事を示した。本研究は、腹膜という「土壌」を遺伝子改変することで、そこに蒔かれた「種(癌細胞)」を効率的に制御するというこれまでに無かった新しい癌治療戦略の有効性を示唆したものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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