学位論文要旨



No 120392
著者(漢字) 李,黎
著者(英字) Li,Li
著者(カナ) リ,リ
標題(和) 中国の総合病院における注射の安全性に関する研究
標題(洋)
報告番号 120392
報告番号 甲20392
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2541号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 真田,弘美
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 小池,和彦
 東京大学 教授 若井,晋
 東京大学 助教授 黒岩,宙司
内容要旨 要旨を表示する

I 緒言

 注射の安全性の定義は、WHO(世界保健機関)の資料によれば、注射対象者、一般住民、医療従事者に対して、それぞれ「安全な注射の実施」、「使用済みディスポ注射器の正しい処分」、「針刺し事故の防止」の3つの柱で構成されている。それらに該当しない場合を安全でない注射行動と定義している。安全でない注射行動は血液媒介性疾患などの重要な感染経路であるが、中国を含む途上国では注射の半数以上は安全でないと言われ、重大な公衆衛生上の問題である。

 本研究の先行研究として、筆者らは中国沿岸部の山東省において、医療従事者の注射の安全性に関する知識、態度および行動の調査を行った。その結果、医療従事者の注射の安全性に対する知識は不足しており、特に村診療所では低かった。安全でない注射行動については、村診療所では安全でない注射の実施とディスポ注射器の不適切な処分の割合が高い一方、総合病院では針刺し事故の経験者が多かった。しかし、先行研究は中国の他の地域の状況、ならびに改善に向けた手がかりを得るなどの点で不十分であった。

 本研究の目的は、以下の3つである。

 研究1: 先行研究と地理的、経済的に異なる内陸部の地域を選び、総合病院従事者における注射の安全性の知識・態度と行動を調査し、安全でない注射行動を解明する。

 研究2: 総合病院における針刺し事故の発生頻度や発生状況などについて後ろ向き調査を実施し、事故の実態を把握する。

 研究3: 総合病院の医療従事者を対象とし、針刺し事故防止対策についてガイドライン配布と集中講義による介入を行う。講義前後の針刺し事故に関する知識や態度の変化、介入前後の針刺し事故頻度の変化などを調査し、介入の効果を評価する。

II 研究1 異なる地域の病院従事者における注射の安全性の知識・態度及び行動

1.対象地域

 対象地域は中国沿岸部の山東省、内陸部の雲南省と新疆自治区の3つの地域である。山東省は平野・盆地が6割以上を占める。一方、雲南省はほとんど山地・丘陵であり、新疆自治区は山地とゴビ砂漠が75%を占める。経済状況では、山東省の平均GDPと農民純収入は国全体の平均値を上回り、経済的先進地域である。雲南省は相対的に貧しい地域であり、新疆は経済的には国の平均レベルに位置している。

2.調査方法

 幾つかの先行研究を参考にし、中国語版の調査票を作成した。各省区から2つの地区を選び、地区内で協力の得られる総合病院を対象とした。対象病院数は山東2病院、雲南5病院、新疆4病院であった。当該施設の責任者に調査概要を説明し、当日勤務中の医療従事者から、調査への協力者を募ってもらった。匿名式自記質問票を配布し、1時間後に回収した。対象者数は山東211名、雲南167名、新疆237名であり、有効回答率はそれぞれ94.5%、92.2%、86.5%であった。

3.結果

 注射の安全性に関する知識について、18質問の中12問で地域間の有意差が見られ、平均点数』は山東、雲南、新疆の順に低くなった。3地域で正解率が50%未満の質問項目は、「不潔な注射器はA型肝炎を伝染させる」、「血中病原体の中で一番伝染しやすいもの」、「現在中国でHIV感染者の大体の人数」の3つであった。

 安全でない注射行動の内容を見ると、「安全でない注射の実施」、「ディスポ注射器の正しくない処分」ともにその割合は0〜3.5%であり、地域間で有意差はなかった。「針刺し事故の経験有り」の割合は84.0%〜93.2%であり、地域間の差も見られなかった。3地域の総合病院における安全でない注射行動の内容はほぼ一致していた。針刺し事故経験者の割合は3地域いずれも80%を超え、注射の安全性の3要素の中で最も大きな問題であった。注射の安全性に関する学習について、「非常に必要」と「必要」と回答した者は合計98.5%に達した。望ましい教育手段については、専門的な講座が最も多かった。

III 研究2 総合病院における針刺し事故の後ろ向き研究

1.調査方法

 研究1を行った山東省の2地区で、地理的特徴や経済状況が省平均に近い農業県にある病院等級2級の県総合病院の中から、無作為にそれぞれ2つの総合病院を抽出し、これら4病院を調査対象とした。病院内の針刺し事故に関連する部門の職員全員を調査の対象者とした。対象者全員に聞き取り調査を行い、過去1年間の針刺し事故の状況を後ろ向きに調査した。調査期間は2003年3月から2004年2月までの1年間であった。

2.結果

 4病院の針刺し事故に関連する70部門の職員1226名について調査を行った。調査対象者は病院の職員総人数の68%を占めた。4病院合計で、年間針刺し事故発生人数は375名で、対象者の31%を占めた。針刺し事故件数は年間538件、一人当たり事故件数は平均0.44件、100床あたり事故件数は平均46.7件であった。女性は男性より事故件数が多かった。年齢別の事故経験者の割合は20代〜40代が多かった。

 事故経験者の割合と一人当たり事故件数を見ると、事故の多い職種は助産師、検査技師、麻酔医であった。事故経験者が1年間に事故を重複した事例は麻酔医、事務職、助産師の順に多かった。事故が起きた場所は外科が1/4占め、最も多かった。続いて産婦人科、手術室、内科の順であった。部門ごとの職員数を考えると、一人当たり事故件数が多い部門は医療材料部、手術室、注射室であった。

 針刺し事故の発生状況では、器材使用後の分解・消毒・廃棄等の際に事故が最も多く、43.7%を占めていた。続いて縫合時、注射時の順であった。原因器材では、翼状針が37.2%を占め、注射針を上回った。受傷部位で最も多いのは左手掌であった。

IV 研究3 総合病院の職員に対する針刺し事故対策の教育介入

1.教材

 (1)「針刺し事故防止のCDCガイドライン」:

 CDC(米国疾病予防管理センター)が開発したガイドラインに基づき、その日本語版を参考にし、中国語版を本研究のために作成した。訳文の妥当性の確認のため、中国側の専門家グループと関係者に、ガイドラインについてのコメントをもらい、最終的な「針刺し事故防止のCDCガイドライン」中国語版を作成した。

 (2)講義用スライド:

 上記ガイドラインや米国、日本での針刺し事故研究事例を参考にし、先行研究に基づく資料や写真を含んだ講義用スライド40枚を作成した。

2.介入の方法

 研究2の4病院に対して、介入の目的や方法を病院側に説明し、参加承諾が得られた3病院を本研究の対象病院とした。J病院とP病院を介入群、S病院は対照群とした。

 (1)介入前:2004年3月1日から、3病院で新規発生針刺し事故に対する自己申告と調査を開始した。

 (2)介入:4月中旬、介入群の2病院で、関連部門の医療従事者を集めて、1時間の集中講義を行った。講義前後に講義参加者にアンケート調査を実施した。講義後、病院従事者全員にガイドラインと講義スライド資料を配布した。

 (3)介入後:2004年6月6日まで新規発生針刺事故の自己申告と調査を継続し、介入試験を終了した。対照群のS病院について、従事者全員にガイドラインと講義スライド資料を配布した。

3.結果

 介入群の2病院の講義参加者それぞれ104名、90名で、関連部門の職員総人数の34%と27%を占めた。両病院とも講義参加者中の事故経験者の割合は、関連部門職員や対象病院職員よりも著しく高く、講義参加者が対象病院における針刺し事故の高リスク集団であることが示唆された。

 講義前後の知識項目の正解率を比較すると、講義前の平均得点は9.4、講義後は12.8であり、正解率は有意に上昇した。針刺し事故の事後処置のすべての項目について、講義前後で有意差が出ており、参加者の意識が高まったことが示された。

 介入前7週間および介入後7週間で、3病院あわせて47件の針刺し事故が報告された。介入群および対照群の関連部門職員数はそれぞれ636名、279名で、これらをもとに針刺し事故発生率を計算すると、介入群の介入前3.95%、介入後1.42%、対照群の介入前2.52%、介入後2.15%であった。Fisher exact testで検定した結果、対照群では介入前後で事故発生率に差はなく、介入群では介入後で事故発生率が有意に減少していた。

V 結論

 沿岸部の山東省と内陸部の雲南省、新疆自治区ともに、総合病院従事者における注射の安全性に関する知識が不十分なことが示唆された。一方、異なる地域の総合病院において、安全でない注射行動の内容はほぼ一致しており、針刺し事故が総合病院における安全でない注射行動の中でもっとも大きな問題であることが明らかになった。

 針刺し事故の実態調査により、対象病院の針刺し事故の発生頻度は欧米や日本の病院とほぼ同じレベルであるが、次の3の特徴が示唆された。(1)最も針刺し事故の多い職種は助産師と麻酔医であるが、検査技師と事務職もリスクの高い集団であった。(2)事故原因器材では、翼状針による事故が最も多かった。(3)事故発生状況では、器材使用後の分解・消毒・廃棄等の際の事故が最も多く、対象病院における使用済みディスポ注射器に関する処分手順が影響していると考えられた。

 針刺し事故防止の対策について、中国を含む途上国の経済状況を考慮するため、コストが低い教育手法を選び、集中講義とガイドライン配布の組み合わせの方法で教育介入を実施した。講義前後で、参加者の関連知識の正解率が著しく増加し、針刺し事故に対する意識が高まった。教育介入の効果として、介入群で介入後の針刺し事故発生率が有意に減少したことが認められた。本研究の結果により、このような介入方法は針刺し事故の防止に対して、経済的、かつ効果的な教育介入方法の一手段になると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は中国の総合病院における安全でない注射行動と針刺し事故の実態を明らかにするため、横断研究および後ろ向き調査を行った。さらに、針刺し事故対策について、医療従事者を対象とし、教育介入を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.地理的特徴、経済状況などの要因を考慮し、中国の異なる地域を代表する山東省、雲南省と新疆自治区を選び、注射の安全性のアンケート調査を実施した。その結果、平均点数は山東、雲南、新疆の順に低くなったが、全般的では、3地域ともに総合病院従事者における注射の安全性に関する知識が不十分なことが示唆された。

2.安全でない注射行動では、「安全でない注射の実施」、「ディスポ注射器の正しくない処分」ともにその割合は0〜3.5%であり、地域間で有意差はなかった。「針刺し事故の経験有り」の割合は84.0%〜93.2%であり、地域間の差も見られなかった。3地域の総合病院における安全でない注射行動の内容はほぼ一致していた。針刺し事故経験者の割合は3地域いずれも80%を超え、注射の安全性の3要素の中で最も大きな問題であった。

3.総合病院において針刺し事故の実態を解明するため、山東省の4病院を抽出し、70関連部門の職員1226名について調査を行った。4病院合計で、年間針刺し事故発生人数は375名で、対象者の31%を占めた。針刺し事故件数は年間538件、一人当たり事故件数は平均0.44件、100床あたり事故件数は平均46.7件であり、事故の発生頻度は欧米や日本の病院とほぼ同じレベルであった。

4.対象病院において、針刺し事故の特徴が以下に示唆された。(1)最も針刺し事故の多い職種は助産師と麻酔医であるが、検査技師と事務職もリスクの高い集団であった。(2)事故原因器材では、翼状針による事故が最も多かった。(3)事故発生状況では、器材使用後の分解・消毒・廃棄等の際の事故が最も多く、対象病院における使用済みディスポ注射器に関する処分手順が影響していると考えられた。

5.針刺し事故防止の対策について、米国の「針刺し事故防止のCDCガイドライン」に基づき、中国語版を作成し、集中講義とガイドライン配布の組み合わせの方法で教育介入を試みた。講義前後の知識項目の正解率では、講義前の平均得点は9.4、講義後は12.8であり、正解率は有意に上昇した。針刺し事故の事後処置について、講義前後で有意差が出ており、参加者の意識が高まったことが示された。

 介入前7週間および介入後7週間で、3病院あわせて47件の針刺し事故が報告され、関連部門職員数をもとに針刺し事故発生率を計算し、介入群の介入前3.95%、介入後1.42%、対照群の介入前2.52%、介入後2.15%であった。検定の結果、対照群では介入前後で事故発生率に差はなく、介入群では介入後で事故発生率が有意に減少していた。

 以上、本研究は中国の総合病院における安全でない注射行動および針刺し事故の実態を明らかにした。さらに、中国を含む途上国の経済状況を考慮するため、コストが低い教育手法を選び、集中講義とガイドライン配布の組み合わせの方法で教育介入を実施した初めての研究である。本研究の結果により、このような介入方法は針刺し事故の防止に対して、経済的、かつ効果的な教育介入方法の一手段になると考えられ、今後の病院管理に大きく貢献する。よって学位の授与に値するものと考えられる。

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