学位論文要旨



No 120404
著者(漢字) 大原,聡
著者(英字)
著者(カナ) オオハラ,サトシ
標題(和) Caenorhabditis elegansを利用した寄生性線虫Ascaris suumの低酸素適応機構の解析
標題(洋)
報告番号 120404
報告番号 甲20404
学位授与日 2005.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2553号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 徳永,勝士
 東京大学 助教授 大海,忍
 東京大学 助教授 中田,隆夫
 東京大学 助教授 福岡,秀輿
 東京大学 助教授 山岨,達也
内容要旨 要旨を表示する

序論

 寄生虫疾患は、今なお世界の人口の大部分が居住する熱帯、亜熱帯地域に蔓延しており、膨大な人的、経済的損失をもたらしている。これらの疾患は、マラリアやトリパノソーマ症等の原虫症、そして線虫・条虫・吸虫類などの感染による蠕虫症に大別され、それぞれによる総感染者数は4億8千万人(原虫症)、および8億2千万人(蠕虫症)と推定されている。また、近年では先進国各国においても様々な要因による新興・再興感染症としての寄生虫疾患が報告されるようになってきた。しかしながら、その治療、駆除に有効な抗寄生虫薬、特に抗蠕虫薬の開発は他の疾患分野に比べて立ち遅れているのが現状である。

 寄生現象は、生物学的に極めて興味深い研究対象であり、また医学的な観点からは、宿主となる生物とは異なる分子がこの現象に関わっている可能性があるため、その現象解明が新たな創薬の標的をもたらすことが期待される。私たちの研究グループは、寄生現象の重要な一側面として、低酸素適応に焦点を絞り研究を進めてきた。多くの寄生性線虫は、低酸素環境である宿主体内に適応するため、嫌気的なエネルギー代謝系を保持しており、この嫌気的エネルギー代謝系はAscaris suum(回虫)において最も詳細に解析がおこなわれている。一方、近年自由生活性の線虫であり、実験動物として広く用いられているCaenorhabditis elegansが低酸素に対する適応能を持つことが明らかになり、マイクロアレイなどの網羅的な遺伝子解析技術の発達と組み合わせることで、寄生性線虫の低酸素適応研究が新しい展開をする可能性が生じてきている。

 本論文では、全体を二つの章に分け、各章で寄生性線虫の低酸素適応の解明を目的とした解析をおこなった結果を報告する。第1章では、私の所属する研究グループがこれまで解析を進めてきた、複合体IIのさらなる解析を進めるべく、C. elegansにおける組み換えタンパク質としての発現を試み、その解析をおこなった。第2章では、自由生活性であるC. elegansと寄生性であるA. suumの低酸素適応関連遺伝子を比較し、両者の相違から寄生性線虫の低酸素適応機構の特徴を明らかにしようと試みた。

第1章 C. elegansにおけるA. suum成虫型複合体IIの発現

 A. suumは好気的環境である外界で発育する受精卵から第3期幼虫(L3)までは好気的代謝をおこなっており、低酸素環境である宿主小腸内に寄生する成虫は嫌気的な代謝であるPEPCK(phosphoenolpyruvate carboxykinase)-コハク酸経路によりエネルギー転換反応をおこなっている。この嫌気的代謝への転換は、宿主への寄生を成立させる重要な低酸素適応機構の一部であると考えられる。

 複合体IIはこの嫌気的代謝経路の最終反応触媒酵素であるが、通常の好気的代謝の際の複合体IIがコハク酸-キノン酸化還元酵素(SQR)として機能するのに対し、PEPCK-コハク酸経路では逆反応を触媒するキノール-フマル酸酸化還元酵素(QFR)として機能している。私たちの研究グループは、この機能転換が、複合体IIを構成する4つのサブユニットのうち2つが成虫と幼虫で異なったアイソフォームの発現に起因することを報告している。このような複合体IIの部分的なサブユニットの発現転換による機能転換は、A. suumにおいて初めて見出された現象であり、非常に興味深い。

 A. suumの複合体IIの研究の方向性として、低酸素での成虫型複合体IIの生物学的意義の実験的な証明と、生化学的特性の解明の2つが考えられる。そこで本研究では、生物学的意義の証明を目的として、C. elegansでの組み換えタンパク質としての発現を試みた。C. elegansは、QFR型の複合体IIを持たないため、A. suum成虫型複合体IIが低酸素適応に寄与しているならば、本酵素を発現したC. elegansは低酸素に対する感受性が変化することが期待できる。

 まず、A. suumの成虫型複合体IIの4つのサブユニットを発現するプラスミドベクターをそれぞれ構築した。そしてマイクロインジェクションにより、これら全てのプラスミドベクターが導入されたC. elegans株を得た。さらに、紫外線照射によりこれらのプラスミドベクターが、染色体内に組み込まれた株を得た。この株では、翻訳された各サブユニットがミトコンドリアに局在し、成虫型複合体IIの活性であるフマル酸還元酵素活性が野生株と比較して4倍に上昇していた。また、C. elegansのIpサブユニット欠損株にA. suum成虫型複合体IIを同様の手法で発現させたところ、表現型が相補された。これら一連の結果から、A. suum成虫型複合体IIがC. elegans内で活性を維持した状態で発現していることが示された。ミトコンドリア複合体IIの外来遺伝子としての発現は、大腸菌など他の発現系でもまだ成功しておらず、今回が初めてである。現在、A. suum成虫型複合体II発現株の表現型の解析をおこなっており、今後、成虫型複合体IIの生物学的意義が明らかになると考えられる。また、これら一連の実験を通して、C. elegansが寄生性線虫の遺伝子を発現させる系として有用であることが示された。

第2章 マイクロアレイを用いたC. elegansとA. suumの低酸素応答遺伝子の比較

 低酸素条件下では、酸化的リン酸化によるATP産生の低下のみならず、酸素不足に付随する様々な変化が生じ、寄生性線虫はそれぞれの変化に対して適応機能を獲得していると考えられる。しかしながら、A. suumにおいては、今までの手法で低酸素適応の全体像を明確にすることは困難である。一方、C. elegansにおいて、低酸素応答に重要な働きをする転写因子であるHIF(hypoxia inducing factor)が存在することが近年明らかになり、この自由生活性の線虫が低酸素適応能を維持していることが示された。A. suumの嫌気的代謝に関わる酵素の一部は宿主内に侵入する直前のL3において活性が上昇することから、A. suumの低酸素適応の一部は発生段階に依存すると考えられている。しかしながら、現段階ではC. elegansとA. suumの低酸素適応機構が共通しているかどうかは不明である。この両者の低酸素適応の相違を明らかにすることは、今後寄生性線虫の低酸素適応の解析を進める上で非常に重要であると考えられる。そこで本研究では、マイクロアレイにより、C. elegansにおける低酸素応答遺伝子を網羅的に明らかにし、それらのA. suumにおけるホモログの発現を好気的なL3および低酸素環境に生育する成虫で比較した。

 本研究により、C. elegansが解糖系の遺伝子などをはじめ、多様な遺伝子が低酸素応答に働いていることが示された。また、A. suumとの比較から、両者の低酸素関連遺伝子の一部は重複しているものの、必ずしも一致していないことが示された。これは、今後C. elegansをモデルとして、寄生性線虫の研究を進める際に重要な知見となった。

今後の展望

 本研究の第1章では、C. elegansにおいてA. suumのミトコンドリアの複合体IIが機能を維持して発現することを示した。今後は、表現型の解析を通じ、成虫型複合体IIの低酸素適応への寄与の検証を考えている。第2章では、両者の低酸素適応関連遺伝子が必ずしも一致しないことが示されたが、一部の遺伝子はA. suumにおいても低酸素適応に関与していることが示唆された。これら新規の遺伝子については、低酸素適応との関係をさらに解析していく予定である。本研究を通じ、寄生性線虫の低酸素適応の解明が進み、またC. elegansを利用した寄生性線虫の研究が研究手法として有用であることが明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、寄生性線虫であるAscaris suumの低酸素適応機構を明らかにするため、同じ線虫類で実験動物であるCaenorhabditis elegansを用い解析をおこなったものであり、以下の結果を得ている。

C. elegansにおけるA. suum成虫型複合体IIの発現

 A. suumは好気的環境である外界で発育する受精卵から第3期幼虫(L3)までは好気的代謝をおこなっており、低酸素環境である宿主小腸内に寄生する成虫は嫌気的な代謝であるPEPCK(phosphoenolpyruvate carboxykinase)-コハク酸経路によりエネルギー転換反応をおこなっている。この嫌気的代謝への転換は、宿主への寄生を成立させる重要な低酸素適応機構の一部であると考えられる。

 複合体IIはこの嫌気的代謝経路の最終反応触媒酵素であるが、通常の好気的代謝の際の複合体IIがコハク酸-キノン酸化還元酵素(SQR)として機能するのに対し、PEPCK-コハク酸経路では逆反応を触媒するキノール-フマル酸酸化還元酵素(QFR)として機能している。私たちの研究グループは、この機能転換が、複合体IIを構成する4つのサブユニットのうち2つが成虫と幼虫で異なったアイソフォームの発現に起因することを報告している。このような複合体IIの部分的なサブユニットの発現転換による機能転換は、A. suumにおいて初めて見出された現象であり、非常に興味深い。

 A. suumの複合体IIの研究の方向性として、低酸素での成虫型複合体IIの生物学的意義の実験的な証明と、生化学的特性の解明の2つが考えられる。そこで本研究では、生物学的意義の証明を目的として、C. elegansでの組み換えタンパク質としての発現を試みた。C. elegansは、QFR型の複合体IIを持たないため、A. suum成虫型複合体IIが低酸素適応に寄与しているならば、本酵素を発現したC. elegansは低酸素に対する感受性が変化することが期待できる。

 まず、A. suumの成虫型複合体IIの4つのサブユニットを発現するプラスミドベクターをそれぞれ構築した。そしてマイクロインジェクションにより、これら全てのプラスミドベクターが導入されたC. elegans株を得た。さらに、紫外線照射によりこれらのプラスミドベクターが、染色体内に組み込まれた株を得た。この株では、翻訳された各サブユニットがミトコンドリアに局在し、成虫型複合体IIの活性であるフマル酸還元酵素活性が野生株と比較して4倍に上昇していた。また、C. elegansのIpサブユニット欠損株にA. suum成虫型複合体IIを同様の手法で発現させたところ、表現型が相補された。これら一連の結果から、A. suum成虫型複合体IIがC. elegans内で活性を維持した状態で発現していることが示された。ミトコンドリア複合体IIの外来遺伝子としての発現は、大腸菌など他の発現系でもまだ成功しておらず、今回が初めてである。現在、A. suum成虫型複合体II発現株の表現型の解析をおこなっており、今後、成虫型複合体IIの生物学的意義が明らかになると考えられる。また、これら一連の実験を通して、C. elegansが寄生性線虫の遺伝子を発現させる系として有用であることが示された。

マイクロアレイを用いたC. elegansとA. suumの低酸素応答遺伝子の比較

 低酸素条件下では、酸化的リン酸化によるATP産生の低下のみならず、酸素不足に付随する様々な変化が生じ、寄生性線虫はそれぞれの変化に対して適応機能を獲得していると考えられる。しかしながら、A. suumにおいては、今までの手法で低酸素適応の全体像を明確にすることは困難である。一方、C. elegansにおいて、低酸素応答に重要な働きをする転写因子であるHIF(hypoxia inducing factor)が存在することが近年明らかになり、この自由生活性の線虫が低酸素適応能を維持していることが示された。A. suumの嫌気的代謝に関わる酵素の一部は宿主内に侵入する直前のL3において活性が上昇することから、A. suumの低酸素適応の一部は発生段階に依存すると考えられている。しかしながら、現段階ではC. elegansとA. suumの低酸素適応機構が共通しているかどうかは不明である。この両者の低酸素適応の相違を明らかにすることは、今後寄生性線虫の低酸素適応の解析を進める上で非常に重要であると考えられる。そこで本研究では、マイクロアレイにより、C. elegansにおける低酸素応答遺伝子を網羅的に明らかにし、それらのA. suumにおけるホモログの発現を好気的なL3および低酸素環境に生育する成虫で比較した。

 本研究により、C. elegansが解糖系の遺伝子などをはじめ、多様な遺伝子が低酸素応答に働いていることが示された。また、A. suumとの比較から、両者の低酸素関連遺伝子の一部は重複しているものの、必ずしも一致していないことが示された。これは、今後C. elegansをモデルとして、寄生性線虫の研究を進める際に重要な知見となった。

 以上、本論文は直接的な解析が困難である寄生性線虫A. suumの解析をおこなう際に、C. elegansを用いることで、組み換えたんぱく質を用いた解析およびゲノムワイドでの低酸素適応関連遺伝子の解析をおこなうことができることを示した。本研究を通じ、寄生性線虫の低酸素適応の解明が進むと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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