学位論文要旨



No 120378
著者(漢字) 落合,敦
著者(英字)
著者(カナ) オチアイ,アツシ
標題(和) ヒトにおける傾斜知覚とその短期記憶に関する研究 : 一側および両側温度刺激検査無反応ならびに小脳障害を中心に
標題(洋)
報告番号 120378
報告番号 甲20378
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2527号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江藤,文夫
 東京大学 教授 玉置,邦彦
 東京大学 教授 辻,省次
 東京大学 助教授 川原,信隆
 東京大学 講師 竹下,克志
内容要旨 要旨を表示する

 空間識は、日常生活での様々な運動に伴って入力される前庭入力、視覚入力、体性感覚入力が中枢神経系内で統合され形成される。

 空間識のうち、重力に対する傾斜知覚の測定は、1922年Graheにより閉眼の被験者を体位測定装置に備え付けのベルトで固定し、検者が装置を手動で側方に傾斜後、徐々に垂直位に戻し、被験者が垂直位になったと思った瞬間を合図させる方法により初めてなされた。その結果は2‐3°と極めて正確に垂直位を知覚していた。その後、計測装置を独自に開発し、傾斜知覚を調べた報告が少数ながらあるが、いずれの結果もアナログ表示であった。

 また、Berthozらは、傾斜知覚ではないが、距離感の知覚の記憶について調べており、その知覚は正確に記憶されることを報告している。

 しかし、傾斜知覚とその記憶についての研究はこれまでにない。これらに大きく関与するのは上記した前庭入力、視覚入力、体性感覚入力の他に小脳、海馬などが考えられる。そこで私達は、臨床においてよく遭遇する前庭機能障害者や小脳障害者では傾斜知覚とその記憶も障害を受けるのではないかと考え、結果の解釈を容易にするため傾斜角度をデジタル表記出来る電動ゴニオメ−タ−を開発し、健常者、一側および両側温度刺激検査無反応者ならびに小脳障害者の傾斜知覚とその短期記憶を調べた。また、少量のアルコ−ルがそれらにどのように影響するかについても併せて調べた。

 パイロットスタディ−として健常者の立位と座位における傾斜知覚とその超短期記憶を調べたところ、座位の方が立位よりも困難であったため、本研究では座位において調べることとしたので電動ゴニオメ−タ−の傾斜台上に椅子を設置し、背もたれに寄りかからないように座らせた。視覚入力を取り除くためゴ−グルで遮眼された被験者はジョイスティックで左右に電動ゴニオメ−タ−を自由に動かすことが出来る。

 まず、実験1として傾斜知覚とその超短期記憶を調べるため、0°の状態を1分間記憶させ、次に右5°に傾けたままとし、1分経ったところで被験者に0°を再現させた。同様に左5°から0°を再現させた。続いて、右5°の状態を1分間記憶させ、次に0°に戻し、1分経ったところで被験者に右5°を再現させた。同様に0°から左5°を再現させた。

 次に、実験2として傾斜知覚とその短期記憶を調べるため、実験1と同様であるが、計測時間を戻した直後、1、3、5、10分後まで調べた。

 対象は、健常者(コントロ−ル群)50名、65歳以上の健常者(健常老人群)20名、一側温度刺激検査無反応者(一側障害群)20名、両側温度刺激検査無反応者(両側障害群)20名、小脳障害者(小脳障害群)12名、アルコ−ル摂取後の健常者(アルコ−ル群)50名である。健常者とは、過去に眩暈および神経疾患の既往のない者とした。温度刺激検査の条件は、4℃、2mlの冷水を20秒間注水とした。アルコ−ルの負荷量は、缶ビ−ル1本(350ml、アルコ−ル分約5%)とした。

 結果の統計学的解析は、分散分析 ( ANOVA ) を行い、有意差が認められた場合、t検定を行った。

 その結果、超短期記憶ではコントロ−ル群と健常老人群、小脳障害群の各々の間に有意差が認められた。

 短期記憶ではコントロ−ル群と小脳障害群の間にほぼすべての課題において有意差が認められた。各群における時間経過による有意差は小脳障害群の一部で認められたのみであった。左右の傾斜方向による有意差は全群において認められなかった。また、コントロ−ル群、一側障害群、両側障害群およびアルコ−ル群における年齢毎の解析において有意差は認められず、小脳障害群における疾患毎および障害部位毎の解析においても有意差は認められなかった。

 本研究では視覚入力を取り除くためゴ−グルで遮眼した。従って、全被験者は課題の遂行に前庭入力と体性感覚入力のみを頼りにしなければならない。

 コントロ−ル群と一側障害群、両側障害群の各々の間にはすべての課題において有意差は認められなかった。両群とも健常者と比較すると前庭入力は弱いが、有意差が認められなかったということは、残る体性感覚入力が優位に働いていることに他ならない。

 健常老人群は超短期記憶のみ調べたが、コントロ−ル群との間に実験1のすべての課題において有意差が認められた。これは加齢に関する様々な分野の報告もふまえると、前庭入力の低下を補って優位に働いていた体性感覚入力自体の機能低下と、前庭入力、視覚入力、体性感覚入力を統合する中枢神経系の機能低下の両者によって高齢者の傾斜知覚は低下することが示唆された。

 コントロ−ル群と小脳障害群の間には実験1、2のほぼすべての課題において有意差が認められた。小脳障害者の原因は小脳の変性症、腫瘍、出血であり、その病巣および臨床所見は多岐に渡っていた。特に虫部が障害されると座位や臥位でも運動感が生じるため傾斜知覚は低下すると考えられる。また、体性感覚の中枢への伝導路として末梢の体性感覚入力を脊髄から直接小脳に伝える脊髄小脳路があり、この脊髄小脳路は小脳に入り、小脳虫部・傍虫部に終わる。故に小脳虫部・傍虫部を含む小脳全体を障害する脊髄小脳変性症 ( SCD ) および同部位を障害する小脳腫瘍による小脳障害者においてはいくら末梢から体性感覚が入力されても小脳からの出力が障害されるため傾斜知覚は低下すると考えられる。さらに、疾患毎および障害部位毎における解析において有意差は認められなかった。小脳は平衡維持に関する大脳皮質−脊髄軸の側回路とみなされ、大脳皮質の強力なパ−トナ−として働き、連続的に姿勢調節、平衡維持を補正すると考えられている。ここで重要なのは脊髄から入力を受け取り調節遂行を円滑にするのは小脳虫部・傍虫部であり、大脳皮質と連絡のある部位は小脳半球であることである。従って、小脳のあらゆる部位が傾斜知覚に深く関与しているため、小脳のどこが障害を受けても傾斜知覚が障害され得ると考えられる。

 しかし、今までに小脳障害者に対して傾斜知覚を調べた報告はなく、小脳障害者では傾斜知覚が低下することを発見したのは私達が初めてであり、今後、小脳障害者の空間識の一つ、すなわち、平衡機能の評価において傾斜知覚テストは有意義になるであろう。

 コントロ−ル群とアルコ−ル群の間には実験1、2のすべての課題において有意差は認められなかった。本研究とは異なるが、アルコ−ルの少量摂取(血中アルコ−ル濃度:0.05 ml/kg〜1 ml/kg)により言葉や視覚による記憶が良くなるという報告がある。その機序はいまだ不明であるが、中枢でのグルコ−ス利用性の上昇とそれによる脳代謝の増加またはグルコ−スが直接、伝達物質に作用するためと考えられている。本研究ではアルコ−ル摂取後の成績が良くも悪くもなっておらず、アルコ−ルの負荷量が少なすぎたためと考えられた。

 傾斜知覚の短期記憶を調べるために戻した直後、1、3、5、10分後まで傾斜知覚を調べたが、小脳障害群の一部において時間経過による有意差が認められたのみで、その他の群においては認められなかった。

 コントロ−ル群、一側障害群、両側障害群、アルコ−ル群では空間識を統合するために必要な前庭入力や体性感覚入力が十分に機能していたため傾斜知覚に異常は認められなかった。それゆえに傾斜知覚を記憶する海馬の情報処理も十分に行われ、10分後までの短期記憶はよく保持されていたと考えられる。

 また、小脳障害群では時間経過による有意差が認められる場合もあれば、認められない場合もあった。傾斜知覚に異常が認められたため偶然の一致なのか、それとも、異常ながらも記憶が保持されていたのかは不明であり、その解明と、傾斜角度をさらに大きくした場合と、計測時間を延長した場合の傾斜知覚の長期記憶に関しては今後の課題としたい。

 独自に開発した電動ゴニオメ−タ−を用いてヒトの傾斜知覚とその短期記憶について調べた。一側障害群でも傾斜知覚は破綻していなかったことから前庭の関与は重要であるが、両側障害群でも破綻していなかったことから傾斜知覚は前庭、体性感覚などから形成されており、前庭が占める割合がすべてではなく、むしろ体性感覚の方が重要であることが判明した。また、それらの機能が十分に機能していれば、傾斜知覚の短期記憶は保持されることも判明した。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はヒトにおける傾斜知覚とその短期記憶を明らかにするため、健常者(コントロ−ル群)、65歳以上の健常者(健常老人群)、一側温度刺激検査無反応者(一側障害群)、両側温度刺激検査無反応者(両側障害群)、アルコ−ル摂取後の健常者(アルコ−ル群)を対象に独自に開発した電動ゴニオメ−タ−を用いて試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.コントロ−ル群では時間経過、左右の傾斜方向および年齢毎の解析において有意差は認められなかった。

2.健常老人群では超短期記憶のみを調べたが、コントロ−ル群との間にすべての課題において有意差が認められた。しかし、左右の傾斜方向による有意差は認められなかった。

 加齢により前庭入力の低下を補って優位に働いていた体性感覚入力自体の機能低下と、前庭入力、視覚入力、体性感覚入力を統合する中枢神経系の機能低下の両者によって高齢者の傾斜知覚は低下することが示唆された。

3.一側障害群ではコントロ−ル群との間にすべての課題において有意差は認められなかった。また、時間経過、左右の傾斜方向および年齢毎の解析においても有意差は認められなかった。

 両側障害群ではコントロ−ル群および一側障害群との間にすべての課題において有意差は認められなかった。また、時間経過、左右の傾斜方向、年齢毎およびJumbling現象の有無による解析においても有意差は認められなかった。

 一側障害群では破綻していないことから前庭入力の関与は重要であるが、両側障害群でも破綻していないことから前庭入力が占める割合がすべてではなく、むしろ体性感覚入力の方が重要であることが示唆された。

4.小脳障害群ではコントロ−ル群、一側障害群および両側障害群との間にほぼすべての課題において有意差が認められた。また、時間経過による有意差は認められる場合もあれば、認められない場合もあった。しかし、左右の傾斜方向、疾患毎および障害部位毎の解析において有意差は認められなかった。

 小脳障害の原因は小脳の変性症、腫瘍、出血であり、その病巣および臨床所見は多岐に渡っていた。特に虫部が障害されると座位や臥位でも運動感が生じるため傾斜知覚は低下すると考えられた。また、体性感覚の中枢への伝導路として末梢の体性感覚入力を脊髄から直接小脳に伝える脊髄小脳路があり、この脊髄小脳路は小脳に入り、小脳虫部・傍虫部に終わる。故に小脳虫部・傍虫部を含む小脳全体を障害する脊髄小脳変性症 ( SCD ) および同部位を障害する小脳腫瘍による小脳障害者においては、いくら末梢から体性感覚が入力されても小脳からの出力が障害されるため傾斜知覚は低下すると考えられた。さらに、小脳は平衡維持に関する大脳皮質−脊髄軸の側回路とみなされ、大脳皮質の強力なパ−トナ−として働き、連続的に姿勢調節、平衡維持を補正すると考えられている。ここで重要なのは脊髄から入力を受け取り調節遂行を円滑にするのは小脳虫部・傍虫部であり、大脳皮質と連絡のある部位は小脳半球であることである。従って、小脳のあらゆる部位が傾斜知覚に深く関与しているため、小脳のどこが障害を受けても傾斜知覚が障害され得ると考えられた。

5.アルコ−ル群では、コントロ−ル群、一側障害群および両側障害群との間に、すべての課題において有意差は認められなかった。しかし、小脳障害群との間に、ほぼすべての課題において有意差が認められた。なお、時間経過、左右の傾斜方向および年齢毎の解析において有意差は認められなかった。

 本研究とは異なるが、アルコ−ルの少量摂取(血中アルコ−ル濃度:0.05 ml/kg 〜 1 ml/kg)により言葉や視覚による記憶が良くなるという報告がある。本研究ではアルコ−ル摂取後の成績が良くも悪くもなっておらず、アルコ−ルの負荷量が少なすぎたためと考えられた。そこで、アルコ−ル負荷量を倍にしたところ、1本の場合と比較してほぼすべての課題において有意差が認められた。故に傾斜知覚に及ぼすアルコ−ルの影響は缶ビ−ル1本では認められないが、缶ビ−ル2本では成績を悪くすることが示唆された。

6.空間識を統合するために必要な前庭入力や体性感覚入力が十分に機能していれば傾斜知覚に異常を呈することはなく、さらに、傾斜知覚を記憶する海馬の情報処理も十分に行われ10分後までの短期記憶はよく保持されることが判明した。

 以上、本論文は独自に開発した電動ゴニオメ−タ−を用いて豊富な臨床症例から、ヒトにおける傾斜知覚とその短期記憶を明らかにした。本研究はこれまで未知であった。そしてヒトの傾斜知覚は前庭、体性感覚などから形成されており、前庭が占める割合がすべてではなく、むしろ体性感覚の方が重要であることが初めて判明した。ヒトの空間識の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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