学位論文要旨



No 120355
著者(漢字) 志田,大
著者(英字)
著者(カナ) シダ,ダイ
標題(和) 大腸癌・胃癌の進展に及ぼすリゾホスファチジン酸(LPA)の作用についての総合的検討
標題(洋)
報告番号 120355
報告番号 甲20355
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2504号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 助教授 矢冨,裕
 東京大学 助教授 宮田,哲郎
 東京大学 講師 金森,豊
内容要旨 要旨を表示する

 癌の転移・再発は,癌治療における克服すべき課題であり、がん患者の生命予後を左右する最大の要因である。転移・再発をきたした患者の多くは多発性病変を有し、手術による切除以外の治療手段が必要となる。しかし、化学療法が進歩した現在でも,いまだその治療成績は不十分であり、新たな分子を標的としたさらに効果のある治療法の開発が期待される。このためにはまず、癌化および転移のメカニズムを分子生物学的アプローチによりさらに解明することが必要である。この観点から、生体内に存在するリゾホスファチジン酸(Lysophosphatidic acid, 以下 LPA) というリゾリン脂質に着目した。LPAと癌とのかかわりに関しては、これまで主に卵巣癌において盛んに研究されていたが、消化器癌領域では全く研究されていなかった。しかし、血液が凝固する際にLPAが多量に産生されること、また大腸癌や胃癌が腫瘍局所での微小出血を伴うことを考え合わせると、局所において十分な量のLPAが産生されていると予想される。本研究では、LPAによる大腸癌・胃癌の発育・促進作用とその機序を解明し,癌治療の新たな礎とするために、1) 大腸癌・胃癌細胞はどのようなLPA受容体を発現しているのか?2) LPAは大腸癌細胞に対しどのような作用をもたらすか?3) 大腸癌組織・正常粘膜でのLPA受容体の発現様式はどうであるか?4) 各LPA受容体と細胞運動との関連性はどうであるのか?を主な検討課題とし、分子生物学的手法を用いて以下の実験を遂行した。

 LPAの多彩な生理作用は、細胞膜受容体を介することが分かっているため、大腸癌細胞および胃癌細胞におけるLPAの細胞膜受容体LPA1、LPA2、LPA3の発現を検討した。Northern BlotによるmRNAレベルでの検討の結果、大腸癌細胞9種および胃癌細胞9種はいずれも、少なくとも1種類のLPA受容体を発現していた。とくに、大部分の大腸癌細胞はLPA2受容体を発現していた。一方、胃癌細胞は、さまざまなレベルで各受容体を発現しており、一定の傾向は特に見られなかった。

 引き続き、大腸癌細胞に対してLPAがなんらかの作用を及ぼすかどうか、また及ぼすとすればどのような作用かを検討した。LPA1受容体を高発現している(LPA2受容体はわずかに発現)DLD1細胞と、LPA2受容体のみ発現しているHT29細胞、WiDR細胞のあわせて3種類の細胞を用いた実験の結果、LPAはいずれの細胞に対しても、細胞により若干の程度の差はあれ、増殖能を促進させ(20 μM LPAにおいて、115〜689%)、血管新生因子の分泌能を促進させた(20 μM LPAにおいて、VEGFは107〜175%、IL-8は111〜1894%)。これまでLPAは、卵巣癌特異的な癌促進因子とみなされてきたが、大腸癌に対しても同様に癌促進因子としてはたらき得ることが示されたのである。一方、細胞運動能と接着能に関しては、LPAは、DLD1細胞に対しては促進作用があるものの(運動能は100nM LPAで3.6倍、接着能は10 μM LPAで2.0倍)、HT29細胞およびWiDR細胞に対しては有意な作用はみられなかった。この結果から、増殖能および血管新生因子の分泌能はLPA1受容体およびLPA2受容体いずれを介してもおこる一方、運動能および接着能はLPA1受容体のみを介することが判明した。これまで、LPA1受容体に関しては、卵巣癌細胞にLPA1受容体を強制的に高発現させるとアポトーシスが誘導されたとの報告があり、LPA1受容体は卵巣癌の発育にnegativeにはたらくことが示唆されていたが、本研究では、LPA1受容体が細胞運動・接着といった癌転移に必要不可欠とされる要素を促進するという、これまでの概念と相反する結果を得た。

 次に、実際の患者の大腸癌組織26例(および正常粘膜16例)を用いてLPA受容体の発現形式をReal-time RT-PCR法にて検討した。その結果、大腸正常粘膜ではLPA1・LPA2受容体がともに発現しているのに対し、大腸癌組織では、正常粘膜に比べ、LPA1発現は低下し、逆にLPA2発現が上昇していた(正常粘膜LPA1:1143±196, LPA2:1110±245; 癌組織LPA1: 300±43, LPA2: 2400±294。各LPA受容体copy数/β-actin copy数 x 108で示した。)(いずれもP<0.05)。正常粘膜および癌組織を同一患者から採取した16例で、LPA2/LPA1の比をとると、正常粘膜1.0±0.2に対し、癌組織では18.0±6.3 (P<0.05)であり、癌組織ではLPA2/LPA1の値は著明に上昇していた。LPA3受容体に関しては、正常粘膜・癌いずれもほとんど発現しておらず、大腸癌の発癌過程には関与していないと考えられた(正常粘膜:86±18, 癌組織:138±46; P=0.39)。

 次に、癌化によるLPA2受容体の高発現の意義を検討した。大腸癌細胞5種を用いた検討で、LPA2受容体の高発現している4種の細胞ではLPAによりEGFR (epidermal growth factor receptor) の transactivationが起こったが、LPA2受容体を発現していないCOLO320細胞ではtransactivationは起こらなかった。また、このLPAによるEGFR transactivationは、LPA1およびLPA3受容体拮抗薬DGPPによって阻害されなかった。このことから、LPAによるEGFRのtransactivationは主にLPA2受容体を介していることが判明した。癌はLPA2受容体を高発現させることでLPA刺激によりLPA受容体を介するシグナルのみならずEGFRからのシグナルを得るようになり、増殖等に有利になると考えられた。

 最後に、細胞運動でのLPA受容体の役割を再検討した。上述のように、大腸は癌化すると、LPA1受容体の発現が低下する。細胞運動を媒介するLPA1受容体が癌化により発現が低下するという事実は、一見、癌の進展には不利に思われる。そこで、癌化すれば高発現するLPA2受容体も、なんらかの形で細胞運動に関与しているのではないか、との仮説をたてた。LPA2受容体のみを発現している胃癌細胞2種を用いてさまざまな条件での検討の結果、10ng/ml HGF存在下では、LPAは濃度依存性に運動能を亢進することが判明した(HGF単独に比較して、1 μM LPAを加えると運動能は1.7〜2.9倍になった)。実際の生体内の癌の微小環境を考えた際、癌細胞の周囲にLPAが単独で存在することは稀で、HGFなどの他の走化性因子が共存していることが考えられる。そのような環境では、LPA2受容体は、LPA1受容体と同様、細胞運動に寄与していると考えられた。次にそのメカニズムを検討した。胃癌細胞を用いた検討で、LPA2受容体の高発現している4種の細胞ではLPAによりHGF受容体c-Metの transactivationが起こったが、LPA2受容体を発現していない他の4種の細胞ではc-Metのtransactivationは起こらなかった。つまり、胃癌細胞において、LPAはLPA2受容体を介してc-Metをtransactivationすることが判明した。これにより、細胞運動能に関して、HGFとLPAの協調作用がLPA2受容体を介して起こると考えられた。

 以上の結果から以下の結論を得た。1) 大腸癌・胃癌細胞いずれも少なくとも1種のLPA受容体を発現していた。2) LPAは、大腸癌細胞に対し、細胞増殖能、血管新生因子分泌能および細胞運動能や接着能を促進させた。この効果は、LPA受容体の発現形式により異なり、LPA1受容体およびLPA2受容体いずれを介しても細胞増殖能・血管新生因子分泌能は促進されるが、LPA1受容体を介してのみ細胞運動能・接着能が促進された。 3) 大腸癌切除標本を用いた検討では、大腸正常粘膜ではLPA1・LPA2受容体がともに発現しているのに対し、大腸癌ではLPA1発現は低下し逆にLPA2発現が上昇していた。癌におけるLPA2発現上昇の意義としては、LPA2受容体を介してEGFR transactivationが起こるということが考えられた。4) LPAは、胃癌細胞の運動に対し、LPAそのものによる直接効果のほかに、HGFが共存する時にのみ明らかになる潜在的な効果をもつ。前者はLPA1受容体を介する反応であり、後者は主にLPA2受容体を介する反応であると考えられた。

本研究が発端となり, LPA及びLPA受容体を標的とした新たな癌治療戦略が開発されることを期待する。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では、生体内に存在する脂質メディエーターであるリゾホスファチジン酸(Lysophosphatidic acid,以下 LPA)およびその受容体に注目し、LPAによる癌の発育・促進作用とその機序を解明するため、分子生物学的手法を用いて、大腸癌細胞・胃癌細胞株のLPA受容体の発現状況、大腸癌細胞株に対するLPAの作用、大腸癌組織でのLPA受容体の発現様式、および胃癌細胞運動とLPA受容体の関係の検討したものであり、下記の結果を得ている。

1. 大腸癌・胃癌細胞株いずれも少なくとも1種のLPA受容体を発現していた。

2. LPAは、大腸癌細胞株に対し、細胞増殖能、血管新生因子分泌能および細胞運動能や接着能を促進させた。この効果は、LPA受容体の発現形式により異なり、LPA1受容体およびLPA2受容体いずれを介しても細胞増殖能・血管新生因子分泌能は促進されたが、LPA1受容体を介してのみ細胞運動能・接着能が促進された。

3. 大腸癌切除標本を用いた検討では、大腸正常粘膜ではLPA1・LPA2受容体がともに同程度発現しているのに対し、大腸癌ではLPA1発現は低下し逆にLPA2発現が上昇していた。癌におけるLPA2発現上昇の意義としては、LPA2受容体を介してEGFR transactivationが起こるということが考えられた。

4. LPAは、胃癌細胞株の運動能に対し、LPAそのものによる直接効果のほかに、HGFが共存する時にのみ明らかになる潜在的な効果をもつ。前者はLPA1受容体を介する反応であり、後者は主にLPA2受容体を介する反応であると考えられた。後者のメカニズムとして、LPA2受容体を介してc-Met transactivationが起こるということが考えられた。

 これらの新たな知見の結果から、大腸・胃の粘膜は、癌化することでLPA2受容体を高発現するようになり、この過程において、LPA2特異的な拮抗薬や阻害剤が開発されれば、癌の予防につながり得ることが示唆される。また、LPAはLPA1受容体を介して、細胞運動・細胞接着を誘導することから、LPA1受容体拮抗薬が転移阻害薬になる可能性が示唆される。

 以上、本論文は、これまでまったく未知であった、LPAが大腸癌・胃癌の進展に及ぼす作用を明らかにし、さらに大腸癌・胃癌におけるLPA受容体の発現様式を明らかにした。医学研究はポストゲノム時代に入り、脂質の重要性が再認識されてきている現在、新たな癌治療戦略の観点からも本研究は今後重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク